第11章 最後の審判

第749回 2024年4月14日  

世の終わり

これまでは「快楽の園」を三回に分けてみてきた。これも形としては「最後の審判」の体裁をとっている。「快楽の園」というタイトルがついているので、最後の審判そのものではなさそうだ。そうすると最後の審判とは何かということになってくる。キリスト教の主題としては、数多く描かれてきた歴史がある。キリスト教独特の考え方だろうと思う。終末思想ということで最後の最後はどうなるかという話である。それを知るためにはキリスト教のものの考え方を理解しておく必要があるだろう。

仏教ほかどんな宗教にも世界の終末、世の終わりという考え方はある。仏教では前世とか生まれ変わってからという話がよく出てくる。この世に生まれる前は何だったのか、悪いことをしていると生まれ変わって人間になってこれないなど、輪廻転生を特徴とした。その場合は死ぬこと自体は恐怖ではないかもしれない。キリスト教世界では生まれ変わりはない。始まりがあれば終わりがある。そのためには最後の死を恐れる。人間はだれしも死後はどうなるのか、子どものころから大人になるまで考え続けてきた。やがてそんなことを考えてもわからないことに気づき、なるに任せてそのうち心も体も老いていくと考えなくなっていくものだ。痴呆老人となっていろいろと考えないことが楽だろう。明晰な頭脳の場合はつらいものがある。そんなときキリスト教世界ではどう考えたか。世の終わりは「最後の審判」という図像によって描かれ続けてきた。オータンのサンラザール大聖堂に、ロマネスク時代につくられた作例がある。共通しているのは、中央にキリストがいて審判を下している(図1)。左右で天国と地獄にふるい分けていく。

図1 「最後の審判」オータン

第750回 2024年4月15 

キリストの生誕

世界は始まってから終わるまでどのくらいあるか。最初に想定されたのは千年刻みで6日間である。神の一日は、人間の尺度だと千年にあたる。6日で6000年、日曜を含めると7日で7000年ということだ。歴史とともに引き延ばされてくる。千年刻みがキリスト教世界では重要視されてきた。ミレニアム(至福千年)という考え方がある。キリストが生まれてから千年間はこの世は至福に満たされる。西暦千年という数字が気にかけられた。千年がすむと世の中は、天変地異が起こり、人心は腐敗し、悪魔が降りてくる。アンチクリストという存在もよく知られる。偽りの預言者であり、ボスもキリスト生誕の場面で、謎めいた半裸の王を描いていて、アンチクリストと解釈される(図1)

キリストが出てくるときには、先にメッセンジャーボーイがいて、洗礼者ヨハネだが、預言者として救済者の訪れを告げる。キリストは三十数年この世にいて、罪をあがなって去っていく。人間は生まれながらに罪をもっていて、原罪という。アダムとイヴが犯した罪をキリストがあがなう。世を救うためにみずからが犠牲になって、十字架にかかる。キリストが出てきて千年というのは、生まれてからなのか、あるいはキリストが世を去ってからなのか。キリストが生まれたのは、西暦0年はないので西暦1年である。赤ちゃんは0歳からはじまるが、年号は西暦1年から始まり、1年間のずれが生じる。キリストの年齢は30歳説と33歳説があり、はじめは30歳でこの世を去るとされたが。その後の研究から33歳説が有力になった。キリストは西暦1年誕生とされていたのが、紀元前4年あたりに訂正された。

図1 ボス「三王礼賛」部分

第751回 2024年4月16 

西暦千年

西暦千年というときにも誤差が生まれてくる。千年という数字がこびりついていて、西暦千年の少し前から、ヨーロッパでは不安感が立ち込めてくる。千年を前にしてパニック状態が起こる。どんなときにも洪水や疫病がはやるが、直前に起こると結び付けて語られることになる。恐れながら西暦千年を過ごすが、しばらくは何もないということになると、次の設定に移行する。

この段階で様式の変化が出てくる。それがロマネスク様式である。西暦千年を過ぎたところからロマネスク美術はスタートする。宗教建築がラッシュのような勢いで建設されていく。これは建設的なもので、この世は救われたという判断で、感謝とともにいずれやってくる世の終わりに備えて、洪水に耐え抜くような堅固な建物をつくる。そこから石造りのロマネスク建築が生まれてきた。11-12世紀と引き継がれていく。

次の区切りは二千年ということになるが、その中間にある1500年という年号が、次のターゲットになっていった。このときも終末思想が1490年代から不安感を伴って登場する。この時に最後の審判が一塊となって描かれていく。ボスが出てくるのもこのあたりである。西暦千年を過ぎた頃の作例はオータンのタンパンに描かれたレリーフ彫刻だった。ヴェネツィア近郊のトルチェッロ島にあるビザンチン系のモザイク壁画もこのころに登場してくる(図1)。時代を通じて継続的に描かれたというよりも、世の不安が高まってきたときに思い起こされるテーマだった。

図1「最後の審判」トルチェッロ

第752回 2024年4月20 

第二のノアの洪水

世の終わりは第二のノアの洪水でやってくる。これは水責めだが、火が燃え盛るイメージも加わる。自然の猛威という形で押し寄せてくる。世の終わりのイメージの原点は、聖書中ではヨハネの黙示録だった。新約聖書の末尾に出てくるものだ。これを書いた聖ヨハネは、晩年パトモス島というエーゲ海の島で執筆した。天使がやってきてラッパを吹きならすと世の終わりのはじまりとなる。そこからスペクタクルなイメージが、文章でつづられていく。読んでいてダイナミックなイメージを掻き立てられるものだった。その後いろんな画家が黙示録をベースにしながら絵画化していった。ボスの同時代ではドイツのデューラーが版画のシリーズを描いている。これもその当時としては、ヨーロッパ中に知れ渡った。それだけ世の終わりを恐怖していたあらわれだろう。

終末の時が近いというときに、ボスは最後の審判の主題をかなり描いていた。現存で大きくて保存状態の良いのが、ウィーンの大学の付属美術館に所蔵される作品である(図1)。大作だが細かく描きこまれている。図像学的にはふつうは、中央にくるのは審判をする場所で、世の終わりの場所であり時刻である。そこにキリストが登場し、左右に人間の魂を分ける。それに先立って魂の復活がある。

図1 ボス「最後の審判(中央パネル)」ウィーン

第753回 2024年4月21 

死者の復活

今まで死んだ人間は山ほどいる。埋葬されたり焼かれたりして、地下に眠っている。それが最後の審判の始まりを告げるラッパの音が聞こえると同時に、死者が復活してくる。土から身を起こしながら、立ち上がってくる(図1)。死んでしまっている人間だから、そのまま出てくれば骸骨だろうが、描かれた絵では成人男女の姿を取っている。その考え方は決まっていて、死んでしまった人間は復活するときは、常に30歳の年齢である。すべてが若者の姿で復活してくる。死んだ人間全員であり、人間の姿は取るが、本来は魂である。魂が人のかたちをとって復活してくる。これまで死んでしまった人間の数などは計り知れない。絵画ではそれだけの数が必要だ。なかには赤ちゃんで死んでしまった者もいれば、高齢まで生きた人もいる。ところが最後の審判でよみがえってくるのは、全員30歳という年齢だ。最後の審判では子どももいなければ、老人もいない。

死んでいる者が生き返るので、衣服は着ていない。裸体で土を掘り起こして出てくるのが多い。西洋での復活のイメージは、つねにこびりついている。最後の審判での復活というのと、その前にキリストが一度死んで三日後によみがえるものがある。キリストの復活と最後の審判での復活が区別させる。最後の審判で復活して土から身を起こす姿は、例えばマイケルジャクソンの「スリラー」という長いミュージックビデオで出てくる。死者が土から起き上がって踊り始める。このイメージは最後の審判での死者のよみがえりなのだろう。似たような絵画表現は15、16世紀から脈々と続いてきたものだ。

図1 ルカ・シニョレッリ「死者の復活」オルビエート壁画(部分)

第754回 2024年4月22 

大天使ミカエル

キリストが中心になって左右に分けるが、キリスト自身がふるい分ける場合と、大天使ミカエルが代行する場合とがある(図1)。代行の場合はキリストは天上の位置からそれを眺めている。ミカエルが主人公の場合もある。そこでは天国行きと地獄行きに分かれる。キリスト教の世界では、最後の審判だからそこから先はない。天国になった人間はそこから先はずっと天国、地獄に落とされた人間は地獄のままで、二者択一しかない。誰もが天国に行きたいというので、どうすればいいかというと、今を清く正しく生きなさいという考え方につながっていく。七つの美徳や七つの大罪が出てきて、罪は犯さない、美徳はすすんでしなさいという教訓で脅しながら、最後の審判での地獄行きを思わせて、宗教的な信仰を増やしていった。

図像的にはミカエルが秤を手に登場する。これは人間の魂の重さをはかるためである。軽い重たいで測るが、天国に行くのは重いほうか軽いほうかは混乱している。逆になっている例がある。一定しなかったようだが、魂の重さは罪の重さとはちがうので、重いほうが天国に行けるのかと思ったりもする。絵画上ではそのルールはうかがえないが、図像的な約束事である。

図1 ファン・デル・ウェイデン「ボーヌ祭壇画」部分

第755回 2024年4月23 

魂の重さ

魂を二つ秤に乗せると、どちらかが重く、どちらかが軽いということになる。そうして測っていくと半々に分かれていくので、天国行きと地獄行きは同数ということだ。これも時代によって異なっている。絵画の場合明らかに出てくるのは、例えばボスの絵を見ていると、中央パネルは審判を行う場所だが、夜の闇に包まれていて、そこではすでに地獄の責めが始まっている。天国のほうは、実は天国になっていなくて、エデンの園で置き換えられている。人間としてはアダムとイヴしかいない。地獄のほうはかなりの魂が責め苦を味わっている。ボスの場合は押しなべて、すでに現実世界すらも地獄の様相を呈している。

ボスよりも3-40年前に描かれたメムリンクの「最後の審判」を見てみると、左翼は天国行きだが階段があって、天使に手を引かれながら裸体の男女が天国に昇っていく(図1)。数多く列をなしながら天国に向かう。地獄も同数ほどが逆さになって奈落に落ち込んでいく。メムリンクでは半々ということになるようだ。中央ではミカエルが秤で二人の魂を計量している。ここでは魂の重いほうが天国に行っているようだ。ミカエルの上には虹がかかっていて、その上にキリストが腰を掛けている。顔を見るとキリストの顔とミカエルの顔はそっくりである。これは15世紀ボスと同じ地域に出てくるものだが、少し早い年代であり、まだ終末思想がそれほど大きく世を支配してはいなかったのだろう。 

図1 メムリンク「最後の審判」1460年代末

第756回 2024年4月24 

アンチクリスト

世の終わりが近いという考え方自体は、1500年を終末の年と考え、ボスのいたオランダだけではなくて、イタリアでも根強く残っていた。イタリアではルカ・シニョレッリがオルヴィエート大聖堂のチャペルをまるごと終末のイメージでおおいつくした。天国と地獄を描く中で死者の復活も出てくるが、アンチクリストという人物をメインに据えて描いている(図1)。最後の審判でアンチクリストがわかるような表現で登場するのは珍しい。偽りの預言者が当時のフィレンツェに登場した。サボナローラというドメニコ会修道士だったが、フィレンツェという堕落した町を、キリスト教で救おうと言い出して、厳粛な政治を打ちたてた。それがあまりにも厳しいものだから不満が出てくる。メディチ家の勢力が下降気味のところに、終末思想がはびこり、神の国をつくろうというサボナローラの考えに同調していく。多く描かれていたヴィーナス像をはじめとしたギリシャ神話の裸体表現を広場に集めて焼いてしまうという過激なことを始めた。最初は人心を得たがだんだんとサボナローラから離れていって、やがて世の終わりに出てくるアンチクリストではないかといううわさが拡大していき、教会の側からも怪しまれ、異端審問にかけられる。そして火あぶりの刑に処せられた。1497年のことである。サボナローラ伝説をもとに2,3年あとに描かれたのがシニョレッリの壁画だった。

図1 シニョレッリ「アンチクリスト」オルビエート壁画部分

第757回 2024年4月25 

サボナローラ影響

サボナローラの考え方に染まっていった画家が何人かいた。一人はボッティチェリで、以前はヴィーナスの登場する神話世界の裸体表現をずいぶん描いていた。サボナローラからの感化以降は神話世界の絵はやめて、キリスト教の重苦しい雰囲気のする死せるキリストやマリア像を描くようになった(図1)。はては絵画をも否定して、晩年は制作もしていない。同じように若者であったミケランジェロも一時期サボナローラ熱に浮かされて、自分のスタイルを見失った。

ミケランジェロについてはその後、同じように最後の審判をシスティナ礼拝堂に描いた。このテーマの絵画としてはもっともよく知られるものだろう。イタリア人なのでこれを描くに先立って、イタリアにある先例を研究しただろう。少し前のシニョレッリのものも参考にしたはずだ。ミケランジェロが描いたころは15世紀末の終末の年は越えて、安定感のある時代に入っていた。ボスのような重苦しい雰囲気はない。審判をするキリストにしても、筋肉流々として、弱弱しい旧来のキリストのイメージはない。ギリシャ神話の全能の神のようなたくましさをもつ。キリスト教絵画ではあるが、ルネサンス真っ盛りの華やかさがある。

ミケランジェロがこれを描くのに直接影響されたと思えるのは、ジョットの「最後の審判」である。イタリアルネサンスの草分け的存在で、北イタリアのパドヴァにある。構図的には似通ったもので、教会内部の壁面に描かれ、図柄もキリストが中心にいて天国と地獄を右と左に振り分けている。中心を挟んで左右という描き方のルールは変わらない。

フラ・アンジェリコも印象的な最後の審判を描いている。天使の画家だというレッテルが張られるが、天国だけではなく、地獄も描いている。シニョレッリの壁画でも一部アンジェリコが天国部分の描写に携わっている。世紀末に足を踏み入れつつもアンジェリコのほうはまだ楽天的イメージが残されていた。

図1 ボッティチェリ「キリストの哀悼」

第758回 2024年4月26 

左右の問題

キリストが天国と地獄に分ける左右の話は、話題になるものだ。マタイによる福音書を原点とするもので、羊と山羊をふるい分ける話だ(図1)。右に羊、左に山羊を記述される。羊はキリストの犠牲のシンボルである。弱きものから善人に対応する。山羊は悪を意味する。山羊には気の毒だが、角が生えて悪魔の変身となっていく。

左右にふるい分けるが、神が対面していれば左右は逆転する。神の右側はそれを見ている私たちには左側になる。最後の審判図では天国は神の右側、つまり私たちの向かって左側となる。「向かって」という言い方が使われるが、何もなく右、左と言ったときには、相手の身になってのことである。それがだんだんと見るものが中心になっていったようで、現代では絵画の右側といえば、絵画にとっての右側ではなくて、見る者にとっての右側だろう。しばらくは「向かって」という但し書きがはさまれたということだ。

どうして右は善で、左は悪なのだろう。英語ではライト(right)とレフト(left)だが、ライトは右であると同時に、正しいという意味を持つ。レフトは去っていく(leave)に対して、去られるという意味だ。置き去りにされるということで、悪という意味はない。これには身体性が関係しているかもしれない。人間には心臓が左についている。敵が攻めてきたときに心臓をかばおうとする本能があるとすると、右手で応戦をする。右手が前に出ることによって、左手は置き去りにされてしまう。英語だけでなくヨーロッパの言語では同じ発想で左右の対比は考えられている。日本語の左右の意味も気になるところではある。

図1 ラヴェンナモザイク 6世紀

第759回 2024年4月27 

タンパンと壁画

 ロマネスク教会での最後の審判は、入って行くときの玄関のタンパンという箇所に置かれている。それに対してジョットーやトルチェロやミケランジェロの壁画では、同じようにアーチ形の空間にあるが、それぞれは教会やチャペルに入って、振り返ったところに描かれている。一番奥には祭壇がある。入り口は西側にあり、祭壇は東側を向いている。ジョットーのスクロヴェーニ礼拝堂では、キリストの生涯をたどったあと、最後に出ていくときにこれを見ることになる(図1)。ロマネスク建築の場合は逆に、最後の審判を見て教会内部に入って行く。教会内部が地獄ではないはずで、天国への選択がそこではおこなわれているということになる。教会は天国だという設定がされている。ジョットーのものはそれから数百年あとにでてくるが、そこでは最後の審判を経て現実世界に出ていく。教会内部をどう見るかというちがいである。ロマネスクからゴシックへという時代の推移を合わせて考えておく必要があるだろう。ロマネスク建築は第二のノアの洪水が起こったときに逃れる救いの場所だった。ゴシック教会は人々の集まる現実世界だった。堂内は現実世界そのものである。

 ボスの時代の祭壇画を経て、その後のバロック絵画の中でも画題は受け継がれていく。ルーベンスでは肉体が氾濫し、勢いよく地獄に落ち込んでいく。ここでは終末思想は乗り越えて、絵画としてのダイナミズムを最後の審判の中に求め始めていった。スペクタクルで見せようとし、空間が動揺している。ミケランジェロの中にもその兆候はあり、17世紀への橋渡しとなっただろう。

図1 ジョットー「スクロヴェーニ礼拝堂」

第760回 2024年4月28 

七つの大罪

 「七つの大罪」を描いたボスの作品があるが、ここでも最後の審判が登場する(図1)。中央の円形の中に「七つの大罪」のそれぞれが日常生活の悪徳として描かれている。四隅には「四終」というテーマが登場する。四つの終わりは、「天国」と「地獄」と、「個人の死」と人類の死、つまり「最後の審判」である。人間の目の構造をしていて、中央の瞳にはキリストが登場して、自分の傷口を見せている。三日後に復活するときのキリストのポーズである。胸にできた傷を見せながら、「気をつけなさい、神が見ていますよ」ということばを発している。

図1 ボス「七つの大罪」

第761回 2024年4月30 

煉獄の誕生

ウィーンの作品では、中央場面は現世だがすでに地獄の様相を呈している。キリストは虹の上に座って、右手は上げて祝福のポーズ、左手は下げて地獄に堕ちろという意思表示が見える。マリアがいて天使がいる。聖人たちはすでに天上世界にいる。人間は一回死んでのち、もう一度死ぬ。「007は二度死ぬ」という映画があったが、これも西洋の発想だろう。一度目は個人の死、二度目は最後の審判による人類の死である。一度目の死では、地獄行きか天国行きかはすぐには決まらない。最後の審判が始まるまで、ある場所にとどめ置かれているという考え方が、やがて出てくる。それが「煉獄」という思想である。

 煉獄という薄暗いところに長らくいて、それが天使のラッパとともに復活してきて、本格的に天国と地獄に分かれる。ところが聖人は死んだときに煉獄に行かずに、そのまま天国に行く。最後の審判時にキリストだけではなく、諸聖人はすでに天上にいるのだ(図1)

図1 ボス「最後の審判」中央パネル部分