第2章 デューラーの木版画

第597回 2023年5月25

デューラーと版画

ヨーロッパに木版画がはじめて現われたのは、14世紀末であり、その後一世紀を経過する中で、活字印刷術の発明をも伴なって発展し、15・16世紀のドイツ芸術においては絵画よりも、むしろ木版画と銅版画に、最も成功した形を見い出すに至った。しかし、こうした初期木版画は芸術手段というよりも、政治批判のパンフレットなど、プロテスタントの意味あいが強く、インキュナビュラの名で総称される初期刊本の挿絵として、「貧者の聖書」「往生要集」といった教訓書の中では民衆教化の目的で用いられた。

こうした挿絵的な地位にあった木版画を芸術的な位置にまで高めたのがアルプレヒト・デューラーである。彼は生涯の間に、250点の木版画と、105点の銅版画を制作したが、それらを自己の目的のためにしか制作しなかったと言われる。それまで身分的に低かって木版画の下絵かき( Reiter )の地位を、その独創的な活動を通して自立させることを要求したのである。活版印刷を武器にして人文主義的な立場から文筆活動を展開したロッテルダムのエラスムスは、デューラーの賞賛者の一人であり、木版を伝統的な足かせから解放した点をデューラーの功績の一つとみなした。

デューラーが当時の画家に一般的であった祭壇画の制作よりも、版画の方を好んだことは、自己のメッセージを伝えるものとして、後者の方が適切であったこともあろうが、彼が一般に「色」の人としてよりもむしろ、「線」の人としてみなされる由縁は、彼の育った環境の中で除々に形成されていったものと思われる。デューラーは1471年にニュルンベルグの金細工師の息子として生まれ、父の仕事を学んだのち、1486年から90 年まで、画家ミハエル・ヴォルゲムートのもとで徒弟修業を行なっている。その間にヴォルゲムートの工房では本の神絵や木版画の下絵などの仕事が行なわれ、デューラーはそれを見ることに親しみ、自分もまたその制作に参加したと思われるが、個々の作品の中からデューラーの個性を分離することは、個人様式がいまだ確立していない時期だけにむつかしい。徒弟奉公を終えて、彼は遍歴の旅に出るが、コルマールでは、すでに死亡した当代随一の版画家ショーンガウアーに会うことができず、1494年にニュルンベルグにもどり、結婚をし、親方(Meister)として自立している。

テューラーが版画家として不朽の名声を残すことになるのは、27才の時に出版された「ヨハネ黙示録」であるが、遍歴時代からそれまでの7・8年の間に急速にデューラーの個性は確立してゆく。確実にデューラーに帰せられる最初の木版画は、1492年バーゼルで印刷された「書斎にいる聖ヒエロニムス」である。バーゼル大学の図書館に版木が保存されており、その裏面に「ニュルンベルグのアルプレヒト・デューラー(Albrecht Durer von normergk)」という書き込みが見られ、ニュルンベルグという文字が、その地方でのみ用いられた方言で綴られていることから、それはデューラーの自筆と思われる。

その後、デューラーは遍歴の期間中に、同じくバーゼルで出版された「塔の騎士( Ritter von Thurn)」(1493年)と「阿呆舟(Narrenschif)」(1494年)の挿画の仕事に関係したようである。前者では45枚、後者では105枚の挿画が付けられたが、「阿呆舟」には多くの下絵かきが参加したようであり、デューラーはその三分の二ほどの下絵を描いたと推定される。これらと同じ様式を持つ木版画が、1494年ごろにバーゼルから消え、ストラスブールに現われ、1495年以降にはニュルンベルグに広がっていることから、この移動がすなわちデューラーの遍歴の旅と一致するために、この才能豊かな無名の素描家が、実はデューラーその人であったと考えられるのである。

第598回 2023年5月26

黙示録の時代

ヨハネの黙示録」が15枚の木版画にラテン語版及びドイツ語版のテキストをつけて出版されたのは、1498年のことである。それは恐らくその3年前に行なわれた第一次イタリア旅行の成果であるように思われる。画面では、当時のドイツ美術をおおっていたゴシック様式が、イタリア的な構図や形態と融合しあっており、それまでの木版画には見られない大判のシリーズであり、「黙示録」の本文をしのぐほどの芸術的効果の中に、挿画を越えて自立しようとする木版画絵師の姿勢がうかがわれる。

 折りしも時代は、1500 年という世界の終末とされる日に向かって進んでいた。カトリック教会は腐敗し、疫病が各地に流行し、新しく潜行性のある梅毒もヨーロッパにもたらされた。世界の終末に対する恐怖は、デューラーによって、「黙示録」を借りて目に見えるものとなった。「黙示録」の時代、ローマ社会は腐敗し、真実の神を待ちのぞむ声が満ちていたが、それと同じ状況が、デューラーの版画の中で現実化しているのである。

デューラーはこの「黙示録」に全能力と全財力を費やし前年に父の家に設置された印刷機を利用して自費出版し、大成功をおさめた。1502年には、ストラスプルクでヒェロニムス・グレフによって「黙示録」の海賊版も出され商業的成果をおさめている。これに対して、デューラーは法的には何もできなかったようであるが、1497年以来ほとんどの版画に自分の姓名のイニシアルを組み合わせてAとDのモノグラフを配しているのも、一方ではこうした偽作に対抗して著作権を守るための商標という意味あいがあったからだ。このような事情もあって、1511年に新しく図を付加して「黙示録」を再版している。これに関連して、1509年以降、デューラー自身の家にも小さな手刷り印刷機が動かされていたようであり、彼は助手をつかってこれを操作した。

 ところで、この「黙示録」制作に関して、論議の分かれるところは、デューラ一は下絵だけではなくて彫版をも自分の手でやったのではないかという問題である。1400年ごろ、はじめて木版画が生まれたころは、制作の全工程は一人の手によってなされた。しかし、デューラーの時代、それは分業化され、まず下絵かき(Reiter)が下絵を描き、ある時は第二の素描家が版木にそれをうつす。そして彫師( Formschneider )がナイフでそれを刻みこみ、刷り師(Drucker)の手にうつる。時には塗り師(Briefnaler)が水彩により彩色を施す、という手順であった。つまり、当時においては下絵を描くことと、 彫版することは二つの別々の仕事で、一人が両方をかねることはなかった。それに両者を比べた場合、貸金においても身分においても彫師の方が下絵かきよりも上であり、当時の慣例では出来上がった作品に署名をする権利をもつのは彫師だけであった。

そうした状況のもとで、下絵かきが自分の手でボダイ樹の木に彫版したという議論は、彫師の技術が長年のたゆまぬ修業の末に築かれるものであるだけに、若きデューラーにあてはめた場合、むつかしいものである。しかし、「黙示録」の版木に残るナイフの跡は、高い技術をもつ専門家によるものではないようであり、表現された雰囲気や光の効果を考えてみた場合、そこに現われる一体感は下絵と彫版を分かちがたく結びつけている。それゆえ、たとえデューラーが自らナイフを持たなかったとしても、少なくとも版木に素描し、彫りについてもある程度の指図をしたと考えなければ、画面に書き込まれたデューラーのサインを説明することもできない。

 デューラーは同じ時期に平行して、「受難図」のシリーズにとりかかっている。「黙示録」と同じサイズで、一般には「大受難」と呼ばれるこの作品は、12枚よりなりラテン語のテキストを付けて1511年に出版された。そのうちの7枚については、様式的に見ても試し刷りのために使われた紙の質から見ても、1497 - 1500年ごろに制作されたと考えられる。デューラーは何らかの理由から、このシリースを中断し、約10年後に4枚の木版と1枚の扉図を付して、自分の印刷機を用いて一冊の本に仕上げたのである。「黙示録」及び「大受難」と同じく、初期の大判の木版画には優品が多く、その中には「ヘラクレス」「一万人キリスト者の殉教」「男の浴場」「聖女カタリナの殉教」「サムソンと獅子」などが知られている。

1511年に、デューラーは「黙示録」(再版)、「大受難」と同じく、「マリア絵伝」のシリーズ19枚を出版している。この制作は恐らく16世紀に入ってからのものであり、1505年の第二とイタリア旅行までに、その過半数を制作した。これはデューラーの木版画中、最も民衆に受け入れられたものであり、1500年をすぎ、世界の滅亡がなかった安堵感と、それにもかかわらず、宗教改革となって爆発する前夜の不安を背景にして、人々はマリア信仰の中にのがれていたのである。その点、デューラーはこうした要求に答えたのだと言えよう。1500年を境にしてその前後に制作された「黙示録」と「マリア絵伝」の対比は、興味深いものである。

 

参考文献

・Max J. Friedlander, Der Holzschnitt , Berlin, 1921.

・Arthur M. Hind, History of Woodeut, ( vol. 1 ) , Ne York, 1963

・Matthias Mende, Albrecht Durer. Sintliche Holzschnitte, Ninchen, 1976

・Erwin Panofsky, Albrecht Durer, Princeton, 1955

・前川誠郎「デューラー」岩崎美術社,1970.