第6章 サイレン卜映画

動いて見えるということ/映像の力/残像という生理/スクリーンかモニターか/カットの文法/街の灯/声の功罪/映像の実験

第429回 2022年121

動いて見えるということ

 写真は記録から始まり、アートへと至り、広告となって一般化した。写真と同様な進化を映画も遂げる。写真術の発明から50年後に映画術が登場する。1895年のことだ。フィルムとムーヴィーという語がある。フィルムは物質的側面をいい材料のことだが、ムーヴィーは動くという機能のことだ。フィルムを用いたムーヴィーというと、ひとつの時代が現れてくる。フィルムの時代である限りはフィルムが生産されていなければならない。現代ではカメラは完全にデジタルに移行したが、フィルムにこだわるという方向性は残される。ムーヴィーは動画のことだが、静止画が写真だとすると、写真が動くと映画になる。しかし本当に動いているのかというと、正確にいうと動いているのではなくて動いて見えるということだ。いつまでたっても写真の延長上にある。区別しなければいけないのはライブという点だ。舞台上で演じられる芝居と映画とは異なる。

動いて見えるためには1秒間に24コマが必要だった。かつてはぎくしゃくしていても動くだけで十分だった。人の目は進化しこの数字に落ち着いた。アニメーションで24コマが出てきたのは白雪姫だったが、そのスムースな動きは驚異的だった。ことに動物の動きが魅了した。コマを落とすと動物には対応できず、そこから出てきたのがロボットだった。ロボット系のアニメーションはコマ落としのための苦肉の策だった。鉄腕アトム鉄人28号はマンガだが、テレビのアニメーション映画になった時、ロボットであることが毎週の制作に幸いした。動物が主役であったなら実現は不可能だった。むりやりすると動物はすべてロボットの動きになってしまっただろう。

第430回 2022年12月3

映像の力

ここでは映画を4つに分けて考えたい。最初はサイレント映画の話。つまり音がないということだ。次に音が付く映画。これをトーキー映画という。3番目と4番目も対比をなす。映画がエンターテイメントかアートかという問題である。娯楽としての映画とアート系の芸術としての映画。ハリウッドに代表されるエンターテイメント系の映画がまずある。これにより映画産業として今日の隆盛を築きえた。これに対してヌーヴェルバーグというフランスで起こってくる映画芸術運動がある。

 娯楽だけならその場その場で拍手喝さいをして終わり、あとには残らない。100年後も残るようなスタンダードナンバーを希求したときアートとなる。クラシック音楽を考えれば、モーツァルトは時代を経て今でも聞かれる。これはアートの力だろう。一方10年先になれば全く忘れ去られるものがある。今その場で輝きを放つものも重要なのだが、はるか未来に輝きが託されるものと両輪のようにして同居している。どちらが良いという評価の問題ではない。

映画制作にはコストがかかる。ひとりで絵を描くのであれば自由に身の置き方を決定できる。映画の場合、興行収益のおこぼれにあずかることでアートは寄生する。フランスでの現象が日本にも飛び火した。今では映画は芸術になったが、フランスの芸術の分類では映画は7番目の芸術とされる。

はじめは無声映画だが、この時期が一番「映像の力」を発揮した時代だった。フランスとアメリカが映像の拠点となるが、リュミエール兄弟 はスクリーンに映写するタイプの映像を、トーマス・エジソン はテレビからモニターへと展開し、今日のコンピュータ映像につながる道を切り開いた。無声映画の集大成はイギリス人チャールズ・チャップリン(1889-1977)により果たされるが、シェイクスピア以来の演劇的伝統が、新しいメディアと理想的な出会いを果たしたと見ることもできる。カットとクローズアップを武器とする映画の文法は、ロシア革命のなかセルゲイ・エイゼンシュタイン(1898-1948)の功績が大きい。ここでもロシア演劇の演出術とパラレルな関係をなすものかもしれない。それは演劇から映画へという次代の総合芸術への移行を実証しており、映画が芸術の仲間入りをするのに必要な手続きであった。

第431回 2022年12月4

残像という生理

一般的に映画という分類がある。静止画が動き出す。写真の歴史と映画の歴史に分けて考えるのが一般的だ。流れは一続きだ。50年がかりで絵が動き始めた。1895年が映画の出発となる。シネマやキネマの語もあるが、静止画に対しては動画となる。映画も100年を越え様々な試みを経てきた。20世紀という時代が丸ごと映画と映像の時代だったといってよい。

 静止画の段階ではまだ絵画の延長にあった。動き出すということは時間の経過を追っていくことだ。時間が表現可能になる。美術の領域から外れて、音楽に近いところに行き着いた。写真から映画への流れは連動している。時間性が加わることは美術が音楽的世界に変わることだ。かなり異質なものが入ってきた。すっかりさま変わりしてしまったといえる。

パラパラ漫画が出発点だが、それが書籍を下敷きにしたものだとすると、起承転結に帰結し、4コマが基準となる。その延長上に24コマという数字が引き出された。パラパラパラパラと4シーンで要約できるのが四コマ漫画だった。コマ数が増えて滑らかな動きが出てくると、自然の動きが再現される。四コマ漫画でも何らかの動きは示していた。4が8になり最終的には24コマに至った。一秒間に24コマというのが、人間の目の機能に対応した数字だった。それ以上は人間の目に構造の限界があり、ついてはいけない。考えれば一秒の二四分の一というのは、とんでもない数字だ。8コマもあれば十分だとも思う。10秒で終わる100メートル走を考えれば、スタートとゴールに加えて途中の2か所が必須ということだろう。

利用するのは残像という人間の生理だ。真実は人間の目には見えていないところまであるはずだ。つまり動いて見えるだけのことだ。24が48コマになったとする。知覚はできないが視覚を越えたところで訴えてくるものがあるだろう。微妙な動きを撮りたいとき、たとえば舞踊などは、人間の目を越えたところで、芸術性が成り立っている。神がかり的な体感があるなら、それはコマとコマの間がさらに重要になってくる。

人間の目は動体視力の語もあるように、人によれば高速の動きを見極める能力もある。逆の場合は24コマもなくてもスムースな動きに見える。個体差を考慮すれば一律ではない世界で、現代人というくくりも、危機感の差により一律ではないだろう。戦下で鍛えられる環境要素も加わる。

第432回 2022年12月5

スクリーンかモニターか

スムースな動きに達したのがリュミエ-ル兄弟(オーギュスト1862-1954ルイ1864-1948)とトーマス・エジソン(1847-1931)だった。一方はフランス、他方はアメリカでの話だ。スクリーンに投射するタイプがまず浮かぶ。スクリーンの銀幕の世界は、映画を豊かなものにした。今は明るい部屋で見るモニターである場合も多い。両者は方向性が異なるが共存している。大勢の前でスクリーンで写し出すか、箱の中をのぞき込むか。写真の進化も暗い部屋に入って写し出されるのを見る体験から、やがて幻燈というスライド上映に移行した。

リュミエールはスクリーンに映し出したが、エジソンの発明はそれに先立っている。しかし映画がインパクトのある社会的事件として登場するのは「公開」という点にある。箱の中をのぞき込むというプライベートな体験は、その後のブラウン管や液晶モニターに結晶していくが、エジソン段階では大衆的なものへの展開を考えれば、まだ実験的なものだった。

フランスでは映写会や上映会の体裁をとった。パリでのイヴェントとして市民権を得た。入場料を取って10本ほどの映画が上映された。工場の出口列車の到着というような日常生活の一コマである。ただ動いているだけであるが、カメラは動かずに固定されたままだ。歩いて通り過ぎる人が連続する。工場の出口では仕事が終わり普段着に着替えた人たちが次々と出てくる。労働者風の服装ではなくて、不自然に着飾っている。正面にはカメラがあるはずだが気にせずに左右に流れていく。

列車の到着でもカメラは明らかにプラットホームに据え付けられているはずだ。気になる目線は見つかるが、カメラをのぞき込む人はいない。エキストラを使った演出が予想できる。日常を見せかけはしているが、周到な準備があったはずで、現代のスナップショットを想定することはできない。カメラに向かって目を合わせないという最低限の演出がすでにあっただろう。動くだけで十分の臨場感があった。列車が入ってきた時に当時見た人は、驚いてのけぞったという記録も残る。はじめての驚きとしては予想できることだ。

現代とは違い画面は小さくモノクロであり、本物と間違えるはずもないが、今日の我々の感覚ではとらえることはできないものだろう。登場人物への演出はあっただろうが、カメラワークの余地はなく、長回しで写し続けるだけのことだ。小型カメラが開発されるまでカメラの移動すら難しい。クローズアップもまだない。エジソンの映像と異なるのは、スクリーンにはかなり大勢が登場する点だ。表情まではつかめない場合が多い。これに対しエジソンではくしゃみの記録ボディビルダーなど、ひとりの人間のクローズアップを通して、部分を写し出す。口づけをする男女のクローズアップもある。

第433回 2022年12月6

カットの文法

上映スタイルの映画が勝利を得る。肖像写真の延長上にあるのではなくて、ドラマティックで上映時間の長い物語の再現へと進化する。ジョルジュ・メリエス(1861-1938)やD・W・グリフィス(1875-1948)によって映画史は次の段階へ移行する。動いているだけで驚く第一段階からステップして、新しく築き上げたのがカットの文法だった。つぎはぎの技法だが、当初のフィルムは火に弱くよく火災を起こした。焼けた部分を切り離してつなげると、画面が急に変わり、背景は同一としても歩いている人物が急に消えたり、あるいは逆に現れたりすることに気づく。トリックの発見に向かい、カットでつなぎ合わせることで、魔法のような効果を生むことが可能となる。メリエスの「首の男」(1898)や「月世界旅行」(1902)に結晶する。机上の生首が歌い出す。今見ても高度なテクニックに見える。

日本に入ってくると忍者がドロンといって消えてしまう忍術シーンの定番となった。目には見えぬ速さというのはたしかにある。蝉が飛ぶのを見ると一瞬で消えたとしか言えない。人間には驚異の一瞬だが蝉にとっては一瞬ではないはずだ。空手の型を見ていても、目に見えぬ速さといえる。ガンマンでもサムライでもいいが、知らないうちに抜き取ってしまうスリの手技やマジシャンの手品も蝉を見るときの感嘆に通じている。

メリエスではさらにストーリー展開を追って「月世界旅行」というSF作品が生み出される。ここではまだ音声はない。しばらく無声映画の時代が続く。サイレントムービーには音がないというよりも。声がないというほうが正確だろう。音楽はバックグラウンドで聞こえていた。サウンドトラックという絵と音の厳密な対応関係はない。バックグランドミュージックとして生演奏が加わることになる。

 人間の心理からすると音のしない映像だけを見続けるのは苦痛だ。映像がなく音だけは耐えうるが、音のない映像は不安を注ぐ。音の聞こえない不安感を映像表現として効果的に用いる工夫もドラマ作りで始まっていく。トーキーになってからの映画だがアルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)の「裏窓」(1954)をみると、音の聞こえない恐怖が効果的に取り込まれている。裏窓から見える向かいの窓は、壁穴からのぞく光景と同じく、サイレント映画である。「暗くなるまで待って」(1967)とあわせて、目と耳の関係性が映画というメディアを効果的に使って作品化される。音が聞こえないことを逆手にとって映画のアイデンティティが築かれていく。

第434回 2022年12月7

街の灯

 チャップリンの無声映画は、こうした技法上の制約をうまく利用している。「街の灯」(1931)では音声を棚上げにして、目と手の感覚をみごとに結晶させた。サイレントでこそ成立するメルヘンともいえるが、目は忘れても手は知っているという普遍化できる原理には、誰もが共感することになる。盲目の娘を助けた浮浪者を手が覚えていたという話だが、耳がそれよりも先に気づくはずだという道理を、無声映画は切り捨てることができた。それは極めて美術に近いメディアとして映画を理解することになる。その後マルチメディア化していくことで、映画は総合芸術として進化する。純粋性からいうと無声映画のほうが、映像独自の開拓者精神に裏打ちされていた。ナレーションは最小限に抑えられる。ことばさえ音ではなく文字であって、視覚による絵として機能する。パントマイムというジャンルがあったが、パントマイムだけでは伝えきれない込み入った状況説明は文字によってなされた。キャプションがその役割を担う。セリフが文字になって視覚化される。

外国映画を字幕で見るのはまだ無声映画の世界にいるようなものだ。絵と字が繰り返す絵巻物の効果がそこにはあった。文字は最小限に研ぎ澄まされることになる。極端な場合は法廷劇などで、映画を見ているのか文字を読んでいるのかわからないようなことにもなる。単純明快な言葉が吟味される。それは詩に近いものだ。「街の灯」(1931)でいえば、目の前にいる浮浪者があしながおじさんであることを確認できて「YOU」といった最後のセリフに集約される。それは「あなたでしたか」でも「あなただったのですね」でもなく「あなた」という一言であることがポエムとなって心に残る。聞こえるセリフではなくて見える文字でなければならなかったということだ。最後の薔薇をくわえたチャップリンのはにかんだ表情に、すべては集約されて映画は終わる。薔薇をくわえるのは、声を聞かれるとまずいという心憎い演出だった。手に触れたときの表情を描きだすのが、ここでの映像の醍醐味となる。そのとき女の目はもはや盲目ではないが、視線の定まらない過去を思い出すように、視線を走らせて時をたどり、YOUという字幕が入るのである。ほんとうは視覚や触覚よりも、もっとプリミティヴな感覚として、嗅覚が覚えているのかもしれないが、それも視聴覚にとどまる映画というメディアが見落としてしまった感覚だった。

第435回 2022年12月8

声の功罪

映画はその後、詩から散文へという大きな流れを築いていく。必要でないことをどんどん言いはじめる。しゃべるという意味のトーキー映画になれば、しゃべりすぎということが起こってくる。話術を駆使した法廷劇は、トーキー映画での醍醐味ではあるが、外国映画の場合は、映像をみることもなく字幕を読んでいるという意味で、美術ではなく文学に移行してしまった。

その後、安直なバラエティと話術ですませる今日のテレビ番組に至るのは、メディアの習性だったのだろう。無声映画はことばが重要だということを伝える。ただそれはしゃべりことばではなく、書きことばのことだ。声が出てくれば動作は緩慢になるだろう。声が先に走り動作がそれを追いかける。声に頼らない演技力が試される。最終的にはチャップリンの演技に結晶される。コメディアンなのでコミカルな動きを出発点にする。身体全体で表現する。後ろ姿を効果的に用いる。歩き方ひとつですべてを語る。チャップリンの生涯はサイレントからトーキーの時代に移行するなかにある。がんこにサイレントにこだわるが、1977年まで生きる。1936年すでに時代はトーキーを求めたが、チャップリンはこの年「モダンタイムス」を最後の無声映画とした。その後の流れでは身体全体から顔の表情のこだわりを強めていったようにみえる。

一方グリフィスは、フランスでの映画創生期の動向とは異なった、その後アメリカで展開する壮大なスペクタクル映画の先駆けをなす。やがてはハリウッド映画につながるが、「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)で、無数のエキストラを使いながら、大掛かりな装置をつくる。フィルム自体がまだ鮮明を欠き、四隅は暗く、モノクロでしかないことを思うと、セットの壮大さに軍配は上がった。「ベンハー」(1959)や「クレオパトラ」(1963)という超大作に匹敵する装置だった。「国民の創生」はアメリカの自立をうたう国をあげての意志表示だった。映画は民族の自決を促し、士気を高めるのにふさわしいツールであることも気づくことになる。中国をはじめアジア圏から世界に広がり、国をあげて映画に興味をもつ動性もそこからみえてくる。

第436回 2022年12月9

映像の実験

第三段階として映像の実験がなされていく。表現主義からシュルレアリスムへの経過で起こってくる。この運動は絵画を中心にして芸術全般に及ぶ。映画にも波及していく。フランスではフォーヴィスムという絵画運動に結集するが、ドイツ表現主義では絵画だけに収まらず音楽や文学、あるいは映画を巻き込みながらイズムが定着する。芸術は表現だというのは20世紀のうたい文句で、すべての芸術は作家の自己表現だとする。それ以前の自然を写すことを主体にした映画ではなくて、ありもしないものを創り出していく。そこから出てきたのはあり得ない代表例としての怪奇映画だった。「カリガリ博士」(1919)や「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)などは、舞台上の芝居を劇場中継したような印象を残す。家も道も歪んでいて、現実からは遊離している。フランケンシュタインやドラキュラに行きつくような幻想がドイツ表現主義の中で醸成されていく。

シュルレアリスムではサルバドール・ダリ(1904-89)が映画に興味を示し、自身のイメージ世界をつくるのに利用していく。ダリの独自性は絵画の緻密な手作業として実現する。それは静止画で動かない。仲間の映画人の技術を借りて動画でイメージを動かして見せる。「アンダルシアの犬」(1928)はその結晶で、スペイン人の映画監督ルイス・ブニュエル(1900-83)との共同制作となる。独特のダリ的雰囲気をもつ不条理の世界だ。ストーリーはつじつまの合わない夢想の現実だ。剃刀で目を切り裂く場面は有名だ。残酷というよりも不可解が先行する。映画独特のカットの使い方が恐怖をそそる。

剃刀を研ぐ手や大きく見開かれた目のクローズアップに月光の雲をカットではさみながら、恐怖心をあおる。そして最終的には目を切り裂いてしまう。牛の角膜だったようだが、これがなくてもよいはずなのにそこまでやるところにシュルレアリスムの原理を見る思いがする。カットの文法が確立した既成の概念を再考することになる。血をみせないで殺人を表現する映像の虚構を暴きたてようとする過剰は、その後ウォーホルの映画やスプラッタームービーに引き継がれる。悲鳴と血の付いたナイフをカットでつなげれば殺人は描けたはずだった。

アリが手のひらを這う。絵画でも盛んに登場するが、ここでは実際にアリが動く。細密描写を駆使しても絵画では実現できない触感である。ヒッチコックのサスペンス映画でもダリのイメージは広げられていく。夢の中で無数の目玉が登場し、時計の針がぐるぐる回っている。同じスペイン人なのにピカソがダリほどに映像に興味を示さなかったことは興味深い。遠近法をキュビスムは否定するが、シュルレアリスムは踏襲するという点で、ふたりが身を置く思潮の差のようにみえる。

フリッツ・ラング(1890-1976)は「メトロポリス」(1927)で近未来の大都市の恐怖を映像化する。ここではうつむいた労働者たちの行進は葬列と化している。チャップリンの「モダンタイムス」(1936)では機械に支配される社会をコミカルに笑わせて見せたのと対比をなす。歯車に流し込まれたチャップリンが、歯車の間を流れるように移動するシーンを見ながら、スタントマンもなしによくこんな撮影ができたものだと驚く。どれだけ撮り直しがあったかを想像すると、一瞬芸では決してない笑いへ向けての執念を感じ取る。


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