感覚の領域 今、「経験する」ということ

2022年02月08日~05月22日

国立国際美術館


2022/3/11

 力のこもったいい展覧会だった。比較的年齢幅のある7人の現代作家をセレクトして表題の問いかけを試みている。隣にできた中之島美術館へのオマージュとも対抗意識とも取れる。壁に作品を並べる旧来の美術館の在り方を問い直す意欲的なパワーが炸裂する。7人は共通して美術鑑賞のあり方を問うが、なかでも飯川雄大(1981-)のこころみが際立っていた。私には以前、森美術館で出会った赤い大きな猫のキャラクターの記憶が鮮明だった。そのときはなんだこの大きいのはという不可解だけのことで、印象には残ったが、それ以上にコンセプトを追究もしないままでいた。今回は作家名の記憶だけはあったが、前回とは全く異なった作品の提示に、あっと驚くことになる。ただ見るだけの視覚体験が美術鑑賞だと思っていれば、たぶん知らないまま通り過ぎていただろう。

 壁のような褐色の大きな立体があり、これは一体何なのだろうと見ていると、触る作品ですよという監視員からのサゼッションがある。触っていると動きますよという追加のアドバイスがあり、表面に手をあてて押すことになる。おそるおそる押し続けると、それまでは隠れていた通路が現れて、そこにできたすきまに移動する。さらに次の壁がありそれも押し込むとまた別の空間が現れるという仕掛けだ。頭で間取りを考えながら、死角になった隠し部屋の存在に気づくミステリーを思い浮かべることになる。何度か繰り返して、目ではなく手を通しての美術鑑賞を実感する。

 館内のところどころにリュックサックが放置されており、これも手に取るようにうながされないと気づかないままいるだろう。ひとつ見つかると受付の足もとなど、館内の意外な場所に置かれていたことに気づくことになる。不審物を見かければお知らせくださいという問いかけは、現代という時代に特徴をなす無関心への警告のことだ。不審物でないことは、ここでは30キロの重さがあり持ち上がらないことからわかる。それが簡単にもちあがる普通のリュックが混じっていたら、それはホンモノの不審物だということになる。

 さらにはこの重いリュックをキャリーに乗せて兵庫県立美術館まで運ぶというプロジェクトがあり、参加しないかと持ちかけられる。実際におこなったひともいるらしい。これらを通して思うのは解説をしてもらわないと何も起こらないということだ。ここでは監視員の仕事が実は重要かつ大変で、押された壁をもとに戻すこと、どのように体験するかを説明することを考えると、旧来の黙って見ているだけで感動できていたものの偉大を感じてしまう。監視員は、これまでのように黙って監視をしているだけではすまされないということでもある。もちろんこれまでも不審者がいれば、からだを張るということはあっただろう。監視員にとっても新しい鑑賞術が提案されたことになる。

 これを自力と他力と区別すれば、手助けを得てやっとわかるのと、自力で鑑賞法を発見するのとの差を考えることになる。こんなふうに見よという誘導をよしとしない鑑賞術はある。どんなふうに見ようと見る側の勝手だというのが、長らく美徳だとされてきた。たぶんこれがモダニズムの基軸をなすものだっただろう。それに対してここでなされた提案は、たいへん興味深いもので、美術館に足を運び、手に触れてやっとわかる実感こそが重要なのだ。しかし、さらに重要なことは、説明をしてもらわなくても手に触れ実感へと誘導する仕掛けを考え出すことだろう。監視員の手をわずらわさず、ことばや文字にもたよらずに自然と自発的に気づくようになることだ。モダニズムの鑑賞が終わりを告げると、黙って見ればいいはずの寡黙な美術がどんどんと饒舌になっていった。説明も複雑で理解できないことも起こってくると、鑑賞者は自己の理解力のなさに気を落とすか、現代アートに腹を立てるかする。

 大掛かりな仕掛けには経費を必要とするが、そんなに予算があるとは思えないことから、どれだけ工夫するかが問われる。壁面を押し込んだとき、仮設とは思えない安定感のあるスムーズな動きを手に感じた。居合わせた観客は何人もかかって押すことになるが、もとに戻すのは監視員が一人である。こんな仕掛けを一からつくると相当な費用がいる。たぶん台車は展示用の壁面を移動させるときに使う美術館常駐の大道具を用いたのだ。それを展示室のサイズに合わせて覆いをつくり彩色をする。この場でしかあり得ない作品のことをインスタレーションと称するが、それは機転を効かせ、ことなきを得る処理のことである。そこでは見るだけでは収まらない、居合わせることに価値が見出されるものだ。鑑賞ではない、博物館学の展示実習にも似た様相を呈することになる。

 ここでは飯川雄大だけではない。実力のある現代作家が選ばれている。中原浩大(1961-)の版画集は、それを手に取って鑑賞させることで、壁面展示ではない体験を提示する。取り上げられたのは色見本のようなモノクロームの円盤であることが、絵に見入らせない工夫として、手の鑑賞へと誘導する。名和晃平(1975-)の展示室は、壁面を同一の黒いカンバスが取り囲む。白光が部屋全体を浮かび上げていて、独特の浮遊感を体感させる。おおざっぱな目には諸作品は黒一色にしか見えないが、デリケートな目は、表面の微妙な処理の多様を見分けることになる。写真撮影をして、あとで見直すとその表面の多様にあっと驚く。さらに大岩オスカール、藤原康博、伊庭靖子、今村源もそれぞれに魅力的な展示を試みている。作家の力量もさることながら美術館の企画力を通して考えさせるものとなった。


by Masaaki Kambara