追善の美術 —亡き人を想ういとなみ—

2023年07月07日~08月13日

大和文華館


2023/7/7

 はじめに中国の古代の埋葬品が並ぶ。亡くなった主人を追善するように、うつむいて肩を落としている。神妙な姿が哀れを誘う。整形された円弧が格式を伝えている。これに並べて日本の埴輪が続くと、急に破調をきたしてしまう。しかしそれが日本文化に味わいを加味する。素朴な家形埴輪がいい。正座も気を付けもしていなくて、休めと言ったときのように、ゆったりと自由な姿で立っているのがわかる。

 女性の肖像には悲しい相がただよっている。ことに若い女性のとき、追善の美術としてまとめられると、ある種の感慨が湧く。重要文化財に指定されている「婦人像」は数珠を手にしている。喪に服しているのかもしれないが、この女性が死者本人だと考えたとき、若くして亡くなった者と、亡くして悲しむ者とが、重なって見えてくる。中部義隆さんの解説では、その表情を能面と対比して見られていた。その無表情に死相を読み取ったのかもしれない。ふとエジプトのミイラ肖像画のことを思い出した。そこにも若い魅力的な女性が描かれたものがある。ミイラになったお棺の顔の部分に置かれた板絵だが、生前の面影を偲ぶもので、こころなしか憂いを秘めてみえる。エジプトでの平均年齢は30歳なので若死であったかどうかはわからないし、年齢通りの肖像にするかも定かではない。日本でも葬式の写真は、死亡年齢よりも若い場合が多いので、勝手な解釈はつつしむべきだろう。

 「印仏」をおもしろく見た。インドとフランスのことではない。印鑑のように仏の印影を規則正しく並べて置かれている。押す力が一定ではなく、墨の乗り具合も一様ではないのがおもしろく、その階調とリズムに、人の息づかいを感じる。判で押したようなというのは、単調な繰り返しはつまらないという意味だが、銀行員はみごとに判を押す。うらやましがられる職ではあるが、彼らの仕事もまたつまらないという揶揄を含んでいる。

 現代アートで判子に興味をもったのは、横尾忠則や粟津潔だが、それのもつ象徴性を、うまく押せないという身体性と組み合わせて作品化している。アンディウォーホルも日本の印鑑を知っていたなら、ドル紙幣やスープ缶やコカコーラのように、単調に並べてみただろうが、押し損ねた印鑑の味わいに気づくことはなかったかもしれない。

 印仏も印鑑と同じく、尊く畏れ多いものであり、繰り返し押すことで、見え出してくる実相がある。ひとつひとつの押印はあらわれに過ぎないが、そのむこうに実相がある。イメージは変幻するもので、印仏のもつこの繰り返しをおもしろがったのが、棟方志功の板画ではなかっただろうか。印仏ではひとつのポーズが繰り返されたが、そこではさまざまなポーズをとった菩薩がいる。それもまた仏の諸相だ。

 白描の絵巻にその図柄におかまいなく、上からお経を乗せた一作があった。お経の上に絵を描くのは難しいが、絵の上にお経を書くのは容易だ。お経は手書きでもいいが、判にして押してもよい。下に絵があると、上から手書きで字を書くのはためらうが、ハンコのように押すなら躊躇はない。現代でも大事な文面を読めないように押すスタンプがあるが、それと同じだ。スタンプは意味のない線でできているが、お経もまた現代では意味のない抽象文様と同じものとみると、急に古代が現代によみがえってくる。その前衛性に惹かれる。そして名作が誕生した。「平家納経」である。そこでもお経にかき消された装飾が際立っている。これもまた華麗なる平家滅亡の追善の美だった。

 大和文華館の学芸員だった中部義隆さんの論集が一冊にまとめられて、ミュージアムショップで販売されていた。優れた研究者だったが、若くして病いで没した。神戸大学でご一緒した時期があったが、私のほうがずいぶんと年長である。高校もいっしょだったので、活躍を注視していたのだが、残念な逸材だった。追善を込めて一冊を購入し、あらためて業績を追悼することにした。


by Masaaki Kambara