日本建築の自画像 探求者たちのもの語り

2019年09月21日~12月15日

香川県立ミュージアム


2019/11/1

 まじめな、いい展覧会である。日本的という建築概念を真剣に考え続けた建築家の系譜を、香川という風土に根ざした具体例をあげながら、跡付けていく手がたい態度に好感がもてる。建築展はこのところ見世物としてあっと驚くようなパフォーマンスも多くなったが、土に根ざし風土という自然論を哲学にした重厚な思考を待望していたのではないかと思う。

 伊東忠太の大部の卒業論文が展示されていたのは感動的だった。建築家ではあるが、まじめに国の将来を考え続ける哲学者でもあったことがよくわかる。人の命を扱う医学者が、哲学者であるのと同様に、人が住むという営みをとことん考えれば、哲学にならざるを得ない。机上の論理でないことは、中国に出かけ、やがてヨーロッパへの建築巡礼の中で、机上でも砂上でもない楼閣を築くことで、実証されていく。

 人類は誕生の時点で、どんなところに住んだのかという実証を求める問いかけが繰り返されていく。竪穴式というプリミティブな工法の歴史が、考古学的な実地の測量を通じて、解き明かされていく。図面とモノクロ写真と簡素な模型という地味な組み合わせの中に、シンプルな日本の感性が息吹いている。伊勢神宮や桂離宮といった日本美の定形は、坂口安吾などの都会派からは批判されたというが、都市が混沌であることがわかっているからこそ、何もない自然に一本の線を引こうとするのだ。

 モダニストは押し並べて都市生活者だし、自然を憧れたとしても、鎌倉や茅ヶ崎といった人工化した飼い慣らされた自然に住んだ。ワイルドということばを持ち出すと、ひ弱な都会人に変身してしまうことも多い。蝶ネクタイをつけて髪をオールバックになでつけた丹下健三の写真からうかがわれる所作の連想は、都会人の身のこなしといったものだろう。東京生まれの都会っ子に才能が伴い、文化環境に育てられれば、田舎者には太刀打ちできないだろう。

 これが丹下に抱いたイメージだったのだが、実際は違っていた。戸籍を調べると、大阪は堺市の生まれとある。つまり商人の堺、千利休だったのである。ワイルドをかかげた岡本太郎の骨太を対極に見ていたが、岡本は東京生まれでパリ育ち。つまり生粋の都会っ子であればこそ、わびさびと江戸の粋(いき)の文化を嫌った。都会の喧騒は実はワイルドで、都市計画を外れた裏町と路地に、飲んだくれの無頼漢が息づいている。

 こうしたねじれと逆説に支えられた日本建築論は、仮設の竪穴式住居へと回帰していく。三角形の円錐で張り出されたテント構造は、人類のルーツと原始の造形感覚を蘇らせてくれる。土に根ざした定住への意志が、いつでも移動できる仮設の思想にも引きずられている。60年代を駆け抜けたテント演劇は、演劇史だけではなくて、建築論として見直す必要があるだろう。丸太を組み合わせた竪穴式の骨組みが展示されていたが、目をこらして見ると、柱をつなげた輪郭が、マンモスやゾウの体内のように見え出してきた。風が吹くとパタパタと音を出して揺れる自然の迫力と抱き合わせにして、この野外演劇は自然神とアニミズムに近い位置にあった。もちろんルーツはサーカスにあるだろうし、移動式住居という点では、歴史はずっとさかのぼることになる。

 第三の自画像とされた最後の展示室には、足場が組まれ高みから展望できる仮設の実演がなされていた。陣を張った高みからの見物。地に根ざした建築が羽ばたく時である。しかしそれがいつも地に根ざすものであることは、宮脇檀の金比羅参道の断面図が示して見せた。金比羅参道絵巻とよんでもよいだろう、絵巻物を見るように絵画的で、傾斜地が示す心理的動揺が、みごとに結晶している。建築家のドローイングとしては最高の部類に入るものだろう。たぶんこの絵巻物の展示は斜めにしないといけない。モンドリアンならそう言うだろう。


by Masaaki KAMBARA