開館10周年記念 下村良之介 遊び礼讃

2019年11月19日~2020年02月16日

BBプラザ美術館


2019/12/15

 化石を思わせる干からびた骨。土や石に閉じ込められた生命の痕跡が、躍動する。漢字のルーツとなる金文にも似た生命曲線が、トグロを巻いている。地球が冷えて固まって、やっと角ばった漢字に至ったのではないかという、時の歩みを伝えるような不可解なフォルムだ。鶏のようにも見えるし、蛇がまだ棲家を定めないまま、巡礼を続けているようでもある。寝床がない限り、目覚め続けていなければならない。日本画という伝統的組織に属さなければ、どこに行ってしまうかわからない。そんな自由な飛翔性を、いつまでも残し続けていたように見える。

 能楽師の家に生まれるという稀有な条件が尾を引いて、アンドロギュノスの両極を自覚的に演じることになる。左右対象のフォルムをもちながら、やがてはそれぞれが左右に分かれて自己増殖してしまうのは、その運命の縮図のように見える。地をはう線のメカニズムは、地中で背鰭を蛇行させる龍のように盛り上がっている。紙粘土を素材とするが、青銅器のレリーフとなって立ち上がろうとしている。

 グロテスクなまでの鶏と舞妓の奇想は、京文化の中で脈々と受け継がれてきたものである。若冲の視覚がやがては岸田劉生にまで引き継がれる、ねっちりとした美の濃厚が、ここでもいきづいているようだ。劉生ならデロリと言っただろうが、華岳も麦僊も神草もみんなが魅せられた千年のデカダンスふにちがいない。この文化の重圧に耐えながら、自虐的なまでに前衛へと加担していく姿は、パンリアルだけでなく走泥社とも共有するもので、平面を立体化する志向の中に、重量感を獲得していった。砂よりも泥を土の中に見出すことで、泥絵のもつ地をはう感性に同調しようとする。

 椅子に腰かけて、西洋化した赤い衣服をまといながら、能楽師特有の顔立ちで真正面を見つめる自画像は、衝撃的なものとして、見る者の目に飛び込んでくる。さまざまな身の回りのオブジェが、等身大で画家のまわりを取り囲んでいる。観音開きの祭壇として機能しているが、埋め込まれたそれぞれは、土着の神に奉納された供物のように俗物性を帯びている。やがては京文化に洗練されるにしても、大阪に生まれたアクの強さを際立たせる小道具になっている。

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by Masaaki KAMBARA