第3章 写実主義

万国博覧会クールベのレアリスム/現実は借用/目にみえる通りに描く世界の起源スキャンダル天使は描かない画家のアトリエ写真術との競合バルビゾン派ミレーと日本テーマではなくモチーフドーミエのスナップショット/マネの挑戦



第26回 2021年10月2

万国博覧会

1855年、パリで万国博覧会が開かれている。美術史にとって万博の役割は大きい。エキゾティックな文物が紹介されて、画家の題材も拡大していく。ロンドンやパリでは何度となく開かれ、最先端の科学技術が披露され、「クリスタルパレス」(1851)や「エッフェル塔」(1889)など大規模な建築物に結晶する。加えて今まで知られなかったいろんな地域から、農産物や海産物も含め驚異の事物に出会い、都会の市民たちがあらたな経験をする。

そのなかにはジャポニスム(日本趣味)も含まれる。中国からのシノワズリー(中国趣味)はすでに18世紀からあったが、そこに日本やインドネシアなどアジアンテーストが加わった。日本の浮世絵もそれにともなって入り込んでいく。もち出しやすさからは工芸品が手ごろだった。刀のつば根付印籠など徳川幕府名残の遺留品が、浮世絵版画を包装紙にして海を渡った。明治維新の胎動期にあたり江戸に培われた職人技はまだ息づいていた。

入り込んだのはモノだけではない。ヒトも含まれた。ジャワの踊りであったり、旅芸人の一座だったりした。日本からは腹切りのパフォーマンスも演じられ、断末魔の形相がロダンを驚かせることになる。その時の形相は目を寄せた「ハナコの首」(1908)をはじめとした一連の彫像に残っている。浮世絵から抜け出たような歌舞伎の舞台も期待される。豪華な歌舞伎衣装に魅せられて画家たちは歓喜した。エキゾティックがリアルタイムで受け入れられたのが万国博覧会だった。

それは目うつりのする驚異を見せるもので、じっくりと腰を落ち着けて味わうものではない。国際見本市の名で継承される見世物であって、俗性がまっさきに飛びつくものでもある。エンターテイメントの名でいまでも大衆的人気を誇るものだ。芸術が高踏的な方向をたどるときには、対立項としては有効だが、本来の芸術はあふれかえる世俗性をきらって成立したものだ。現代でもたわいもない時間つぶしを楽しんでいたテレビで、優れたタレント性に接し敬意は表するものの、下世話な金儲けの話題しか出てこないワイドショーのお笑いに、 うんざりとするときがある。1970年の大阪万博で潔癖な美術の前衛が、商業活動をきらい、排斥運動を繰り返したことが思い出される。

第27回 2021年10月3

クールベ(1819-77)のレアリスム

 新古典派とロマン派に続く第三の勢力として台頭した写実主義を、ギュスターヴ・クールベを中心に、ミレーやコローなどのバルビゾン派、パリの都会生活の現実を写したドーミエの作品を通じてさぐってみよう。写実主義でひとりだけ画家の名をあげろといえば、クールベということになるだろう。この絵画世界がそれまでの新古典派やロマン派の画家たちと、ものの考えかたとしてどんなふうにちがうか、作品として出てきたものにどういうちがいがあるかということだ。それぞれイズムを表に掲げて大きな運動をしはじめるということでは本来はない。新古典派にしてもみずからがわれわれは新古典派だといったわけではない。ロマン派にしてもそれは同じだ。ところがこの写実主義辺りから、自己主張をはじめ、自分の立場を主義の名で表明しはじめる。

 クールベが出発点になるが、その個性はどういうものだったのだろうか。彼が意志表明をする19世紀なかば、新古典派の巨匠であったのはドミニク・アングル(1780-1867)、一方ロマン派の巨匠はドラクロワだった。ふたりの回顧展が1855年パリの万国博覧会にあわせて政府によって行なわれた。その段階ではアングルとドラクロワが勢力的に拮抗しあいながら画壇を二分していたということになる。19世紀の出発時点では古典派の力が強かったが、その後ロマン派がどんどん力をもち出してきており、世紀なかばの時点で拮抗し、新古典派についてはアングルが最後の役目を果たしたということになる。

ふたりの回顧展をしり目に見ながら万博会場に向こうを張って、小屋を建てて自力で個展をした男がいた。これがクールベである。30代なかばアヴァンギャルドの旗揚げにふさわしい年齢だった。アヴァンギャルドは軍事用語で最前線の「前衛」を意味する。普仏戦争(1870-1)に先立ち、アヴァンギャルドは老いぼれていてはつとまらない最先端にいるにふさわしい年齢をさす語だった。アヴァンギャルドはゲリラではないという点では、正統派に属するものだ。

このとき個展(ワンマンショー)という形式もまたクールベから始まった。1855年のこのプライベートな対抗に拍手するものも少なくない。新旧対立があった。若い世代が今までの権威に対して反抗しながら、旗を振りかざした。味方をする人、応援だけでなくおもしろがって、今までの権威とは異なる第三の勢力を興味深く迎え入れた。アングル、ドラクロワ、クールベはそれぞれが主義主張を代表した三つ巴であった。

 クールベが掲げたイズムがレアリスム(写実主義)ということだが、どうちがうかというと、新古典派はギリシャ・ローマの古い時代をテーマにして描いており、そこで中心になるのは物語である。歴史画をめざして画家は絵を描かなければならない。衣装にしても古代風のゆったりとしたものを身に付けて時代錯誤にみえる。そういう登場人物が大勢を占めていた。日常生活でいろんなファッショナブルな服飾があってもそういうものはいっこうに登場しない。

ロマン派のほうも新古典派の昔から続いている物語は否定してはいたけれども、彼らにしても古い時代の古典派とは異なった物語から取材して、それをテーマに絵を描いている。どちらにしても文学的要素の強いものだった。それにたいして両者をともに否定したかたちで、自己主張がはじまる。

第28回 2021年10月4

現実は借用

 その主張のなかでクールベが考えたことは、まずはリアルなものを描くということ。リアルというのは難しい定義だが、現実にそこにあるものを描かなければならないという主張だ。さらに現実にそこにあるものだけしか描いてはいけないとも輪をかけた。それ以前のものは現実を描いたことにはなっていなかった。現実を描くということは道を行き来する人物であったり、何気ない風景であったりということだが、そういうものは今まで描かれてはいただろう。

今から考えれば不自然なように思えるが、現実をスケッチするということはあっても、モデルを使って歴史上の人物を描くのに借りてくるという点で、現実は借用でしかなかった。現実の風景も歴史風景を描く場合に引用されるものだった。そうではなくて現実の目の前にあるものをそのまま描くのが、絵画の王道ではないかということを、クールベは考えはじめた。風景画や風俗画と呼ばれているものを作りあげる素地をこの時点で主張したということだ。

 もちろん歴史をたどると17世紀にオランダで現実に近いものを描く絵画はあった。しかしオランダの場合は現実をそのまま写しているというよりも、そこに何らかの寓意や教訓を含ませている場合のほうが多くて、全ては意味をもった絵だと考えてよい。地平線の低いオランダ風景画は確かに目にみえる実景だが、オランダ独立を高らかに歌い上げる大地の賛歌という言外の意を含んでいる。ところがクールベの主張としては、意図を排して見たものをそのまま描くのだという。

現存しないがクールベの描いた「石割り人夫」(1849)があった。ふたりの労働者が石を割る労働風景だ。それは生活のために働いている労働者の姿で、当時社会主義的なものの考えかたが芽生えてきた時期であり、最初の社会主義の絵画だというレッテルも貼られることになる。その段階でメッセージ性の強い、労働者立ち上がれというふうにも見えなくはない絵として解釈された。それに対してクールベは実際に主義主張があってそういう絵を描いたのかというと、そうはいっていない。自分は目にみえる現実の断片をその通りに描いただけだという。

第29回 2021年10月5

目にみえる通りに描く

 何の思いもなくただみえるものをその通りに描けば、それですむのだという考えである。実際にそういうことがあり得るのか。たとえば過酷な労働をしている人をそのまま描いたり、その後カメラが出てきてスナップのシャッターを切る場合に、どれだけ作者の思いが込められているかという問題だ。カメラが純粋無垢な目になりきるということが、本当にあり得るのか。クールベの主張はイデオロギーやメッセージがなくても、目の前にある現実をそのまま写せばすむということになる。はたしてそうだろうか。

 クールベの残した逸話で興味深いのは、画家が遠くにあるものを、それが何かがわからなくてもみえる通りに描けば、識者がみるとそれが何かがわかるという話だ。これはその後の印象派の目の誕生を占うものでもある。純粋な目になるということは、知識を捨てるということだ。対象が何かがわからなければそれは色の斑点でしかない。通常は見分けがたいものに遭遇すると、人は自分の知っているものに置き換えて見てしまう。エルンスト・ゴンブリッチ(1909-2001)が著作「芸術と幻影」(1960)で繰り返し論証しようとしたことだ。

しかしとりあえずみえるままにとどめておくという判断はある。遠くに飛ぶのは鳥か飛行機かがわからないとき、絵の具の斑点を、みえるままに転じて置くという処理になるだろう。この操作は外国語の翻訳を解釈を加えて意訳するのではなく、機械的に直訳にとどめる操作に似ている。それは翻訳しきれない不甲斐なさの告白ではあるが、誤訳を犯さないための最低限の謙虚さでもある。ダダの意味をなさない詩や本人でも説明し切れない難解な論述を前にすれば、この方法しかない場合も少なくはない。解釈をしないというラジカリズムがクールベから印象派へと受け継がれた観点ではなかったか。

 同じようなやりかたで労働者だけでなく、今まで描かれてこなかったようなものを描きはじめる。クールベが繰り返し描いた「」という秀作があるが、海岸に打ち寄せる波を大きくクローズアップした作品だ[i]。もちろん西洋では今まで波は背景に描かれることはあったが、ここまで大写しになって主役になることはなかった。

あるいは森に入り込んで鹿が捕われようとしているところや、セーヌ川のほとりで寝そべっている娘を描いた話題作「セーヌ河畔の娘たち(夏)」(1857)もある。そこではうら若き女性が、スカートの裾を乱してだらしなく寝そべっている。しかし実際にはこんなふうにして寝そべっている娘もいるはずで、それが目にみえる現実だ。ところが今まではこんなものは絵にはならなかった。

絵というのはしっかりとポーズをとって画面のなかに構成するものだとされていた。いかにも若い女性のもっている半面をえぐり出したようにみえる。しかしクールベ流にいえば目にみえる現実をそのまま描いたということになる。それは今までになかった絵画が出てきたことに対する驚きだが、その驚きはかなりスキャンダラスな要素をもったものとしてみえる。今までは絵画には決まった型があったが、その型を外すことによって生身の肉体がどっと表に出てくることになる。新しいジャンルの絵がクールベによって開始される。


[i] 「クールベと海―フランス近代 自然へのまなざし」2020年12月19日(土)~2021年2月21日(日)​ふくやま美術館

30回 2021年10月6

世界の起源

 そのなかには今まであまり表に出なかったかなりエロティックな作品も含まれる。女性同士の裸体での抱擁を描く「眠り」(1866)であったり、女性の性器を大写しにして「世界の起源」(1868)と題した作品もある。それらはショッキングな卑俗といい換えたほうがよい。実際には目にもふれているのだろうが決して絵画では描かれなかったようなモチーフをあらわに出していったというのが特徴だ。

かなり戦闘的なスタイルをとりながら権力に仕掛けていったといってよい。浮世絵の春画が背後にあると見ることが可能かもしれない。大量にもたらされ秘蔵されていたにちがいない江戸の春画のおおらかさを前にしたフランスの驚嘆を、そこに見いだすこともできるだろう。

 「世界の起源」は今ではクールベの紹介で真っ先に出てくるようになったが、以前は春画と同じく隠されていた。オルセー美術館では常設されるが、2008年にニューヨークでクールベ展に出くわしたときは、大作の裏にひっそりと隠されているのを見つけることができた[i]。今では春画とともにみんなで楽しむ秘密の共有となった。所蔵歴をたどると個人の楽しみのために注文制作され、旧蔵者のひとり精神分析で知られるジャック・ラカン(1901-81)の場合も別の絵の裏に隠していた。

もちろんリビングに飾るものとは考えがたいが、レアリストたるクールベにとっては「世界の起源」と「波」は同一のものだったような気がする。世界をクローズアップしてじっと見つめていると、ともに息づくような生命の躍動をそこに感じとることができる。クールベのスキャンダルに輪をかけるように、「世界の起源」の流転をめぐって、モデル探しをはじめ実証研究もスキャンダラスに展開している。クールベのレアリスムは、やがてそこにモザイク処理がされるようになる日本の映倫を引き合いに出すと、絵画史の逆行のようにみえてきて興味深い。

世界の起源に顔がないのは、波だけで海が見えないのと対応している。世界の起源に顔がないからといって驚くほどのものではない。首のない彫刻は二〇世紀ではトルソーの名で定着している。著名写真家の歪んだヌード写真でもしばしば登場するものだ。下半身だけなのに世界の起源が誰かはのちに特定されたが、同様に波だけでどこの海かを実証するのが美術史家の興味になる。スキャンダルへと陥った絵画史を反響している。

もちろん首のない死体を特定するのは、殺人事件にとっては重要なことだとすると、どうでもよさそうに思えるおせっかいな実証精神は否定できないものとなる。波の絵は繰り返し描かれているが、世界の起源は今のところ一点限りのようだ。波の絵は好まれて多くの注文があったということだろう。ゴヤのマハが着衣と裸体で重ね合わされていたというエピソードを踏まえて、波の絵の裏側に世界の起源が隠されている光景を思い浮かべてみる。これに比べたとき江戸の春画のおおっぴらな量産が、対比的に見えてきて興味深い。

 それではクールベがモチーフとして選び出す基準は何であったのか。思想や理念に対抗するものとして「美的直感」という語が思い浮かぶ。感性的認識の学としての美学が成立したのちの時代であれば、それはレアリスムにとってたのもしい論拠となっただろう。感性はもちろん本能に根ざしたスキャンダルの俗物性に向かうことになった。それは生々しいスノビズムを愛することであり、細事をことこまかく聞き出して暴露するジャーナリストの誕生をうながすものともなった。


[i] 「クールベ展」2008年2月27日~5月18日 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

第31回 2021年10月7

スキャンダル

目に見えるものを、知識を捨て思想を排して求めると、刺激の強いものになるのは当然で、物理的に色彩が目に飛び込むのでなければ、スキャンダラスなテーマに向かうしかなかった。スキャンダルを暴き出していくような、今日の芸能レポーターのような方向に一方では進んでいく。鍵穴からのぞくような感覚は、ロココ期のプライベートルームでの秘め事を描いたフランス絵画の伝統を踏襲してもいる。新古典とロマン派が否定したロココが復活してくる。みんなが知ってはいるけれども、これまで絵にはならなかったものは、現実世界を探せば山ほどある。これが写実主義の可能性であり、強みであった。

 そこでは古代風の衣装なども偽物だというわけで、実際には古代のギリシャやローマの人たちが彫刻をつくったのは古い時代のものをつくっていたわけではなくて、当時のローマ人が着ている衣装をそのまま使っているに過ぎない。それをどうして19世紀の人間が、現代の衣服を描かないで古代の衣装を身に付けた人物ばかりを描いているのかという、素朴な疑問が起こる。これはクールベのいうほうがたぶん正しい。今の現実を描かなければならないという方向に大勢としては動いていく。もちろん写実主義文学も同調し、社会の底辺に生きる人たちが、生々しいリアリティをもって登場する。

 衣装に関してそういいながらも、クールベは矛盾を抱えている。クールベはルーヴルに学んだが、そこで「模写」することはレアリスムだったはずだ。創作では否定された古代の衣装を身につけていても、模写でなら現在を見えるままに描いたものだった。クールベは美術学校で学ぶアカデミズムではないが、模写から学ぶ古典主義者ではあったようだ。

15世紀のフランドル絵画を見ているとキリストの登場は1500年後の日常生活での話になっているが、不思議とも思わない。さらに写実主義の精神が加速したハリウッド映画ではクレオパトラもベンハーも英語をしゃべっているが、これもそんなものかと容認している。古代エジプトも古代ローマも、アメリカの遺産となって、現代に受け継がれているという自負の表明ともいえる。

アメリカ映画に出てくる日本人は多くが英語を公用語としている。クールベを境に、歴史画を頂点とみるアカデミックな絵画のヒエラルキーが崩れはじめた。現代の日本でも、まげを結わない時代劇のほうにリアリティを感じている。字幕で外国映画を見続けてきた日本のほうが、感覚を麻痺させてしまっているのだ。映画を見るのに映像美も演技力も棚上げにして、文字ばかりを読んでいる。映画は文学ではない。イメージを見ないで文字に頼るのは、オランダの風土に根ざしたプロテスタンティズムに由来するのなら、江戸時代より引き継がれた文化的伝統だったともいえる。

第32回 2021年10月8

天使は描かない

19世紀後半は「写実」がキーワードとなる。クールベのモットーは「私は天使は描かない」ということだった。背中に羽根の生えた人間は見たことがないからというのが理由だ。目にみえるものしか描かないという宣言である。今までも背中に羽根のある人間など信じないが描いてきた。天使を描かせたかったら背中に羽根の生えた人間を連れてこいというやり取りには、クールベの戦闘的な気性の激しさがうかがえる。

クールベの自画像「絶望」(1843-5)が残されている。端正な美男子であるが、目をむいて激しい表情を浮かべて、見るものに向かって迫ってくる。舞台役者の演技の練習のように芝居がかっていて、鏡を前にして狂気を演じる画家の姿が想像できる。

写実主義は対象に向かって、客観的な冷静な目を要求するものだ。それをマニュフェストにかかげるにはクールベはあまりにも主観的で、強烈な個性の持主だった。興奮する人を前にして、その人以上に興奮しながら、冷静になれと訴えているような人だったように思う。写実主義であってもなくても、社会が問題にしたのは何を描くかだった。だからクールベを社会主義者とみるフィルターが成り立った。クールベがそれを否定したとするならば、労働者もレズビアンも波も自画像も同等だったということだ。モチーフが何であれ、共通するものがあるとすれば、それが絵画になる。見えるものしか描かないということは、見えるものならなんでも描くということだ。そうでなければクールベは労働者ばかりを描く社会主義リアリストとなっていただろう。

さきには芸能レポーターにたとえてみたが、すべての時事的事件に反応するジャーナリストの好奇心をそこに認めることができる。それは当時のトレンドとなる新生の職業だった。そこではイズムのフィルターを通して色めがねで見ないことがめざされた。淡々とした語り口は、モノの表層をとらえるが、見るほうはいつもそこに筋書きのないドラマを見つけ出そうとするものだ。その点では新古典とロマンの否定をも無に帰するものとなる。ただ語り手としてはドライな目をもつニュートラルな、それでいて汎用性のある新人類の誕生だったのだが、一般にはただの変人にしか見えなかったかもしれない。

第33回 2021年10月9

画家のアトリエ

目を引くためにいろんな手管を用いながらメッセージを発していく。これがそれ以降の美術運動のスタイルになった。スキャンダルを演出し、あっと驚かせる。美術はもはや美が問題ではなくなってきた。これまでは美を追求するものであった。新古典派のめざす美と、ロマン派がめざす美はちがっていたが、ともに美を問題にしていたはずだ。それが必ずしも美しいものを描く必要がなくなってくる。

そこからリアルという概念が誕生する。リアルな現実世界は美しいものばかりではない。現実に目を向けろという指示が聞こえる。はきちがえるとのちに社会主義リアリズムが前衛絵画を排斥してしまうことになる。醜いものも含めて、迫ってくるようなものがあると、それは美に置き換え可能な強い要素となる。

スキャンダルという、話題になるものが重要な役割を果たす。そういう見せかたをあえてしていく。クールベのワンマンショーは話題性のあるパフォーマンスだった。やり口だけでなく、画面に今までになかった新しい試みとして「画家のアトリエ」(1854-5)を展示する。プライベートというにはあまりにも大きすぎる。クールベ自身が登場し、大画面に描いた集団肖像画といってもよい。

ダヴィッドの描いた「ナポレオンの戴冠式」(1807)のように、大勢の人々が集まる絵にはちがいない。中央にはクールベがイーゼルの前に座り、かたわらにはなぜか裸婦がいる。画家が描いているのは風景であり、ヌードモデルと対比をなす。ともにクールベのめざす写実主義の二本柱だが、ヌードは画家のアトリエという断りがなければスキャンダラスな光景だろう。

少し深読みをしてみよう。絵の前には純真な少年が描きこまれているが、見あげる視線から興味はクールベが筆を動かす風景画にはなく、裸婦にあることに気づくと、絵はますます通俗的なリアリティを帯びて見え出す。このことはすぐには気がつかない。少年があからさまに裸婦を見ていないという点に、リアリティが加速して見える。

なぜこんなところに少年がいるのかという疑問が出発点だ。風景と裸婦の選択を強いられているとみれば、となりに描かれた犬が意味をもって見えてくる。並べて子犬を置いているのも、無垢な魂のもつ俗物性をはかりにかけているのだと気づく。犬のじゃれつこうとしているのは、前足のようにもみえるが、犬の好物としての骨のようにもみえる。つまり犬は風景にも裸婦にも興味はない。

ちらっと横目で盗み見るというのが、クールベのレアリスムの醍醐味である。そんな目でみると画家のアトリエには、よそ見をする落ち着きのない視線が見つかっていく。主要な登場人物はクールベの残した書簡からわかっているが、右端に見向きもせずに読書にふけるのがクールベの支援者のひとりボードレールであるのも暗示的だ。犬と同じく裸婦には興味はない。

クールベの作品にみる大作主義は、サロン出品を前提とした当時の因習を継承している。ロマン派において新古典主義に対抗するためには、同等のサイズで並列することが条件でもあった。現在ルーヴル美術館に並ぶドラクロワの諸作品は、堂々として新古典主義の画家たちとの同列を主張している。スキャンダラスな光景を驚異的なものにみせるには、プライベートサイズを上回る公的基準に乗り合わせている必要があった。クールベもまたこの事大主義を踏襲した。今ではクールベの意に反しオルセー美術館に展示され、ルーヴル美術館のダヴィッドやドラクロワの大作と並べて見ることはできない。

第34回 2021年10月10

写真術との競合

クールベが単なるスキャンダルを演出する画家にとどまらなかったのは、「波」(1869)など自然に向かう目であり、その視覚はバルビゾン派と共有するものだった。同じ画家が描いたとは思えないが、これもまた写実主義だ。海辺に行けば波はあるが、波だけをクローズアップして描く。今までは「海」というテーマで描かれはしたが、波というつねに動き続ける現象が絵にはならなかった。今なら写真でのスナップショットで、ダイナミックなうねりの瞬間は、簡単に実現可能だ。

クールベの波に半世紀先立って、北斎が波だけを間近にみて、「寄せる波と引く波」(1815)を横長に上下に並べて描き分けている。「神奈川沖浪裏」(1831)に先立つ北斎漫画(二編)のひとこまだ。遠目に富士山を置いて誇張がすぎ、シュルレアリスムに至った話題作と比べると、観察にもとづく写実主義者の目が感じ取れる。もし彼らが北斎を見ていたとしたら驚嘆したにちがいない。

もちろん当時のフランス画家はそれを見ることのできる立ち位置にあった。動植物や人のしぐさを満載したポーズ集はきっちりとページに収まっているが、途中に挿し込まれたふたつの波は、見開きで断ち切られ、画面をはみ出して、まるで命を宿らせたようにこちらに向かって迫ってくる。そこにはクールベと通底するものが確かにある。もちろん北斎の和綴じは開かないと目にすることはなく、タブローの開放感にはおよばない。

のぞき趣味的な写実主義の視角は、写真術の発明と連動している。過去の歴史を写真に撮ることはできない。写真で撮る世界はいつも「いま」であり「ここ」でしかない。今の衣装を身に着けて過去を描いた絵画に対して、昔の衣装を身に着けても写真が写すのは今だった。写真は歴史画にはなれない。そんな古い時代に、写真術はなかったからだ。過去を装った今だと誰もが見破ってしまうのだ。写真というメディアの誕生は写実主義と密接に関係している。メディアの誕生はいつも人間の欲望の産物である。現実を見たい、切り取りたい、残したいという三つのプロセスを、簡便に実現するメディアを模索してきたということだ。

どちらが早いかを探るとき、クールベが絵画制作に写真を利用していたという事実に出くわすと、写真に軍配は上がる。しかし写真が波を写すには、まだまだ時間はかかるし、色もついていないし、サイズも小さく、現実からはかなり隔たっていた。リアリティという点では、一瞬の時間を止める絵画に勝因はあった。クールベは写真を利用しながら写実主義を徹底させていったと見ることができるだろう。

17世紀にフェルメールがカメラオブスキュラ(暗箱カメラ)を利用したときと同じく、写真が絵画を乗りこえるにはさらなる時間が必要だった。フェルメールはカメラの原理を通じて、「ちょっとピンぼけ」のリアリティに気づいた。固いパンの塊が少しぼかされて、それによってできる光の粒が輝いている。キャパのカメラは、フェルメールの視覚を受け継いで、戦争写真の臨場感に応用した。リヒターはピンボケ写真を手描きでまねることで、さらに写実を極まらせることになる。

大きな暗い部屋をつくって、壁に点じた針の穴から入った光が、対面する壁に焦点を結ぶ。戸外の風景が逆さになって映っている。紙をあててそれをそっくりにトレースしはじめる。単純な作業だったが、出来上がって逆さになった風景をもとにもどすとみごとな手描き写真ができあがった。これがフェルメールの気づいた絵画のリアリティではなかったか。影の輪郭をなぞることからはじまった絵画の歴史が、ここで進化している。針の穴から入る光は、洞窟壁画を描く原始人の灯火に対応する。ちがうのは見える通り描いている実像か、覚えているものを思い出しながら描く記憶像かという点だ。

しかしこの対極にあると思っている写実と空想は、つまるところ同一であるのかもしれない。ともに壁に映ったイメージを忠実になぞったのである。壁は目をこらして見ていると、明るいなかでは見えないものがみえてくるはずだ。それは画家の頭のなかにあるものと思いがちだが、複数の人間が同じように見えるとすれば、頭のなかにではなく、壁のなかにあったものといえる。たぶん同じ育ちかたをした人種には、同じように見えるはずだ。

目にみえる通りに描くというスタンスが、当時連動して写真術の発明を導いた。目にみえる通りはカメラが得意とするところで、それを最初は絵で描いていた。目にみえるものならカメラのほうが目より正確にとらえることができるという科学の目が開発されていく。目にみえるものを描きたいという方向がなければ、カメラの発明はなかっただろう。いつも発明は人間の欲望の産物だといえる。

カメラのとらえた世界をもっと写実的にしていこうとして印象主義が生まれる。印象主義もモネに至ると光の洪水になるが、それは目に直接入ってきた写実世界のことだった。リアリティの塊といってよい。リアリズムというのは光に対して人の目がどう反応するかというのが原点で、そこに物語があるかどうかは、もはや問題にはなってこない。どんな場面であっても光の強弱だけが目に刺激となって飛び込んでくる。それを物語として把握するのは人間の脳であって、単純な目の働きとは異なる。

クールベの画題が多岐にわたるのは、主義を棚上げして目の人に徹したからだ。絵になるモチーフが増えたのは、カメラの目になって、見えるままに描きはじめたからだった。これまでは恥ずかしくて描けないものも、これによって可能になった。見えるものしか描かないというのはこういうことだ。

第35回 2021年10月11

バルビゾン派

 リアリティに向けるクールベの主張を、風景の領域で広めていったのがバルビゾン派ということになる。バルビゾンというパリ近郊にある小さな村に住み着いていた一群の画家たちがいた。コロニーという名の芸術家村を夢見て、移り住んでいった。農作業をするのが目的ではない。絵を描くのが目的だった。日本ではこれを理想として、大正期の「白樺派」の文化人たちがあこがれた。ミレーとコローが日本ではよく知られるが、明治の初期にお雇い外国人として来日し、日本の洋画家たちを指導したアントニオ・フォンタネージ(1818-82)も、バルビゾン派の影響を受けたひとりである。

フォンタネージがバルビゾン派と並ぶことはあまりないが、並べても違和感はない[i]。それは工部美術学校に学んだ明治初期の洋画家たちがバルビゾン派の末裔だということであって、大正期に入って起こってくる白樺派のミレー好みの発端を築くことになる。浅井忠(ちゅう)(1856-1907)や小山正太郎(1857-1916)の描く風景画にはノスタルジックなバルビゾン派の残響が聞こえる。多くは共通して田園風景を描く。先に見たロマン派の風景画家ターナーとコンスタブルからの系譜にある。

フォンタネージの貢献は17世紀フランスのプッサンに似ている。日本に西洋画を根づかせて、すぐれた後進を産み落としたという意味でだ。フランスに呼び戻されたプッサンが二年で愛想をつかして帰国したように、フォンタネージも短期間だったが、それでいて絶大な影響を与えた。イタリア人だったということは日本が美術を古典主義からスタートしようとしたことをうかがわせるが、世界の主権は、すでにローマからパリに移行していた。その後、黒田清輝(1866-1924)が印象派をひっさげてフランスから帰国し、フォンタネージ残党を排除し日本での西洋画のアカデミズムを築いていく。

バルビゾンにはパリという大都会が巨大化し、住みにくくなってくる実情が背後に横たわっている。パリの喧騒を離れて、そこでは田舎に行ってほっとするような場所が求められていく。バルビゾンもパリからそう遠くはなくて、日帰りで行ける地域だ。大自然の人が住まないような驚異を求めるのではなくて、十分に都会に近くてちょっと気晴らしに出かけるような場所を対象にして絵が描かれていく。ロマン主義と写実主義の差はそこにある。これはたぶん都市生活に対する反動として出てくるのだろう。パリがどんどん住みにくくなる段階で出てくる。「郊外」という概念の登場は、都市化と連動している。今ならベットタウンという語も通用するだろう。

バルビゾンとヴェルサイユを地図上で見ると、パリからの距離が見えてきて興味深い。バルビゾンはヴェルサイユとパリの距離より三倍ほど離れている。これが17世紀と19世紀の差だが、ともに大都会から逃れたいという点で共通している。もちろんヴェルサイユが騒がしい時代は、逆にパリが喧騒を避ける憩いの場となった。モネが愛して住み着いたジベルニーは、パリとバルビゾンの距離に等しいが、方角を逆に取って西に向かったのが興味深い。やがて鉄道旅行の発展は、方位を南に取り、南仏まで足を伸ばすことになる。


[i] 「黄昏の絵画たち 近代絵画に描かれた夕日・夕景」2019年09月04日~11月04日 島根県立美術館

第36回 2021年10月12

ミレー(1814-75)と日本

ジャン=フランソワ・ミレーは日本人の好きな名だ。フランスでの評価に比べて、日本とアメリカでの人気は高い。山梨県立美術館がミレーに目をつけて日本経済の絶頂期にドル減らしの目的で購入した。プライベートコレクションではなくて公費をつぎこむ限りでは、名目は確かに必要だし、ミレーには納得させるものがあったということだ。それはミレーの描き出した素朴な農村の印象や、都会からそう遠くはない田園都市の表明だったかもしれないが、当時このドル減らしがドル箱となって、観光客が押しかけ県はうるおった。

日本のバルビゾンとはどこだろうか。名乗りを上げる地域は多い。かつて岡倉天心(1863-1913)が上野を去って日本美術院を五浦(いづら)に移すとき、この語を用いて「東洋のバルビゾン」と呼んだ。それが山梨県ではなく茨城県だったのは、太平洋に面してアメリカをのぞんでいたかったからだ。天心のめざす地はもはやフランスにはなく、アメリカに向いていた。

ミレーの落ち着き先は、山のない県にはなく、底流には田園風景と白樺派が愛した敬虔な生活感情を要した。日本人にとってはクリスチャンでもないのに、「晩鐘」(1857)や「落穂拾い」(1857)の情景に、そこはかと広がるあこがれを感じる。アンジェラスの鐘が鳴る夕暮れどきに手を合わせて祈る。今日の一日を感謝する農村のもっているひとこまの光景だが、本来は労働者の過酷な現実があるはずだ。ミレーの絵を見る限りでは過酷さは見えてこない。

リアリズムという名を借りながら美化された現実に批判的な目もあるだろう。しかし現実をこえて、労働は美しいものだという真実は伝えられている。クールベの描く自然はもっと、なまで荒々しいものだったことを考えると、ミレーやコローの前で私たちはほっとする。ことにコローの描くちょっとした森に入り込んでいくような憩いの場は、現代の日本人の目にも心優しいものだ。

第37回 2021年10月13

テーマではなくモチーフ

何を絵にするかというとき、今まで重要なのは、これは何について描いているかという問いだった。つまりテーマが問われていた。写実主義以降はテーマについてはあまり問題にしなくなった。テーマとはキリストの生涯のエピソードや神話の一場面だったが、それに対して何を描くかというとモチーフが問題になってきた。テーマではなくモチーフだとはどういうことか。リンゴや富士山をモチーフに絵を描くといえば、そこに物語があるわけではない。テーマからモチーフへという移行は、写実主義によって切り開かれていったが、その先に印象主義が出てくる。

バルビゾン派が風景に接するなかから、ある発見があった。光や風にさらされて様々に変化する大気である。それに気づかせてくれるのが戸外制作だった。それはチューブ入り絵の具が開発されることと連動する。じかに目にみえる光景をそのまま描きたいという衝動は写実主義からくるものだ。それ以前はすべてアトリエ制作であり、完成作からは風のそよぎに対する敏感な反応や、刻一刻と変化するヴィヴィッドな自然のデリカシーは伝えきれなかった。絵画をアトリエで仕上げるのなら、バルビゾン村に住みつく必要はない。

ドーミエの石版画の一点「風景画家たち」(1865)が、当時の時事性を伝えている。ふたりの画家がイーゼルを立てて戸外制作をしているが、ひとりは自然を見ながらキャンバスに向かう。もうひとりは相棒のキャンバスを見ながら筆を走らせている。これは実は重要なことを語っている。自然観察を経てルネサンスが成立したが、それに続くマニエリスムは直接自然を見るのではなく、ルネサンスをまねることで間接的に自然に接した。この対立する二つの制作論が絵画のモダニズムでも引き継がれていく。

ただとなりの画架を模写していたとしても、屋外で制作することによって、今までとはちがった制作態度を体感することにはなった。風の音も聞くだろうし、肌をなでる体感も味わうことになる。その段階でとなりの画家の画面だけを見つめている自身の愚かさに気づくことになるだろう。

アカデミズムを拒否し、模写を否定するには、画面を抽象絵画にするのが手っ取り早い。ルーヴル美術館で名画を前に模写をするのは馴染みの光景だが、それがモンドリアンの絵ならと想像すると、ドーミエを経由して、のちに写真家ロベール・ドアノー(1912-94)のおもしろがりそうなシチュエーションとなる。モンドリアンが戸外で抽象絵画を描いている姿を想像し、さらにそれをとなりで模写する第三者がいると、究極の絵になる構図ができあがる。

第38回 2021年10月14

ドーミエ(1808-79)のスナップショット

バルビゾン派が田舎の写実主義だとすれば、都会の写実主義を進めたひとりにオノレ・ドーミエがいる。パリに息づく都会人の生態を暴き出した。そこでは庶民の日常生活が見えてくる。この当時万国博覧会があって、おおぜいが田舎からパリに集まってくる。そうした物見遊山のおのぼりさんの滑稽な姿だったり、現代と同じようにパビリオンに入るのに、列をなして待って退屈そうにしている様子など、闊達な筆によって速写されている。レジャーの光景は印象派ごのみのモチーフになるが、万国博見物もその一コマとなる。それが必ずしも歓楽の余暇ではなく、苦痛をともなうものだったことも、ドーミエは写し出した。

都会人の憂鬱は、背景からゆっくりと暗雲が立ちこめていく。権力者を皮肉った風刺的作品も多く、法律家である弁護士や裁判官もそのターゲットになっている。それらは版画だけでなく彫刻となっても定着している。写実主義の流れのなかにあってバルビゾン派とは異なったグループだったということになる。「三等列車」(1864c.)では当時先端の蒸気機関車に乗り合わせた乗客たちの表情を観察している。「洗濯女」も繰り返し描いているが、都会ならではの風物詩のようにみえる。

都会に息づいたちょっとしたスナップショットは、写真術のその後の進化が渇望したものだっただろう。これも物語ではなくて、当時19世紀後半期に入る頃のパリのひとこまを前にした写実描写だった。クールベの「波」にしても、ドーミエの日常生活の一コマとともに、写真術に対して、こんな一瞬の光景は写し出せないだろうという絵画の自負が聞こえてくる。写真術は敗北を認めず、またたくまにシャッタースピードを上げ、スナップショットという写真用語がつけ加わっていく。

ドラクロワは10歳年上だったが、ドーミエに一目置いている。ドラクロワにとっての文学はハムレットだったが、ドーミエはドン・キホーテだった。方向性は対極にあるが、ともにルーヴル美術館ではルーベンスの前でよく出くわしているというのが興味深い。たぶんそこでふたりはともに流れるような空気の動揺をこのバロックの巨匠から学んでいた。ふたりの目にとまったのがルーベンスだったという点に注目すると、セザンヌがプッサンに学んだのとは対比をなす。17世紀末に対立しあったプッサン派もルーベンス派も、ともに提供するルーヴルのデモクラシーを評価するべきだろう。

流れるようなドーミエのクロッキーは、まだカメラの機械の目がたどり着けない高速度だったが、それを体得したドーミエの才は、ドラクロワを羨望させたにちがいない。一瞬みかけた遠目のターゲットが、次の日のカリカチュアになって報道された。ドーミエの目は驚異のスナップジョットを脳裏に埋め込んでいた。その立ち位置は新聞にある。日本人には江戸の瓦版がまっさきに思いつくが、ドーミエの場合は絵入り新聞「ル・シャリヴァリ」が舞台となって結晶した。

ドーミエが評価されるためには、絵画はタブローだけではないという目が必要だった。タブローは一点ものの商品になるものを指している。ドーミエが量産したリトグラフは消耗品であって、美術品としてはみなされていなかった。ドーミエは素描家ではあったが、カラリストではなく、絵画としてのアピールは弱かった。カラーリトグラフはまだなく、ドーミエで残っているのは職人による手彩色だった。

第39回 2021年10月15

マネ(1832-83)の挑戦

ジャンルとしては風俗画に属するが、ドーミエと連動してエドゥアール・マネが加わることになる。次に来る印象主義の先駆者として位置づけられ、年齢的にはモネよりも上の世代である。モネを印象派の核として見ていくならば、モネ自身は理論家でもないし、文章を残しているわけではないが、生涯をかけて描いた絵画は印象派そのものだったといえる。

マネやエドガー・ドガ(1834-1917)は写実主義と呼ぶほうがふさわしい。マネはバルビゾン派の田園風景よりも、街中を観察して絵にするのを好み、ドーミエに近い立ち位置になる。ドーミエとは親子ほど年齢は異なるが、方向性は共通する。ドーミエは版画からスタートするが、油彩画という点では技法的な革新は、マネに譲らなければならないだろう。

クールベがスキャンダラスな光景を見つけるのも、セーヌ川の川べりの都会だった。娼婦だと解釈しないにしても、寝そべった娘の衣装が田舎娘ではないと主張している。マネはクールベを引き継いでスキャンダルを効果的に用いている。「草上の昼食」(1863)はピクニックのひとこまだが、男性ふたりが盛装をした着衣なのに対して、女性は裸体で描かれる。それは常識的にはあり得ないが、どうして女性だけがひとり裸体なのかと問ったとき、スキャンダルとなる。「オランピア」(1863)もヴィーナスのポーズを引き継いでいるが、身に付けられたわずかな小道具がヴィーナスなどではなく、都会に咲いた悪の華だと誇ってみせている。

クールベのやり口を引き継いでいるがちがいがある。何かというと絵画の革新と画面の明るさにある。バルビゾン派も含めて画面は暗い。年代順に絵画を並べると、マネあたりから急に明るくなる。絵画の歴史では何を描くかというときに、モチーフまで来たが、画面全体でいえばその後に大きく変化する。マネは印象派の先駆者として現実世界の明るさに気づくことになった。明るい画面が重要なのはそこに目に映る写実的世界があるからだ。今から見るとマネ以前の画家はみんなサングラスごしに世界を見ているようだ。

「何を」描くかから「いかに」描くかが問われ出す。しかしこれがあまり一般的なことでないことは、読書を引き合いに出せばわかりやすい。何を読むかが重要であって、どのように読むかはさして問題にはならないはずだ。しかし読書とは何かを問う哲学なら、いかに読むかに目が向いていく。ヒトはなぜ読書をするのか。黙読はいつからはじまったか。実践的な速読法や読み方を考える読書論へと展開していく。

目にみえる通りに描くのがクールベのモットーだった。クールベにとっての写実は現実世界で起こっている事件だった。それをみえる通りに忠実に再現した。しかし目にみえる世界を絵にすると、なぜか画面は暗くなった。それは今まで問題にされてこなかった。目にみえる写実とは単にテーマやモチーフの問題だけではなく、目に入る光の問題となった。現実世界にある明るさをリアルに描くということが、写実主義の次の課題になった。この課題に没頭するのが印象派ということになる。明るさは絵画にとって主題でもモチーフでもない。絵の具の問題だった。

コローは風景画を描く一方で人物画も少なくない。ともに重厚なクラシックな印象を与えるが、モデルは農村の娘である。衣装は当時の日常を写し出すが、どう見てもモナリザを下敷きにしているとしか思えない。モナリザの着せ替え人形はコローに限るものではなく、レオナルドへのオマージュと受け止められる。バルビゾン派は新しい気分をもちながら、古い伝統的なアカデミックな組織に対する反発までは進まなかった。クールベのような反骨精神はもち合わせてはいなかったようだ。


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