第471回 2024年5月26

ハッド1963

 マーティン・リット監督作品、原題はHud、アカデミー賞主演女優賞、助演男優賞、撮影賞受賞。父親(ホーマー・バノン)から愛されない息子の話。亡くなった兄の面影を、父親はいつまでも引きずっているからなのか、弟(ハッド)は反抗的でひねくれた人間になってしまった。三十代半ばになるが、まだ独り身でいる。映画タイトルが示すようにこの主人公を中心に話は展開する。男っぷりは良くて女にはもてるが、道徳からは逸脱している。

 はじまりは朝帰りをする場面からで、甥っ子(ロン)によって、おじいちゃんが呼んでいるとの知らせを受けた。ふつうの一軒家の前に車が停めてあって、ブザーを鳴らすと眠そうに叔父が出てきた。シャツのボタンはまだ外れたままで、玄関先にはハイヒールの片方が転がっていた。あわてて戸口から放り込み、そこには誰かいて、ことばをかわしていた。朝の6時台のことである。

 車が止まり年配の男が降りて来ると、叔父はあわててブーツを履き終えていた。夜勤明けだったのだろう、男は自分の家に何の用だと言っている。不穏を感じての剣幕に、肩透かしを食わして、甥を悪者に仕立てて、この家をあとにした。未成年の若者の火遊びに見せかけたのだった。

 去りぎわにひとこと、男が糖尿病であることをあげつらっていたので、人妻との情事は明白だった。その後、この人妻とは、人目を避けることもなく公然とデートをしていて、同じく男同士の映画館でのデート帰りの、父親と甥がいるレストランで出くわし、平気で夫人の名で、相手を紹介するという無神経も披露することになる。父は息子を毛嫌いし、亡き長男の一粒種だった孫を、その生まれ変わりとして愛していた。

 急用は飼っている牛が一頭、原因不明の死をとげたことだった。そんなことぐらいで呼び出すなと言ったが、それは父親からの信頼感のあかしでもあった。息子は深刻には受け止めていないが、父は獣医に見せようという。伝染病(口蹄疫)の疑いが出されると、息子は、検査結果が出るまでに、今いる牛を早急に売りさばいてしまおうと言う。父はそんなモラルに反することはできないと、軽率な息子を叱責する。

 甥は、活動的で女の扱いにも手慣れた叔父を憧れていたが、その考え方にはついていけない。父親とことごとく対立する姿を見て、悲しい思いをしている。叔父から自分の父親のことを聞いていた。叔父の兄だったが、兄弟が事故に遭遇して、兄が死に、弟が生き残った。父親は兄が死んだのは弟のせいだと思っている。

 弟は兄とは仲がよく、ふたりして女遊びもして楽しんでいた。叔父は甥をかわいがって、あちこちに連れて行こうとする。甥は叔父の身のこなしをまねようとするが、非情な考え方についてはいけない。父親は肌身離さず死んだ息子の写真をもっていて、孫にそれを見せている。そのとき孫は自分の父が最愛の息子として愛されていたことを知り、同時に叔父が父から愛されてはいないことも思い知った。

 家にはメイド(アルマ)が雇われて、男たちの世話をしていた。はじめ見たときは、父親の後添いかと思ったが、そうではなかった。兄は機会があれば、彼女に言い寄っている。結婚歴はあるようだったが、今はひとりでこの家に住み込んでいた。歳は食っているが、魅力的な女性だった。甥もまた彼女を愛していたが、子ども扱いをされるだけですまされた。

 酔った勢いで主人公が彼女の部屋に入り込んで、無理矢理にからだを奪おうとしたことがあった。その後、女に無理強いを迫ったのは、これがはじめてだったと言い訳をしているが、それは女に向ける愛の本心であったのだろう。抵抗をしながらもからだを開こうとしたときに、助けに入ったのは甥だった。救われたとき女の表情に、微妙な翳りがみえたのが気になっていたが、のちに彼女がこの家を去るとき、無理矢理でなければ、自分は受け入れていただろうと、主人公に語っている。甥の潔癖な子ども心は、複雑な女心を読み取れなかったということだ。

 一家が離散するのは、牛の伝染病が確定したことによる。何百頭といる牛がすべて殺処分されることになる。穴を掘り牛を誘導して、身動きの取れないほどにひしめいている。上から銃で撃ち殺し、ブルドーザーで土をかぶせる。穴を取り囲んでいっせいに銃殺するシーンは衝撃的だ。牛がもがく姿もはさまれていたが、あまりに生々しいと、動物愛護の精神からは批判されることになるだろう。牛の表情が大写しになると、その悲惨さは高まってくる。父はツノのある二頭の牛についてはこだわりがあった。他人に撃たせることをためらって、最後に自分の手で処分した。

 息子は主導権を握ろうとして、弁護士に相談していた。父親が亡くなる前に所有権を手に入れようと考えていた。牧場をやめて、油田の開発によって、利益を得ようとしたが、父が耳を貸すことはなかった。傷心の父が事故で命を落としたことから、息子の思い通りになるが、廃業とともに二人の従業員とメイドが去り、甥も叔父に愛想をつかしたように去っていく

 甥の母親については気になるかもしれない。さまざまに考えることができるだろう。兄が死んで実家に戻ったとするならば、甥は母を頼って出ていったとも言える。兄が弟と同じような遊び人だとすれば、火遊びの責任をとって生まれた子を引き取ったのかもしれない。道楽息子であったとしても、死なれてみれば、父親にはかけがえのない理想の息子だった。

 主人公が目覚めることはなかったが、父親から愛されたいと願い続けていたのだと思う。心を開くことのない非人情に対して、強引さに反発しつつも心を動かすメイド役と、息子を愛することのできないジレンマに悩む父親役が、アカデミー賞を受賞した。ただしポール・ニューマンが主演男優賞を取り損ねたのは、配役のせいであって、俳優のせいではない。前作の「渇いた太陽」(1962)と合わせて、オスカーを前にした授賞式での、名優の悔しい思いが目に浮かぶ。

第472回 2024年5月27

枢機卿1963

 オットー・プレミンジャー監督作品、原題はThe Cardinal、トム・トライオン主演、ゴールデングローブ賞作品賞、助演男優賞受賞。カトリック教会内部での話であるが、宗教上の問題を抜きにしても、考えさせられることが、多く含まれていた。枢機卿となった主人公(スティーブ・ファーモイル)が、過去の出来事を思い出すかたちでエピソードが綴られていく。

 父親はボストンの市電の車掌をしていたが、息子は神学を学び、神父としての仕事に従事することになる。宗教改革の研究をしていて、学術的成果は優れているが、司教から枢機卿、さらには教皇という出世街道にはたいして役には立たない。世俗にまみれた資金集めの手腕が問われ、時の権力者との妥協も必要になってくる。

 アメリカ人としてイタリアに学び、ローマからウィーンへと居を移し、アメリカとの行き来もあるが、ヒトラーによるドイツの侵略を時代背景にして、いかに生き抜くかを問いながらスリリングに物語は推移する。妹(モナ)がいて兄に相談を持ちかけている。恋人がいてユダヤ人であるので、家族から反対されている。結婚をするには改宗が必要になってくる。兄は説得を引き受けるが、信仰のちがいを思い知ることになる。はじめ寛大であったが、男を説得できず、妹に別れるよう態度を硬化させた。

 信頼していた兄に裏切られ、男が従軍すると、妹は悲観して家を出て、行方不明になってしまう。その後、身をもち崩して、酒場のダンサーになっていた。ペアを組む相棒の男は前科者だった。さらにはその男とも別れ、妊娠して苦しんでいるのを発見され、病院に運ばれるのを兄が立ち会うことになる。難産で子を引き出すか、母体を優先させるかの選択を迫られる。近親者として兄に判断がゆだねられると、神父としては子を殺すことは許されないことだった。そのために妹は命を落としてしまった。子は助かりその後も孫として実家で育てられることになる。

 非情なまでのキリスト教の掟に疑問をいだいて、神父の職を辞そうとするが、目をかけてくれる枢機卿に引き止められた。潔癖で世渡りはうまくはなかったが、ローマで学んだ恩師(クワレンギ)をはじめ、可愛がってくれる上司には恵まれていた。辞職ではなく休職という形で、1、2年の考え直す時間を与えられる。

 主人公の潔癖さは黒人神父の陳情が、法王庁で受け入れられなかったとき、許可も得ずに単身でアメリカに乗り込んでいた。なかを取り持った責任もあったが、人種差別に直面する教会問題を、見過ごすわけにはいかなかったからだろう。現地では白人グループから手ひどい拷問を受けていた。

 若い神父を育てようという枢機卿(グレノン)の親心は、彼を最悪の環境にある教会に派遣していた。そこにいた神父(ハーリー)から人格を学ばせようという思いからだった。赴任後その神父は病いに伏せって難病で倒れるが、資金不足で十分な治療もできない。出世街道からは外れたが、枢機卿の昔からの仲間であり、その高潔な精神に若者を託していた。

 病いであることを聞くと、この高位聖職者は見舞いに訪れていた。神父が亡くなり、主人公はこの小さな教会を引き継ぐものと思ったが、枢機卿はここは閉鎖して、主人公は自分の秘書として、育てていくことにしていた。味のある枢機卿を演じたのは、監督として著名なジョン・ヒューストンで、アカデミー賞助演男優賞を獲得した。

 休職した主人公は、英語教師としてヨーロッパ各地をまわるが、ウィーンにいたとき、教え子でもあった女性(アンネマリー)と出会い、積極的な誘いを受け入れて、恋愛関係になっていた。前職が神父であったことを聞いて娘は驚いた。彼女は夜会の衣服を用意して、男を社交界に誘っている。男も甘美な世界に酔うが、女を取るか神を取るかの最終的判断は、女が着飾って赤い服を着て待ち合わせのカフェに行ったとき、男は僧服を着ていたことによって決した。その姿を目にとめたとき、女は顔をあわせることなく立ち去っていた。別れのことばを聞くのがつらかったのだろう。

 その後、ふたりが再会したとき、女は結婚をしていた。夫はユダヤ人の銀行家のようであり、財産を隠し持っての国外逃亡を、ゲシュタポに嗅ぎつけられると、夫は恐怖心から飛び降り自殺をしてしまった。求められるままの不本意な結婚だったと打ち明けている。妻は身の安全を求めて、すでに高位聖職者になっていた主人公のもとに向かう。

 かつての罪意識もあってかくまうが、立場を悪くすることにもなる。ドイツがオーストリアを併合し、ヒトラー万歳が叫ばれるなかで、女はあきらめをつけて出頭した。主人公がかけつけて牢獄の鉄格子ごしに、顔を見あわせ励ますが、最後の別れとなった。ロミー・シュナイダーの艶やかさが輝きを放ち、社会的栄光を選択した聖職者には悔いが残った。

 枢機卿にあこがれて、アメリカ人であることも有利に働いて、自分もその地位にのぼり詰めることができた。にもかかわらず主人公が人生を振り返るなかで、なくしてしまったものも少なくなかった。老いた母親をいたわるように、肩に手をかけて歩いていく姿は、勝利者の誇りではなく、憂鬱げにみえる。妹を死なせ、恋人との生身の愛を成就することのできなかった、至らない自己への無念の思いだったにちがいない。

第473回 2024年5月28

あなただけ今晩は1963

 ビリー・ワイルダー監督作品、原題はIrma la Douce、シャーリー・マクレーン、ジャック・レモン主演、アカデミー賞音楽賞(アンドレ・プレヴィン)、ゴールデングローブ賞主演女優賞受賞。小粋なラブコメディである。トリッキーだが、考えさせられるところもある。サスペンスタッチでミステリアスにもみえる。融通の効かない職務に忠実な警官と天真爛漫な娼婦が、恋愛のすえ結ばれる話。とぼけたふたりのやりとりが絶妙だ。前作「アパートの鍵貸します」とあわせて見ておきたい一作である。

 路上で立っていて客を拾ってホテルに入っていく娼婦(イルマ・ラ・ドゥース)が主人公で、その場その場でちがった身の上話をして、客の同情を引いて既定料金とは別に、余分のチップを得ようとしている。客はいちようになぜ君のようなひとが娼婦などしているのかと聞くところからスタートする。男たちは涙ぐましい話に感銘を受けている。なかには現金がなくてチップを小切手で払う者もいるが、すべてヒモ(ヒポリート)に巻き上げられている。

 これまでの取り締まりの警官は、丸め込まれていて、脱いで置かれた制帽にヒモの男たちが、付け届けを入れるしきたりになっていた。そこに新しく赴任した警官(ネスター・パトゥー)が、はじめての巡回にやってくる。露店でリンゴを一個取って小銭を払ったので、主人は律儀な警官に驚いている。決まったホテル(カサノバ)に女と連れ添って入っていくカップルが何組もあって、不信感を募らせている。売春だと確信したとき、警官は電話をして、パトカーの出動要請をする。現行犯逮捕をするが、客たちは帰らせて、女だけを残している。

 上司に報告して逮捕の功績が讃えられるはずが、帽子を脱いだとたんに、紙幣が何枚も出てきた。知らない間に入れられていたのだが、賄賂の現行犯たなり、クビを言い渡され警察を追われる。気になっていた娼婦がいて、根城になっている酒場で、息があって仲良く話をしていると、ヒモがやってきて因縁をつける。殴り合いになるが、元警官は強かった。女はヒモから独立して、男と暮らすようになる。パリの最上階のアパートである。

 女は子犬を飼っていて、子どものようにかわいがっていた。男が住みつくことになると、たがいに嫉妬しあっていて、対等に張り合っているのがおもしろい。犬がじっと情事のようすを見つめていると、男によってドアの外に追い出された。朝起きて女がドアを開けて牛乳を取り込むとそこに犬がいた。ふてくされた犬は、ミルクではなく酒を飲んで寝そべっている。

 女の稼ぎは多かった。男は失職をしているのでヒモと変わらなかったが、優しかった。女は自分が養うので働かなくていいと言っている。ただし娼婦であるので、愛する女が客と関係をもつことは、男には耐え難かった。思いついたのは、変装をして客になり、娼婦を独占するということだった。酒場のカウンターから金を借りて、協力を取り付けた。人のいい酒場の主人(ムスターシュ)は、もと弁護士だとも、教授だとも言っていて、得体の知れないところはあるが、信頼はおけるようで、知恵も貸してくれた。

 財産家(X卿)に変装して、立っていた彼女に声をかけて、ホテルに入っていった。みごとな変装で私たちにも同一人物とは思えない。イギリス人であり定期的にやってくるので、専属で会ってほしいという。体力には問題があるようで、肉体をもとめることもなく、部屋でトランプを楽しんでいる。女にとっても楽な仕事なので、金づるとして次回の約束を取り付けている。次に会ったときは、今日こそはゲームに勝つぞと、無邪気なやり取りをしていた。

 羽振りよく使うので、資金は足りない。酒場の主人からは大金を借りていて、これ以上借りることもできず、女の目を盗んで夜中に抜け出して、重労働に従事することになる。このことで寝不足が続き不機嫌になると、女の愛も冷めはじめ、朝帰りが見つかると浮気を疑われている。女が金持ちの客を話題にすると、男は比較されているようで、嫉妬心をいだきはじめる。女に微妙な変化が起こってきているようにみえるのも、自身が変装をして演じているからこそ、感じ取れるものだ。

 女の心が客になびいていると感じた男は、この客を抹殺するのが一番だと考えた。客として女と会わないことにした。付け髭や眼帯やステッキなどの変装道具をまとめて川に投げ捨てた。客の姿で川岸に降りていって、着替えて上がってきたが、これを目撃したのは、かつての女のヒモだった。客を見かけて尾行していたのだった。死体は沈みステッキだけが、セーヌ川に浮かぶ殺人事件だと判断して、警察に通報する。動機は十分あった。警察は元警官を捜査しはじめる。

 女は妊娠していた。このことを男に伝えると、喜んで結婚することを決意する。女は男とではなくて、たぶん専属の客とのあいだに出来た子だと言っている。男にとってはどちらでもよいことだが、心は動揺して穏やかではない。警察が容疑を固めると、男は賭けに出る。

 もう一度同じ変装をして、川からずぶ濡れの状態で姿を現した。警察はそれを確認して、殺人事件はなかったと判断することになる。何ヶ月も経ってからのことなので、奇想天外でどう考えても不自然ではあった。突っ込めばおかしなことだらけだが、大筋ではまちがってはいない。

 めでたく結婚式が行われている。父親役で花嫁に付き添ったのは酒場の主人だった。花婿はなかなか現れなかったが、来なければ自分が花婿になると言っている。やっと男が現れたとき警察が同行していた。無事に終わろうとしたとき、花嫁は産気づいた。しばらくして無事に赤ちゃんの泣き声が聞こえた。このとき変装の男が式場に最後まで残っていて、立ち去る姿が見届けられている。もちろん花嫁のそばに花婿はいたはずだ。

 目撃した酒場の主人は、別の話ではこんなこともあるのだろうという、ゾクッとするようなつぶやきを残して映画は終わった。ひょっとすると二人は別人であったのかもしれない。事件の真相は、警官に復職が決まった主人公によって解明されていくだろう。女も娼婦をやめてめでたしめでたしとなる。今後は男と子犬に赤ちゃんが加わって、三つ巴のジェラシーのバトルがはじまっていくことが予想できる。あるいはイギリスの富豪も加わると四つ巴だろうか。

第474回 2024年5月29

にっぽん昆虫記1963

 今村昌平監督作品、左幸子主演、ベルリン国際映画祭主演女優賞受賞。英語名はThe Insect Woman。北国の寒村での土俗的な因襲の残る家族の物語である。大正生まれのひとりの女(松木とめ)の半生を通して、戦中から戦後の動乱期をなりふり構わず生き抜いた活力が見えてくる。雪国の粘りとも言ってよい、生きるためには悪徳をもかえりみない姿に圧倒され、主演の左幸子の熱演がひかる。成人映画に指定され、封切当時は私はまだ小学生だったので、街張りのポスターだけを興味本位でながめていた記憶がある。

 父親(忠次)は知能が遅れていたようだが、まじめに農家を支える労働力だった。妻(えん)のお産の場面からはじまるが、自分の子どもだと言って喜んでいる。役所に出生届を出しにいくと、役人は結婚届が二ヶ月前だったと、不思議がっているが、あざけりの笑いがこぼれていた。娘がまだ幼児の頃に、納屋で母親が男と抱き合う姿を目撃して、意味がわからないまま、きょとんとしている。知恵遅れの夫の目を盗んでの情事は、長らく繰り返されてきたことを予想させる。

 父は娘を溺愛していた。娘も父への執着が強く、二十歳になっても父親離れをしていない。このままでは嫁ぐこともできない。娘が太ももにできものができたとき、父親はためらいもなく、唇をあてて、吸い出していた。娘のほうもなされるままに、快感にも似た表情を浮かべている。

 のちには乳の張った娘の乳房を、乳飲み子の代わりに父親が吸ってやり、さらには死を前にした父親への娘の授乳という、因習からの逸脱が描かれる。それは決して性愛のようには見えず、血のつながらないがゆえの、本能的な絆だったのか。無意識の共闘によってなされた、妻と母親への復讐と言ってもよい。娘は労働奉仕軍需工場に働いていたとき、父親が危篤だと知らせを受け、あわてて戻るが、父娘の仲をからかう家族の大げさな悪戯だった。

 娘の気性は激しく、嫁いてきた嫁ともソリが合わない。父親は引き止めるが、娘は東京に出て、下働きをはじめる。未婚のまま子どもを生んでいて、女子だったが父のもとで育てられることになる。東京では新興宗教の集まりに出入りして、稼ぎのよい商売女から、その女将へという道を歩んでいく。パトロンがつき、中小企業のおやじ(唐沢)だったが、店をもたせてもらって、繁盛することになる。

 年頃になった娘(信子)が、母親を訪ねてやってくる。目的は借金を申し込むことだった。地元で仲間と農業経営をはじめるため資金が必要だった。大金であり、主人公は拒否すると、娘は母親のパトロンに話をもちかけることになる。母親の仕事が法に触れる売春組織であり、警察につかまっていたとき、パトロンと娘の関係は深まっていった。

 パトロンは娘のほうに興味をもって、母親を切り捨てにかかる。娘のほうもその気になって、男から金を借りるか、それとも東京で店を出すのでそれをまかせたいと誘われ、二者選択を迫られる。娘はパトロンに身を委ねて、男を喜ばせたが、ある日、金を持ち逃げしてしまった。パトロンは腹立ちを母親にぶちまけている。

 娘は金を持ち帰り、愛する仲間との当初の目的をはたすことになる。トラクターに乗り青年と抱きあう姿には、母親にはない健全なしたたかさがみえる。ともに因習への挑戦であったが、母娘を比較していえば、母親を支えたのは、暴走する情念だった。ただそれは娘のように冷めてはおらず、熱を帯びていた。

 映画の冒頭は、地面をはう昆虫の生態が、大写しになって、カメラが執拗に追っていた。オスを食い殺すメスのようにも見えるし、ひたすら地に這いつくばりながら、休むことなく手足を動かし続けて生き抜く、土俗的な生命力を暗示するものでもあった。生きているためだけに動いているという下等性の名残りを残して、モラルも精神性も認めることのできない姿が、そこにはある。それが登場人物に重ねられている。映画名はファーブルの「昆虫記」に対応させているのだろう。大正7年の出産からはじまる観察日誌のように、日づけを付して人間観察がなされている。

第475回 2024年5月30

武士道残酷物語1963

 今井正監督作品、南條範夫原作、中村錦之助主演、英語名はBushido, Samurai Saga、ベルリン国際映画祭金熊賞、ブルーリボン賞主演男優賞受賞。関ヶ原の戦いから徳川幕府が平定し、長い形骸化した太平が続き、明治維新となり、さらに太平洋戦争を経て、昭和の企業に勤める時代にも、変わることのない武士道の残酷物語がつづられている。

 書き残された日記が伝える隠された真実を通して、主君に忠義立てをして、身を滅ぼし家族を犠牲にした歴史がある。それは血が受け継いできた悲劇なのか、あるいは日本に根ざした民族の宿命なのか、さらには人間存在が普遍的に逃れることのできない原理でもあるのか。

 主演の中村錦之助が、すべての役柄を演じている。お家は断絶しても男児だけが生き残り、血の系譜がひとりの役者の身のこなしの中に息づいている。ここでひとりの役者が複数の主人公の役を演じているというのが興味深い。演じ分けようと思っても演じきれないものがあるとすれば、それが受け継がれた血というものだろう。表情や素振りや身のこなしひとつにも、それは刻印されている。ときに面影といったり、瓜二つといったりして、感慨を深めてきたものだ。

 ここで浮かびあがるのは、破れかぶれになって猛進するようなものではない。忍の一字で耐える姿は、英雄像としては物足りないものだ。娘を差し出し、妻を差し出しても、我慢しなければならない不条理がある。時には恋人を奪われても、自身の至らない不徳とあきらめをつける。上官の命令は絶対服従という思想は、武士道の名で作り上げられてきた美学だった。

 理不尽というひとことで一刀両断できるようなことなのだろうが、それがのしかかってくる重圧に、歯向かうことのできない秩序が、何百年もかけて築き上げられていた。それを武士道と呼んでいるが、君主に忠実に仕えること、死ぬことも辞さない潔さから、物語ははじまっている。君主が死んで家臣が殉死をするという、今では信じがたい事実がまず描き出される。君主の怒りを買って謹慎を命じられていた男(飯倉次郎左衛門)もまた、恨むこともなく君主の死に殉じて、切腹に至っている。日誌に書き込まれていた一コマだった。

 江戸の天下泰平の世では、藩主の横暴が家臣の悲劇を呼ぶ。男色の主君に見染められた若侍(飯倉久太郎)が、それまで寵愛を受けていた女御と情愛を深めている。主君は嫉妬をしながら、ふたりを狭い茶室で出合わせ、変質的な目でながめている。おもしろいものを見せてもらったと言い放ち、ふたりを投獄しサディスティックな欲望を満足させている。

 剣術に優れた藩士(飯倉修蔵)に、評判の娘がいることを聞きつけると、弱小藩は幕府の有力者に差し出させようとする。娘には決まった相手がいたが、父親は説き伏せられて涙を飲む。藩主が男の妻をも見染めて、差し出させる。妻は夫の指示で君主のもとに向かうが、その欲望を前にすると自害をする。妻の遺体は籠に乗せて戻される。男はなぜこんなことにと詰め寄るが、城内を血で汚したと、逆にとがめららている。

 中央の勢力交代が起こり、娘が戻されると今度は藩主が目をつける。娘は拒むが、命に従うことによって家の断絶が免れるという、甘い条件がつけられている。父親は君主の理不尽に物申そうと出向くと、怒りを爆発させている。みごとな剣裁きを披露すれば、全てを許そうと待ちかける。目隠しをして罪人を切り捨てるという見せものだったが、成功して目を開けると、斬り殺したのは、わが娘だった。

 藩主に詰め寄ると、剣を抜いて男の伸ばした手に突き刺して、この名刀をつかわすと言って怒りを解いた。男は手を突き抜けて床に刺さった剣を引き抜いて、切腹して果てた。藩主の怒りは収まり、血筋は幼い息子がひとり残され、引き継がれた。かねがね父から教えられていたのは、君主に忠実に仕えることだった。

 明治維新になり、旧藩主は地位を奪われたが、没落したみすぼらしい男を殿様と呼んで敬意を払う学生(飯倉進吾)がいた。車夫をして稼いでいるが、自分の家に人力車に乗せて連れてきてもてなしている。代々藩主に支えてきた一族で、この青年だけがその生き残りだった。親しい友人は新政府に属し、彼の行動には批判的だったが、意に介さず旧藩主に従っている。家には若い娘がいて青年に心を寄せ、結婚の約束をしている。藩主の異様な目はこの娘に注がれていて、ある日留守の間に力ずくで娘に手をつける。帰宅して泣き明かしていて事情を知ると、藩主に訴えるが、娘のもとに戻って言ったのは、地位を奪われて気の毒な殿様なので、我慢してくれという、思ってもみないことばだった。

 その後はお国のために特攻隊で出撃した若者(飯倉修)の姿があった。天皇陛下から賜った酒だといって、上官は盃を向けて、若者たちは飛び立っていった。生き残った弟の孫(飯倉進)が、一族の日記を見つけて読んでいる。昭和の企業戦士だったが、映画はこの男の恋人が命を絶とうとするところからはじまる。男は日記につづられた呪われた血を読み取り、みずからが受け継いだその愚かさを思い知ることになる。恋人の死の決意は、この男の成功を手助けするためだった。

 娘はライバル企業に勤めるタイピストだった。大きなプロジェクトに関わって、男は相手側の提示する見積額を知りたがっていた。娘は会社の信頼感を得て機密書類のタイプをして、その情報を得ていた。男はふたりの結婚を上司の部長に話し、媒酌を頼んでいた。部長は男に係長のポストをちらつかせて、何気なく見積額がわからないかと持ちかけていた。娘は会社を裏切り教えてしまう。成功して、結婚の話を進めると、部長はすこし待たないかと言いはじめる。

 ライバル企業の役員も参列することになると、気まずい思いをするのではと言うのである。仕方なく納得し、ほとぼりが冷めるまで待つよう伝えると、娘は悲観して、自分の犯した罪にも震えた。一命を取り止めた病室で、男は目覚めた娘の手を握って、二人だけで式をあげる決意を伝えた。やっと武士道からの決裂が語られたが、これもまた日記に書き残されるとするなら、この決意の一瞬も悲しい一族の歴史の一コマに加えられるに過ぎないのかもしれない。日記が家譜としてこれからも代々受け継がれていく限り、形は変わっても武士道は美に昇華され、生き残っていくのだろう。