1965年

映画の教室」by Masaaki Kambara 

第495回 2024年6月23日 

キャット・バルー1965

 エリオット・シルヴァースタイン監督作品、アメリカ映画、原題はCat Ballou、ジェーン・フォンダ、リー・マーヴィン主演、アカデミー賞主演男優賞・脚色賞・編集賞・歌曲賞・ミュージカル音楽賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞。コメディタッチの西部劇。父親を殺された娘の復讐劇だが、頼りない男たちを従えて、達成するまでの話である。

 教師の学校を卒業したばかりの娘(キャサリン)が列車で帰郷するところから話はスタートする。女教師が見送りに来て、空席を見つけてやろうとするが、隠れていた手錠が見えて、お尋ねもの(クレイ)と護送中の保安官だったので移動する。娘はこの若者が気になっているようで振り返っている。牧師がひとり座っていて、ここなら安全だと娘を頼んで降りていった。

 発車して牧師は酔っ払っていることがわかり、娘もまじめそうに読書をしているが、隠し込んだ通俗本を読んでいた。それだけでなくて牧師はお尋ね者の仲間(ジェド)で、保安官の油断をしたすきに、仲間を取り戻し、列車から飛び降りて逃げていった。お尋ね者は機を逃がし、娘のいた寝台車の一室に潜り込んだ。娘は親しみを感じていて、悪党の仲間だとわかってからも、男をかくまっていた。一室ずつしらみつぶしに探しはじめると、男は遅れて窓から飛び降りた。

 故郷の家族は父親(フランキー)だけだったようだが、小さな牧場を持っていて、喜んで迎えてくれた。父はひとり娘に教養を身につけさせ、教師にしようとしたが、ならず者に興味をもつところからみると、娘にはそのつもりはないようだ。雇われている先住民の若者(ジャクソン)がいた。父の手足となってよく働いている。差別視され町の誰からものけものにされていたのを、父が雇い入れていた。

 町の発展のためには、父の牧場は邪魔で、嫌がらせも絶えない。追い出そうとして殺し屋(ティム・ストローン)も雇われていた。突然現れて、ここから出ていくよう警告している。鼻を銀のキャップでおおった凶悪な姿に娘は驚いた。防衛のためにはガンマンを雇わなければならないと思いはじめた。

 町のパーティに娘を連れていくと、男たちは美貌に振り向いたが、そのなかに列車でのお尋ね者と牧師がいた。親しげに近づいてきたので、彼らを用心棒にしようと考えた。家に連れ帰り住まわせるが、チンピラであまり強くもなく、度胸もない。殺し屋のことを話すと、名の知れた悪党のようで怖じ気づいている。頼りになるガンマンが必要だと探し、ひとりの男(キッド・シェリーン)を高額で見つけることができたが、来てみると酔っ払いで頼りなさそうにみえた。酒を手放せないが、銃の腕前優れたものがあった。酒が切れると腕が落ちた。

 次に殺し屋が現れたときには、いきなり父親が撃たれ、そのまま死んでしまった。娘は復讐を決意する。仲間は尻込みするが、ガンマンは相手の名を聞くと、知っていたようで躊躇しながらも、娘を守ろうと決意する。酒を絶ち、体を鍛えて、身なりも整えている。娘は単身で街に乗り込み、殺し屋を発見するが、保安官はかばって男はずっとここにいたと、アリバイを証言した。

 ガンマンの出番が来て、娘は殺し屋とは知り合いなのかと問うと、驚いたことに兄だと答えた。弟は酷い仕打ちを受けて追い出されていた。背を向けたときに撃ってくるという兄の戦法を心得ていて、それを逆手にとって勝利した。殺し屋を雇って土地を奪おうとした英国人の黒幕(サー・ヘンリー・パーシヴァル)がいた。これに対抗するために、無法者たちが住み着く村に入り込んで、資金の調達に列車強盗を企てる。男4人を従えた女盗賊の誕生だった。

 町で開発に従事する者の給与を奪って、娘は黒幕のもとに着飾って出かけて行った。男は娘の色香に誘われて部屋に招き入れ、短銃で撃ち殺された。ガンマンは年甲斐もなく娘を愛していたが、娘は列車で出会ったときから、チンピラの若者を思っているのを知ると引き下がり、ふたりに結婚を勧めている。

 映画は娘が囚われる牢獄からはじまり、バンジョーを鳴らしてふたりの歌声が、女の伝説を伝えている。広場には処刑台が用意されて、執行の時刻を待ち構えている。縄が吊るされて足もとが開かれ、首が絞まるというしかけだ。ラストシーンは、はじまりから引き継がれて、殺害と強奪の罪で絞首刑が言い渡され、執行の時刻がきた。

 牧師があらわれて最後のことばを伝えようとする。見ると仲間の偽牧師だった。縄が首にかかり床が開くと、真下には馬車が待ち構えていて、娘をさらって逃げていった。一瞬の早業だった。追手には酔っぱらいながらも、ガンマンが立ち向かうことになる。その後、キャットバルーの名で知られた一味は、捕まらないままゆくえが途絶えたと、ナレーションは語っていた。

 ガンマンと殺し屋の兄弟を二役で演じ分けたリー・マーヴィンの演技力が光っている。とぼけた酔っ払いと無言の不気味さが対比をなしている。ナレーションの代わりにミュージカルふうのジュエットも効果的で、黒人役で歌っていたナット・キング・コールの、45歳で没した最後の歌声を聞くことができる。

第496回 2024年6月24 

ドクトル・ジバゴ1965

 デヴィッド・リーン監督作品、ボリス・パステルナーク原作、アメリカ映画、原題はDoctor Zhivago、オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ主演、ゴールデングローブ賞作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・作曲賞、アカデミー賞脚色賞ほか5部門で受賞。ロシア革命が起こり、動乱の時代を生き抜いた外科医であり詩人である主人公(ユーリ・ジバゴ)の生涯をたどる。運命の女性(ラーラ)との出会いと別れを通じて、ロシアの広大な大地での奇跡の時間を共有することになる。

 ふたりのはじめての出会いは、恩師の医師につきそって助手をつとめたときの、患者宅であった。財界で名の知れた男のお忍びの相手の急病に、駆けつけたときのことだ。そこには魅力的な娘が同居していて惹かれたが、この娘にその後の偶然が、再会を準備し、離れられない関係になっていく。

 娘は母親(アメリア)とともに、亡き父親の友人であった経済人(コマロフスキー)の世話を受けていた。母親は病弱で、男がこの娘に関心をもっているのも知っていた。自分の代わりに夜会に行かせることで、娘は華やかな世界を知ることになる。まだ学生であり付き合っている男子学生(パーシャ)もいた。男のほうは革命運動にのめり込んで、デモの先頭に立って手ひどい傷も受けていた。娘には政治運動には興味はないようだ。男は父親がわりの顔をして、その男子学生に冷ややかに対している。娘にとってはすでに三角関係をなしていたが、そこに主人公がさらに加わることになる。

 娘は世話を受けていた富豪からはずかしめを受けていた。憎しみは夜会に出かけていた男をねらって、銃で殺害しようとした。銃は学生が権力から追われ、傷を負って逃げてきたときに、預かって隠し持っていたものだった。弾ははずれて腕をかすめていた。男は警察を呼ぼうとするのを制した。そのとき治療にあたったのは、妻とともにその夜会に来ていた主人公だった。

 主人公は悲しみを宿した激しい女の気性にひかれていく。ふたりに濃密な関係が築かれるのは、戦線での医師と看護師としての半年間の生活だった。男はそこでも運命の出会いを感じたが、母親の急病に訪れた医師の助手については、女のほうには記憶はなかった。男には妻子があったが、女は男の妻(トーニャ)のことを思うと、深入りは避けた。男も妻への愛を思い起こして帰っていった。

 妻は妹のような存在だった。両親を亡くした主人公引き取った育て親の一人娘だった。ふたりが結ばれることが、家族の平和であり、安らぎでもあった。パリに留学をしていた娘が帰宅したとき、ふたりの抱き合う姿は、家族愛以上のものには見えない。娘は穏やかで、情熱的な恋愛にはものたりないほどに控えめだった。

 その後、男は家族をともなって都会を去る。モスクワの広い屋敷は革命後、複数の家族が入り込んで同居していた。行先は父親にとっての故郷だったが、そこでも大きな邸宅は体制が変わって政府に管理され、自由に住むことができず、かたわらの小屋を修復して生活をはじめる。妻は夫が手持ち無沙汰なのを気の毒そうにみている。

 町に出るには距離があり馬を利用することになるが、そこには図書館があった。知的好奇心を満たそうとして訪れると、司書として働いていたのは、かつて愛を交わした看護師だった。小学生の子がいて父親は、先に愛人関係にあった財界人だったのだろうか、あるいは革命に身を委ねたかつての学生だったのか。いずれにしても別れて一人で育てているようだった。男は隠れて頻繁に訪れるようになり、深入りをはじめた。女も以前のように拒絶することはなかった。子どもも実の父のようになついていた。

 男は馬での行き来の途中で、賊に襲われ拉致される。政府に反旗を翻すパルチザンだったが、妻子がいて、町にも愛人がいることを知っての犯行だった。傷ついた兵士を治療する軍医を求めての拘束だった。首領のもとに出されて顔を見ると、彼女の愛人であったかつての学生が、新しい名前(ストレリニコフ)に変わってそこにいた。

 行方不明のままの月日が続く。やっと逃げ出て駅にたどり着き、彼女を訪れると不在で、壁のブロックをひとつ外すと、いつも隠してある鍵とともに、待ち侘びる手紙が忍ばせてあった。彼女との再会をはたすが、男の家族については引っ越してしまったことを知っていた。妻がやってきて、ふたりは顔を合わせてたのだという。好感の持てる女性だったと語っている。その後、夫宛の手紙もここに届いていたようで、手渡すと妻の手紙にも彼女が好印象であることを伝えていた。

 複雑な思いを秘めながら、男は引き払われた実家に、ふたりで身を隠すことを決意して、廃屋になっていた屋敷に落ち着く。ふたりだけの至福の時間はそう長くは続かなかった。女のかつての情夫が探りあててやってくる。子どもはこの男との間にできた子だったのかもしれない。二人を引き離そうとして男は主人公を呼び出して交渉をする。女のかつての愛人が革命政府に反旗をひるがえしたが失脚し、関係をもった女には身の危険がともなう。自分にまかせないかというのである。相手が政府の高官になっていたこともあって、男は承諾する。女と子どもを託して、自分もあとから追いかけると言って、女を納得させた。このとき女は主人公の子を宿していた。

 主人公は駅には現れず、列車は去ってゆき、その後ふたりは会うことはなかった。モスクワに戻り、バスの中から彼女が歩くのを見かけたことがあった。女は気づかないで歩いている。急いで降りて追いかけたが、持病の心臓発作が起こり、路上で倒れた。何度となく奇跡的な再会をはたしていたが、ここでは奇跡は起こらず、あっけない幕切れとなった。これまで広大なロシアの風土にあって、こんな奇跡的な偶然があるのかと驚くが、それが愛の力というものだったのだろう。

 主人公には革命政府にポストを得た、腹違いの兄(イエブグラフ・ジバゴ)がいた。主人公をモスクワに呼び寄せたのも彼だった。弟の出版した、愛する人の名をタイトルにした詩集を、探りあてたひとりの娘(ターニャ)に見せて、あなたは私の姪であるかもしれないと言っている。娘には記憶はなかったが、バラライカをみごとに演奏するのを知ると、その楽器にまつわる主人公の昔話を思い出し、血のつながりを確信した。詩集に挿入された写真が、母親なのだと示してみせたが、娘は特に興味をもつこともなく、誘いにきた青年とその場を去って行った。詩集には作者の父の肖像も写されていた。

 詩人の子どもは彼女だけではない。妻との間にふたりの子がいたはずだ。その後の妻の消息については、語られないままだった。愛人に夫を託して身を引いたということなのだろうが、それはあまりにも控えめでありすぎる。争って夫を取り戻すだけの愛情がなかったからか。ふたりの恋愛を知って、感動までしてしまったのだろうか。ふたりの悲恋を客観的にみて賛美する冷静さは、文学にとっては甘い罪である。本妻の子を登場させて、身勝手な父親の話をつづり、ラブロマンスを台無しにすることもできるかもしれない。

第497回 2024年6月25 

コレクター1965

 ウィリアム・ワイラー監督作品、イギリス・アメリカ合作映画、原題はThe Collector、テレンス・スタンプ、サマンサ・エッガー主演、ゴールデングローブ賞主演女優賞、カンヌ国際映画祭男優賞・女優賞受賞。ロンドンという陰鬱なかび臭い都市には、猟奇殺人がよく似合う。誘拐、監禁、殺害という異常犯罪の犯人(フレディ)の行動を追いながら、男女ふたりの密室劇に終始する。途中でここから800メートル離れているという、ひとりの隣人が訪ねてくるが、それ以外のほとんどは、ふたりの息詰まるやり取りが続く。

 娘(ミランダ)は画学生で早くから通学バスで見かけていた男が、一方的に愛を募らせていた。隣の席に座ったこともあったというが、娘には記憶はない。窓からは内部が見えない、黒いライトバンで機会を狙っていた。これに先立って男は売り家を見つけ購入していた。まわりに民家はなく、蝶を追って採集をしていたときに見つけて入り込んだ物件だった。男は風采の上がらない銀行員だったが、スポーツくじが当たり大金を手にした。一躍ときの人として新聞に取り上げられたこともあった。

 別棟地下室のある家であり、資金をつぎ込んで、荒廃した地下に一部屋をつくり、娘のために家具や衣装、絵画の道具一式まで買い揃えていた。クロロホルムを嗅がせて車に乗せ、地下室に運び込んだ。目覚めたとき、娘はどこにいるのかわからない。男が現れるが誰なのかも心当たりはない。身代金目的なら家には金はないと娘は先に伝えた。性犯罪なのかと問うと、男は否定して、愛しているのだと答えた。

 時間をかけて観察して、娘の好みの衣服や色についても把握していた。女の親しい男友だちのことも知っていて、恋人なのかと、ひつこく追求する。男の趣味は蝶の採集で、これまで集めた標本が部屋の壁を飾り尽くしていた。娘はそれを見て美しいと言ったが、そのマニアックな趣味に恐れを抱いている。

 自分も蝶と同じ、命をなくした標本なのだという思いを強めた。娘の父は大学教授で、インテリの家に育ち、「ライ麦畑でつかまえて」を愛読し、ピカソの絵画に理解を示した。男の育ってきた環境とは相入れないものだったが、娘の描いた自画像については、大金を払って買いたいと言っている。

 抵抗しなければ男は優しく接しているが、逃げようとすると鋭い目が娘をすくませる。食事の用意もし、男がその都度地下室まで運んでいる。入浴の準備ができると娘は喜んだ。地下室を出て本宅の2階まで上がる必要があった。腕を縛って監視をしながら連れて行く。

 入浴中に来客があった。隣人のあいさつだった。娘の口をしゃべれないように拘束して、客を家に入れた。娘は助けを求めて、湯をあふれさせて、階段を伝わって流れてきていた。客が異変に気づくと、男はいとこが来ているのだと言って先にあがって浴室に飛び込んだ。客が階段を上がろうとすると、いとこは女なのだと言って、それを拒んだ。ハラハラとしながらも、私たちは不思議なことに、男の身になって、早く客が出ていくことを願っている。

 隣人が怪しむことなく帰ってしまうと、男は怒りをあらわにするが、娘が逃げていこうとしたことに落胆する。これ以降も、娘の態度の変化があると、常に疑いが先に立った。娘は先の見えない状況に耐えがたく、期限を限ることを提案する。期限までは不満を示さず要求に従うと約束する。男は6週間というが、娘は、はじめ3日と言い、2週間まで伸ばしていく。準備にかけた労力と費用に見あう満足が、男にはほしかった。結局は4週間で折り合いをつけた。

 壁にはカレンダーが書かれて一日ずつバツがつけられ、指折り数えて日が過ぎた。鏡越しに描いた自画像をはじめ、絵画の枚数も増えていった。期限が来た時、ふたりは最後のディナーを楽しんだ。娘は描いてきた絵画は、すべて男に与えると言っている。男はプレゼントにドレスを用意していて、ともに正装をしての二人きりの晩餐会だった。このとき男は指輪も用意していて、結婚をしてくれと頼んでいる。娘の返事はもちろんノーだった。これによって約束は裏切られ、娘の監禁は続いていく。満たされない男の思いは、女の描いた自画像を引き裂いていた。

 娘は何とか脱出しようとして、仮病も使ったが、見破られていた。地下室に戻るとき、男が油断をした隙に、立てかけてあったスコップで男の顔面を殴り、傷を負わせてもいる。傷を負いながらも女を閉じ込めて、車を走らせて救急で病院に駆け込んだ。3日のちに戻ってきたとき、娘は男が生きていたことに安堵して、態度を軟化させた。

 女はあきらめたように、男に寄り添ってきた。今までとは打って変わった姿に、男ははじめ女の愛を感じたが、思い直したように引き離し、逃げたいだけのことだと、女の演技を見抜いた。地下室で暴れたことから暖房器具が壊れていた。女が衰弱をはじめ、ほんとうに苦しげにあえぎはじめると、男は医者を呼んでくると言って車を走らせた。地下室の鍵は開いたままだったが、女には逃げる体力も気力もなくなっていた。

 男は医者を連れてくる勇気はなく、薬を手に戻ってきたとき、娘の息は絶えていた。誤算だったのだろう、男は顔をおおっている。庭を掘り起こして娘の遺体を葬った。次の日、男はまた車を走らせて、今度はもっと庶民的な相手をと、若い看護師に目をつけている。ゾッとする結末だが、蝶の採集は一度だけでは、コレクションにならないのである。演技なのか本心なのかがわからない、娘の謎めいた身振りが効果的だ。それによって不気味な鈍い輝きを放つ、男の目が恐ろしい。「サイコ」で見せたアンソニー・パーキンスの役柄を思い起こすものだった。

第498回 2024年6月26 

飢餓海峡1965

 内田吐夢監督作品、水上勉原作、鈴木尚之脚本、三國連太郎、左幸子主演、毎日映画コンクール監督賞・脚本賞・男優主演賞・女優主演賞・男優助演賞、ブルーリボン賞脚本賞受賞。三つの殺人事件の容疑者を追い詰めるまでの、ふたりの刑事の執念の物語である。

 事故と事件が重なり合う。青函連絡船が台風により転覆し事故である。同じ頃、強盗殺人事件を起こし、大金を手に、逃げる途中で台風に遭遇する三人組の犯人が、仲間割れを起こし、ふたりは殺害され、ひとり(犬飼多吉)は海を渡って逃げて、東京にたどり着いた。乗客名簿から死者が割り出されたが、2名だけ身元不明の死体があった。

 生き延びたひとりには、途中で心を通わせた女(杉戸八重)がいた。娼婦であったが、生活からくる困窮を憐れんだ男は、別れぎわに大金の札束を与えていた。女はその男のことが忘れられなかった。爪を切ってやったときの大きな親指の爪を、だいじに持ち続けていた。

 東京に行けば会えるかもしれないと、女は寒村を出てくるが、仕事は娼婦しかなかった。ある日、新聞で高額の寄付をしたことで顔写真つきの記事を見て驚く。あの人にまちがいないと出かけていったのは舞鶴だった。10年の時が立ち、ちがった名前(樽見京一郎)であったが、顔を見てまちがいないと確信した。

 私を覚えているかと詰め寄るが、男は知らないと言う。会ってお礼を言いたいだけで、それ以上のことは考えていないと言っても、男はしらを切る。さらに詰め寄ると男は力まかせに首を絞めていて、女を殺害してしまった。首を絞められながらも、待ちわびた人に会えた幸福感は、表情にうかがえた。男もまたそれを感じ取っていたようにみえる。住み込みの書生が殺害を目撃してために、さらに口封じに殺されてしまう。車を走らせて、ふたりを心中に見せかけるが、警察が疑いはじめた。妻は事情を知っていたが、主人への恩義を裏切ることはなかった。

 女は新聞記事の切り抜きをもっていた。その記事から警察の手が伸びてくる。男は言い逃れようと頭を働かせている。警察が最後の切り札として持ち出したのは、遺品のなかから見つけ出した、男の親指の爪だった。女は10年間たいせつに持ち続けていた。男が殺人者だということも知らずに、ただいちずに会いたいという思いだけがあった。男は女の気持ちはわかっていても、犯罪を隠すためには、殺すしかなかった。

 男は最初の二つの殺人は、自分が手を下したものではないと言い張った。担当した若い刑事(味村)は意気込んで、現実に大金を横領しており、言い逃れだと受け付けないが、明確な証拠はない。ふたりは刑務所からの出獄者で、事件の実行犯だったが、自分は何も知らないで外にいて見張りをしていただけだという。二つ目はふたりが仲間割れを起こし、暴風雨のなかひとりをボートから投げ落とし、自分にも迫ってきたので身を守っただけだと主張した。

 このふたつを認めなければ、第三の殺人についての審議には応じないと固執した。警察は時間稼ぎと判断したが、審議を中断した。次に犯人が打ち出した手は、北海道から来ていた、かつての担当刑事(弓坂)に頼み込んで、自分を現場に連れて行ってくれ、費用はいくらかかっても支払うからと言うのだった。現場に立たせることで真実が語られると思ったのか、この希望を警察は飲んでやった。

 人情深い味のある執念の、元刑事役を伴淳三郎が好演をしている。女が爪をもち続けたように、犯行を隠滅するために燃やした小舟の灰をもち続けていた。追い詰められた犯人はそれをにするとぶちまけてしまう。彼は連絡船から女の生家が見えたとき、用意してきた花束を海に向かって投げた。半分を犯人に手渡して、ようすをうかがっている。男は立ち上がり、悲痛な面持ちを抱いて、悔いるように見えたが、海に投げると同時に、自身も海に飛び込んでしまった。二人の刑事は複雑な思いで海を見つめている。

 船の残す波頭を写して映画は終わる。自分の罪をみずから裁いたということになるが、警察の失態であることは明らかだ。暴風雨のなかで生き延びたことを思えば、犯人は悔いて自殺したとは限らない。そんな柔なものではない、生き抜く執念をもった、生きざまのすさまじさも、もうひとつの解釈としては考えておいてよいかもしれない。