第1回 2022年10月10日 

太陽はひとりぼっち 1962

 モニカヴィッティの、とろんとした目がなんともいえない魅力をかもしだしている。健康的とも思えないけだるさに、優秀な証券マンを演じる若きアランドロンが翻弄されている。ラストの十分間は映像だけでつないでいる。登場人物がぷっつり消えて、見るほうが勝手に解釈する部分だが、手がかりは風景の謎めいたモンタージュにある。何でもない無人の風景が神秘的にみえてくる。ドラマツルギーで見ようとすると破綻するが、感覚的に美術鑑賞をするように対すると、スタイリッシュな映像描写のみごとさを認めることになる。愛の不毛というテーマは一貫しているが、感情移入できる映画ではなさそうだ。

 監督の妻だと知りながら遠慮がちにラブシーンを演じる二枚目俳優のぎこちない演技も見どころか。これは日本の松竹ヌーヴェルバーグでもいえる。アランドロンの役どころは株の仲買人という点では、画家ゴーギャンの前身でもあって、バイタリティに満ちた現実的人生観の持ち主だ。株の取引に目の色を変える人間の欲望の姿が繰り返し写し出される。愛の不毛などと言って厭世的になる暇もない世界である。その現実的生き方が女の魅惑にとらわれていく姿は、確かに不毛ではなく愛の勝利と言えそうである。しかし女のほうはスルリとかわして、本心を語らない。すでに経験豊かな時間を経て、愛に疲れている。余韻を残す大きな太陽の映像は、登るのか沈むのかさえ定かではない。原題は「日蝕」L'eclisse である。モノクロ映像だが大画面で見ると、監督アントニオーニのこだわりが冴える。インテリアに置かれた絵画や小物類のデザインは、イタリア的感覚に満ちて、絵になる映像美は古びることはない。

2回 2022年10月11 

若者のすべて 1960

 地方から都会にやってきた母親と五人の息子がたどる貧困家族の没落の物語だが、とりわけ次男シモーネと三男ロッコの対比がきわだっている。殺人者まで出してしまう家族は他人事ではなく、なんでもないようなちょっとした感情のすれちがいが、劣等感や嫉妬から起こってくる。ヴィスコンティ独特の情念の狂気が輝きをはなつ。「揺れる大地」(1948)からのイタリア流リアリスムであるネオリアリズモの理念を引き継ぐが、自身の出自とも重なる血の情念への興味は、やがて貴族社会が崩壊する退廃美へと傾斜していく。

 ボクサー三兄弟の話とも取れるが、日本にも置き換え可能なものだ。はじめ長男がおもしろがってやりはじめるが、次男と三男が見学に行って、兄以上の才能を見いだされるという話である。芸能界でも姉の付き添いでオーディションに行った妹に目をつけられるというパターンもよく耳にする。破滅に向かう物語は悲しくも美しい。

 そんなにまで寛大になれるのかという問題もある。どこまで悪人を許せるのかという命題だ。殺人者でさえもそれをかばおうとする。5人の男ばかりの兄弟のそれぞれの生きざまがリアリティをもって描かれている。ネオリアリズモの目で見ると、ロッコを演じたアランドロンだけが場違いで、他は土地に根ざした土の香りのするリアリティがさえわたっていた。影をやどしたクールな美青年はヴィスコンティごのみである。

3回 2022年10月12 

冒険者たち1967

 若きアランドロンの魅力を引き出すだけの映画に見えるが、リノバンチュラがなかなかいい。小島に浮かぶ要塞は絵になる。日本でいえば軍艦島のような廃墟だが、ホテルにリニューアルするのは確かにいい提案だ。小娘に恋をした中年男の純情と若くまぶしい相棒との友情がゆききする。



地下室のメロディー1963

 しゃれた犯罪映画である。プールをはさんで知らん顔をして座るジャンギャバンとアランドロンの対比が、カメラワークの妙として目に焼きついている。札束がゆっくりと水面を覆い尽くすシーンは確かに美しい。



暗黒街のふたり1967

 なぜ暗黒街なのかがわからない。原題からはそんな訳は出てこない。タイトルだけからだと、ジャンギャバンとアランドロンが組んで銀行強盗でもするギャング映画かと思ったが、違っていた。かなりまじめな考えさせられる映画だった。ギロチンで処刑されるラストでのアランドロンの蒼白の表情が尾を引く。ギロチンで終わるのは「肉体の冠」のショッキングを受け継いでいる。犯罪者を見守る老保護士を演じたジャンギャバンの落ち着きぶりがいい。

4回 2022年10月13 

燃えつきた納屋1973

 もちろんアランドロンで見せようとする映画だが、シモーヌシニョーレの存在感に支えられた作品だった。重量感と言ってもよいが、若き日のシニョーレに魅せられてこれまでまとめて見てきた者の目には、ショックでもあった。年月の流れを感じさせるが、それが映画というものだ。同世代を生きた者には当然の老いだが、世代を隔てて数十年をいっときに見る目には、映画というメディアの恐ろしいまでの摂理に接することになる。それはカトリーヌドゥヌーブ松坂慶子にだって言えることだ。老いは銀幕のスターにとって、過酷なまでの試練だが、この女優はみごとに乗り越えて見せたといえる。年輪を加えてもう一度よみがえる。宗教的にはこれを「復活」と呼んだ。

第5回 2022年10月16 

太陽がいっぱい1960

 ルネクレマン監督作品。野望に満ちて破滅へと至る青年を演じたアランドロンの演技が冴える。ホモセクシュアルにもみえる設定だが、資産家の友人を殺してその人物に成り切ろうとする犯罪映画。


危険がいっぱい1964

 ルネクレマン監督作品。アランドロンが主演なので、危険がいっぱいという日本語のタイトルをつけているが、正確ではない。確かに危険はいっぱいなのだが,ヤクザの女に手を出して逃げまわる色男の話。原題は直訳すると「猫たちLes félins 、だましあいをするというニュアンスからだろうか。太った猫が登場する。邸宅の隠し部屋に隠れて住み続ける男がいる。飼われた猫のようなもので、スポーツマンでも青白くなって筋肉はおとろえる。猫が複数形なのは、人は変わっても猫として飼われ続けるということだ。


6回 2022年10月17 

パリは燃えているか1966

 ルネクレマン監督作品。パリを破壊しようとしたヒトラーと、それに抵抗したレジスタンスの市民たちの物語。ごく普通の市民が武器をとって立ち上がる。ロシアのウクライナ侵攻が重なって見えてくる。アランドロンやベルモンドなどフランス映画の名優があちこちに登場するが、主役というわけではない。シモーヌシニョレも出ている。

テキサス1966

 コメディタッチの西部劇。アランドロンの主演という点が話題になっている。英語のセリフなので、きれいなフランス語の発音が聞けないのが残念。やさおとこなのに結構強い。

サムライ1967

 殺し屋が殺される話。アランドロンの演じる一匹狼の哀しく短い生涯。警察から逃げ、ギャングから逃げまわる。最終的には警察に射殺される。ピストルには弾は入っていなかったが、それを向けた相手の女性を救おうとした警察側の発砲だった。

7回 2022年10月18 

ボルサリーノ1970

 やくざの恐ろしげな世界に身を置くふたりの男の話。ベルモンドとドロンのやりとりが見どころになる。ひとりの女を共有する奇妙な友情がある。アメリカでは「ゴッドファーザー」1972、日本では「仁義なき戦い」1973のヒットにつながるフランスヴァージョンである。突然ピストルで射殺されるショッキングな場面が、定番のように出てくる。軽快なリズムはアメリカ映画によくでてくるもので、「明日に向かって撃て」1969の二人の男と対応する。軽やかな犯罪映画という点では、「スティング」1973の音楽を思い起こさせた。

 アメリカンニューシネマのように、主人公が二人とも殺されると、気が滅入っていただろう。ひとりは殺されるがもうひとりは町から姿を消して、そのゆくえは誰も知らないというエンディングは、余韻を残してなかなかいい感じだった。アランドロンを再度登場させて、続編をつくれる工夫でもある。

8回 2022年10月19

仁義1970

  脱走囚と出所犯の偶然の出会いから、宝石商を襲い、成功するが、決まって悲劇の結末。ここでもアランドロンは撃たれて死ぬ。


シシリアン1969

  今回のジャンギャバンはギャングのボスで、アランドロンを撃ち殺してしまう。


暗殺者のメロディ1972

  トロッキーの暗殺を描いたドキュメンタリータッチの作品。アランドロンのアナーキーな演技が謎めいた印象を加速している。アランドロンを意識したタイトルだが、原題は、トロッキーの暗殺。

9回 2022年10月21

あの胸にもう一度1968

 アランドロンをあこがれる人妻の暴走と悲劇。実在しているのかも定かでないニヒリストの美男子に取り憑かれてしまった女性はバイクで暴走して、愛人のもとへ走る。愛人とは実はバイクのことではなかったのかと思う。股間に感じるしびれるような快感は、バイクという実在がもたらした実存主義だ。イージーライダーのようにあっけなく終わってしまう。ぼんやりと見ているとアランドロンのセリフが英語であるのを気づかないままいる。ラストシーンはフランス映画に余韻を残す見どころだが、ここではそれをあざけるように、あっと驚くような仕掛けがあるのも見逃せない。でもヨーロッパ映画の余韻がいい。

10回 2022年10月22

さらば友よ1968

 アランドロンの端正なギリシャ彫刻を思わせる理想美と、チャールズブロンソンのローマの剣闘士のような個性美が激突する。徒労に終わる重労働を共有した男同士の無言の友情が描かれるが、女の仕掛けた罠にはめられた愚かな男たちの話でもある。フランス映画なのにセリフは英語、アランドロンに英語は似合わない。アランドロンも鍛え込んだ肉体と敏捷性を持ち合わせているが、身体性からいうとブロンソンに軍配があがる。ベルモンドとの競演でもそのことは言えるが、美貌をあげると、断然大差がつく。その後のブロンソンの活躍をみれば、男は美貌じゃないよという声が聞こえてくる。ジャンギャバンとは長い付き合いだったし、バートランカスターリチャードバートンといった重厚な落ちつきのある名優との共演も、対比をなして興味深い。女優との饗宴とあわせて考察材料となるものだ。

第11回 2022年10月23

ビッグガン1972

 家族思いの殺し屋の物語。家族が誤殺され、その復讐をはたすが、最後には殺される。殺し屋役のアランドロンは決まって最後には殺される。強盗や殺し屋が成功する話では、見るほうに違和感が残るからだろうか。破滅型の時代の気分を映し出している。イタリア映画なのにビッグガンというタイトルはなじめない。イタリア語を話すアランドロンがいい。ハリウッドにも進出するが、英語の人ではない。


ボルサリーノ2 1974

 アランドロンだけを出しておけば客がつくという安直にしっぺ返しをされる映画だった。殺しあいに終始するヤクザの抗争映画だった。アランドロンはやはり、最後は死ぬのがいい。つまり続編がないということだ。一作ではジャンポールベルモンドは殺されて、アランドロンだけが生き残った。逃亡してたまたま生き残ってしまったという印象だった。この偶然から映画がヒットすれば続編を作ろうということになる。今回は最後には「続く」という表示が入っていた。残念ながらボルサリーノ3はなかった。

第12回 2022年10月24

レッドサン1971

 チャールズブロンソンと三船敏郎とアランドロンの共演。ブロンソンだけが生き残る。アランドロンは例によって撃たれて死ぬ。日本映画なら三船敏郎は死なないはずだが、ここはアメリカ西部での話だ。レッドサンとは赤い太陽だが、画面でも象徴的に登場する。日の丸とみれば忠義をつくす武士道の象徴となる。ラストシーンが象徴的で、三船の死を前にして、生き残ったブロンソンが日本からの献上の刀を、自分が代わって届けると約束しながら、電線につるして立ち去ってしまう。刀が国旗のようにはためいている。つまらないものに賭ける武士道をあざけるように、対抗的価値として「自由」を主張しているようだ。アランドロンを撃ち殺したときに、金銭欲は捨てている。生きるために必要なのは、忠臣でも金でもなく、自由なのだと教えている。ブロンソンはアランドロンを助けようとすることで、きずなが出来かけていた三船を死に追いやることになる。アランドロンは極悪非道としかいいようのない役柄だが、女にはもてる。ブロンソンがうらやましがっているのは、暗黙の表情から読み取れる。ブロンソンをアランドロンよりもかっこよく見せる映画だった。三船敏郎も狂言回しに使われてしまった。

第13回 2022年10月25

山猫1963

 貴族社会の崩壊を荘重な響きを伴いながら歌い上げている。バートランカスターの演技がいい。若い時は踊りの名手であったという設定が、甥のフィアンセを相手に踊る姿に結実している。ジャンギャバンや後年のジョンドラボルタがみごとな踊りを披露する姿を連想させるものだ。目をかける甥はアランドロンが演じるが、浅はかな現実主義者で、これとの対比でランカスターが際立っている。この貴族の末裔は押し寄せてくる時代の流れという宿命を、静かに抗うことなく受け入れようとする。長すぎるほどの舞踏会が終わり、ひとり歩きながら夜の街並みに消えてゆく後ろ姿で映画は終わる。それは同じくヴィスコンティ家という名門貴族に生まれたこの映画監督自身の姿だった。

第14回 2022年10月26

高校教師1972

 アランドロンの退廃ぶりが堂にいっている。はじめ野望に満ちた青年から演技をスタートさせたが、悪に染まりヤクザの世界に深入りし、孤独な殺し屋となって、世をハスに構えてみせた。その矛先が今回は教師にまで至ったのである。

 冬がれた陰気な町の高校に赴任した文学青年の成れの果ての姿がそこにはあった。コートを立てて歩く後ろ姿が人生を語っている。煙草をくわえながら教壇に立つ。アウトローに向けるあこがれは、ヤクザになることにはためらうが、こんな虚無感をただよわせる教師にはなれると思わせるものだ。ただアランドロンのようには絵にならないという現実はある。ピエロデラフランチェスカの絵が出てきて、これがフランス映画ではなくてイタリア映画なのだと気づく。

 あっけない幕切れはあっと驚くが、余韻を残す。妻のもとに帰るのか、恋人のもとに向かうのかはわからないままだ。浮気をした妻を許せないのに別れきれない。迷いが事故を引き起こしたとみるのが、矛盾のない解釈だろう。つまり本心は謎のまま浮遊している。

第15回 2022年10月31

悪魔のようなあなた1967

 フランスの名監督のひとりデュヴィヴィエの最後の映画。悪巧みは最後にはバレるという教訓譚である。女が共犯者を裏切るのはアランドロンのもつ美貌のゆえだったようだ。偶然に替え玉にされた記憶喪失者が、ことの真相を知り、女を裏切らせて、富を手に入れようとする。センタバーガーはセクシーだが、これまでのアランドロン好みの女性とは少し異なっている。フランス的アンニュイを感じさせる陰のあるほうがいい。


愛人関係1974

 アランドロンごのみ、あるいはこの時代が愛したミレーユダルクの魅力を引き出そうとした映画。愛を感じても肉体を求められると、狂気の殺人鬼と化す悪女のサディスティックな欲望の餌食となる男たちの愚かさが浮き彫りにされる。アランドロンは女をかばい続けるが、かばいきれないとわかったとき死を選ぶ。最後にピストルを向けるが、暗転したなかから聞こえた銃声はひとつだった。原題は「氷の胸」Les Seins de glace、冷血な心をもつ殺人鬼を暗示するが、愛人関係では誤解を招く。妻のいる弁護士がこの狂気に惹かれるという限りでは愛人関係なのだが、映画のジャンルから言えばラブロマンスではなく、サイコミステリーに属するものだろう。

第16回 2022年11月1日

太陽が知っている1969

 原題は「スイミングプール」La piscine、太陽が知っているでは何のことかがわからない。アランドロンが主役なら何でも太陽を題名に付けておけという安直な商業路線なのだろう。確かにここではプールが主役を演じている。プールのあるいなかの豪邸は、富の象徴でもあるが、殺人現場にもなる。文字通りスイミングプールと題した秀作もあった。プールに沈めたのに死体が消えてしまうというミステリー仕立てのフランス映画もあった。

 ロミーシュナイダーの美貌が輝きをはなつ。奔放な生き方を好むが、常識的な女性を演じている。手の届かない美女ではなく、身近に感じたのは、ラブシーンの最中に男の手が背中に回ったとき、背中を掻いてくれとせがむセリフだった。結末はいつものように曖昧模糊としている。ふたりはどうなるのかは、見るものが勝手に考えろという姿勢だ。殺人を犯したフィアンセを守り続けるのか。逃れようとしたのに引き戻されたというかたちだが、守ってやるというのも女のもつ不条理な母性本能でもあるのだろう。頼もしい頼りがいのある、しかも妖艶な美女だった。ロミーシュナイダーをまとめて見ようと思った。

 アランドロンがちょっかいを出す娘役を演じたのがジェーンバーキンだと知って驚いた。一時期熱心に音楽を聞いたことがあった。声だけを聞いていて、どんな顔をしているのかは知らなかった。レコード時代にはよくあることである。

第17回 2022年11月5

スワンの恋1984

 アランドロンはまだ主役をはずれる年齢ではないが、脇役にまわっている。プルースト原作というだけで敬遠するが、感情移入しがたい心理状態に戸惑いながらも、不可解な人間関係に興味をいだく。スワンとは白鳥ではなく人物名だが、白鳥を連想することを前提にした文学的タイトルである。欲情に身を持ち崩した青年の姿は哀れではあるが、恋とはそんなものなのだと、そのみっともなさがわからなくもない。アランドロン演じる伯爵は化粧をしているようで、これまでのナチュラルな魅力を逸脱している。途中で手鏡を出して顔を整える場面には困惑するが、ホモセクシュアルな中年男性の異形がうかがえる。美青年のたどる縮図であるのかもしれない。もちろん俳優だから男性でも化粧をして、不自然なものではない。

第18回 2022年11月6

チェイサー1978

 アランドロンはあいかわらす拳銃を手にしてはいるが、珍しく最後に死ぬことはなかった。アウトローではなく、政治家である友の死の真相を突き止めようとする一匹狼を演じている。ロンリネスはトランペットのジャズの響きに呼応しながら、心地よくサスペンスがスリリングに推移している。題名どおりカーチェイスがふんだんに盛り込まれ、娯楽映画として肩の残らない仕上がりになっていた。


友よ静かに死ね1977

 あいかわらずアランドロンは最後には死ぬ。原題はル・ギャング、銀行強盗の一味で、アランドロンは若いのにリーダー格で、手のつけられない不良だが、育て親に言わせれば、にっこりと笑うと何も言えなくなってしまうという魅力を持ち合わせている。家族の愛に飢えて、家庭的なものをあこがれていたようで、強奪事件から逃れる道すがらで、フィアンセに贈り物を贈りたいと宝石店に入ったのが運の尽きとなってしまった。

第19回 2022年11月7

フリックストーリー1975

 フリックはフランス語で刑事を意味する。今回のアランドロンは刑事役、ピストルを手にするという限りでは、ギャングと大差ない。ピストル以上にタバコを口にくわえる姿が、今では違和感がある。当時はごくふつうの小道具だったが、だれも喫煙していないのに、アランドロンひとりだけがタバコをくわえ続けていて、不自然な感じは残る。映画は時代を写すものだと実感する。そのうちに登場人物のだれもマスクをしていないのに驚くことになるのかもしれない。

 かっこよく絵になる刑事役なのだが、犯人を追いかける姿はさえない。屋根づたいに逃げる犯人を追うのだが、屋根に飛び移り損ねて、落下してしまうどじな姿が印象的だ。凶悪犯を捕らえるまでの話であり、実話に基づいているらしいが、刑事の語る手柄話よりも、すぐにエスカレートする極悪犯の寡黙が、不気味で緊張感を高めていた。特にレストランでの逮捕の瞬間は、食事時間を効果的に使いハラハラさせられて、フリックストーリーの醍醐味を伝えるものだ。

20回 2022年11月8

危険なささやき1981

 私立探偵役のアランドロンは、これまでのハードボイルドとは異なった印象を与えるが、実際に見てみると、内容はカーチェイスありバイオレンスありで、かなりはでな娯楽映画になっていた。フリックストーリーでもあったが、傷だらけのやられ役をユーモラスに演じるという点に、これまでのシリアスな演技を脱した茶目っ気も読みとめられた。

 ラストシーンの包帯だらけの姿にはクールな二枚目の面影はない。あえて自身のイメージを崩しにかかる涙ぐましい工夫とも思える。ライバル関係にあったジャンポールベルモントを意識してか、ベルモントならそんなに大騒ぎはしないのに、という恋人のセリフを聞いて、現実に引き戻されハッとする。ソフィアローレンの出たジョージキューカーの映画を退屈だと言う批判も飛び出したが、これもおもしろく聞いた。

 アランドロンの監督作品である。ヌーヴェルバーグの監督とも同世代だが、アート系の運動とは一線を画していたようだ。ベルモントがゴダール映画で名を上げたのをどう見ていたのだろうか,気になる。もちろんアランドロンも出発は巨匠が目をつけた。ヴィスコンティやアントニオーニなどイタリア映画を原点としたという点で、ベルモントとは対比をなす。

第21回 2022年11月9

フランス式十戒1962

 アランドロンをめあてに見ていてもなかなか出てこない。途中ではアズナブールが登場してくると、映画では小柄だが、シャンソン歌手としての舞台では大きく見えるのだと理解する。ひよっとして蛇に変身している悪魔役ではないのかと思ったとき、アランドロンがやっと出てきた。それまでの教会も含め俗世界の欲望を写し出したさまざまを見てきた目には、それは美しく天使のように見える。

 一人息子で、まじめな大学生の役だが、実の母でないことを父から知らされる。実の母に会いにゆくと、今度は実の父でないことを知らされる。くちやかましい母と寡黙な父に対する目は、それまでとはちがって、天使の輝きを見せていた。その後の役柄と対比してみると、アウトローの殺し屋に進化する以前は、悪魔は天使だったのだとわかる。

 対比的に当時のフランスではじまっていたヌーヴェルバーグが茶化されて描かれている。若い銀行員が強盗と金を山分けにしようとする話だが、ここでは天使は出てこない。ヌーヴェルバーグの主役は笑劇と化した道化役に甘んじている。監督は巨匠デュヴィヴィエ、日本のヌーヴェルバーグになぞらえれば、小津安二郎にあたるか。


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