第3章 ドーミエの石版画

第599回 2023年5月27

諷刺と戯画

オノレ・ドーミエは生涯の間に約4000点の石版画を制作した。そして、それらのほとんどが締切に追われながら新聞掲載という形で発表され、彼の生活の糧となった。 それゆえに時事的な内容も多く、19世紀のパリの生活風俗をよく理解しなければわからないという作品も少なくない。ある程度は絵に付された題辞(レジャンド)を通して理解可能となる部分もあるが、それもフランス流のひねりがあって文字通りの意味の奥に語られない「落ち」のようなものが隠されていて、それを理解した時にはじめて、絵と言葉に納得がいくということになる。確かに版画において、14・15世紀の発生時からたどってみても、聖書の図解という一面、つまり挿絵という役割は大きく、その意味で絵と言葉は切り離せない。両者は一体になって表現力をもつものである。しかし、ドーミエは、絵だけでわからないようなものなら、それはその作品が失敗だというようなことを言っていて、「題辞」からの独立を表明している。

こうした主張は画家の側からすれば当然のもので、スポンサーである新聞社側との トラブルを引き起こす原因ともなりかねない。ドーミエの石版画が掲載されたのは主に週刊「ラ・カリカチュール」 (1830年創刊)とそれに続く日刊「ル・シャリヴァリ」であって、ともにシャルル・フィリポンという人物がその主宰者であった。ドーミエはこのフィリポンとの共同作業によって一躍有名となったが、その代表作「ロべール・マケール」のシリーズにおいては、フィリポンの書く長い題辞を前にして、いささか消化不良を起こしていると見えなくもない。ロベール・マケールという詐欺師をテーマにして金儲けにうつつをぬかす当時の世情を諷刺したこのシリーズは大当たりをとげ、第一集(1836-8)の100点に続いて、第二集(1840-1)も出されたが、しだいに読者に飽きられて20回で中断している。ここでドーミエは、詐欺師マケー ルとその相棒ベルトランを肥満と痩身という体型で対照させ、鋭い性格描写で、セールスマン・医者・実業家など様々な職業に変身して人を欺すマケールがそのつど身につける衣裳はその欺瞞性を的確に表わしていて、題辞はむしろ邪魔だという印象すら与える。ドーミエが人物の性格をいかに適切に描写できたかは、次の逸話からもうかがえる。ドーミエの諷刺の対象はまず、1830年の七月王政の中心ルイ・フィリップ一世によってスタートするが、この国王の顔をドーミエは生涯にほんの数分しか見ることはなかったにもかかゎらず、特徴的な梨のような頭をさらには身内しか知らなかったという顔面痙攣症状までとらえていたというのである。戯画(カリカチュール)が人物の特徴を誇張することによって、その力を発揮することを考えれば、ドーミエはまさに天才的に性格描写のできる人だったといえる。

600回 2023年5月28

舞台裏の視覚

ドーミエのこうした人間観察は、幼ない頃から訓練されていたと見てよい。それはまず第一に父親がガラス職人とはいえ、劇作家として少しは名の通った人だったことで、ドーミエは早くから演劇の世界に身を置くことになる。マルセイユ生まれの少年ドーミエは、一旗揚げようとパリに出た父親に連れられ、芝居の舞台裏で様々な人間劇を見ることができた。もともと「演劇」も性格を誇張することによる、一種の戯画とも言え、ドーミエはこれを観察することによって、後年の様々な石版画のテーマをすでに見い出していたとも言える。しかし、ドーミエの目は観客の側というよりもむしろ演じ手の側にある場合が多く、舞台の袖からのぞくような構図をもつ作品も少なくない。1841年のシリーズ「古典悲劇の表情」で扱われた英雄たちの滑稽さも、ギリシア・ローマの英雄とその演じ手である役者の間に、ドーミエが舞台裏で見い出した落差だと見ることもできる。ボードレールの言によれば「つまるとところ彼ら皆が、さながら楽屋裏でかぎたばこを一つまみしている悲劇役者の老いさらばえた姿を想わせる」。

その翌年彼はそれを発展させ「古代史」というシリーズをはじめた。ナウシカの洗濯場に現れた乞食のようなユリシーズ、愛に疲れたパリスを逆に持ちあげる女王へレネ、夫ウルカーヌスの網にとらえられた妻ヴィーナスとその恋人マルスなどに見られるユーモアは、説明ぬきにドーミエの描写力に由来している。そして、宝石を自慢する女に対して、グラックス兄弟(のちの偉大な政治家)の母が「ごらんなさい私の宝石を」といって見せた鼻たれ小僧二人の表現は見るものを笑わさずにはおかない。

 こうした英雄、あるいは英雄の演じ手に対する諷刺が、時の権力者に対する諷刺につながることはいうまでもない。その点ドーミエの生涯は、そういった政治的題材に事欠かない時代だったといえる。1830年の七月革命のときドーミエは22歳だった。その後フランスは1848年に二月革命より共和政となり、1852年には再びルイ・ナポレオンによる帝政が敷かれ、1870年には再び共和制に戻るというように政治体制がめまぐるしく動揺する。その動揺をさまざまな人物を諷刺対象として見つめてきたのがドーミエだった。その意味からドーミエの芸術的発展は、こうした諷刺対象の人物史とみることもできる。

ルイ・フィリップにはじまったドーミエの諷刺は、その後穏健なブルジョア新聞「ル・コンスティチューショネル」および、1843年からその社主となったドクター・ヴェロンに続き、1848年からは反共和主義者の陰険さを代表するラタポワールが登場する。その他ルイ・ナポレオンの支持者たちレオン・フォ一シェや弁護士A・P-べリエなどはドーミエ版画の主要な登場人物である。アドルフ・ティエールもドーミエ版画の主役の一人であるが、ルイ・ナポレオンの失脚後、第三共和政の大統領となるこの要領のよい工作家に、ドーミエはメガネをかけたこざかしい小男という特徴的な姿をうまくあてはめている。

1870年の「プロンプター」 Le Souffleurという作品は、この現実の政治家と演劇とを組みあわせた点で、誠にド一ミエ的な発想といえるものである。画面中央の箱のようなところにティエールが台本をもって隠れている。まわりには大勢の人物がいて、ティエールと同じく正面の舞台の方を見ている。Suffleurとはもともと 「ふいごで風を送る人」 を意味するフランス語で、「錬金術師」の意味も持ったが、演劇では役者がセリフを忘れた時そっとささやく役目の人、つまりプロンプターのことである。プロンプターは観客に見えず、また声も聞こえてはならない。しかしそれでいて芝居の進行を左右しているのである。ドーミエは恐らく自己の舞台裏体験の中でプロンプターという存在を興味深く見ていたのだろう。小男であったティエールは、 小さな箱の中にすっぽりとおさまり、プロンプターとして適切な人物である。ドーミエの描く画面は、まるでプロンプターのあとに民衆がつき従っているように見えるが、それもまたティエールが大衆の支持を獲得してゆく経過に対するトーミエの作為であったか。

第601回 2023年5月29

法廷と演劇

ドーミエが人間劇を観察し得たもう一つの場は、法廷である。貧困のため法廷の執行吏の小間使いを余儀なくされた少年ドーミエの目には、さまざまな訴訟の形で現れる人間の喜劇が映じただけではなく、法廷という舞台で演じられる裁判という芝居の偽善性についても、舞台裏から観察できたのである。この法廷という場がフランスにおいて、演劇それもとりわけ喜劇と密接な関係をもつということは、法廷の下級書記たちが設立した劇団「法曹会書記団(バゾシュ)」が中世以来の伝統を形成したことからもわかる。ドーミエは古代の英雄、時の権力者と同様に弁護士をその諷刺対象とした。ドーミエにとって弁護士とは善と悪のはざまに生きる興味深い存在であり、 多くの場合彼らは悪に味方をしている。悪人だとわかっても仕事として無罪を主張する彼らには、客が依頼した裁判に勝つことしか頭にはない。はては六人の妻を殺して情状酌量を願っている被告について、弁護士は言う。「大丈夫だ、判事は皆な女房もちだから」。ここにはドーミエ一流の女性に対する皮肉と同時に、裁判の茶番さに対する諷刺がうかがえる。政治諷刺に対する圧力が強い時代、ドーミエは風俗諷刺に没頭している。1830年代末から40年代前半に制作された「表情のクロッキー」 、「パリッ子の典型」、「独身者の一日」、「人生の美しき日々」などのシリーズがそれである。辛らつな政治諷刺と異なり、ここには都会生活の何げないウィットに富んだ情景が描かれていて、見るものの心をなごませてくれる。 「初めてのランデブー」で年増女と腕を組む若者、「初めての狩り」でスズメを仕留めた少年、「幸福すぎる恋人」では、妻の浮気を戸口で待ち構える夫の手には棍棒が持たされ、情夫は別れぎわにこう語る。「誰れも僕等の幸福を邪魔できない」。さらには黄熱病の患者にあたり、はじめて治療できることを喜ぶ医者や、うまい言葉で客に売り込むワイシャツの仕立屋帽子屋などには庶民生活の美しさが賛えられている。「この手袋は大きすぎるよ」 という中年の客に対して、「でも,旦那さんはまだまだ大きくなるほどお若いですよ」と答える売り娘の対話には、機転のきく下町の女の姿がよく現れている。それは38歳にしてはじめて、24歳の若くてしっかりもののお針娘を妻に迎え、その喜びに支えられたドーミエの心情と取ることもできる。

このようにドーミエがテーマにした世界は、演劇と深い関係を持っている。彼は石版画だけではなく、絵画・彫刻という分野においても、吟遊詩人や役者をテーマにしている。こうした主題はワトー以来の伝統に立つもので、その流れるような筆跡にはロココの持つ優雅さを備えている。しかし、その登場人物がすベて社会の底辺で生きる人達だという点で、この優雅さは再考されなければならない。洗濯女三等車の乗客ピエロなどの画題もまた同様である。

そういった点でもう一人の劇的なものを求めていた画家ドラクロア(1799-1863)とドーミエを比較してみるのも面白い。ドラクロアはドーミエの裸体像を賞讃し、模写までしたといわれるが、彼の目はあくまでも観客としてのそれであったようだ。ドラクロアの意識がハムレットを志向していたのに対して、ドーミエのそれはドン・キホーテに執着したことは、両者の対比を示して興味深い。そしてドーミエが晩年に住んだヴァルモンドアのアトリエにはドラクロアの石版画「ハムレット」がかけられていたというのも暗示的でぁる。 彼らは芝居をともに愛したが、それを見る目の位置がちがっていたのである。それにもかかゎらず、ル一ヴル宮にあるルーべンスの作品群の前で、 ドーミエとドラクロアがともにいる姿が、しばしば見られたという。