日本の美術

by Masaaki Kambara

 ドイツの建築家ブルーノ・タウトが「日本美の再発見」として、桂離宮や伊勢神宮の美を日本人に気づかせてくれたのはよく知られるところだ。日本文化を出来るだけ広い視野でとらえることを、ここでは目的としたい。明治以降日本は、西洋文化との比較の目をもつことによって、より明確に日本文化の特質を見いだしてきたようだ。多くの洋学者が日本文化を論じてきた。西洋の学的発想で、岡倉天心は日本美術史を組み立て、 柳宗悦は民芸文化の発掘につとめた。 和辻哲郎、亀井勝一郎、竹山道雄などは、天平の仏教彫刻をギリシア彫刻と比較する。岡本太郎はバロック的情熱で縄文土器の魅力を語った。矢代幸雄は、イタリア・ルネサンスの研究者の目で、水墨画や日本美術の特質を論じた。

 近年では加藤周一が、こうした総合的な視点を受け継いだようだ。加藤氏が企画してNHKで放映された 「日本、その心とかたち」(1987)は世界的視野で日本美の問題を取り上げている。浮世絵ははからずも、西洋に日本を誤解させることになったが、今日ではその誤解を日本はありがたくも思っている。 欧米に大量の浮世絵が流出した見返りに、今では多くの印象派の名作が日本にある。かつて浮世絵が西洋に影響したと同じほどに、日本は印象派の洗礼を受けている。

 もちろん日本文化を考える上で、比較するものは西洋ばかりではない。中国、朝鮮、インドへの理解なしでは、日本は語れない。 西洋に深い理解を示したという点で、天心と宗悦は一致しているが、朝鮮が念頭になかったという点で、天心は片手落ちだ。それに対して宗悦ではインドが欠落している。確かにインターナショナルな広い視野というのは、どこまでいってもきりがない。しかし可能な限りの比較を繰り返すことで、日本文化の特質が浮かびあがってくるに違いない。その意味では比較材料を多くもつことが重要で、日本のことをいくら研究していても日本は見えてこないということも事実だ。

 


神原正明『快読・日本の美術』(勁草書房)より 

第1章 日本文化とは

 日本美術を見る前に、ひろく日本文化論に目を向ける。日本美とは何だろうか。明治期のロマン主義は、岡倉天心に「東洋の理想」や「茶の本」を書かせた。そこでは西洋に比較可能な確固とした造形性を見つけることが重要だった。大正期のリベラリズムは、柳宗悦に「民藝運動」を通じて新しい美のありかを気づかせてくれた。天心の美術史に抜け落ちていた無名性に日本美の基軸を見つめている。その後、昭和の文豪や文芸批評家が奈良や京都の美を高らかに論じてきたのは、太平洋戦争に向かう前哨戦のような論陣にもみえる。戦後に入り新たなスタートを切り、岡本太郎の問題提起をへて昭和の日本文化論を集大成して、加藤周一がNHKと共同して「日本美出会いの旅」を試みている。ことさら日本民族の優秀性を誇示する戦前の風潮を平均化する、目に訴える説得力ある風土記だった。

第2章 縄文の造形

 縄文の発見は日本美術を見る新たな視点を提供した。それまで日本美術のルーツとされてきた「わびさび」のもつひ弱な精神をくつがえすエネルギッシュな原始の造形だった。その造形は中国青銅器文化との比較や、龍の造形と神仙思想にも結び付くアニミズムの世界観を宿している。岡本太郎が美術の目で目をつけるまでは、考古学のテリトリーでうもれていたものだ。加藤周一は縄文とマヤを比較するが、ともに外来からの文化を閉ざされた熟成という点で一致している。一方、空間恐怖を回避したようなその後の弥生土器と比較することで、原始人に共通した視覚がみえてくる。土器とともに土偶と埴輪の対比によっても両者の方向性のちがいはくっきりとする。

第3章 仏教美術の時代

 日本の原型は仏教伝来以前の多神教的土壌にある。神々の世界と原型としての伊勢神宮には、再生の美学が温存されている。対して保存の美学は西洋美術とも連動した仏教美術に歴史観を与える。飛鳥・白鳳・天平・平安前期・藤原とつづく仏教彫刻は美術にくっきりとした時代様式を浮かび上がらせている。 ギリシャ彫刻の変遷とも比較が可能だ。インドの石彫にはじまる石の文化が、日本の木の文化へと変容する。物としての継続にこだわらない感覚はパフォーマンスに集約する芸術論に反映し、西洋文化との差を際立たせるが、同時に西洋に影響することにもなり、東洋の神秘と称することが可能だろう。

第4章 鎌倉リアリズム

 武士の台頭は新たな美を希求する。平安後期の藤原時代を否定して、古典復興を通じて、工芸美から構造美へと変換をはたす。建築では天竺様の導入で、装飾過多な表面から内部構造を見せる骨組みに美のありかを探る。静から動への移行はリアリズムを求め、閉じられた目は見開き、彫刻の目には玉眼が埋め込まれる。同時に仏像の座像から立像への変化もみられる。絵画での似絵と現実主義、早来迎図・山越阿弥陀図などの登場も現世への興味をうかがわせるものだ。平安から鎌倉へは、美術形式式の上では一続きの様式であることは、絵巻物の完成と量産という経緯にみてとれる。

第5章 室町の水墨画

 鎌倉の反動はリアリズムからアイディアリズムに移行する。中国宋元絵画からの影響もあり、彫刻の時代から絵画の時代に入る。ことに水墨画の隆盛は、武士の気風の確認をも意味し、気韻生動に根ざす精神性を禅宗に頼ることになる。禅寺の構造と庭園建築、瞑想空間としての枯山水の美学は、抽象絵画を思わせるような自力による悟りをめざす思想だ。水墨画では減筆・惜墨の思想となって結実する。能楽にみる芸能の誕生も同一の美学を共有している。

第6章 桃山ルネサンス

 武士を支えたのが狩野派の水墨画だったとすれば、桃山に登場する琳派はもはや武士階級の没落を予言している。中世の否定と近世の美意識は対極の美として、水墨と黄金という対比のうちにある。京の町衆文化は、南蛮美術を通じて西洋と出会い、琳派の国際性は京都がフィレンツェと友好都市を築く今日へとつながる原点をなしている。商人は平安貴族の香りを身に着けて確実に文化の主流になろうとしていた。その間武士は戦国の世、天下取りに明け暮れていた。秀吉と利休という対立の図式は、武士をはずした階級闘争にみえる。

第7章 茶の美術

 桃山時代に大成する茶の美学は、千利休の思想を原点とする。それは美術に取り囲まれながらも、茶を飲むというパフォーマンスを一義とする過激思想でもある。茶碗は手のひらの中の宇宙と呼びなおされる。利休ごのみはやがて織部ごのみとなりアートへ、遠州ごのみとなってデザインに帰結するが、その原点としてあったのが自然主義の美学だった。岡倉天心はそこにいさぎよさを、柳宗悦は無作為の美を見いだし、李朝の陶器や韓国美の問題を語ることになる。

第8章 浮世絵の誕生

 庶民の美術として浮世絵に結実するまでの風俗画の系譜をたどる。桃山期の洛中洛外図から抜け出たような近世初期風俗画は、屋外での遊楽を楽しんだ。誰が袖屏風など人物不在の絢爛も、徳川幕府の統制により室内画へと変容する。密室の遊戯と化す寛永風俗画をへて、寛文の一人立ち美人図で背景をなくし、浮世絵木版画の出現へと至る。役者絵から美人画へ、半身像から大首絵へとクローズアップして人物画は終焉を迎える。入れ替わって風景版画が登場し、幕末に近づくと怪奇趣味が加速する。時代を写し出すように美術の形式が変容していくのが興味深い。

第9章 江戸の幻想

 260年に及ぶ江戸絵画の全盛は、狩野派・琳派・文人画・蘭画・写生派と多様な様相を呈する。そのなかで奇想派としてまとめられるグループは、18世紀の合理主義と自我・個人意識の成長という世界史の推移に同調している。又兵衛から国芳へと「奇想の系譜」がたどられる。先駆としては禅画の奇想があった。江戸時代中期の京の奇想は、若冲・蕭白・芦雪の造形に結晶し、江戸末の 画狂人北斎へと受け継がれるものだ。西洋の奇想との比較も重要だろう。

第10章 江戸から東京へ

 明治維新に起きたカルチャーショックを都市の変貌と美術にさぐる。江戸は東京と名を変え、江戸城は皇居に変わり武士の世は終わる。その後の東京の変貌は1980年代のバブル経済の中で東京スピードと称し、世界経済を席巻する。フランスの哲学者は「表徴の帝国」として皇居は空虚であり、中心の喪失をそこに見つけ、エッフェル塔と東京タワーを比較する。1920年代の都市の時代の東京の歩みは地震による荒廃と復興を経験し、さらに戦災により繰り返される。シュールな街並みはポストモダンの建築と実験都市としての東京論が語ろうとするものだ。論理をこえてイズムは逆行するが、西洋にはない混沌とした日本文化の結晶のようにも見える。

第11章 外来文化の受容

 外来文化を受け入れるのにこれまで三つのインパクトがあった。仏教伝来と鉄砲伝来と黒船の衝撃である。明治維新は文明開化と称して西洋化を文明化と同一視し、美術では工学としての洋画が口火を切る。工部省からはずれると反動としての国粋主義が台頭する。フェノロサと岡倉天心は日本美術の優位を主張し、日本画と洋画の対立、毛筆か鉛筆かをめぐる美術教育での論争、書は芸術かを問う芸術論を通じて、和魂洋才をかかげ日本文化論が確立されていく。

第12章 再び日本文化とは

 戦後の混乱から立ち直るべく岡本太郎は縄文を発見し、西洋に追随しない日本美術のルーツをさぐる。矢代幸雄は西洋美術の視点で「日本美術の特質」を探り、印象性・装飾性・象徴性・感傷性を掲げて分析する。源豊宗の「秋草の美学」、辻惟雄の「かざりの美」の提唱は重要だ。加藤周一は縄文と弥生に対比される両様の美学を許容する豊かな日本文化の国際性を、豊富な海外体験から美術を文明論の結晶としてヴィジュアルを通して検証した。ことに注目したのは海外からの影響を受けないで内部で熟成した縄文、平安、江戸がつくりあげた日本美だった。