第8章 ヴェネツィア派の興亡

風土アントネロ・ダ・メッシーナマンテーニャの空間/聖セバスティアヌス/マントヴァ/ジョヴァンニ・ベリーニ/ジョルジオーネ/テンペスタ(嵐)田園の奏楽/三人の哲学者ティツィアーノ/横たわるヴィーナス/悔悛するマグダラのマリア/ティントレット

第317回 2022年7月26

風土

 15世紀のイタリアはフィレンツェが先導して進んで行くが、15世紀後半に入ると、北イタリアにも画派が誕生する。出発はアンドレア・マンテーニャ(1431-1506)、遠近法を駆使した斬新な作品が光る。そしてマンテーニャと同輩のジョヴァンニ・ベリーニ(1430c-1516)によってヴェネツィアの風土にルネサンスが移植され、カルパッチオなどに受け継がれて行く。その後ベリーニ一家のあとを受けて、盛期ルネサンスを築くジョルジオーネとティツィアーノ、さらにマニエリスム様式を色濃く残すティントレット、ヴェロネーゼと続く。フィレンツェ派が線描を重視したのに対して、ヴェネツィア派は色彩を重視する。

 イタリアではフィレンツェとヴェネツィアというのが二つの大きな拠点になっている。ヴェネツィアは港町で、「ヴェニスの商人」(1594-7)というようなシェイクスピアの戯曲の舞台にもなっているし、その後で言えば「ベニスに死す」(1971)という映画でも知られるトーマスマンの文学の舞台にもなった。夏場に人が集う避暑地であって、ヨーロッパ各地から集まってきてそこで一夏をすごす。港町であることから地中海貿易で東のものが真っ先にヴェネツィアに流れ着く。文化だけではない、病気もここに陸揚げされる。ペストが流行ったりするとまずはヴェネツィアがやられてしまう。近郊のパドヴァには学問が発達し、医学が求められる。

 ヴェネツィアは北に行くとすぐにアルプスがあって、北方の文化がイタリアと交わる地域でもあった。フィレンツェで純粋にイタリア的なものが出てくるのに対して、ここでの北方的なものの導入はこの時代では油彩画に結実した。イタリアではフレスコ画やテンペラ画が知られるが、ファン・アイクによって改良された北方の技法である油絵が入ってくる。

第318回 2022年7月27

アントネロ・ダ・メッシーナ

ヴェネツィアに油絵を伝えたのはアントネロ・ダ・メッシーナ(1430-79)だとされる。このイタリア画家はシチリア島に生まれたが、フランドル画家に学び1470年代に没しているので、イタリアで油絵が描かれるのは決して早い時期ではなかった。この時期に開始されたイタリアでの油絵は、またたくまに普及していく。その後の流れでいうとレオナルド・ダ・ヴィンチではフレスコ画よりも油絵の方がうまく使いこなせるまでに至る。油絵と出会うことでイタリア絵画は大画面であると同時に緻密な表現も獲得し、あるいは空気の表現、透明感をいかに絵にしていくかという、油絵のもっている独特の発色に魅せられていくという流れを築く。考えてみれば後に印象派が空気を描くというような無謀な企てに至るのもまた油彩画という技法に由来するものかもしれない。

 メッシーナが描く油絵の光と影のコントラストの妙味は油絵ならではのものである。「受胎告知の聖母」(1476)では、少しひらきかげんにして置かれている聖母マリアの手にする本は、字が読めそうなところまで描きこんである。これもネーデルラントの伝統を受け継いだものだ。光沢のある油絵という画材が、それと融和関係にあるガラス工芸のメッカ、ヴェネツィアでいち早く受け入れられたのは、ゆえなき事ではない。ともに世俗的興味に目が向いた物質文化を写し出すのにふさわしいメディアだった。

「受胎告知」には興味深い解釈がある。ここでは聖母マリアだけが描かれていて大天使ガブリエルはいない。図像学ではこの二人がそろってこそ受胎告知なのだ。同サイズの天使を描いた一枚が見つからないので、天使は実はマリアに目を向けている鑑賞者なのだということにならないかというのだ。通常考えられるのはディプティークになった祭壇画だろう。聖母子が寄進者と抱き合わせにされて二つ折りになった家庭用祭壇画は、ネーデルラントに流行した絵画形式である。ここではマリアと天使の半身像が抱き合わされて、マリアが正面像なので、天使は側面像でマリアに顔を向けている姿が予想される。この一枚が見つかるまでは、マリアを見つめる私たちが天使の位置にいるという方が、解釈としては圧倒的におもしろい。こうした工夫はマニエリスム的でメッシーナの場合は少し早い気もする。

鑑賞者を巻き込むいわゆる「参加の文学」は、自画像を群像中で正面向きに置いて、鑑賞者に気づかせるボッティチェリラファエロの伝統から引き継がれているものだと考えることができる。レオナルドの「最後の晩餐」にしても、全員を一列に並べた不自然を、それを見る鑑賞者を同席させた構成だとみると、この解釈に同調するものだ。

ただ聖母は真正面ではなく目を少しそらせている。つまり私たちのほうを見ていないで、私たちのすぐそばにいるはずの天使に目を向けている。聖母に連結して左に天使を描いたもう一枚があり、両者はディプティーク(二連式祭壇画)を形成していて、扉を120度くらい開いたときに、私たちが受胎告知を間近にいて、真正面ではなく少し角度をもって見ているというのが、無理のない解釈だろう。

受胎告知の天使だけを単独に描いた例はある。その場合人差し指を天上に向けるのが特徴だが、これを洗礼者ヨハネとしたレオナルドの油彩画がルーヴル美術館に残っている。そこでは謎めいたホモセクシュアルな洗礼者が人差し指を天に向けている。救世主の訪れを告げるという点で、受胎告知の天使は洗礼者ヨハネに対応するものだ。同じポーズはレオナルドの手稿にも見つかり、ヨハネだと思って確認すると、背中に羽根をつけていて、天使とのダブルイメージのように、謎めいて見え出してくる。メッシーナには同じ構図でマリアの手を胸で組み合わせる作例も残されている。そちらのほうがアンジェリコに代表されるように、受胎告知を敬虔に受け止める定型であることを思うと、ここでのマリアの手つきは書物から目を離した一瞬というよりも、受胎告知をする天使の手のしぐさに近い。天使を介しないで神のことばが直接マリアの耳に伝わったという神学的論拠も考えられているが、造形上おもしろみのある解釈ではないようだ。レオナルドの洗礼者像に似た受胎告知の天使を描いた一点を見つけ出したい気になってくる。

第319回 2022年7月28

マンテーニャの空間

 ヴェネツィア派誕生に大きな役割を果たす画家がアンドレア・マンテーニャ(1431-1506)だ。彼は1448年にヴェネツィア近郊の町パドヴァで画家として独立している。これが北イタリアでの絵画運動の出発点になる。1453年にその後ヴェネツィア派を打ち立てるベリーニ一家からヤコポ・ベリーニの娘を妻に迎えている。

 マンテーニャの描いたものがなかなかすぐれていた。パドヴァという土地はかつてジョットがスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を描くが、それはイタリアルネサンスの基礎を築く名作であった。また彫刻ではドナテッロが、パドヴァで制作をしており、ともにルネサンスの重量のある構えをもったものであり、つまりルネサンスの本流を、マンテーニャ自身が身につけることになる。ことに彼は遠近法、そのなかでも短縮法を駆使した絵で知られる。それはいくぶん綱渡り的な様相を呈しており、人物描写もジョットやドナテッロの特質が、石や土の重厚さだとすると、マンテーニャは鎧に身を固めたメタリックな硬質さをもっている。

 遠近法はジョットの頃に比べると徐々に精密になってくる。マンテーニャの頃になるとギョッと驚くような空間づくりをめざす。ふつう絵の描きかたというのは、だいたいは観面(見る方向)に従う。人物でいえばエジプトのように顔は横顔、目は正面、胴体は正面から、足は横から見たという描き方である。これは一番描きやすい方法を用いたものである。しかし遠近法というシステムが生まれると、見える通りに描くことがはじまる。絵の上では遠近法的な描き方が人類史のなかで決して多いわけではなく、エジプト式の方が圧倒的に長い。

 絵画には人間のひとつの目で見える世界を描くルネサンス式と、エジプト式のあちこちから見たものを合成するというふたつの方法論がある。前者の場合当初は目の高さで描くが、そういう制約を外すと、下から見あげる方向や上から見おろす方向も登場してくる。真後ろから人物をとらえるというものももちろん出てくる。

 遠近法がじょじょにエスカレートしていく。マンテーニャの場合、横たわるキリストはふつう真横からその死体を描くが、彼は足元から描くという方向を思いつく。遠近法をいかに効果的に目だましとして用いるかということに苦心した。今見るとキリストの足はもう少し大きくならないとおかしいようだ。正確には写しきれてないのだけれども、アングルを変えることによって、今までにないインパクトを与えられるのだという、驚異的な空間づくりを意識的にやっていった。そこにマンテーニャの功績がある。遠近法のなかでも短縮法という面がそこでは強調された。

 人間のとらえる世界は、その視点をたとえ10センチでも下げることによって、全く世界がちがうように見えてくるというメッセージでもある。ふつう私たちが見る世界と、身長120~130センチくらいの子どもがとらえる世界は、全く同じものを見ていてもちがうように見える。ローアングルのカメラワークを特徴とした小津安二郎の映画術が欧米で高い評価を得るのは、こうした空間把握のルネサンスに共鳴したからだろう。

そういう不可思議な「見えること」そのものの神秘にマンテーニャは目を向けていったようだ。彼の一連の作品はそれをねらっている。今日では目だまし的なトリックとなるが、遠近法の探求をおもしろがってやっていった。全体的にはピエロ・デッラ・フランチェスカやウッチェロと歩調を合わせる興味が北イタリアでも出てきて、それがヴェネツィア派の出発点になる。

 マンテーニャの手がけた構図の後を継ぐのがジョヴァンニ・ベリーニ(1430c.-1516)である。ベリーニはマンテーニャの影響を受けるが、ヤコポの息子であり、ヤコポの娘を妻にしたマンテーニャとは義理の兄弟にあたる。年齢も同じくらいであり、同じ路線を歩むが、マンテーニャのものとベリーニを比べると確かにちがう。ヴェネツィアの風土がもっている特徴は、湿度の高い港町という雰囲気にある。もやがかかっているうるおいのある空間が、ベリーニの絵のなかに出てくる。確かにマンテーニャとは水蒸気の量がちがうようだ。これがフィレンツェなどには出てこないスタイルとしてその後ヴェネツィアに根づいていく。

 本来のヴェネツィア派は、ジョヴァンニ・ベリーニの後に出てくるジョルジオーネとティツィアーノによって大成されるが、まずはヴェネツィア派の源流からスタートしよう。

 マンテーニャの絵はヴェネツィアに向かう列車の少し手前、パドヴァにある。列車で15分ほどの距離だ。マンテーニャの絵は大きなものがあったが、第二次世界大戦でダメージを食ったりして断片で残されるものもある。ルーヴル美術館にはそうした断片の一部「キリストの磔刑」(1457-59)がある。キリストを中心にふたりの盗人がはりつけられている。ここでは奥に見える風景の描写と視点を低くして見上げるように描かれている点が特徴的だ。バックの背景にしても遠近感がふつうの目ではなくて、凸レンズででも見たようにまわりこんで奥に向かって遠ざかっている。変わった遠近感覚をもった作家だ。空に浮かぶ雲の表現もおもしろくて、よく見ると人間の顔に見えたりする。ダブルイメージをおもしろがってマンテーニャは用いている。

 さらにキリストの死を悼むマリアも顔をゆがませて泣いている。感覚的、感情的な表現が見られる。背後の人物は目の高さよりも下から見上げるような角度でとらえられる。パノラマ的な遠近感の強調も意図的に導入されているようだ。

 ロンドンにある「オリーヴ山での祈り」(1459c.)でも似たようなことはいえる。ゲッセマネの祈りを描いたもので、キリストがひとりオリーブ山で祈る姿を描いている。三人の弟子は寝そべっている。夜の光景だがずいぶん明るい設定だ。空間がまわりこむように奥に引き下がる表現方法は、先のものと同じだ。アングルも下から見上げる角度。上空にいる天使たちもそれによって効果的に見える。視線を低くして見上げるようにとらえることによって、今までにない世界の広がりを獲得している。

第320回 2022年7月29

聖セバスティアヌス

 マンテーニャをはじめとして聖セバスティアヌスが画題によく取り上げられる。ことにヴェネツィア派の画家のなかで多く現われる。この聖人がなぜそんなに多く描かれたのか。彼はペストに対して祈られた守護聖人で、港町というこの地には東方よりペストをはじめいろんな疫病が他の地域よりも早く伝わっていたという事情がある。当時としては原因がわからない病気であり、聖人に祈るしかない。たまたまセバスティアヌスに祈っていたときに直ったということがあったのだろう。そこからセバスティアヌス信仰が生まれてくる。

 「聖セバスティアヌスの殉教」の名で、矢が体中に突き刺さる姿が描かれることになる。しかし伝記によれば聖人は矢でいられて死んではいない。弓矢でいられるがそこでは一命を取りとめ、その後棍棒のようなもので撃ち殺されている。にもかかわらず身体中に矢が突き刺さる聖人が出てくれば聖セバスティアヌス以外ではない。なぜそんなに矢が突き刺さっているかというと、殉教の姿として見るからに痛々しいものだという点だ。男性の裸体表現に向けるサディスティックな興味をともなってもいたのだろう。そのために聖人は若者のみずみずしい肉体をもつことになる。美しいものが壊れていく崩壊感覚に美意識は働いていった。

 ところが身体中に矢が突き刺さる痛みは、実はペストの症状を表わしたものでもあった。身体が針で突かれるような痛みを皮膚感覚に訴えるものとして、ここでは両者が結び付けられたようだ。美青年に突き刺さる矢が数本なのに対して、ハリネズミのように身体中を矢がおおっているもうひとつの図像の系譜がある。この絵を見て痛いなと感じる感覚が、ペストの痛みと対応する。日本でいえば弁慶の立ち往生だが、黒澤明の「蜘蛛の巣城」(1957)で無数の矢が突きささりハリネズミのようになる兵士を描いて衝撃を与えた。西洋の視点ではこれがマクベスを下敷きにしたストーリーだっただけでなく、聖セバスティアヌスを思い起こしたにちがいない。

 マンテーニャの場合はそんなに矢の本数は多くはないが、この聖人を何点も描いており、なかにはノドから額にかけて矢が貫いているものもあり、ショッキングな図像であることにはちがいない。場面設定としては必ずしも古代の神殿ふうの建物の前で殉教したわけではないのだが、古代をバックにするものが定式化している。ちょうどキリストが鞭で打たれるときに古代ふうの円柱に縛られるが、それと対応しているようだ。それに加えてマンテーニャ独特のごつごつした背景描写も効果的だ。舗装もされていない道が背景に続いていく。上空の雲を見ると明らかにトリッキーに馬に乗る人間が浮かび上がっている。こういう雲はないだろうから意識的なダブルイメージが想定されている。

 狭いところに人物群を集めたインパクトの強い一点に「キリストの奉献」(1460c.)がある。プレゼンテーション(奉献)はアナウンシエーション(受胎告知)やヴィジテーション(ご訪問)に比べてあまり多くは描かれない画題だ。生まれたばかりのキリストを教会につれて行く。教会といってもキリストが生まれた頃の教会だから、キリスト教会ではない。寺院といったほうがよい。日本語では「宮参り」という方がわかりやすいかもしれない。そこでシメオンという名の神官に幼子をプレゼント(提示)する。

 ここでマンテーニャは上半身だけの人物をふたり、左に聖母子、右にシメオンを置く。それ以外に中央に人物を置いており、こちらに向ける鋭い視線が印象的だ。構図的におもしろい試みである。まわりは額縁のようになっていてマリアのひじの部分が額縁よりも手前に飛び出して見える。というかそういうように見せかけているのである。奥行き感覚のトリックに工夫をこらしているということだ。このやりかたはマンテーニャの独創ではなくて、北方からくる手法だ。ファン・アイクなどもこれ以前にこうした目だましを多用している。実際の額縁ではなく影をつけて描かれた額縁の絵である。この構図法はそのまま次のジョヴァンニ・ベリーニ(1460-64)に受け継がれ、そっくりの作例が残されている。

 マンテーニャの最もよく知られている代表作は「死せるキリスト」(1490c.)である。足元から見たユニークな視点である。このテーマもふつうは真横から描く方が描きやすいはずだが、従来の伝統をはずして突如こんなふうなものが出てくる。そのインパクトは当時きわめて強いものだったにちがいない。十字架から降ろされた後なので、足には穴があいている。手にも穴があき、胸にも槍の傷跡が見える。釘の跡を痛々しく見せる工夫としてもこのアングルは効果的だ。土に汚れたキリストの足の裏は、この時はじめて絵画の上で登場した。汚れた足裏のリアリティは、その後聖母子の前にひざまづくカラウァジオの羊飼いの足に引き継がれる。

第321回 2022年7月30

マントヴァ

 マントヴァにあるパラッツォ・ドゥカーレには、建築に付随して現存するマンテーニャのモニュメントがある。マントヴァは北イタリアにあり、ヴェネツィアから少し入りこんだところで、ミラノからも遠くはない。そこでマンテーニャのトリッキーな空間に出くわすことになる。カメーラ・デッリ・スポージに描いたフレスコ画(1463-74)である。それは天井がぽっかりと空いているような絵だ。天井に描かれるので、もちろん私たちは下から見上げることになる。今これを見て本当に空が抜けていると思うものはいないだろうが、当時の新鮮な目は驚きをもってこれを受け入れたにちがいない。

 天井のぬけた建物は実際にローマに行くとパンテオンという古代の建築がある。雨が降れば堂内は水浸しになる。天井の空は、パラッディオのオランピコ劇場でも体感できるが、これも近郊の町にある。これらはパンテオンを念頭においてつくったものだろう。ポンペイの発掘された邸宅を見ると、古代ローマでは中庭には池が掘られていて、中庭に向けて張り出された軒で囲まれた外観は、天窓の開いた大きなひとつの部屋のようにみえる。

マントヴァではキリストを足下から見たのと同じように、上方を見上げることになる。短縮法で描かれたながめは、手すりの外側に天使が何人かいて、それらがともにつま先を踏ん張りながら手すりにしがみついているのを伝えている。ちょっとまちがえば足を踏み外しそうな感じがする。いつ彼らが落下するのではないかという危機感さえ覚える。天使は背中に羽根があるので落ちることはないが、それでも落ちてくるように思うのは、重量感を表現するマンテーニャの力量に由来するものだろう。

さらには植木鉢があるがこれもつっかえ棒が渡されているが、あぶなかしい渡しかたで、いつ鉢が落ちてくるかもしれないという緊張感が漂う。手すりの向こうには下をのぞきこんでいる人物が何人かいる。平面的に見るよりも天井にあって下からのぞき上げることで臨場感が倍増する。この効果はマサッチオがブランカッチ礼拝堂で試みた、後ろ姿の人物が足を踏みはずすような臨場感を踏襲したものだ。

 マントヴァにはこのパラッツォ・ドゥカーレから少し離れてパラッツォ・デル・テがある。ここは時代が下がるがマニエリスムの頃にジュリオ・ロマーノによって描かれたさらにトリッキーな壁画があることで知られている。パラッツォ・ドゥカーレにもマンテーニャのものだけではなく、目だまし的なトリッキーな壁画がふんだんに登場する。天井に空と雲を描き、壁面の上方にはカーテンが引かれているように絵で描かれている。カーテンの陰からのぞく人物がいたり、見えるか見えないほどカーテンが引かれていたりという目だましを演出している。壁面の下方にはドアがあるが開かずのドアで、よく見ると壁に描かれたドアだとわかる。

 マントヴァにいくとこうした目だまし的なものとともに、洞窟を思わせるようなごてごてした室内装飾も目につく。マニエリスムになると庭園のなかに洞窟を人工的に造る趣味が起こってくるが、それと対応するものがパラッツォ・ドゥカーレに見られる。奇妙な生命感あふれるような造形に驚嘆する。

第322回 2022年7月31

ジョヴァンニ・ベリーニ

 マンテーニャのスタイルを一部受け入れ、一部異なった地点からジョヴァンニ・ベリーニ(1430c.-1516)の仕事がはじまる。「法悦の聖フランチェスコ」(1480-85)ではバックに見られる風景描写が特筆に価する。以前の風景描写についていうと、それは人物表現に比べてみると、力不足だったというのがイタリアの初期ルネサンスの印象である。しかし、ベリーニのものを見ると風景と人物が違和感なく結びついているという感じがする。人間も自然の一部であるという自然観がうかがわれる。人物と同じだけの力をこめて風景描写にあたる。主題になるのは聖人だがバックの風景が当時のリアルタイムで広がっているように感じられる。これがその後のヴェネツィア派につながる要素でもある。

 マンテーニャの絵のなかで、先述の「神殿への奉献」のように人間を半身でとらえるとらえかたが出てきたが、上半身だけをかなり大きくクローズアップして、風景とかぶせあわせるという構図法がある。それがベリーニに受け継がれ、ひとつのスタイルをつくりだしていく。ラファエロなどの聖母子像では頭から足まですべて描くが、ここでは足下を切ってしまう、あるいは上半身だけの聖母像を描く。ここでも聖母子がいてバックに風景が展開していくという点、しかもそれは季節感を感じさせる表情をもった風景である。

 フィレンツェ派の絵に出てくる風景では余り季節を伴うものではなかったように思えるが、ヴェネツィア派では、あるきまった時期、一年のいつかというのがわかるような絵になっているようだ。聖母子像のバックに出てくる風景がなかなかおもしろい。「牧場の聖母」(1505)では労働風景があり、牛が出てきたり田を耕していたりする。農村の田園風景がバックに展開している。聖母子像とそんなものとを結合する必然性はないのだが、どちらも力を込めて描いており、バックといってもただの背景だけではなくてそれなりに自己主張を開始する。ジョルジオーネが現われるのはもうすぐのところまで来ている。

 「ピエタ像」(1460)の場合も、ヴェネツィア派の絵画、とくにベリーニのものは特徴的だ。従来のピエタ像や、その後出てくるミケランジェロのピエタ像は全身像で、マリアがキリストをひざの上に載せて抱きかかえているのが定型だ。ここではキリストは、死んでしまっているのだが、立ち姿で現われる。半身しか見えないので実際は立っているかどうかはわからないが、立っているキリストをマリアが支えているように見える。右にはヨハネがいて三人がトリオになって画面が構成される。立ち姿のピエタはミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」(1552-64)に引き継がれるものだ。立ち姿は現実世界に根ざした造形だとすると、ヴェネツィアで展開したことはよくわかる。現実感あふれるヴェネツィアで立ち姿のピエタ像が出てきたのは興味深い。そこに彫像における坐像と立像の対比を読み取ることもできる。日本美術史で時代が藤原から鎌倉に変わると、座像だった阿弥陀仏に立像が増え出してくる。そこでも現実世界にめざめた新興勢力の美意識を反映している。

 マリアとキリストは親子なのだがしばしばマリアは若く描く場合も多いが、ここではキリストの母という意味合いが強く、年老いた姿で表わされる。痛ましく目を赤く泣きはらしているのは、かなり感覚的な描写であり、ヨハネも口をなかば開けて、呆然とするようすがよく出ている。ここでも三人の人物は上半身像で並べるが、バックには何でもない風景がリアルに挿入されている。

 油絵が北方から入りこんできて、丹念な質感の表現を可能にする。衣服のもっている毛織物の独特の感触や、目の輝きや肌のしわは、油絵が入ってきてそれを十分に把握していないと描けないものだ。人物の髭のふんわりとした感じはベリーニの特徴である。輪郭線をしっかり取っていくマンテーニャの硬質なものに比べると、柔らかなボカシと軟化が目につく。これはその後のヴェネツィア派の特徴ともなる。

 「聖なる寓意」(1490-1500)と名付けられる絵では、夢のなかの世界を描いたような、しかし何とはなしにヴェネツィアのもっている水蒸気あふれるような湿潤な土地感覚、港町の雰囲気がよく伝わってくる。

 カルパッチオやジェンティーレ・ベリーニなど、アカデミア美術館にはヴェネツィア派の一連の大作が並ぶ。ヴェネツィア派のものはカンヴァスに描かれた油絵が多い。中にはキリンなどエキゾティックな動物も見える。それらは東方よりいち早くヴェネツィアに入りこんできた珍獣のひとつだ。キリンはかなりリアルに表現できているので、実際に見ているはずだ。「アレクサンドリアで説教をする聖マルコ」(1504-7)では頭からヴェールをかぶった女性が列をなしているが、異国情緒とともに効果的な画面構成だ。

 カルパッチオに記せられるヴェネツィアの婦人を描いた断片が残るが、昔は美しかったのかもしれないが、いかにもその筋の女性だと思わせる世俗性が生々しい。ヴェネツィアという爛熟した町の象徴とも思われる娼婦の館を仕切っているやり手の女将を思わせるものだ。

第323回 2022年8月1日

ジョルジオーネ

 ヴェネツィア派は、ジョヴァンニ・ベリーニの後を受けて、ジョルジオーネ(1477/8-1510)とティツィアーノが出て盛期ルネサンスを形成する。イタリアのなかでヴェネツィア派はもうひとつの核である。フィレンツェに対してそれは対比的に語られている。フィレンツェ派が、形や線を中心に絵画を組み立てるのに対して、ヴェネツィア派は色を重要視する。

 ヴェネツィア派がめざした色彩絵画は、ルネサンスの考え方とはなじまないものである。色とは何か。それはいわば現実的なものだ。理想化していくと色はなくなっていく。レオナルドは理想主義の最たるもので、色は中間色で原色はほとんどない。人工化、現実化していく中から色が表に出てくる。

 マニエリスムが16世紀なかばに出てくると、フィレンツェ派のなかでも原色を多用するものがふえてくる。ヴェネツィアでも、ジョルジオーネからティツィアーノ以降という流れのなかで、フィレンツェでの動向に同調していく。ヴェネツィアには独自のエキゾティックで港町独特の雰囲気があって、そういう香りと暖かみのある色彩感覚がうまく溶け合って、ひとつの画派が確立してゆく。

 ヴェネツィアの特徴は港町という点にある。港町というのはどこでもそうなのだろうが、落ち着きのないざわめきが聞こえる、旅人の行きかう場所だ。現実感あふれる生の動きに、即物的に対応し、そこからものの形が決まっていく。そこには風俗的、世俗的な要素が底流となる文化が築かれる。「ヴェニスの商人」にみるように商人のもっている狡猾なまでの活気が、ここでの特徴となる。

 ヴェネツィア派盛期の出発はジョルジオーネという画家で、レオナルドがミラノに20年近く滞在していたときに、彼は恐らくレオナルドの影響を受けて仕事をはじめたのだろう。本人はジョヴァンニ・ベリーニの工房(アトリエ)に入って仕事をしている。その時後輩として入ってくるのがティツィアーノだ。二人はともにベリーニ門下の兄弟弟子である。レオナルド影響は、彼が何でもできる万能の天才を志向したことからもうかがえる。神話的に語り継がれている話のなかでも、1500年頃にヴェネツィアにやってきて、自分は潜水艦をつくれるのだという提言をしている。

 レオナルドがいろんなことをできますよというメニューのなかに、潜水艦製造もあったが、レオナルドの画家だけではない生き方に共鳴している。リュートの名手とか、歌もうまかったとかいう逸話も出てくる。レオナルドの風景画のもつ神秘的なうるおいのあるスタイルは、ジョルジオーネに引き継がれる。ところがジョルジオーネは早く没する。33歳でペストでなくなってしまう。レオナルドをあこがれながら、短命はラファエロのあとを追った。

第324回 2022年8月2

テンペスタ(嵐)

 ジョルジオーネ(1477/8-1510)の代表作「テンペスタ」(1505c.)は、ヴェネツィアのアカデミア美術館にある。バックで稲光がしている。謎めいていて主題はよくわからない。「嵐」というタイトルは、比較的早い時期につけられたものだ。その当時は宗教画がほとんどで、これも主題さがしではまず宗教画の図像学的な知識が導入されるが、ここでは宗教画ではどうもなさそうだ。裸婦が赤ちゃんに授乳しているポーズは聖母子を描くひとつの定形だ。しかしマリアが裸体で描かれているとすると奇妙なものに見える。目つきも怪しげだ。

 左には男性がひとり立つが、これも脈絡がわからない。何を一体描こうとしているのか。X線写真を見ると、はじめ立っている男のかわりに、もうひとり水浴の裸婦が出てきた。それを立った男にかえたということだが、そんなことをやれば主題はころっと変わってしまうはずだ。それならこの人物にははじめからあまり意味がなかったのではないか。X線撮影によって出てきた下図の発見は、絵画の制作法において、制作過程での主題の変更もあり得るということで、画家の自由の拡大を意味している。注文を受けて計画どおり完成させるのではなく、そこには生き生きとした生命感が画面に誕生する。

 そこで全体を見直してみると、目に飛び込んでくるのが、バックで光っている雷であり、それが画家のねらったところではないのだろうかと思うようになった。ここでは人物はいるけれども風景画として見る方がいいのではないかということだ。長らく風景は人物の背景でしかなかった。「嵐」というタイトルを早い時期からもらったということは、ここで表現しようとしているのが、やがて近づいてくる嵐の雰囲気にあったことを教える。稲光が相当遠くでしたときに、手前のまだ嵐になっていない場所でも、その予感めいたものが感じ取られる。嵐そのものではなく、嵐の前の静けさを描くのがルネサンスの本流だとするなら、遠雷は確かにルネサンスにふさわしいテーマだった。風景は人間に代わるテーマとなる。文学でも人間の物語なのに「嵐が丘」や「みずうみ」という小説がある。それらに先立ってシェイクスピアにも「嵐」(1611)という芝居がある。

 現存しないがジョルジオーネに「夜景(una nocte)」という注文記録も残されている。つまり主題は嵐と同じく大気現象にあるということだ。それは直前にペストでなくなったことを知らないパトロンからの依頼だった。気象や気候のある現象をそのまま絵のなかに雰囲気として描き出していくという試みが出てきた。これは風景画だと思うが、レオナルドがスフマートというテクニックで、バックの背景をかすませ、もやをかけるようなテクニックがまずあって、その考え方を引き継いで出てきたものなのだろう。

もちろん解釈の常道をはずれずに、旧約聖書や神話に典拠を見つけようという試みもあれば、政治的寓意を読み取ろうとする研究者もいる。当時ヨーロッパ中に流布したデューラーの影を見つけることも可能だろう。具象的解釈を放棄すれば、絵の具の詩だとすることにもなる。いずれにしても多様な解釈が提出されるほどに魅力的だということと、今までにはない新しい絵だということは確かである。それは旧来の教会や宮廷ではなく、新たにパトロンとなった新興の商人の美意識を反映し、風景画、静物画、風俗画を成立させる17世紀のオランダに先だつものだった。日本でいえば京都の町衆が支えた琳派の絵画を思い浮かべることにもなる。

第325回 2022年8月3

田園の奏楽

 現在ではティツィアーノ作だとされているが、ながらくジョルジオーネに帰されてきた「田園の奏楽」(1500-25)は、バックのもっている独特の雰囲気がある一作だ。ルーヴル美術館にあるよく知られた作品であり、ジョルジオーネの作は少ないので珍重されていた。コンセプトとして、雰囲気のつくりかたとしてはジョルジオーネふうな感じがする。ジョルジオーネがやりはじめて急逝ののちティツィアーノが完成させたと見る方がいいような気がする。ティツィアーノにとっても、このスタイルはジョルジオーネとともにジョヴァンニ・ベリーニの工房で学んだ成果である。

 田園のもっているたそがれどきの気分がよく伝わってくるが、それは嵐のテーマと同じく、人物もさることながら人物を取り巻く雰囲気や空気そのものがテーマになっているのだろう。バックで狩りをして岐路につく人物がいるので、たそがれどきの気分が浮き上がる。二人の男のほうは衣服を着ているが、なぜか二人は裸婦である。

 これを神話的な作品だとすれば、別に問題はないが、世俗的な意味からは奇妙な組み合わせだ。これがルーヴルにあったものだから、これに目をつけたマネは、そこから「草上の昼食」(1862-3)を生み出した。マネのものでも男二人は衣服を身につけるが、ひとりは裸婦である。マネが描いたときにはスキャンダルになったが、16世紀のヴェネツィアではスキャンダルになっていないし、ルーヴルにずっとあった時にもスキャンダルにはならなかった。マネが描くと非難ごうごうになったという話も不思議な気もする。

 なぜこれが非難されたのか。今ならこれはマネの代表作で非難の余地はないが、そのころは裸体を描いた神話画として置き換える必要があったということだ。生々しい現実がマネの一作では浮き上がって見えてくる。スキャンダルとは文字通り生々しい現実のことをいう。ここでの裸婦はヴィーナスのような神話上の女性でもなさそうで、男性はその当時19世紀後半の衣服を身につけている。それに対し女性も顔立ちとか髪の毛は当時の姿を取りながら裸体であるということで物議をかもし出した。ところが先祖がえりをしていくと、ポーズももとはラファエロの下絵による版画にある。きわめて正統な古典を引用しているのだが組み合わせによってスキャンダルになってしまう。スキャンダルによって近代絵画は存続したという限りでは、「草上の昼食」はエポックになる作品だ。マネの作品も今では風化していて、生々しくもない。スキャンダルよりも、その先に来る風化と、それを経た歴史的評価がマネのねらいだったのかもしれない。

326回 2022年8月4

三人の哲学者

 「三人の哲学者」(1510c.)とされるジョルジオーネの作品がある。これも主題についてはよくわからない。三人の哲学者とされるが、三賢人が出てくるとすぐに思いつくのが、宗教画では「三王礼拝」で、キリストが生まれて東方から三人の王が礼拝にやってくるという話だ。三王は三博士とも三賢人とも呼び換えられるので、ここでも宗教的主題と解される。しかしどこを探しても聖母子がいない。聖母子がいないのは、メッシーナの「受胎告知」(1476c.)で天使がいないのに似ている。三人はコンパスや書物をもっていて賢そうな顔立ちをもっているので、哲学者だということになった。何をやっているのかはよくわからない。老人、中年、若者という三人の組み合わせは、三王礼拝の王の年齢構成にも一致する。右半分に人物をかためてあとは風景であり、薄暗い洞窟もなにか意味があるのだろう。

 近年科学的調査が行なわれたが、X線撮影によってわかったことは、このうちのひとりが当初黒人だったということだ。三王のひとりはやがて黒人として描かれるので、ますますこの三人は宗教的ニュアンスを帯びることになる。洞窟はキリストが生まれた場所を暗示しているのだろうか。ジョルジオーネがあえてあいまいにしようとしている点がとても謎めいて興味深い。しかしそれならなぜ、彼ははじめに黒人にしていたのか。まるで20世紀のX線撮影を見越したかのように上書をして隠しこんだのである。

 ジョルジオーネの作品では珍しいが、レオナルドからの影響がかなりあっただろうという一点が「ユディト」(1504c.)だ。剣を持って自らが切ったホロフェルネスの首を足下に置いている。残酷な絵だが、顔立ちを見ているとレオナルドの女性像に類似している。

 肖像画も多いが、しわがれた老いを、普通でない観察眼で写し出したものもある。レオナルドにも類似のグロテスク人物像が多数残されているが、その後近代ではジェリコーが似たような資質を持ち、狂気にとらわれた人物を盛んに描いている。ジョルジオーネとティツィアーノの関係は、19世紀ロマン派のジェリコーとドラクロアの関係にどこか似ている。

第327回 2022年8月5

ティツィアーノ

 ジョルジオーネの跡を受け継ぐのはティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90-1576)だが、確かに作風は似ている。急死を引き継いでティツィアーノが完成させたというものも多いようだ。ティツィアーノはどういう人物だったか。レオナルドやジョルジオーネタイプとは異なって、ずいぶんと職業意識に長けていた。画家という職業がいつの時点から始まるかというときに、彼は画家が職業であるということを、自他ともに認めた作家だったといえる。

 伝記や残った記録を見ると、人間臭い人物だったようで、残された文書に出てくるのは絵の代金や賃金の取立てなどで、本人は金貸しまでしていたという。金銭感覚に長けていたようだ。レオナルドやミケランジェロが自由人で、金銭感覚にこだわりがなかったのと対照的だ。しかしその分ティツィアーノは仕事を受けたらきっちりとこなす。レオナルドなどは仕事をもらっていても、半ばでやめて未完成のまま放置して出ていってしまう。ティツィアーノはいついつまでに仕上げてくれという依頼が入ってくれば、仕事はきっちりとやる。

 一方で彼自身は技法上いろんな実験もしていて、晩年に近づくほど忙しかったせいもあるのだろうが、ほとんどドローイングをしないで直接カンヴァスに描いてゆき、そのなかで修正加筆を行なう。最終的には筆を使わずに、指で仕上げてしまっていることもあった。

 ジョルジオーネとティツィアーノのちがいを適格に言ってのけたのが小林太市郎の「つゆのあとさき」という文章だ。梅雨のあとさきには湿りと渇きがある。両者を夢見るようなヴィーナスのまどろみと、男を誘うような横たわる裸婦のいらだちの表情との対比と見て、性を交える前後、つまり露に濡れるあとさきの姿だというのだ。

 「眠れるヴィーナス」(1510c.)はジョルジオーネらしい作品だ。ティツィアーノの筆も入っているかもしれないが、二人のちがいははっきりとしている。全体が夢見るような雰囲気をもつのがジョルジオーネの持ち味で、「テンペスタ(嵐)」(1505c.)に代表されるように雰囲気と空気を描き出すという点に特徴がある。それに対してティツィアーノはテクニシャンであり、くっきりとした切れ味を示す。そこでは眠れるヴィーナスのもっているなよやかな肌の曲線と背景の山の峰が対応しあい、風景と人物が一体になってジョルジオーネ独自の雰囲気をつくりだしている。

 乳房のふくらみをよく見ていると山の峰に見えてくる。ジョルジオーネのスタイルは日本でも絵画理論のなかで展開されていて、明治のはじめの日本画で、狩野芳崖(1828-88)などはジョルジオーネのコレスポンドの理論を展開させていったようだ。「柳下放牛図」(1884)では前景にいる牛の背中の線と背後の山の峰がそっくりに描かれて対応しあっている。人間と自然とが一体化していくような自然観である。人体と山並みの一致はレオナルドの絵画思想を踏襲している。マニエリスム期に出てくる岩山と横顔のダブルイメージもこれに続くものだ。 

 ティツィアーノにジョルジオーネとそっくりのヴィーナス像がある。「ウルビノのヴィーナス」(1538)と呼ばれるが、そこでは謎めいた小道具が現われる。何が描かれているか不明のままだ。ヴィーナスが右手に持っている赤いバラの意味は何か。ベットの端にうずくまる犬の顔がくしゃっとしているのはなぜか。バックに後ろ姿で衣装ケースのようなものを開けている女性とその横に立つ人物は誰か。ここでは眠れるヴィーナスではない。ポーズは横たわっているが、目ははっきりと見開いた現実的な女性である。手はともに秘所に置かれるが、ジョルジオーネでは手をあてながら自然にまどろんでいるように見える。ティツィアーノでも同一のポーズだが、意図的に手を恥部に置いて男を誘っているように見える。みずからも刺激を求めてのことかもしれない。その現実感と小道具は、のちのマネが武器としたスキャンダルの小細工と同調している。

 夭折した才能の身の潔白を忍んで、あえて俗にまみれようとする兄弟仁義の心理がそこには読み取れる。この二人の関係を見るとき私はいつも菱田春草(1875-1911)と横山大観(1868-1958)のきずなを思い浮かべてしまう。大観はきっと晩年まで大酒を飲みながら春草の胸を病んだ青白い顔とふたりを育てた亡き岡倉天心を忍んでいただろう。

 ティツィアーノの時代のヴェネツィアは、高級娼婦が目立った頃で、土地を置きなおせば日本文化を陰で支えてきた花柳界ということになろうか。財界や政界、知的エリートや流行作家の相手をする。水商売ではあるが決して低俗ではなく、画家のモデルとしてもよく出てくる。世俗的な世界のトップスター、花形の女性たちだった。二人のヴィーナス像を比べてみると、夢見るような非現実なものと現実感あふれるものというちがいが、ジョルジオーネとティツィアーノの間にはありそうだ。

第328回 2022年8月6

横たわるヴィーナス

 横たわるヴィーナスの系譜はその後続いていく。ティツィアーノ自身がいくつものヴァリエーションをつくりだしているが、17世紀にはこのポーズがヨーロッパ中に転々と広がっていく。スペインの画家ベラスケスはヴィーナスを後ろ向きにして「鏡を見るヴィーナス」(1649-51c.)を描いている。顔は見せたいので鏡をキューピットにもたせて、顔が見えるようにしている。

 レンブラントはポーズとしては先ほどの横たわるヴィーナスを使いながら「ダナエ」(1636)という別の神話のテーマに変えている。差し出された手の表情が、拒否しつつも受け入れており、揺れ動く女ごころをみごとに写し出している。18世紀のワトーが描いた「ユピテルとアンティオペ」(1715-16)では、まるで横たわるヴィーナスをマルスが悪戯をしてヴェールを剥ぎ取る一瞬をとらえているようにみえる。ヒュスリでは「夢魔」(1781)として繰り返し同じポーズが展開していく。胸の上に夜中鬼が乗り、女は重苦しく悪夢を見る。ゴヤの「裸のマハ」(1799-1800)もその変形だ。

 ゴヤと同じ時期にダヴィッドも「レカミエ夫人の肖像」(1800)でこのポーズを用いている。マグリットはさらにこれをパロディにして、棺(ひつぎ)を横たわらせてシュルレアリスムを楽しんだ。見ようによれば、そこでの立ち上がろうとするしぐさは、棺桶から起き上がる「ラザロの復活」ともダブルイメージをなしている。

横たわるヴィーナスを踏襲しアングルの「グランド・オダリスク」(1814)を、さらにはマネの「オランピア」(1860)へと続く。「オランピア」も「草上の昼食」と同じで、スキャンダルになったものだ。ヴィーナス像としてなら問題はないのだが、当時の女性の顔立ちをもち、首にリボンをつけるのは当時の娼婦の目印でもあって、スリッパを履いているのも生々しく目にうつる。全くの裸婦像だったらいいのだろうが、こういう小細工をすることによって現実に引き戻されてくる。それが見ようによって下世話な感じがするもの、わいせつな感じがしたということだ。

第329回 2022年8月7

悔悛するマグダラのマリア

 ティツィアーノの生み出したもうひとつの定型として「悔悛するマグダラのマリア」(1565c.)がある。目を赤くはらせて涙を流し空を見上げながら改心するというポーズはティツィアーノが多用したもので、これがマグダラのマリア表現の定番となっていく。女性の顔立ちを下から見上げ、通俗的な感じのするものだが、マグダラのマリア自身は娼婦であったのがキリストと出会うことで聖女になっていくという話なので、適切なものともいえる。

 このポーズは代表作「聖母マリアの被昇天」(1516-8)でも見られるものだ。ここでは聖母マリアが上方を見上げ、上昇感のあるものだ。下のほうではマリアが上がっているのに対して手を差し伸べている弟子たちがいる。キリストはすでに天上にいてマリアを引き上げている。

 「聖愛と俗愛(1514c.)も謎めいた絵のひとつだ。どちらが聖なる愛なのかと一瞬ためらう。裸体の方が聖なる愛、衣服を着ているのが俗なる愛ということだ。聖と俗という言い方をすると、一方が良くて他方が悪いということになりがちだが、決してそうではない。ふつうなら衣服を着ているほうが良くて、裸体は悪だという見方も成立するだろう。愛は善悪の問題ではないのだ。愛というものを表現するのに聖なる愛と俗なる愛があって、良し悪しではないという世界観や人生観が問題で、それらはバックの風景とも対応している。田園風景の持っている聖なるイメージと、建物がたてこんでいる俗なるイメージが対比をなす。それはまるで早逝したジョルジオーネを追悼する理想的世界観と、ティツィアーノ自身の現実的世界観の対比のように見える。ティツィアーノからすれば、ジョルジオーネの清純と俗にまみれてしまった自分との自虐的な対比にもみえなくはない。

 「バッカス」(1520-3)はアリアドーネとの逸話で綴られるが、動きのあるポーズが印象的だ。異色のものとして、人物と動物の対応を示した奇妙な寓意画(1565-70c.)がある。ライオンと犬と狼だろうか。その後ヒュスリの時代にはラーヴァター(1741-1801)の観相学へと展開していくものだ。ライオン顔やキツネ顔というような、あるいは獅子鼻という語が伝える、動物のもっている相貌と人間の風貌との対応があり、いくつか分類して占いめいたものに発展していく。

 ティツィアーノは肖像画にも長けていた。もちろん職業画家にとってはこちらのほうが必須の領域である。衣服の質感はヴェネツィア派のものだが、ジョヴァンニ・ベリーニに先駆を見る。もっと先を行くと北方の油絵の伝統が入りこんでいる。騎馬像では「カール五世」(1548)の肖像が知られる。カール五世との関係が深く、神聖ローマ帝国によって多くの作品が購入される。フェリペ二世もその後スペインでティツィアーノのコレクションを持つ。ハプスブルク家がヴェネツィア派を愛したのは、フランス王家がレオナルドを手中にしたのに対する文化的対抗だったとみると興味深い。軍事面では神聖ローマ帝国がフランスを圧倒していた。

第330回 2022年8月8

ティントレット

 ティツィアーノの後に出てくるのがティントレット(1518-94)だが、これ以降は、大きな流れではマニエリスムに入れて分類する。彼はティツィアーノのもとに若者として弟子入りするが、10日ほどで師匠と喧嘩をして飛び出てしまう。ティントレットは染物屋の息子という意味のあだ名だが、この人はティツィアーノ以上にそろばん勘定に長けていた人で、自分を売りこむということでは、世俗的な欲望をもっていた。御用画家になろうとしていろんなテクニックを使って入りこんでいく。

 「スザンナの水浴」(1555c.)では禿げ頭のオヤジがふたりスザンナの水浴を覗き見している。その扱いはきわめて通俗的なものだ。「聖マルコの奇蹟」(1562-66)では極端な遠近法を多用している。マニエリスムの人工的でダイナミックなイメージが見られる。

 およそルネサンスがもっているレオナルドなどの知性とは全くちがう世界観の人物だった。ヴェネツィア派のもっている世俗的な面は、ティツィアーノが職業意識にめざめ、ティントレットが金儲けに走ったという経緯にうかがえる。このあとパオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)が出てくるが、この人もヴェネツィアの持っている世俗的な風物を風俗画に生かしている。ヴェロネーゼでは当時のヴェネツィアの宴席が描かれる。ヴェロネーゼの絵を見ればいかにヴェネツィアという町が繁栄していたかが見えてくる。宮廷の貴族文化というのではなくて、高級な庶民の文化、上層階級の商人たちの生活スタイルが映し出されている。

 宗教画の体裁を取っていても全くの宴会の場面であり、「カナの婚礼」(1563)や「レビ家の食事」(1573)は、その格好の主題となった。そこではキリストが出てくるが、そのまわりにいる人物はヴェネツィアのその当時の衣装を身につけている。キリストがひとりぽつんと浮いてしまっているようでもあり、宗教画からは大きく逸脱していった。

 ヴェネツィア派とその周辺で、その他同時代の画家として、忘れてならないものが何人かいる。ひとりはコレッジオ(1489c.-1534)、バロック絵画と見まごうばかりの構図法を駆使して天井画や油彩画を描く。「イオ(1531-32)や「ガニュメデス」(1531-32)は甘美な官能性を帯びた秀作だ。パルマという小都市での活動がこの画家を美術史の表舞台に出さなかったようだ。

 ロレンツォ・ロット(1480c.-1556/7)の描いた「受胎告知」(1534-35)はマリアが驚いている奇妙な作例だ。天使が急に現われたからだろうか、猫が逃げ出している。マリアの受け答えは上目使いで不思議なものだ。従来のマリアが右、天使が左という通例の構図は逆転されているように見えるが、位置関係は左右というよりも前後と見る方が正しいかもしれない。

マリアは正面を見据えているので前方に向かって進んでくるようだ。メッシーナの受胎告知での正面向きのマリアの扱いと対比して考えることができるが、マリアは天使に目を向けるというよりも驚いて逃げるという世俗性に解釈の信憑性が見いだせる。エルグレコの「受胎告知」(1600c.)も同じく聖母と天使の位置は逆転している。ここではマリアはしっかりと天使に目を向けているが、これも天使が手前、マリアが奥という前後関係と見ることができるものだ。マニエリスムの受胎告知は、90度回転させると、旧来の図像学に戻ることになる。このように聖母と天使を前後に配した受胎告知は、実はマニエリスムに先立ちティツィアーノに先例(1519-20)があり、そこではマリアが左手前、天使が右奥に置かれていて、通例の両者の左右の位置は逆転されていた。

セバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485c.-1547)の主題の扱いかたもおもしろい。「ピエタ」(1516-7)では、ふつうは膝の上にキリストは載せられるが、ここでは地面に横たわり、水平垂直に人物が配される。型破りの作品も数多く現われる。キリスト生誕でじかに地面に置かれる幼児の姿を連想させるものだ。ミケランジェロのピエタ像のように、聖母の老若をつうじて、キリストの生誕と死をダブルイメージとして交互にゆききさせる。

 こうしたヴェネツィアでの流れとともに、アルチンボルドやエル・グレコといった異色の画家についてもヴェネツィアが育てそこから旅立った画家として記憶しておかなければならない。彼らはスペインやプラハなどヨーロッパの周辺へと散っていった。ヴェネツィアは文化布教への発信港としてふさわしい町だった。とどまるには競争率が高すぎて、地方に活路を見つけたと見てもよい。


next