ドレス・コード?—着る人たちのゲーム

2019年08月09日~10月14日

京都国立近代美術館


2019/9/3

 衣服を通していろんなものが見えてくる。刺激的な展覧会だが、悪くすると理念が先走って、文字ばかりがやたら多くて、展示品がついてこないという本末転倒になってしまう。そんな心配をよそに、メリハリのついたよい展示が続いた。ここでは単なるファッションショウの静止画のような旧来の美術展をどう乗り越えるかが課題となる。ファッション系の美術館も増えるなか、国立の機関がどうアレンジして、広い領域をおおう文化現象として、読み解いていくか。これまでにない企画なので楽しみにしていた。

 展示室に入って、まず目につくのは、ずらりと並んだ、通勤客の一群だった。客かどうかはわからないが、私の目には列車を降りて同じ方向に向かう出勤の姿に見えた。制服ではないので、全員異なってはいるのだが、どこかがコード化されて、共通項を持っている。

 鷲田清一さんの影響下、服飾思考にうるさい観客も多いだろうと思う。視覚優先の絵画的イメージから、日常の生活レベルを外さない触覚的視覚へと、対象を目移りさせながら、敏感にアートナウを実現していく。オランダの写真家ハンス・エイケルブームが世界各地の繁華街で写しためた豊穣なイメージカタログは、注目に値する。最先端の流行を創造するのではなくて、流行が街角に浸透していくようすがよくわかる。東京銀座など地名と、撮影日時がキャプションになる。撮影時間ははじまりと終わりが記され、極めて短時間に同一現象を採取したものが多い。銀座の一角で和服を着て歩く年配女性だけを集めたサンプリングを通して、21世紀とは思えない大正ロマンのタイムスリップに出会うことになる。

 豊穣なイメージ収集は、都築響一のアクの強い都会の女子カタログについても言える。同時代を切り取るという意味では、アートと一線を画して、ファッションの持ち分がある。すぐに古くなるということは、消耗品として捨てられる分だけ、備品としての希少価値を増大させるということだ。シャネルの1960年前後の婦人服が展示されていた。個人的なことを言うと、当時「職業婦人」であった母親の面影が想起した。

 ドレスコードとは暗黙のうちに感じ取る自己規制のことだが、働く女性の社会進出にふさわしいトレンディとして、それは定着した。当時の夕方5時過ぎを狙って、街並みでカメラを向けると、同種の多様性を目にすることになっただろう。それを定着させるためには、盗み撮りという犯罪とすれすれの好奇心を必要とするが、証拠写真がなくとも、誰もが感じ取っていたドレスコードだともいえる。

 トレンチコートと迷彩服が、軍用からはじまったというのも、コードの読み取りとしては興味深い。ミニタリールックだとも知らないで、アランドロンが着ていたので購入した記憶がある。ダーバンセレレガンスドゥラモデルヌと呪文のように唱えていた。スポーツ系の服装にしても、究極のかたちは戦闘なのだろうし、軽い身のこなしが、ファッショナブルにコード化されていく。先のオランダの写真家が街なかでジャージ姿のファッションを採取したものがあったが、スポーツ系ブランドがすたれない理由は、わかるような気がする。

 ポスターに使われたコムデギャルソンのラフなハッピのようなファッションがいい。クールジャパンから抜けてきたようなコミックキャラクターを背中にアレンジしてのプリント柄は、着物を思わせるもので、民族衣装に根ざしている。歌舞伎役者も悪くはないが、かつての歌舞伎を今に置き換えれば、きっとこんなイメージだったのだろう。浮世絵世界をなぞっているだけでは、ただの時代考証にしか過ぎない。ここでは確かに背中が語っている。日本文化の基調をなす見事なキモノの美学だと思う。


by Masaaki KAMBARA