第7章 トーキー映画

音の力/ことばと身振り/歌からの出発/詩的レアリスム/ネオリアリスモ/ロッセリーニ/デ・シーカ/敗戦国の悲哀

第437回 2022年12月10

音の力

 サウンドトラックが導入され、映画は「音の力」を得ることにな。これにより総合芸術として現実世界に一歩近づくことになるが、一面では美術からは遠ざかる。映像の純粋性を追求する視覚芸術の視点から遊離して、オペラやバレエなど舞台と連動し、声や音楽を取り込んで、娯楽性を強めることにもなる。言語を獲得しての劇映画としての長編化は、サイレント映画にはない独自のドラマトゥルギーの確立をめざす。そうした中からフランスの詩的レアリスムやイタリアのネオリアリスモの思潮から名監督が数多く誕生していく。アメリカ映画での長編かつカラー映画としての「風と共に去りぬ」(1939)やウォルト・ディズニー(1901-66)のアニメ作品「花と木」(1932)など1930年代の活動が見逃せない。

無声映画のサイレントは沈黙という意味だった。視覚メディアだけで伝えようとした。現代の映画はすでにトーキーでしかない。しばらくは音が付かなかった。家庭用のヴィデオが家族の記録としてはじまった。個人の機材になる。小型カメラがコストも下がり普及し、誰でも写真家になれる。今なら携帯電話に写真が同居している。家族で一台あればいい。そのあと家庭用の記録として八ミリフィルムが登場する。映画館では16ミリや35ミリのフィルムだった。1960年代に普及するが、高価なもので一家に一台とはならなかった。フィルムも必要で、記録としてコマドリ以上のものにはならなかった。八ミリフィルムには音はない。家族の歴史がたどれたが音がない。大きな声で話しているが通じない。

一方で録音技術は早くから普及した。オープンリールだったが、両者が抱き合わされてサウンドトラックが登場する。ただしサウンドトラックが実現するためには、性能のいいマイクの開発が必要だった。そうでなければクチパクの名の通り、登場人物は全員文字通りパン食い競争のようにマイクをくわえたような姿で写されることになってしまう。コロナ禍のマスクと変わらず、観客はトーキーの見つけ出した口もとの魅力を味わうことはできない。

録音用のテープはすでにできあがっていた。音は画像よりも早く開発されていた。八ミリフィルムができたときに、音もだきあわせにすればよかった。フィルムをまわしながらかたわらで録音することはできた。同時に手動でスタートする限りでは、なかなか音と絵とが合わない。ずれてクチパクの状態となる。口は動いているが声は遅れて聞こえてくる。同時通訳の状態だ。フィルムに音と画像とが同居しないといけない。サウンドトラックが同居しサウンドエリアが確保される。フィルムの時代は続くが、今ではフィルムの生産も終わり、デジタルメディアに移行した。音が付くことによって複雑なストーリーが伝わるようになった。パントマイムには限界があった。

第438回 2022年12月11

ことばと身振り

テレビ誕生初期の番組にジェスチャーがあった。身振り手振りでことばを伝える。身振りとことばの情報量のちがいが見えてくる。「百聞は一見にしかず」は、一見するほうがわかりやすいはずだが、複雑な話は一見では伝わらない。そこにことばが浮上する。「いつどこで誰が何をした」を伝えるのはことばだ。映像では伝えきれないのだ。

トーキー映画になって上映時間が長くなる。「戦艦ポチョムキン」(1926)は75分ほどだが、無声映画では長編だ。話のない動きだけを見せるものはせいぜい10分だ。そこにストーリー展開をともなうと、我慢強さが加わってくる。それも言葉を置き換えたストーリーのおかげだ。4時間でも長編として許容される。それ以上長いと全編後編に分割することになる。日本の場合も黒澤明の「七人の侍」(1954)は一般映画として封切られたが、挑戦的な実験だった。適切な時間帯は大学の授業は90分を基準とするが、名目は2時間をカウントしている。座っていてどれだけ集中力を維持できるだろうか。大人なら90分は大丈夫だろうが、高校生までは半分の45分か50分となる。人間の生理によって時間を区切っていったものだ。ストーリーをともなえば健康面を考えて、三時間が設定される。それ以上だと途中でインターミッションが入る。目を休める音楽時間を要求する。それは高齢者にとってのトイレ休憩にあたる。映画館上映として徐々にシステム化していったが、今ではヴィデオだと好きなところで止めることができる。

トーキーはいわばトークショーであり、ヴィジュアルとして見えてもいいが音だけでも十分に伝わる。視聴覚をあわせもちながら理解へと導く。半分ずつ持ち合わせての理解は、どちらも中途半端なままだということにもなる。小説に書かれた内容とは異なってくる。ダイジェスト版にしか過ぎないという安直な方向にも傾く。いかに原作である文学を視聴覚によって伝えられるか。小説はセリフも入るがナレーションによって展開する。セリフと絵によって、ナレーションなしでスタートする。どちらも限界があり、見るほうの力が不足していると、ナレーションが加わる。第三者が出てきて解説をする。

ダイジェストという概念は映像時代に加速指されてきたものだ。「100分で名著」を理解しようとするのも、こうした映像の安直化の末期に出てくる現象だろう。それ以前の文学の醍醐味は、第一巻しか読まれることがないのが名著たる所以だった。プルーストやハイデッカーを100分でわかったような気になるよりも、何度もトライしては挫折するほうが、じつは重要なのだと思う。それは映像時代の教訓ともされてきた「百聞は一見にしかず」を否定して、一見してわかるよりも、百聞することが重要なのだということを教えるものだ。

音が入ることによって楽しくなってくる。日常生活に近づけられる。アートか遊離して娯楽性が加わる。エンターテイメントへの流れが加速化されていった。視聴覚をともなう総合芸術となった。かつては舞台上で演じられた芝居だった。音がともなうとオペラやバレエとなった。人間には五感があるが、総合化のなかで視聴覚が重要視される。完璧な総合ではなく、舌で味わったり、手で触ったりというところまではいかない。それはひとつの限界だ。舞台上ではいくらかの雰囲気、匂い、体感をともなったが、映画では匂いはなくなり伝わりきらない。二つの感覚器官だけに特化されていく。

第439回 2022年12月12

歌からの出発

時代的な推移を見ておく。歴史的な後追いをしておく。トーキーの誕生は1927年、場所はアメリカである。「ジャズシンガー」という映画が出来上がった。アメリカで音がついた。まだモノクロ映画の時代だ。黒人歌手の話だが、黒人のキャスティングではなく白人の俳優が黒く墨を塗って黒人に扮した。歌を歌うところからのスタートだ。セリフの前の状態だ。クチパクにしてもそうだが、翻訳をしてもとの言語と合わないことがある。英語を日本語で吹き替えると、口の動きが微妙にくいちがう。歌の場合は比較的ごまかしがきく。サウンドトラック方式が始まる以前の状況である。これははじまりではあるが名作というものではない。トーキー映画として開花するのは、フランスに導入されてからで、1930年の「巴里の屋根の下」を名匠ルネクレール(1898-1981)が手がける。

何を求めて映画を見に行くかというとき、監督だという答えが今ではできる。出演する俳優を求める場合も多いだろう。目の前には俳優しか見えないが、つくりあげたのは映画監督で、舞台の演出家に対応する。舞台でも監督はいるが、上演の日に舞台を取り仕切る人で、演出家はこのとき客席で見ている。文学でも小説家の顔も知らないまま文字だけで鑑賞している。作者の顔は必ずしも表に出るわけではない。映画の場合は監督に加えて重要なのが、資金提供者、スポンサーで、プロデューサーの名称でマネージメントをする人である。映画の理解には、画家と絵の関係を考えればよい。美しいのはモデルや風景だが、そこには多くの場合、それを描いた画家は登場しない。

トーキー映画は早い段階で日本にももたらされる。フランスから一年遅れて「マダムと女房」(1931)が公開される。監督は五所平之助(1902-81)。日本でも娯楽産業の中心的存在として広がっていく。それまでは活動弁士がサウンドトラックの役割をする。絵に合わせて、口に合わせてセリフを言う。勝手な想像力が広がると、画面の身振り手振りと合わないことにもなる。その場でのパフォーマンスがライブ感覚を高める。サイレントにはちがいないが、活動弁士の話術に頼りながら、舞台上でスクリーンのわきに弁士がいる。解説者でありナレーターだが、ときには自分の思ったストーリーを作っていた。

トーキーになればそういうことにはならない。ストーリーは忠実に伝わっていく。トーキーは国ごとにスタイルを変えていく。アメリカは資本力を生かしてハリウッド映画に磨きをかける。フランスは大きな映画産業には至らず、写真史以来の芸術性を前面に出して展開する。国ごとの映画スタイルが成立する。言語のちがいで分類が可能になる。映画自体はインターナショナルだが、つくられたものはお国自慢となる。トーキー後の映画思潮を考える。美術運動に対応するように映画の考え方を統一し、映画史をかたちづくっていく。

第440回 2022年12月13

詩的レアリスム

フランスで「詩的レアリスム」の名で、人情噺がつづられる。「パリの屋根の下」もそうだが、庶民の日常生活に出てくるなんでもない事件を拡大して組み立てられる。天下国家を論じるようなものとはいえない。落語や歌舞伎の世話物にみる惚れたはれたの話題が多い。フランス映画史の初期を飾る。絵画でいえばエコールドパリに対応するもので、フォーヴやキューブの前衛性は希薄だった。

原作のストーリー展開をサスペンスも含めてなぞっていく。この動向の総決算として「天井桟敷の人々」(1945)が完成する。第二次世界大戦末期のことだ。ドイツ軍にパリは占領されている。自由が戻ってくる直前に制作された。天井桟敷を舞台として喜劇役者の話だ。主人公はピエロ、道化師でパントマイムの役者で、恋をするがなかなか成就しない。惚れた相手が浮気女で、ピエロの悲哀に輪をかける。4時間に及ぶ長編映画だが、メロドラマに飽きることはない。年上の悪女に翻弄される純真が、道化という経済力もない姿に投影する。遊ばれて本気になる日常ありふれた感情の動揺が身に染みる。

ジャンルイバロー(1910-94)という舞台での名優が映画に乗り出す。舞台役者が何らかの理由で映画に進出する。日本でも同じだが、舞台のほうが映画より権威があった。映画出演がさげすみで見られる時期があった。やがていつの間にか映画俳優のステータスが確立する。同様な現象はその後、テレビというメディアが登場したとき、映画俳優はテレビを嫌った。線引きがされていたが、それもやがては逆転する。テレビに出演するほうが知名度も給与も上位に位置する。メディアの変遷も同時に見えてくる。

フランスでは喜劇の系譜はコメディーフランセーズという16世紀からの伝統を有し権威を誇っていた。そこに映画という新しいメディアが登場して、自立していくためには、名優を引き抜くことは必須のことだった。舞台と映画はそこで融合される。日本の場合、歌舞伎役者が映画に進出して一躍スターとなったのが、長谷川一夫(1908-84)だった。歌舞伎の名にふさわしい林長二郎は改名し、映画の時代のシンボルとなった。

映画でとどまらずその後テレビが誕生して、NHKが大河ドラマをはじめるとき、「赤穂浪士」(1964)で主役を託された。その時点ではテレビは映画にかないっこなかったが、この事実がテレビのステータスを引き上げた。その声色が声帯模写のターゲットになったのもテレビの大衆的広がりをベースにしたものだった。「おのおのがた」という討ち入りのこわいろが耳にこびりついている。時代劇という点ではメディアをこえて一貫するものがある。映画時代では溝口健二の「近松物語」(1954)での純真な男の演技が記憶に残る。店の手代をその気にさせてしまった女主人の欲情が天井桟敷と共鳴して見えてくる。舞台から映画へ、さらにはテレビへという変遷の中で生きたヒーローだった。

天井桟敷の人々を制作したのは、名監督として知られるマルセルカルネだった。パリはナチスに占拠され映画を撮影することはできない。南仏ニースにパリのシャンゼリゼ大通りを再現し、大規模なセットを組んでフランスの威信をかけた。エキストラの数も半端ではない。文化を守るレジスタンスの気概が画面に込められる。日本に置きなおして太平洋戦争下の時代のことを考えると、そんな余裕は見いだせない。国民総動員で戦争一色のなか、画家も戦争画しか描けなかった。そんな時代にこういういっけんのんびりした人情劇が堂々とした劇映画として成り立ったということは驚くべきことだ。占領下パリでもレジスタンスは続いていたが、映画人がパリを離れニースに結集したということだ。いまも名作ランキングで上位に並んでいる。

戦時下にあってそれを感じさせない芸術的結晶という点で、谷崎潤一郎(1886-1965)の「細雪」(1936-41)が描き出した文学的成果と同調している。反戦でも好戦でもなく日常生活を淡々として描くこと自体が、すでに反戦へのレジスタンスに裏打ちされていたということだろう。ここでも子どもに笑顔を見せたままナチス迫害の犠牲となった喜劇役者を描いた「ライフイズビューティフル」(1997)が思い出される。糾弾と怒りでは静まることにはならない戦争の告発がこころに染み入ってくる。子どもに笑顔を残したまま壁の向こうに消えていったラストシーンが目に焼きついている。

音と色を比較すると、トーキー映画に長らく色彩はつかなかった。天井桟敷もそうである。カラー映画の早い時期の大作で知られるのは「風と共に去りぬ」(1939)だが、当時のコストを考えると大資本を有する仕事だっただろう。アメリカ映画のカラー作品としてはディズニーのアニメ映画のほうが早かった。「虚栄の市」(1935)もテクニカラーで制作されるが、映画史を飾るものとはいえない。日本では総天然色といった。

映画にとってカラーは浅はかに映るのかもしれない。現代では白黒映画を見るのに苦痛を感じるが、カラー全盛になってもあえて白黒映画で勝負する監督はいる。スクリーンでは全体に画面は暗いので、地味に目に映り、見るほうの気分は落ち込んでいくように思う。映画は入場料を払ってみるのだから、気分が落ち込むために行くわけではない。サスペンスであっても見終わってからの爽快感を期待する。悲劇であっても泣きながら満足感を得られるものを受け入れる。サイレントの頃に筋立てが単純で人を泣かせるのは難しい。音をともなって人は泣きやすくなった。

第441回 2022年12月14

ネオリアリスモ

 映画産業で大きく羽ばたいたのにイタリア映画がある。フランス映画は戦前戦後で引き継がれるが、イタリアは戦後に新しく台頭してくる。その時の合言葉が詩的レアリスムに対応するように、ネオリアリスモが叫ばれる。ニューリアリズムということだが、詩的リアリスムがつくりあげられたドラマだったのに対して、映画は舞台とはちがってクローズアップやカットが多用される。つなげて一本の映画にする。

俳優をクローズアップで写すと、役柄よりも俳優の素顔を写してしまう。カメラは機械であり、隠されたものが露呈してしまう。化粧をしていても化粧によってつくられた顔よりも、化粧そのものを写してしまう。舞台では化粧をして役になりきる。歌舞伎では女になりきる。宝塚なら男になりきる。映画の場合、化粧をしていて顔の上に載っているドーランがそのまま出てきたら、それだけで不自然に見える。その時に大事なのは芝居をすることではなくて、いかに地のままで立っていられるかということだ。

芝居をしないことが映画では重要になってくる。そういう逆転がネオリアリスモの考え方になる。現地の人を使うと、その風土の顔をしている。何十年もその土地の風に吹きさらされた顔を持っているのだ。その顔を探すというのが映画制作の出発点になる。監督の仕事は役柄にぴったりとあう人格(キャラクター)を見つけてくることだ。役を作り上げるのは俳優の仕事だが、セリフではごまかせてもカメラはごまかせない。

第442回 2022年12月15

ロッセリーニ

ロベルト・ロッセリーニ(1906-77)に「ドイツ零年」(1948)という映画がある。ドイツはイタリア、日本とともに大戦の敗戦国だ。イタリアではローマが復興をめざす。ロッセリーニはイタリア人だが舞台をベルリンにおいて、ドイツの少年を主人公にして、敗戦前のヒットラー政権下、日本にも置き換え可能な少年の純真をめぐるエピソードを組み立てていく。ヒトラーは追われて自殺し、敗戦直後の少年の顔の憂鬱は、それだけでドラマを秘めている。

一夜にして価値が逆転する。これまでヒトラー万歳といっていた若者の生き方を否定的に考えてしまう。日本の場合も同じで、自分たちが信じていたものはいったい何だったのだろうか。生きがいを見失った少年がベルリンの街を彷徨する。最後にビルの屋上から身を投げて命を絶つ。ここまでをカメラはたんねんに追いかけており、顔のアップもずいぶんと出てくる。金髪の少年の憂鬱げな顔立ちがぴったりと見るものにフィットする。がれきの山になったビルに上り飛び降りる。

軍国少年を生み出した教育が一夜にして身をひるがえして戦後民主主義を歌い上げる日本の場合と同様に、ここでも時代に迎合した教育やマスコミの欺瞞が摘発されている。扇動を魔に受けて取り返しのつかない純真の結末は自殺しかなかっただろう。少年の無口な表情が、時代の苦悩を浮かびあがらせる。それは演技ではなく、何事も語らないがすべてを語っている。ドイツ零年とは始まりの年ではない。年号は零年ではなく一年から数え始めることを思えば、それは生まれ変わるための胎動の期間をさしている。価値観が天地逆転するのは、ドイツとイタリアと日本に共通した思考だった。敗戦直後に自殺した少年を日本に探して見ようと思った。戦後数十年を経て自決した三島由紀夫も、文学を糧にすることがなければ、この少年のあとを追っていたのかもしれない。

ロッセリーニの手法は鑑賞者に想像力をゆだねる心理作戦にも見出される。「無防備都市」(1945)ではドイツ侵攻下のイタリアでのレジスタンスが描かれている。ファシズムの拷問のリアリティは、金のかからないハリウッドへの対抗策で、近年でも「スパイの妻」(2020)などで多用されて、ロッセリーニのオマージュと受け止めることもできる。

ハリウッドの映画制作とは全く異なった思想が、どれだけ魅惑的であったかは、ハリウッドの看板女優が全てを投げ打ってイタリア監督のもとに走った行動に反映している。ロッセリーニの手法を追うようにイタリア映画の縄張りを築いていく。ルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)があとを追う。「山猫」(1963)や「ベニスに死す」(1971)などのちの円熟と対比して、初期の「揺れる大地」(1948)では漁村の民に特有な荒れた肌や皺を前面に出して、吹きさらされた海風に向かうにおいを浮き上がらせる。「若者のすべて」(1960)では、土臭いローカリディの顔立ちのなかに、若き日のアランドロンをまぎれ込ませることで、その後の美少年の美学を誘導するものとなった。

第443回 2022年12月16

デ・シーカ

ヴィットリオ・デ・シーカ(1901-74)は「靴みがき」(1946)で、庶民的なイタリアの生活風景をドキュメントした。内容はシリアスで、拷問が少年ふたりの友情を引き裂くが、それも仕掛けられた罠にはまっての誤解から生じたものだった。ここでも拷問場面は、「無防備都市」のオマージュに見えるが、ただの見せかけに過ぎないというひねりが加えられている。

「自転車泥棒」(1948)はすぐにつかまる小悪人の話だ。子どもが一部始終を見ている。父親の情けないみじめな姿をみてなぐさめにかかるいじらしさが何とも言えない抒情を誘う。戦後の貧困を写し出した、やむにやまれぬ事情が見えてくる。戦後イタリアの職業難のなか、自転車をもっていれば仕事にありつける状況を背景に、やっと買った自転車が盗まれてしまった男のリベンジの姿が無表情の行動に写し出される。

単純な話ではあるが子どもの目線の的確さを浮かび上がらせることで、涙を誘うドラマとなった。だらしない甲斐性のない父親を見守り、しょぼんとする姿をなぐさめもする年端もゆかない少年像は、ドイツ零年とはちがった前向きな建設的な第一歩を感じ取らせるものでもある。ここで子どものすぐれた演技にでくわすが、実際には演技をしているわけではない。子どもは演技をしないものだ。現代では演技をしすぎる子役が多すぎてこまったものだが、監督が引き出した子どもの持ち味をネオリアリスモに学ぶ必要を感じる。

戦後の年金生活者の貧困を描いた「ウンベルトD」(1951)ではさらに純真な犬を主役にした。子犬が老人の絶望を救うが、それは危険を回避する動物的本能であった。殺処分しかない犬を憐れんで無理心中をはかるが、犬は生きようとしてもがく。老人は自殺を思いとどまり、生きる意欲を取り戻す姿が、自然なカメラワークを通して暖かく写し出されていた。「終着駅」(1953)や「ひまわり」(1970)など、決着のつかない揺れ動くこころをみごとに描き出したメロドラマの傑作でも、敗戦を通して体感した世の不条理が下敷きにされている。

「ひまわり」では、この時代の悲しみは、ロシアに広がるひまわり畑とヘンリーマンシーニ(1924-94)のテーマ曲と、ソフィアローレン(1934-)の涙の演技に象徴されていた。夫はロシア戦線で行方不明になった。戦後イタリアからロシアまで探しにきたのに、夫はそこで家庭を築いていた。その時の込み上げるようなソフィアの嗚咽の表情がクローズアップになる。込み上げてくる悲しみの涙は、銀幕の時代が生み出した女優のもつスター性を、いつまでも尾を引いていく。映画って本当にいいものですねという映画評論家の実感に共鳴できるときだ。

第444回 2022年12月17

敗戦国の悲哀

イタリアとドイツの共感がネオリアリスモに結晶したとするなら、戦後の日本にこの映画手法が導入されたのは、敗戦国が共有する悲哀に見える。羽仁進(1928-)が不良少年を主役にして、ドキャメンタリーではなく劇映画「不良少年」(1961)を制作したのは、写実主義でも表現主義でもなく、新即物主義のもつなまなましさを結実させている。「教室の子供たち」(1955)でつちかったドキュメンタリー映画の文法を一群のドラマ演出に結晶させた。カメラを気にしないまで鈍化させる教化と信頼に根づいた粘り強い制作たましいに感銘を受ける。アウグスト・ザンダーの写真を見るような、その職業でしか見せることのない立ち居振る舞いや芳香が演技力をうわまわる。「彼女と彼」(1963)では彼女を演じた左幸子(1930-2001)のまれにみる名演技と対照的に、彼を演じた画家山下菊二(1919-86)の、演技をも凌駕した純真が、両者が織りなす狂おしいまでのきずなを求めて、輝きを放っていた。画家横尾忠則が「新宿泥棒日記」(1968)で演じる存在感と対比してみることができる。

カラー映画は名画を生み出しにくかったが、カラーが普及してのち白黒映画にこだわり続ける系譜がある。フィルムノワールと呼ばれる犯罪をテーマにしたB級映画ではあるが、ハリウッドとは異なった映画の魅力を引き出したものとして特筆に値する。アメリカの登場するもので、大資本を投入した大型映画ではなくて、ちょっとはずれたところでファン層を獲得し続け、いぶし銀のような職人の手わざの冴えを伝えている。演劇でいえば小さな芝居小屋で上演するオフあるいはオフオフ・ブロードウェイだろうか。B級グルメと同じで、こちらのほうに上質のものが見つけ出される。探し出す喜びともいえるもので、宣伝を受け入れ、真に受けるのではなくて自分の手で文化を担うという感慨を体験するものでもある。グルメでのB級は、もちろんA級になったとたんに味が落ちる。


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