第3章 高田博厚

第547回 2023年3月31

1 長過ぎた不在

 高田博厚のアウトサイダーとしての視覚は、30年に近い不在のうちにある。それが彫刻という素材に埋め込まれ、結晶した。彫刻『』(1978年)と『大地』(1978年)は、ともに「自然」によって触発されたあるイメージの広がりをもったものである。高田の彫刻は、大別して肖像彫刻と裸婦像にわかれるが、一見、両極端のように思われるそれらがどのような有機的な繋がりをもって展開されてゆくのかを探ることが、これからの目的である。『空』『大地』はともに裸婦像であるが、これらが生み出される以前に、高田は1962年に『』という作品を制作している。それもまた裸婦像であり、ひざを曲げて遥か妓方を見つめて立つ女の姿は、確かに海の向こうを見晴らしている。この女体に見い出された「自然」のイメージを探るには、高田の思想を決定づけた長期にわたるフランス体験から語りはじめることが妥当であると思われる。

 1900年という区切りのよい年に生まれた高田博厚にとって、西暦の下二ケタは自分の年齢に当たる。青年期までを福井で過ごしており、その後28年にわたるフランスでの生活が彫刻家としての個性だけではなく、思想家としての一面をも決定することになる。

 ただ一口に28年といっても、ある意味では長く、又ある意味では短い。彫刻家高田博厚は、1931年31歳の年にフランスに渡り、1957年57歳で帰国している。つまり芸術家として最も活躍する時期に、氏は日本にはいなかったことになる。この28年の不在は、氏の芸術を語る場合に、極めて重要な要素となってくる。それは帰国後は長らく鎌倉で制作に励まれ、87才で没した氏にとって、28年という年は、人生のほんの三分の一ほどに過ぎないにもかかわらず、「留学」というにはそれは余りにも長過ぎた。明治以降日本の知的文化を築いてきた留学組の芸術家、文化人たちの系譜の中で、暗黙のうちに了解されあっていた「適切な期間」を完全にオーバーすることで、氏はある特殊性を彫刻を媒体として提示してみせたともいえる。しかし、その「長過ぎた不在」は、あらかじめ予測されていたものでは決してなく、氏でさえも、はじめは二、三年のつもりで渡仏したのであった。

 1967年、28年ぶりに日本の大地を踏んだ時、氏のフランス滞在は、はじめて「留学」となったのである。氏はそれを「運命」と呼んだ。自伝「分水領」(1975)の中で「私はその後二十数年をフランスに生きてきた。そして〈愛した〉。けれども常に運命の奥底に〈訣別〉ぜんまい仕掛があるのを感じていた……」と語っている。「訣別」が運命として感じられるほどに、長い時間がフランスで過ぎ去っていた。ある意味では帰国は単なる偶然にすぎない。しかし、この「偶然」の前後に、ある大きな運命の落差があったことは間違いない。

 高田氏は帰国後すぐ書いた文章の中で、「現に私だってパリか南仏で最後の息を引きとるのだろうと、念願せずに予感している」と云い、「ただパリの古い町の塵のように町の中に埋れていたいのである」とその頃を思い出している。フランスの魂を理解し、自己を同化し、愛しつづけること、それはある者にとっては苛酷な重荷となりうる。しかしそれを耐えぬき、自滅にまで至っても顧みない悲劇的な精神は、更に少数の者にしか与えられていない。つまり、自分自身の「思索」の問題である。単なる美しさに救われて異国に日々を送る人間は問題外である。「若い時、美術・音楽・文学などに引かれて、それでフランス・パリをめざして来て、三十年も四十年もいて、土地の塵のようになってしまった人々」を高田氏は多く知っている。そして、「絶望から美を生み、遂に消耗して死んでしまった例」を氏は、佐伯祐三以外には知らないと語る。

 確かに、こうした悲劇的様相は、日本特有のものであるのかも知れない。しかし、それ以上に、ヨーロッパのもつ重い伝統に覆われた厚い璧に向かった我々日本人の実感でもある。それは「知性」を思索しうる者にとって、「ヨーロッパと日本との二つの〈文化層〉の谷間にあって、〈自我〉自身に深い矛盾を感じ、躊躇し、迷い、絶望する壁」である。つまり常に「不安」をひきずりながら生き続けることになる。恐らくそれは、「西洋を学ぶ」という意味でのかつての留学組と明らかに異なる点であろう。

 氏は、「日本へお土産を持って帰る了見が毛頭なかった」と云い、自分がフランスに長く居たのは解釈するためではなくて、「自分が生れるのを待っていたのだ」と語る。それは一種の対決であり、そうした苦悩の中で死んでいった佐伯祐三に、氏は、その一典型を見い出している。「つい先日自殺に近い死に方をした佐伯祐三の、パリの堅い璧に頭をぶっつけたような絶望的なひっ迫した絵を思って、身ぶるいを感じた」。つまり、フランスの厚い璧を前にして絶望するか、さもなくば、この国の甘美さに酔いしれてルンペンに終ってしまうしかないというのである。確かに佐伯祐三の描くパリの壁は重厚である。しかし、それにもかかわらず、それは余りにも美しいのである。つまり、すべてを捨てさせるだけの何ものかが、フランスの側にあったのだということは事実である。

第548回 2023年4月1日

2 フランスからの旅立ち

 森有正の場合も、このことが引き起こした一つのドラマであった。「バビロンの流れのほとりにて」(1953)をはじめ、一連の森有正の著作は、西欧思想の真っ只中で、自己の「思索」を対決させ、その存在の重荷を一身に背負って立っている。東大の助教授という立場でフランスに留学してきた森有正は、そのまますべてを打ち捨ててパリにその生涯を終えたのである。高田氏は森有正との長い交友録の中で「日本の希望(ホープ)と世間から期待されていた彼が、よしんばその私生活を破壊してしまった不幸はあったとしても、そんな下らぬ他人の期待など振り棄てなければならないほど、フランスに何ものかを感じたかれは祝福すべきであろう」と語っている。高田氏自身と共有しうるフランスの魂を森有正もまた確実に捉えていたのである。

 しかし、高田氏にとっては、偶然の帰国が、更にもう一つの「経験の体感」となって現われてくる。つまり、氏の言葉を借りれば、「将来の企てをもつこともなくほとんど偶然に帰国した私にとっては、日本が異国のように思われ、去ったフランスに自分のすべてを置いている」というわけである。この奇妙な体験は、一方でながい修業時代を終えたフランスからの帰国であるとともに、他方で、精神と思想の一切を形造ったフランスからの旅立ちでもあった。そこで、氏は、「私は旅人ではなかった」と語る。つまり出発点から出発点へと戻るという発想は乗り超えられ、それゆえに孤独と不安に陥ってゆく魂を「魂の巡礼者」とみなし、「〈自我〉を探し求める巡礼者(ベルラン)の体感」として、日本とヨーロッパの「経験の体験」を捉えようとする。そしてそれにはいつも「よろこばしき実感と言う以前に悩ましい反省」が長くつきまとっていた。

 つまり、巡礼者であろうとする者が、旅人として、出発点である日本に28年ぶりにたどり着いたという矛盾が、その「悩ましい反省」の下敷となっていることは間違いない。それゆえに、帰国後二十数年を経た頃に、「私の三十年の長いフランスでの生涯も、今ここにいる私にとっては、いったいあれは本当だったのかしらん?夢ではなかったのか?と思うような〈空白〉になっている」と氏に語らせることになる。個人の存在としては連続しているはずの体験が、今自分が生きている「場」から断絶し、「触知することもできず、私の〈現在の事実〉と無縁のもの」になっている。そしてそれは、その体験が詳細に記憶されればされるほどに、自分が体験したことではないように思え、「他人の物語であるかのように私に記憶される」のである。そして、更には「それは〈私だけのもの〉になっているので、今の現実では〈語られないもの〉、あるいは〈語りたくないもの〉となってしまう」。

 こうした互いに矛盾しあった気分は、恐らく「時間」というものの神秘であり、そのからくりに手玉にとられた浦島太郎の虚実の世界を形成する。高田氏があたかも自分が現代の浦島太郎になったかのような錯覚を抱くのは、一つには、彫刻家という存在の確かさに由来する。つまり高田氏がヨーロッパのロマン・ゴティックの寺々に見い出した「時間の集積」は、個人を超越し、遥かに長い時間に耐えてきた石という不滅の造形に内在している。更に首も手足もない古代彫刻に、氏は人間感覚の「動作」よりもはるかに「存在するものの本質」を教えてくれる「時の力」を発見し、岩の美しさについても「時の力」に削られ耐えてきた「残るもの」だけに存在する窮極の「形」として説明する。そこで自分もまたこの「時間」に耐えうるものを形造りうる者、つまり彫刻家であるがゆえに、その重荷もまた同時に引き受けることになるのである。

 確実な存在である証しとして、フランスに自分が生み出した彫刻を残してくることは、当然、高田氏には出来たはずである。しかし、確実な存在であるがゆえに、氏はそれを拒否した。この矛盾の中に、一つの苦悩が見られる。つまりそれは残りうるがゆえの恐怖に他ならない。

「私は自分の半生を生きたフランスを去る時、それまで作った作品を全部破壊して、体一つで日本に戻ってきた。絶望のためか?そうであったろう。けれどもあきらめではなかった。そして、日本でただちに仕事を始め、仕事を続けた」。高田氏の作品集に、フランスで制作された作品がほとんどぬけ落ちているのは、そのためである。このことによってもまた、そして、帰国後の旺盛なる制作活動が続けば続くほどに、存在の証しを喪失したフランスでの生涯は夢の世界へと入ってゆくのである。

 破壊が一方で創造へのエネルギーとなることは確かである。帰国後、氏は破壊した作品のいくつかを記憶にたどって再現しようとする。しかし、それはうすれゆく記憶との闘争であり、この葛藤がまた創造へのエネルギーとなってゆく。憑かれたように彫刻をはじめ、金がなくなり食うものもなくなるに反比例して仕事をした、と渡仏後すぐ、パリ近郊のクラマールにいた頃の自分を氏は回想する。そして、それが「日本的な上ずった昂奮」であることに気づいて、生理的に耐えられず、片っぱしから自分の作ったものを壊してしまい、「感じで遊んでいるだけで、なぜ奥底から〈彫刻〉が丸ごと出てこないのか?」と自問する。そこには、一方で、高くそびえ立ったヨーロッパの壁で自滅しようとする自我があり、他方で、何の基礎もないところで情熱だけで築きあげてきた「彫刻」に村する嫌悪感がある。高田氏には修業時代あるいは徒弟時代というものはなかった。氏はそれをまるで「泳ぎを知らないで海に飛びこんだようなものだ」という。アカデミックな修業をしていない自分にとっては「60歳になるまでは徒弟だ」と思ったという氏の言葉をそのまま信じるならば、高田氏の彫刻は、1957年の帰国後からはじまるのかも知れない。その意味で、1962年氏が62歳の折に制作した『』は、この出発を飾るにふさわしい結晶だといってよい。

 そのような目で、もう一度、この作品を見てみると、海の彼方を見晴らす、少し首をかしげた女性の表情に、隠やかな地中海の映像を思い浮かべることができるかも知れない。腰をかがめつつも、身をのり出そうとするこの女性は一体何を見つめているのか。その海のはるか向こうにはやがて過去となって消え去ろうとする、高田氏の長いフランス体験がある。そしてこの『海』という作品によって見つけられた女体のポーズは、その後様々な変化をともなって、やがて『空』や『大地』という作品に発展してゆくのである。

第549回 2023年4月2

3 彫刻的思考

 肖像彫刻とトルソという二つのジャンルは、一見、互いに矛盾しあうように見える。しかし、高田博厚氏はこの二つを巧みに創りわけてゆく。氏の彫刻を持色づけるものは、一方で肖像彫刻であり、他方で女性の裸像である。後者はトルソをもってその窮極の姿となる。つまり一方は個別的な特殊性から出発し、他方は一般的な普遍性から出発する。高田氏にとっては、この両者はいかなる関係にあるのだろうか。

 高田氏の彫刻の出発を飾る第一号は肖像彫刻であった。モデルは、処女特集「空と樹木」を出したばかりの尾崎喜八氏である。その後、31才で渡仏するまでの間に、古在由直小山富士夫中原中也などの肖像を手がける。フランスに行ってからは、フーロン夫人ガンジーアランロマン・ロラン等の肖像彫刻へと展開してゆくのだが、このような人間の顔に対する興味は、高田氏が人間を把える際の「顔」(マスク)にかける信頼度を予測させる。つまり、それは内面と外面が接するぎりぎりの境界線上に見い出された皮膚感覚に他ならない。ロマン・ロランは10年以上、誰れのモデルになることも拒絶してきたが、高田氏の前で何度か坐るための時間を見つけることを約し、「彼は単に外形だけを形づくるのではなしに、形にしるしづけられている精神(エスプリ)をも形づくる(モドレ)、ほんとうの芸術家」(片山敏彦あて1931.4.4付手紙)だという賛辞を送っている。そういった点で、高田氏がめざしたのは、ミケランジェロでもマイヨールでもなく、ロダンの肖像彫刻であったといえる。

 ロダンもまた人間の顔にひかれた彫刻家の一人だったが、このことを高田氏は「顔への興味からではない。顔の中に《人間》をあばき出そうとする意欲」と解釈する。はじめて『ロダン夫人の首』を見たときの感動は、たいへんなものだったようで、「なるほどこれが彫刻か」と思ったという。もっともロダンにとっても、肖像彫刻は自己の作品のほんの一部にすぎない。ロダンの全作品を前にした高田氏は謙虚に「自分も肖像作品で彼(ロダン)の跡を歩めるかもしれない」と語る。つまり、この言葉の裏には、肖像以外のものでは、日本人にとってはとても敵わない西洋精神が横たわっているのだという意味あいが含まれている。言いかえれば、それは「物象が自分の中で自ずと生み作って行く《思想》を自分がまだ持っていなかった」ということであり、思想(イデエ)が形を生むことのむつかしさを語りつづける高田氏にとってふさわしい出発であったと思われる。友人の一人で文学者の片山敏彦は、次のように語っている。「彼が親しい友人たちの肖像彫刻をたくさん作ることには必然性がある。その著述や、思想や、詩魂や、感情のニュアンスまでを識って理解している《人間》の頗の純粋彫刻美を表現するのが彼にはふさわしい領域であり、したがって被の肖像彫刻の特徴はリリカルな知性美である」。

 確かに高田氏の肖像彫刻は、一種の交友録として機能する。それは高田氏自身の足跡でもある。それぞれのモデルには、個性があり、性格があり、特性があり、それぞれが個別的な美しさを持つのだが、氏はそこに「顔の普遍美」を生み出そうとする。その場合、モデルそのものの存在が「それ自体の創り生んで行く形が全量を調和して普遍の質に合致」していなければならない。そんな時に、彫刻家は「顔のない一つの女の胴体を作ると同じ普遍美で、一つの個人肖像が作れる」という。氏にとって究極的には肖像彫刻も女の裸像も区別はない。ただそのアプローチの方法として、特性美から普遍美へという方向性が、氏にとってふさわしいというだけのことで、ともに内部の力が、外界と触れあうぎりぎりの極限で簡潔な形を得ることが問題なのである。

第550回 2023年4月3

4 裸婦像

 高田氏がトルソあるいは裸婦像を盛んに創りはじめるのは、1957年のフランスからの帰国後である。つまりそれは高田氏自身の手が思索し、形を生み出しはじめたことの現われであった。これは明らかに肖像彫刻制作の場合とは違っていて、モテルからはイメージを用いるだけだから、モデルになった外国や日本の女性のことについては、ほとんど記憶にないということを氏は語っている。

 つまり、高田氏が女体に追求するのは「抽象美」である。「抽象美」とは、氏の言葉を借りれば「感覚する《形》を肉付けし、簡潔化し、一元化し、やがて《形》そのものが《思想》であろうとする」時の状態を意味する。しかし、抽象(アブストレ)自体が「形」(フォルム)となるわけではなく、抽象が観念を「形」に写すのでもない。「もの(自然)」に即して「自我」が純化して、ゆきつく「形」が思想を生み、それが抽象美となるのである。つまり、高田氏にとって、肖像彫刻がモデルとの対話であるとすれば、裸婦像は自己・自我との対話であるとも言えよう。それゆえに、その造形は無意識のうちにも、作者自身の体験に根ざしている。

 たとえば、帰国後5年目1962年に制作された『』という作品には、29年間生活したフランスヘの思いが知らず知らずのうちに現われている。それは海に足をつけた女性がかがむような姿勢で腰を落とし、前方を見上げている彫刻であるが、どっしりとかがみかけた下半身は、日本の大地に根を降ろそうとする自我を思わせ、しかも一方で伸び上がろうとする上半身に、異国となったフランスヘの思いが馳せられる。このように一見アンバランスな裸像の中に、私は動物でいえば「あぎらし」の特性のようなものを見い出してしまう。つまり飛び出そうとして、しかも大地につながれている者の姿である。この作品を1943年にブランクーシが制作した大理石『あざらし』に比較することができるかもしれない。あるいは荻原守衛の『』と比較しても、はるかフランスへ向けるまなざしという点で共通するものだ。

 また高田氏の『海』をマイヨールの『地中海』と比較した場合、『海』は余りにも悲しい。海は、そこにある海ではなくて、はるかかなたにある海である。マイヨールにとって自分の生まれ育った海、つまり女体の中心にそそがれた視線が、高田氏の場合、異国となったかなたの海に向けられているのである。

 1961年に『想う』や『憩い』という作品で、両足を飛げ出して大地に腰をおろす女体を制作し日本での生活に落ちつきを取りもどしたかに見えた高田氏のフランスヘの思いが、翌年の『海』において再発したのだとも見える。その不安げなポーズが、「海」という安定したもののイメージの中で、不思議な魅力を持って見る者に迫ってくる。

 高田氏の裸婦彫刻のいくつかには『海』(1962)『憩い』(1961)『空』『大地』(ともに1978)というように極めて暗示的な題名がつけられているが、これも氏がロダンやマイヨールといったフランスの近代彫刻を正統に受け継ごうとした現われである。フランス滞在中の比較的早い時期に制作された大理石を思わせる女のトルソが残されていて、それには、『大聖堂』ラ・カテドラル(1937)という題が付けられている。私達はすでにロダンが1908年に同じ題で、重ねあわされようとする二本の右手を造形したことを知っている。それは天上から差しのべられた神の手のようにも見えるし、ゴティック教会のアーチを暗示するようにも見える。こうした暗示的な手の中にロダンは『大聖堂』のイメージを得たのに対して、高田氏は、首も手も足もない女体をそれにあてはめた。

 それは高田氏が戦争中に体験したランスの大聖堂の印象と呼応するものである。氏はその時のことを次のように書いている。「戦争の砲弾で無残に傷ついたカテドラルが、地に膝をつき胸を張って空を仰ぎ、祈っている若い女のように立っていた。帽子を伝って落ちる雨のしずくにゆれるままに、私は茫然として、この生きた女を眺めていた」。このように体験された大聖堂のイメージが、彫刻の「姿態」を考えているうちにモデルである女体の中に再現されてくるということはあり得る。

 1978年に制作された『大地(地)』を見てみよう。『』とともに発表されたブロンズ像である。「大地」では長い足を折るようにして片膝(ひざ)を立て目を閉じた女性が、安定したピラミッド形のフォルムをつくり、うずくまっている。左手は膝を抱きこんで右肩に、右手は手のひら全体を地面に押しあてて、大地につながっている。それはまるで「大地のぬくもり」を感じとろうとしているようであり、顔はメランコリックに左腕にのせられ、閉じられた目は「大地の眠り」ともいうべき、母性的なイメージの広がりをもった世界へと入っている。

 作者の体験を思い起こす時、「大地」と名付けられたこの静かな裸婦の姿に、長い時の流れを思わずにはおれない。28年間住みなれたフランスを去ったとき、日本は異国であった。そして帰国後22二年を経過したこの作品の制作時に、やっとまたフランスは異国に戻ったのではなかったか。「大地」には、そうした放浪者が、やっと自分の土地を見つけたような静かな喜びがうかがえる。

 氏は、題の付け方について、あらかじめ考えているのではなくて、後から自然に出てくると語っている。「《空》と題した裸女立像も、三人のちがったモデルのほぼ同じ姿勢の素描をやっていたら、《空》という題名が浮んできた。こうなると粘土で制作する時にはもうモデルは要らない」。ここに肖像彫刻制作の場合に、氏が素描をしないで対象にじかにぶつかるというやり方との明らかな違いが見られる。卜ルソの場合、「自我」は「行動」を通じて「自我内部」を見極めようとし、その行為が「自然」の中の「人間の知性行為」と照合するのである。そして「自然」と「自我」が調和したところに「抽象」が生まれる。こういった高田氏の芸術思想を理解した時、氏が語った「《人間の中心なる胴体(トルソ)》だけで《美》を示せる作家が本当の彫刻家だ」といった言葉は納得できるのである。

 高田自身の言葉を借りれば、「感覚する〈形〉を肉付けし、簡潔化し、一元化し、やがて〈形〉そのものが〈思想〉であろうとする」。肖像彫刻が、人間との出合いを求める高田氏の外に向かう眼だとしたら、裸婦像は、そのモデルの持つ「女の美」というよりも、むしろ一つの「形」=「思想」といった方がよく、内側に向かって開かれた高田氏の眼だとも言えるだろう。