May I Start? 計良宏文の越境するヘアメイク

2019年07月06日~09月01日

埼玉県立近代美術館


2019/7/19

 計良宏文、けらひろふみと読む。ヘアメイクアーティストの展覧会は、はじめて見たが、ヘアメイクだけで完結するものではないようだ。このことは写真撮影可能な展示作品中、撮影禁止になっている諸作品を通じてその実態が明らかになる。一点は蜷川実花の写真が展示されていて、そのヘアメイクを計良が担当したもの。もう一点は森村泰昌のデューラーの自画像に扮した写真。これも計良がヘアを担当している。

 著作権を主張するのは誰なのだろうと気になると同時に、ヘアメイクアーティストも蜷川や森村の写真に著作権を主張できるのかも気になってくる。つまり主役と脇役という力関係や知名度の問題も出てくるだろう。ヘアメイクが脇役に甘んじないほどに奇抜なデザインが自己主張していて、化粧や衣装を上回っているものも少なくない。蛸の足のように円を描いて額にこびりついている髪がある。目の前にすだれのように垂れ下がったものもある。編み込んで輪っかのように連ねられている。日本髪がほつれて舞い上がったようなものまである。

 剃り込んで髪をなくしてしまうようなものは流石になかったが、負のヘアメイクはスキンヘッドを究極とするだろう。それがマニアックな現代の美意識であるだけではなく、日本でも西洋でも尼寺や尼僧院の秘められた甘美な悦楽を思い起こすものだ。道成寺伝説でもいいが、耽美な詩情は剃り落とされたひと房の髪が物語る。美少女のお下げ髪からはじまり、青々とした剃り跡の残る美少年の美学にとって、髪は欠かせないアイテムとなる。その意味ではヘアメイクはもっと自己主張をしてもよかったはずだ。

 日本には髪結いという美の奉仕者がいた。床屋や理髪師や美容院という名のすべてが、髪を神と結びつける霊能的パワーを宿している。なぜヘアは「かみ」と呼ばれたのか。上方にあるから「上(かみ)」なのだろうし、頭脳を護る大事な役割を果たしている。神に捧げるしめ縄を結わえるようにして髪を結う。神的行為であることは確かだろう。かつては神に仕える職業であった証拠に、神が不在になった途端に、職業としても成り立たなくなってしまった。老化のバロメーターとして、髪と歯はカツラと入れ歯を、組み合わせてプレゼントした。回春は不老長寿とともにヘアアーティストに託された人類の夢だった。

 現代人は床屋には行かなくなった。我が家でもそれはカミさんの仕事に変わってしまった。家内にとどまることで、かつて床屋がコミュニケーションの場であった江戸文化の美学も崩壊したのだと思う。きっかけは明治維新だっただろう。ざんばら髮は確かに文明開化の音はしただろうが、神に対する反逆だった。みずから髷を落とすことで、西洋文化に対してギブアップしてしまったのである。ヘアメイクアーティストの復権は、西洋一辺倒であった美術館文化の再検討という課題を突きつけているのではないだろうか。


by Masaaki KAMBARA