カラヴァッジョ展

2019年10月26日~12月15日

名古屋市美術館


2019/11/28

 アーティストの生きざまとしては魅力に満ちている。身近にいても困りものだが、作品と抱き合わせてみると偽りのないアウトローを浮かび上がらせている。絵画の才能はいつ、どんな形で開花するのだろうか。ルネサンスの遺産を超えることはできないと誰もが思っていた時代に、あっさりとこんな方法があるぞと言ってのけたのが、カラヴァッジョ(1571-1510)だった。フィレンツェでもヴェネツィアでもなく、ミラノという町が育てた資質であった。そこはレオナルドの呪縛が息づいていた地でもある。レオナルドを意識してか、この画家は生まれながらにしてミケランジェロという名を携えていた。フルネームはミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョという。

 明暗のコントラストを強調することで、遠近法を用いずに、奥行きを実現する。カラヴァッジョの絵を写真に収めることは難しい。目では見えていた闇が、光を帯びてしまうのだ。闇に焦点を当てようとしても、手がかりとなる点も線もなく、機械の目は判断を決めかねて、前後運動を繰り返している。このぼかしには、レオナルドが靄をかけてスフマートを確立した遺産が、カラヴァッジョに引き継がれている。

 写真の目に慣れた20世紀が面白がったのは、カメラが写しきれない空間だった。バロックの世界観の誕生と、カラヴァッジョの空間意識とは共通していて、いかに遠近法の呪縛から逃れるかに、意が注がれた。そのためにはカメラの目が写しきれない世界を探ること。ルネサンスの、ことにレオナルドを乗り超えるために、目をつけたのが闇の存在だった。

 闇に隠れて歴史上のさまざまな事件は行われてきた。それは白日を好んだルネサンス絵画が描き損ねた主題でもある。グロテスクとエロティシズムがそこでは同居している。カラヴァッジョは卑俗な目を注いで、民衆の味方をした。聖なるものが俗なる痴情に引きずり下ろされる。聖人でも足の裏はよごれて黒く、農民のような風貌で、大地と溶け合っている。不信のトマスがキリストの胸の傷に人差し指をねじり込む時の目は、カラヴァッジョの異形を伝えるものだ。血なまぐさい鮮烈は大衆好みの心情で、日本映画になぞらえれば、昭和の時代に松竹や東宝に対して、東映が打ち出した映画路線とも連動するものだろう。小津や黒澤のクラシックを越えるためには、バロック化せざるを得なかったということだろう。その後のロココ的変質はポルノを持ち出す日活に譲るとして、カラヴァッジョはクラシックを駆逐するのにあくまでも暴力に頼ったということになる。


by Masaaki KAMBARA