三川八恵写真展 北海道・野生の楽園に憩う

2019/10/30-11/14

明石市立文化博物館


2019/11/9

 「みかわやえ」と読む、若い女性写真家である。明石にいながら、北海道の自然に出会うことができた。身の引き締まる大雪山の原野である。写真というメディアと写真家というアーティストの介在によって、時間と空間が瞬間移動する。一年を集約した十枚の写真が十年分たまると、百点の写真展が成立する。百メートルあまりを数十分かけて歩行する中で、作者との十年の歩みを共有しているはずだ。そこには美しい女性写真家の神話が、立ち現れてくる。明石の女性が北海道に魅せられて、住み着いて写真家となった。

 ペアになったタンチョウヅルのショットがいい。鹿のペアの後ろ姿もいい。雪に埋もれた潔癖さが、土の肌ざわりを希求している。誰に見せるでもないはずなのに、男女の営みの崇高な体温が伝わってくる。つがいの鳥の息づかいの話だけではない。その大いなる暗示力は、人の世のストーカーのように下品ではなく、格調高く自然と一体化されている。時に一羽のはぐれた鶴が混じっている。羽を閉じて海を眺めている。人恋しくなる一瞬だ。

 ファインダーをのぞく心細いカメラマンの孤独がそれと同調している。もちろん孤独は荒野でヒグマと遭遇することもあるだろう。待ち続ける写真家の不条理に、ついつい星野道夫を思い浮かべてしまう。カメラは危険をかえりみない向こう見ずな兵器でもあるのだ。命とひきかえになるように思ってしまうのは、報道カメラマンや登山家とも共有する信仰にちがいない。

 山岳写真家というチャレンジは確かにあるだろう。しかし自然や動物だけではなく、みずみずしい感性がヒトの住む都会に目を向けた時、また異なった写真が誕生するのではないかと思った。明石出身のすぐれた写真家に米田知子がいるが、彼女は風景に歴史の記憶を埋め込んだ。人類未踏の地はもはや地球上にはないだろう。どんな原野にも人が踏みしめた歴史があるとするなら、大雪山(だいせつざん)という雄大な名をつけたヒトと自然との出会いを呼び起こす、そんな深みのある写真へと、さらに進化する可能性を秘めている。

 セザンヌはサントヴィクトワール山だけを描いたわけではない。山を見るのと同じ感性で、卓上のリンゴを描いている。それでもなおかつ、どれをとってもセザンヌなのだ。それは自然に実ったリンゴではない。ヒトがもぎ取ってテーブルに置いたリンゴである。世界中を旅する山岳写真家になる必要はないだろう。どこにでもリンゴはあるのだから、そこにしかないリンゴを描いてこそ、エクス・アン・プロヴァンスに住む意味がある。「発掘された明石の至宝」を訪れたのに、思わぬこころの収穫を得ることができた。透明感のあるいい写真展だった。


by Masaaki KAMBARA