美術時評  2019/3/31まで

journey to the past  by Masaaki Kambara

山陽新聞創刊140周年・岡山県立美術館開館30周年記念

江戸の奇跡・明治の輝き—日本絵画の200年展

2019年03月15日~04月21日

岡山県立美術館


2019/3/18

 東京でも同種の展覧会が開催中だが、決して劣ってはいない。おまけに江戸と明治をまたにかけた企画は、両者が一続きのものであることを教えてくれる贅沢な展覧会でもある。「江戸の奇跡 明治の輝き」とあるが、あまり意味をなさないネーミングだ。昔なら名品展でよかったのだろうが、今では観客の目は肥えていて、しっかりとしたコンセプトを必要とする。

 「奇想の系譜」を下敷きに考えると、江戸絵画の奇想の足跡ということになるだろうか。決まったようにここでも若冲からスタートする。東京に出払っているはずなのに、まだ上質のものが残っていたのが驚きだ。プロの仕事はどれだけ優れた個人蔵を加えるかという点だが、それも申し分ない。悪質な個人蔵はいくらでも持ち込まれるが、良質の選定は学芸員の腕の見せどころで、所有者との日頃の信頼関係が下敷きになって、はじめて実現するものだろう。

 見る側も公的機関でいつでも見られるものは、いくら国宝でもありがたみは薄い。浦上玉堂は岡山県立美術館蔵で十分間に合うはずなのに、個人蔵の優品が選ばれているのは、余裕に属する。むき出しの対抗意識は、東京とたまたま時期が重なったという偶然でもなさそうで、美術館の開館30年に加えて、地元新聞社の創刊140年を掲げての単館企画となった。まだはじまったばかりだが、東京で開催すればたぶん一桁ちがいの入場者数を請け負えるものだろう。

 白隠や仙厓も二、三日前に東京で見たものに劣るものではないし、琳派は少し弱い気もするが、「奇」をてらうという側面を強調する限りは、無理に含める必要もない。ただ江戸の最後を「リアル」というキーワードでまとめようとしたものだから、洋風画と登場作家が重なってしまったようだ。これを持ち出すのなら「明治の輝き」には西洋画を含めなければならないだろう。江戸から一続きのものとして見たいという限りでは、日本画だけにとどめておきたいとの意図はよくわかる。

 解消策として特別展に続けて自前の明治期の洋画を、常設展として並べたのは苦肉の策だが、洋画壇での岡山の存在感を際立たせて、かえって効果的だった。明治は会場が地下に移動するが、本当は区切り目をつけずにつなげる方が、歴史観としては新鮮だ。

 江戸の終わりに狩野派が申し訳程度に含まれている。狩野派は江戸時代を通じての主流派ではなかったのか。明治はこの疑問に答えるようにしてはじまる。懐かしい狩野芳崖に巡り合った。県立美術館のよしみ、福井県が明治初期の日本画を数点加えて岡山県との横のつながりに色を添えている。狩野芳崖の牛の絵「柳下放牛図」は、私が福井に赴任した時に解説を書いた覚えがある。背景の山の峰が牛の背に見えるのは、照応の論理によるもので、西洋の絵画論を下敷きにしている。確か明治初めの美術雑誌を読んでいて、そんなことが書いてあったのだと記憶している。

 後期には春草の「落葉」も加わるようだが、福井県の所有する至宝のひとつである。それに代わって今は今村紫紅の「熱国の巻」が輝いている。絵巻にはどこを広げて展示するかという学芸員の醍醐味がある。春草の屏風ほどに大きくはないが、明治を受け継いで最後の輝きを放つ名品だ。春草とともに短命でおわった画家自身の燃え尽きる輝きでもある。

姿の美、衣装の美… 肉筆浮世絵

2019年01月19日~03月17日

奈良県立美術館


2019/3/17

 江戸初期から幕末までを通貫する風俗画の様式的変化を、ひとり立ち美人図を核に見ている。多くは奈良県立美術館の所蔵品であり、必ずしも著名画家の代表作とは言えない。それが肉筆であるという意味でもある。しかし時代様式の解明には、かえってその方が時代を映す鏡の役割としてはふさわしい場合も多く、美術史のダイナミズムを体感できるものだ。

 奈良に浮世絵は似合わないが、まとまった肉筆のコレクションがある。近隣の国立博物館が仏教美術の宝庫だし、棲み分けをするためには賢明な選択のように見える。観光の主力からは外れるので、運用と企画は難しいかも知れない。観光客を呼び込むのではなくて、地域に根をおろした社会教育機関としての役割が、主眼になるだろう。倉敷での大原美術館に対する倉敷市立美術館の立ち位置にも共通する。

 桃山から江戸初期にかけての日本美術史の様式史的変遷は興味深い。東京都での「奇想の系譜」や府中市での「へそまがり日本美術」でも言えることだが、おおらかな桃山の自由が、江戸に入って急速に失われ、吉原など遊里の密室空間に悪の華を咲かせていく。人はいつも自由を求めていることは確かで、美人画を通してその社会的背景が無意識の内に描き出されていることが面白い。金地の上に美人を一人づつ立たせた屏風は、日常的背景を否定して、奥行きのない閉鎖空間に押し込められている。悪所の美女カタログのように非日常の中で、極楽浄土へといざなうために、金地は仏教的境地をカモフラージュしているのだ。

 江戸時代17世紀という確定しかできないが、吉原を描いた小屏風では、密室の遊戯というには明るい世界が展開している。彦根屏風などの鬱屈した雰囲気がないのは、時代がまだ若く、幕府の締め付けを、深刻には感じていない時期のものなのかもしれない。開け放たれた室内では、艶戯に興じる男女の寝姿も生々しいが、何気なく見過ごされてしまいそうな大らかさがある。

パラランドスケープ “風景”をめぐる想像力

2019年01月04日~03月24日

三重県立美術館


2019/3/17

 展覧会タイトルとポスターに使われた魅力的な雪山に誘われて足を運んだ。5名の若い作家の思考を通して、風景について考え直してみる。広く言えば自然、もっと広く言えば宇宙ということになる。身近なところでは風景画、そして自然学から宇宙論へと拡張していく。宇宙はまだ画でもなければ、学にもならないということだ。絵に描けるという最低限の対し方は、モノに対峙して見せる画家の領域となる。双眼鏡から望遠鏡へとツールは、目の延長上に拡張していく。

 伊藤千帆 Chiho Ito (1)は美術館ロビーの大空間を天井から下に向かって伸びる枝ぶりで見せようとする。重力に反する姿は、季節がら枝垂れ桜をイメージしてもよいし、巨大な生け花のパフォーマンスを思い描いてもよい。一輪挿しを基本としながら、見事にロビーにフィットしていて、風景画のもつ引力の法則を、問題にしている。

 稲垣美侑 Miyuki Inagaki (2)は絵画を軸に、与えられた展示室をヴェールでおおう。壁面には魅惑的な色彩絵画が並び、ヴェールを通して揺れ動く。穏やかな風土と空気の層を、さわやかな風が過ぎ去るように見える。個々のタブローは魅力的で、全体を見通せないいぶかしさを残しながら、霞にけむる春先の季節感を味わいあるものにしている。

 尾野訓大 Kunihiro Ono (3)は、ひとり一室という贅沢な展示計画の中で、最も変化に富んだ実験を可能にする空間構成だと思う。写真というメディアの特性を引き出すために、絵画の及ばない大画面に拡大し、見上げる高さに引き上げる。それが山であるなら当然の展望であるだろう。一方で小窓を開いて何気ない視覚を提供し、地には草花を配し、ガラス窓越しにも屋外に作品を置いて、トリッキーなインスタレーションを楽しんでいる。階段を登るとさらに小品が点在している。サイズの大小の落差に当惑されながら、展示空間と格闘する意欲的な試みに敬意を表するが、単体の写真でも十分に風景論を展開できるものだと思った。

 徳重道朗 Michiro Tokushige (4)の部屋に入ると、ここから常設展がはじまったのかと錯覚を起こした。名の知れた洋画家の絵が二段がけにされていて、その向こうには歴史資料館が同居し、さらには魚の標本らしきガラスケースもある。アートを上回る事実と実地調査に基づく歴史民俗博物館としてのイメージが、異空間を演出する。「対岸の風景」というタイトルに接して、ようやく創作意図に気づくことになる。一貫して流れる通奏低音のような響きを面白く受け止めた。

 藤原康博 Yasuhiro Fujiwara (5)は絵画とインスタレーション、ともに批判の余地はないほど、完成度が高い。これからもっと評価の上がる作家だと思う。今回のパラランドスケープという展覧会名にもっともフィットする作家だろう。人の目は簡単に騙される。写真のように自然を見てしまう擬似体験が、パラドクスとして、リアリティを超えるものを提示している。かつては写真を忠実に転写することで絵画のアイデンティティを保とうとした。何だ写真じゃないかという嘲りを回避するその場しのぎとして、写実絵画の系譜は今も健在だ。デューラーは人の横顔に見える枕カバーを、たくさん描いている。雪山に見える枕カバーを忠実に描いたら、雪山だろうか、枕カバーだろうかという禅問答は続いていく。

奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド

2019年02月09日~04月07日

東京都美術館


2019/3/16

 江戸時代の奇想の画家たちを集めた展覧会だが、下敷きになるのは辻惟雄「奇想の系譜」による。この著作は、又兵衛から国芳までというのが副題だが、江戸時代250年を狩野派でも琳派でも文人画でもなく、奇想の系譜てたどろうという実験的試作だった。若冲や蕭白といえば、今では江戸絵画の第一人者のように見えている。この出版から半世紀が経過して、新たな画家を数人加えて、再確認という意味ではダメ押しの展覧会ということになる。

 名品がずらりと並ぶのは壮観だが、これまで若冲展や蕭白展や又兵衛展や国芳展や芦雪展を個々に見てきた者にとっては、以前見た時の感動の後追いに過ぎないと言えば、新鮮さに欠けてしまう。若冲に長蛇の列をつくった頃から思うと、狂気の熱はいくぶん引けたように見える。しかし又兵衛の山中常盤絵巻などは怖いもの見たさに、第5巻の冒頭の惨殺場面には、のぞきケースを取り囲んで、5列ほどの人垣ができていた。

 怨念を封じて、情念を鎮めるための絵巻という装置が、こんなに大勢の目にさらされるとは、当事者にとっては、思ってもみないアクシデントだったに違いない。当事者とは製作の依頼主であった越前藩主松平忠直、乱行の誉れ高い人物である。

 奇想の系譜は又兵衛から始まるが、展示は若冲蕭白と続き、人気順になっている。つまり時代順ではないために、見落とされてしまうポイントがある。桃山が終わり下克上という自由が奪われていく江戸絵画のはじまりと、中期の閉塞感を除くために導入された視覚効果とは、同じ奇想とはいえ、意味を異にしている。

 又兵衛と山雪には共通する時代の平定を憂える気分がある。辻氏が日曜美術館のインタビューで語った解説では、山雪は大樹のうねりを描くのだが、桃山の頃の画面をはみ出すような迫力はないという。つまり江戸幕府の力で押さえ込まれて、与えられた枠内でしか最大限の効果は発揮できない。桃山の自由闊達なエネルギーは影をひそめ、勤勉と倹約が求められる姿は、耕作図屏風という画題に反映している。

 山雪1590-1651と又兵衛1578-1650の生没年を比較すると、没年はほぼ同じで、江戸の幕藩体制が整った時期、生年の12年の違いは、又兵衛がまだ桃山の春を謳歌できたということを意味している。つまり耕作図ではなく、遊楽図として野外の風景を描けたということだ。洛中洛外図や祭礼図に闊歩するかぶき者の無頼漢は、急速に収束してしまうのである。そして又兵衛は、パトロンの狂気を封じ込めるだけでなく、装飾に満たされた桃山の春も封印してしまう。

 山中常盤絵巻と並んで、浄瑠璃絵巻が展示されていたが、極彩色の細部描写という点では、こちらの方に軍配はあがる。黄金の截金の装飾は、はじめて開封した時のように、輝きを放っていた。ガラスケースの人垣はいくぶん柔らいだが、こちらの方が、山中常盤以上にエキセントリックでグロテスクな装飾に満たされていた。これでもかこれでもかと執拗な後追いが、過剰なまでの豊穣で繰り返されていく。又兵衛の場合、絵巻という封印がアメリカへの流出を免れていた。

 江戸中期の若冲、蕭白、芦雪に、共通点があるとすれば、アメリカ人がまず面白がって収集し、日本人にそれを知らせたという点だろう。今回も里帰りが目玉になったが、かつてボストンから蕭白の大作「雲竜図」が来日した時には、誰もが度肝を抜かれた。こんなのが江戸時代に描かれていたのだという驚きを、目にしない先に、アメリカに持ち帰った目利きがいたということだ。

 又兵衛はまだ海外ではなく、地方の土蔵に眠っている可能性はある。絵巻が経巻と同じかたちをしているということは、それを結んだまま土壁に埋め込んだ敦煌の例を出すまでもなく、開封すべからずという秘伝として、今も眠り続けているはずだ。山中常盤が世に出てきた時も、鳴り物入りで劇的な報道がなされていた。MOAやMIHOという横文字のミュージアムが好んで江戸の奇想をコレクションしている。奇想を奇蹟に置き換えれば、容易に宗教的感性と同調していくからだろうか。

 又兵衛の新出の屏風を見ながら、この類のものがまだ眠っているという気がする。画面右半分に描かれた妖怪群の描写を見ながら、ヒエロニムスボスのモンスターに似ていると思った。私は以前「ヒエロニムス・ボスと岩佐又兵衛」(1985・古美術73)という奇怪な論文を書いたことがあるが、又兵衛の描く妖怪は地獄を見た証しとして、リアリティを秘めたものに違いないと思う。

 江戸絵画を通じて奇想の締めくくりは、国芳よりもやはり北斎ではないだろうか。妖怪の宝庫という意味においても、外すわけにはいかない。今回、北斎を含めなかったのは、昨今の立て続けの北斎展のゆえだったのだろうし、美術史家の謙虚さからだろう。軽はずみには手を出せない大物ではある。しかし、時がたつとこの展覧会のセレクションの片手落ちは、指摘されるかもしれない。

へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで

2019年03月16日~05月12日

府中市美術館


2019/3/16

 昨年の今頃に府中市美術館で「リアル」と題した興味深い展覧会を見た。その時に置いていたチラシが、今日からスタートの展覧会だった。ずいぶんと早くから案内をつくったものだと驚いたが、それだけのことは確かにある。「奇想の系譜」のヴァリエーションのように見えなくもないが、ヴァラエティと無名の画家との出会いを考えれば、こちらの方が面白いかもしれない。若冲も昔は無名の画家だったが、今では江戸絵画の第一人者になっている。

 ここでの無名画家の筆頭は、徳川家光、さらに家綱も加わり、ヘタな絵が並ぶ。もちろん画家としては無名だが、知名度はダントツであり、そうであるからこそ、ヘタな絵でも今に残っている。昨年のチラシの表紙も家光の珍品で、ぜひ見たいと思った。作品名は兎とある。子どもの落書きのようにも見えるが、趣きはある。顔はネズミのようだが、ピンと伸びた耳が印象的だ。ここでもイケムラレイコの兎を思い浮かべてしまう。

 家光はミミズクを面白がって何度も描いていたようだ。今回も展示されていたが、漢字では木兎と書くところを見ると、兎に似ているということか。この兎も木の切り株に座っているようで、木兎と見るほうが妥当かもしれない。将軍の描いた絵だというので、下賜されて家宝となり、伝えられていく。西洋でもルイ14世だったか、幼年時代に描いた落書きが残っていて、素朴で興味深い。当時の子ども一般の目の構造を伝えている。王ならではの伝世品といえるだろう。家綱の方は鶏ばかり描いて配下への下賜とした。若冲を先取りしているかもしれない。

 一貫した解説がユーモアに満ちていて、企画者がいかに面白がりながら、作品を集めたかがよくわかる。味気ない事実の羅列に飽きてきた展覧会ファンの心をつかむ的を得た優れた解説文で、一貫したポリシーがうかがえて、好感のもてるものだった。江戸の洒脱を楽しむ学芸員に、まずは拍手を送る。

チェコの現代糸あやつり人形とアート・トイ 春日明夫コレクション

2019年02月08日~03月24日

八王子市夢美術館


2019/3/16

 展示された糸あやつりの人形を見ながら、動かないものの悲哀を感じ取る。同時に糸にあやつられる人間の運命を思い浮かべる。それは自由意志で好きなところに行けるわけではなく、運命の糸に身を委ね、悲しみを宿している。チェコに栄えた糸あやつり人形の必然を考えた時、民族の束縛と悲劇に思いをはせる。それはナチスのユダヤ人に対する意識のことだけではない。脈々と続く旅芸人の記録とジプシーの血の中で受け継がれてきた様式なのだと思う。

 天上から糸によってあやつられるという発想は日本の人形劇にはなかった。江戸時代の文楽人形も、命を吹き込まれた木偶の棒が、自力で動き出し、人の世の悲哀を謡いと語りによって演じるのは共通している。助けを借りて、芸能民の情念が形を得る。浄瑠璃語りでは喉の奥から絞り出すような唸りが、遠吠えのように鳴り響く。人形劇とはそんなものだ。大人の情念ばかりではない。子どもを相手にしながら、恐怖に落とし込むことで、自然の摂理を覚え込ませる。

 人形浄瑠璃は背後に運命をあやつる黒子がいるのに対して、糸あやつりは天上に神がいる。糸は白や黒ばかりではない。運命の赤い糸の場合もある。糸は少なくて4本だが、シンプルなのは2本の場合もある。骸骨の人形も多いが、手足の関節も含めるとかなりの本数だ。数えなかったが、数字のシンボリズムを考えると13本あるのではないかと思う。

 チェコの糸あやつり人形に魅せられた春日明夫氏のコレクションだが、作者は東京造形大学で教えを受けた教え子たちで、チェコに留学して本格的な制作を学んだ。佐久間奏多林由未美の二人だが、優れた人形作家だと思う。美よりも醜を拠り所として真実を追究している。甘美よりも恐怖を感じさせるインパクトは、赤ずきんちゃんをはじめ、童話に潜んだ大人の残酷さを伝える世界観と連動している。メルヘンに潜む恐怖を教える教育手段と言ってよいだろうか。

 チェコの作家のものも含まれるが、一人は糸あやつり人形からはじまり、やがて指人形へと興味を移行させている。木の造形という点では一貫しており、さらには木製の遊具への展開もはかっている。糸であやつられる運命劇から、手を入れて演じるハンドパペットへの変化は、宿命からの脱出をはかる人間の自律を象徴しているようで、私には興味深く見えた。

 ビデオ映像が用意されていて、動きを見ることができた。命を吹き込む人がいて成立する世界だが、日本でも人間国宝は人形を動かす人の方で、人形作家は脇に回る。芸能の方ではそうだが、美術の方から見ると逆転する。動きを伴わない能面は、すでにその表情に動きを内包している。演者ですら寄せ付けない美術品としての自律を果たし、超然としている。

パリに生きた銅版画家 長谷川潔展 —はるかなる精神の高みへ—

2019年03月09日~04月07日

町田市立国際版画美術館


2019/3/15

 駒井哲郎を見た時から、まとめて見たいと思っていた。学生時代に回顧展を見た記憶はあるが、その時は見る目が育ってはいなくて感慨はなかった。200点を越える展示数だが、中でもやはりメゾチントがいい。後年の静物で有名だが、初期の頃から風景で試みている。マニエルノアールの命名どおり、独自の様式を確立している。黒い風景は不自然だが、圧倒的な存在感をもって、そこにある。手に取るためにそこにあるという印象だ。作者が見たというよりも、創り出したような実在感を伴っている。キャプションを見ると、具体的な旅先の地名が記されていて、そこを訪れた時間の一コマであることを伝えている。多くは無名の寒村だが、サンジミニャーノなど訪ねたことのある地名が出てくると、私も記憶で共有できるものとなる。

 一方で目を近づけて気づくのは、輪郭はぼけていて、焦点が定まっていないということだ。そのうつろいはヴェールに包まれていて、すべてが過去のものとしてノスタルジーに誘う。写真で言えばシルバープリントの効果に近い。以前松江で見た塩谷定好の風景写真のような、潤いのある既視感をもっている。行ってもいないのに知っているような懐かしさは、失われたものへの想いだろう。旅人のもつ独特の感覚は、一期一会という語によって集約できるものだ。

 日本からルドンを憧れてフランスに訪れた若者が、そのまま住み着いて、永遠の旅人となる。その中で開発した黒の技法がマニエルノアールだった。闇に微妙な階調が生まれる。ルドンの生み出した闇がさらにニュアンスをもって変化する。ルドンはモネと同年齢で印象派が遠ざけた黒を使い、印象派が見落とした闇の幻想を実見した。

 闇に目を凝らして「見える通りに」描いたという点では、印象派の立ち位置と何ら変わりはない。目をつむった時に見えてきたモンスターが版画を通して彫り出されていく。光に微妙な階調をつけたのが印象派だったとすれば、そのネガポジを逆転させたものと見てもいい。

 ルドンの没年は1916年、長谷川の渡仏は1918年だから、憧れの人には会えなかったということだ。長谷川28歳のときで、それ以来パリに住み、89年の生涯を終える。薄れゆく記憶がマニエルノアールによって定着する。独特の感覚は闇に光が当たっているという感じだ。白い闇という矛盾した語が浮かんでくる。ハーフトーンということなのだが、そこにルドンを越えた長谷川の特性がある。

 初期にはメゾチントの黒とドライポイントの白が交互に並ぶ。前者では風景がおぼろげなマッスで、後者では裸婦が繊細な輪郭線で浮き出している。ピカソの古典期の人物にも、ルドンのギリシア神話の人物像にも、フジタの線にも似ている。ルドンが後年に描いたカラフルな花瓶の花は、色彩をなくせば長谷川の静物になるのではないかとも思う。違うのは一切の色の否定であり、その意味では長谷川は水墨画家だった。すべての色を含んだのが墨の色だという理屈からは、カラリストでもある。同時代を生きたフジタの白と対比して考えてみると興味深い。

 日本文化の民族性に頼って名をあげるとすれば、浮世絵の色彩と木版を武器にすればよかっただろう。しかし長谷川が銅版画にこだわったということは、江戸中期に日本に紹介されて魅せられた、源内や江漢といった特異な人格の系譜に属するものだ。原点は遠近法という伝統的原理にある。レオナルドのオマージュのように正多面体が描き出される。球面が生み出す影も見事に表現されている。

 マニエルノアールには、フィルムノアールにも似た霧にむせぶ旅愁を感じさせて、戦後すぐのフランス映画の世界観を投影する。闇に向かってヘッドライトを点灯した時の空気感には共通したものがある。最晩年に至って長谷川は、マニエルノアールを人物画に用いた。横顔のエキゾチックな女性像だが、そこでは人物は静物となって定着している。一点限りしかないようだが、魅惑的で藤島武二の中国美人を思わせるものだった。

イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの

2019年01月12日~03月24日

横浜美術館


2019/3/15

 イサムノグチは、これまでずいぶん見ているが、長谷川三郎はまとめて見たことがなかった。今回は二人の交友という視点を掲げていて、網羅的なものではなかったかもしれないが、見ごたえは十分にあった。そして長谷川の存在を再認識するよい機会になった。50歳が没年なので、道半ばにして無念の涙をのんだということになる。

 二人の出会いは1950年、戦後の日本美術が始動しはじめた時期だ。それ以前に出会う機会がなかったかと、年譜を見比べると、長谷川がアメリカにいる間、ノグチはフランスにいて、みごとにすれ違っている。ノグチは彫刻家、長谷川は画家であるが、ともにその枠を越えて、マルチメディアへと興味を広げていく。

 底流には日本美術の再発見という共通項があり、その点で意思を疎通させあった。ノグチの彫刻には、ブランクーシに習った形跡がいつまでも尾を引いていて、師の没年のオマージュ、飛翔する鳥のイメージに結晶する。原型を求める中から、丸みを帯びた卵形にたどりつく。

 一方でごつごつとした不定形が、庭の敷石を原型として導入されてくる。これは禅的宇宙論だ。マッスではなくて、広がりを持って地球を彫刻しようとした時、広場や公園といった空間構成に目が向いていく。実現しなかったモニュメントが無数にある。丹下健三と共闘を組んださらなるプランもヒロシマでは実現できなかった。不満げな橋の欄干の顔がそっぽを向いて平和公園を見つめている。先日行った時には橋の拡張工事のなか、ノグチ作の欄干は黒いテープで目隠しをされて、わきによけられていた。

 ブランクーシの量塊とは対極にある拡散への指向は、流れるような東洋の書のもつ世界観にたどり着く。「書」と名づけられたノグチの抽象彫刻もある。昨年の高松でのイサムノグチ展を見て、感銘を受けた墨絵によるダンスのドローイングは、今回の出品にはなかった。象形文字のもつ人文字の効果は、長谷川の拓刷と共有するものだ。それは洋画家の域を超えている。判で押したような拓本のもつかすれた平面は、まるごと宇宙を刷り出した拡がりをもっている。

 軸装されたり屏風仕立てにされると、不思議と日本がインターナショナルなものに見えてくる。よく見ると漢字が隠し込まれている。タイムという作品では、大きく「」の字が浮かび上がる。「幽玄」という文字も絵になっている。幽は傾き、玄は石灯籠に姿を変えている。

 長谷川三郎の面白さは、写真にも散見される。日本文化には世界に通用する造形原理が潜んでいることを教えてくれる。今回の展示は限られていたが、畳のヘリをモンドリアンに見立てて驚いたことがあった。写真のトリックに過ぎないとも取れるが、常に意識していないと見つからないものである。竹橋の近代美術館に並ぶ「蝶の奇跡」は代表作だが、見慣れてしまっていて、それ以上の関心も好奇心もわいてはいなかった。今回の絵画以外のメディアとの出会いが認識を新たにしてくれた。その知的好奇心の世界的広がりは、以前阿部展也の誤解を気づかせてくれた広島での展覧会に匹敵するものだった。

辰野登恵子展

2019年02月16日~03月31日

名古屋市美術館


2019/3/14

 絵画制作から大きく外れることなく、王道を進んだように見えるが、楽な道のりではなかったはずだ。ドットやグリッドへの興味はさまざまな形で現れては消える。コクヨの原稿用紙がモチーフになっている。原稿用紙をそっくりに写すと抽象は具象となる。具体と言ったほうがよいか。同時にありふれた日用品をモチーフにしている点ではポップアートの系譜にもつながる。

 原稿を書くためのキャンバスではない。原稿そのもののもつ平行線に興味が向かう。文字を書くわけではないから、罫線はキャンバス上で自由に拡大されている。行間からじんわりと罫線ごしに色がにじみ出ている。抽象絵画だがKOKUYOの文字ははっきりと読み取れる。

 本棚がある。本は一冊も入っていない。原稿用紙に文字がひとつも書かれないのと同じだ。興味は棚の連なる水平線にある。不安定な本箱に見えるが、本当はただのグリッドである。水平へのこだわりは、いつのまにか幾何学的な直線が消え、表現的要素の強い手描きの垂直のストロークに移行する。滝のように流れる感情と言ってもよいだろうか。いずれにしても潔癖なまでの水平垂直志向はモンドリアンを思わせるところがある。

 そこに揺さぶりがかかるのが、わずかな傾斜を画面に加えることで、原稿用紙の角度が少しずれている。微動だにしない宇宙の安定に動的平衡が加えられていく。フリーハンドのストロークも幾何学的抽象の解体につながったに違いない。さらに中心となる核が誕生する。核開発と言ってもよいか。

 流れの中に固まりが生まれると、はじめはごつごつとした石のようであったが、やがては面取りがされて、ダイヤカットになっている。濃い紫に色付けられるとサファイアのような発色が美しい。色違いの石の塊を中心に置いた油彩画の大作が自信をもって並べられている。シルクスクリーンやドローイングを量産していた頃の不安感はなくなり、核心を得たということだろう。壁紙が絵画に変わり、文様は象徴を取り戻す。喪失していた中心に核とした枠を得たように見える。

 以上が何の前知識もないまま、展示された作品に沿って見えてきた観察である。会場には作者のことばが切り出され、手がかりとして掲示されている。絵画とは何かを考え続けていた人であることがわかる。もちろん次世代の人たちから見れば、そんなに絵画にこだわる必要があるのかという問いが発せられるだろう。

 タブローの崩壊を食い止めようという限りでは、保守的な前衛と呼んでもいい。枠から外れることは簡単だが、タブローという枠組みの中で、どれだけ新しいことが可能かを考え続けていたように見える。その意味で王道を行くと言える。しかし中心の喪失からグリッドに至るという絵画史の流れには逆らっていたわけで、その孤独な闘いがアイデンティティをなす。

 ニューペインティングの訪れで評価を得ることになるが、時代の流行に敏感に反応していたというわけではない。モンドリアンが抽象にたどり着いたのとは逆の道を選ぶ必然は、作風の変遷を通してうかがえる。1980年代の美術を語る時、欠かせない一人だと思う。2014年ぷっつり糸が切れたように64歳で世を去った。