第561回 2024年10月17日 

ある愛の詩1970

 アーサー・ヒラー監督作品、アメリカ映画、原題はLove Story、ライアン・オニール、アリ・マッグロー主演、フランシス・レイ音楽、アカデミー作曲賞、ゴールデングローブ賞作品賞受賞。フランシス・レイのメロディで記憶される、コテコテのラブストーリーである。日本でいえば、愛と死をみつめてということになるだろうか。戦争や犯罪に明け暮れた、60年代のアメリカ映画に決裂するように、同じ若者であり、反抗的態度は変わらないまま、その矛先が体制や権力から、家庭内の親に向けられたように見える。

 男(オリバー)は大富豪の息子で、成績も優秀だが、これまで親のいいなりになって、引かれた道を素直に歩んできた。ハーバード大学の学生で、多額の寄付をして建物まで寄贈している一族だった。アイスホッケーの選手としても学内でも名が知られている。

 対抗戦を観客席で見つめている年配の男性がいた。試合が終わり立ち話をしていて、父親なのだとわかる。大学のOBでもあって、息子の活躍を確認に来ていたようだ。淡々とした会話のあと食事に誘うが断られ、ひとりで帰っていく。スポーツカーの高級車だったので驚かされるが、息子が父を毛嫌いしていることもわかる。

 図書館でのトラブルをきっかけにして、鼻っ柱の強い女子学生(ジェニー)と知り合いになり、恋愛に発展して、はては結婚を口走るに至る。女は音楽専攻で、バッハとモーツァルトとビートルズを愛していた。菓子店を営む一般家庭の出身で母親を亡くし、父親(フィル)に可愛がられて育ってきた。つきあいが続き、卒業が間近になると、娘はパリへの留学を口にする。男は思ってもいない別れに、あわてて結婚を切り出した。

 知り合って間もない頃、父と電話で話すのを聞きつけて、恋人がいるのかと男は疑ったが、相手は父親だった。対極の父子関係を描き出している。女にはなぜ男が父親に反抗的なのかがわからない。結婚を意識して、娘を連れて親の住むボストンに出かける。

 門を入ってもなかなか屋敷まで辿りつかない。乗っているのはオープンカーの高級車である。娘は富豪の御曹司であることを実感して、気遅れしている。坊ちゃんと呼ぶバアヤも登場する。両親が現れて、あいさつを交わしてソファーに座ると、その距離は驚くほど遠い。親の職業を聞かれると、息子はとたんに両親が娘の家庭を見下していると言って、怒りを示し家をあとにした。

 結婚については卒業後、ロースクールを経て法律家になることを、予定されていて、親はそれが終わるまで待つように命じる。進学先の校長は自分と同期だと父親は言っているが、息子はそれがどうしたと言わんばかりに無視している。聞く耳をもたず、父親から勘当を言い渡される。奨学金を申請しようと校長に詰め寄るが相手にされない。娘は音楽教師としての勤務が決まり、男を支えていく決意をする。

 親の援助を得られず、男は法律の勉強を続ける。クリスマスツリーの販売をアルバイトにしながら、客にうるさく注文をつけられている。娘は学校だけでなく、教会での合唱の指導もしながら、家計を支えていた。苦労が実って、男は優秀な成績で学業を終える。女に報告して首席かと問われて、3番だと答えていた。論文も評価され、500ドルの賞金も獲得した。

 弁護士として勤務も決まり、これまでのぼろアパートから脱出して、ニューヨークへ引っ越すことになる。生活もうるおい、たがいに24歳を迎えると、女は仕事を辞めて、家庭生活に専念するが、いつまでも子どもができない。二人して病院で検査すると、原因は妻にあった。しかも死期が近いと伝えられる。病名は出てこなかったが、白血病なのだろう。美人薄明の代名詞であり、夏目雅子とその夫のダンディな流行作家のことを思い出す。夫はどう対していいかわからず、医師に問うと普段どおりにという答えが返ってきた。

 男が急に優しくなったのを、女は浮気がはじまったのかと疑っている。パリ行きの旅行券を2枚買って持ち帰ると、妻はそんなことをしている暇はないと答えた。男の反応から察して、医師を訪ねて真実を聞きつけていた。残された濃密な日々がはじまる。最善の治療を求めて、夫は父親を訪ねて、5000ドルの借金を申し出る。父は用途を聞くが、明かそうとはしなかった。女ができたのかという問いに首を縦に振るしかなかった。父は何も言わずに小切手を切ったが、落胆の表情は隠せない。

 治療も虚しく夫と父の二人を残して、娘は逝った。病院を出たとき、夫の父がかけつけてきた。真実を知ったことを伝えて歩み寄ろうとしたが、息子は「愛とは決して後悔しないことだ」と言って去っていった。かつて病床で妻が語ったセリフの口移しだった。意地を張って勘当され、親の出席もなく結婚式をあげたが、その後歩み寄るように父の誕生日を祝う会の招待状が届いていた。妻は出席を促すがかたくなに拒絶した。妻はしかたなく電話で断りを入れるが、親子を仲直りに導くような返答をすると、怒りを爆発させて、電話を取り上げていた。

 そこまで嫌悪感をむき出しにするほどのことかと思ってしまうが、意地を張らずに、父親を説得できる度量があれば、悲劇は未然に防げたにちがいない。はじまりとおわりはともに寒々としたベンチのそばでひとり座って、恋愛の顛末を思い起こすだけのことだった。哀愁ただようエレジーは、弱々しい挫折感にひたる自己満足であったのかもしれない。

 雪の降る寒々とした町であり、時間を逆転させると、アメリカ版「冬のソナタ」といったところか。暴走に明け暮れた自暴自棄の若者に代わって、成績優秀でスポーツマンでもあるが、どこかいじけた頼りない青年像が、70年代のアメリカを特徴づけるものとなるのかと思った。60年代を「むこうみず」だとすれば、70年代は「いくじなし」と言えるだろう。

第562回 2024年10月18 

マッシュ1970

 ロバート・アルトマン監督作品、アメリカ映画、原題はM★A★S★H マッシュ、カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー脚色賞受賞、ドナルド・サザーランドほか主演。朝鮮戦争に従軍した軍医(ホークアイたちの物語。

 次々に運ばれる負傷兵の治療は、真剣におこない、腕前も良く尊敬のまとにもなっているが、それ以外は常識を外れていて、モラルに反した無茶苦茶な言動を繰り返している。マッシュとはアメリカ陸軍の野戦病院の頭文字をつなげた略称で、最後のフットボールの対抗戦では、不正プレイをしながらも優勝をしている。チームのマークは赤十字で、戦争中とは思えない盛り上がりを見せていた。

 従軍命令に従ってぶらっとやってきた印象だが、気楽な仲間とのやり取りには、死を前にした人間の、むき出しにされた欲望が赤裸々に語られている。美人の看護師がいると、必ず声をかける。男だけでなく、女の欲望もあからさまで、男だけの軍隊のなかにあって、野戦病院という特殊な環境に集まる、興味の視線が生々しい。

 情欲が高まって故郷に置いてきた妻や夫のことを忘れて、一夜の喜びに耽っている。その姿に気がついた敵対する仲間が、盗み見をしている。マイクを用意して、会話やあえぎ声を、集まったみんなで聞いている。さらには放送で流すと、手術中の外科医や看護師の耳にも入ってくる。リアルな音声に感心した兵士は、従軍兵士向けのラジオ放送だと思っている。

 実際のラジオ放送も聞こえていたが、近隣なのだろう中国語放送を受信していた。ラジオ東京という米軍向けの日本からの放送も、調子外れの音楽を流していた。私たちが聞いたこともない、トーンの番組なのに驚かされる。戦闘場面は出てこないが、次々と運ばれてくる瀕死の兵士をみることで、悲惨な状況は察せられる。

 にもかかわらず、病院内には緊迫感はない。軍事力を誇る米軍の余裕とも取れるが、命令に従う以上のことをしようとは思っていない。義務は忠実にはたすという点では徹底しているが、それ以外では飲んだくれのどうしようもない連中なのである。仕事を兼ねて気晴らしに日本に来て、芸者遊びをしている。こんな日本があるのかという、アメリカ人の見た日本の印象がパロディにされているのがおもしろい。同時に腹立ちも感じる。帰国命令が出ると、男も女も、喜んで一目散に逃げ帰っていく姿があった。ヘリコプターに乗り込む浮かれた帰国兵の姿を恨めしげに眺めている。

 レジャーや余興に代わるものは、男女の火遊びしかなかったかもしれない。プログラムとして組まれたものとしては、フットボールの対抗戦の他では、週末には映画が上映されていて、番組名を伝える放送が聞こえていた。最後に知らせられた映画名は「マッシュ」といっていたので、私たちがここまで見てきたコメディが、上映されることになるのだろう。

 朝鮮戦争に従軍した医師の奮闘の物語という内容紹介がされていた。義務感から国の使命に従う男女には、正義感や善悪を見極めようとする、自立した探究心はなく、なぜ戦争を続けるのかという疑念すら希薄だ。英雄像ではない。背伸びすることもない。できるだけ早く任務を終えて帰国することだけを考える、ごくふつうの男女の姿が浮き彫りにされている。

 冒頭の主題歌は、自殺のすすめのようにも聞こえ、前途を見失った従軍兵士の鎮痛な思いを伝えるが、笑いの要素が加えられることで、ブラックコメディとして仕上がっていた。目を覆う痛々しい負傷兵の姿を通して、これらが交通事故ではないのだということを知ることで、やはりこれは反戦映画なのだった。医師たちが集まって一列に並ぶ食事の厳粛な光景は、レオナルドの「最後の晩餐」になっていた。

第563回 2024年10月19 

小さな巨人1970

 アーサー・ペン監督作品、アメリカ映画、原題はLittle Big Man、ダスティン・ホフマン主演、ニューヨーク映画批評家協会賞、全米映画批評家協会賞受賞。先住民に育てられた白人の話である。生き残りの老人(ジャック・クラブ)がインタビューを受けている。今は120歳を超えていて、110年前の昔話をしはじめている。

 先住民に襲撃されて、多くは殺されたが、姉とふたりが物陰に隠れていた。見つけられるが哀れられたのか、馬に乗せて集落に連れ帰られる。この情け深い男とは、心が通いあったようだ。長老の前に引き出されて、姉は女たちから胸を触られて、女なのだと笑われている。男と思われたようだった。女だとわかるとレイプされると恐れて、夜になってから弟を置いたまま逃げてしまった。

 弟はひとり残され、肌を土で塗り込められて、仲間のひとりとして育てられることになる。年齢に比べて小さく、見劣りする体力だったが鍛えられ、小さな巨人という名をつけられた。長老からは息子と呼ばれてかわいがられたが、その後白人社会と先住民とのあいだを行き来しながら生き抜くことになる。

 白人に捕らえられたときには、土色の肌をこすり落として白人だと主張する。先住民にとらわれると、長老や先住民の名をあげて命乞いをしている。白人からも先住民からも追われるのだと嘆いているが、うまく綱渡りをしながら生き抜いてきたという印象である。

 白人社会に入り込んで。牧師宅の養子として、魅力的な妻(ペンドレイク夫人)にひかれるが、お供をして町に出たとき、買い物をした店の店主と、浮気を楽しむ姿を目撃して、嫌気が差して、みだらな世界をあとにした。その後も偶然顔をあわせるが、娼婦に身を持ち崩していた。

 長い生涯では、別れた姉とも再会するが、よからぬ仲間に加わっていた。そのとき銃の手ほどきを受けると、才能が開花した。とたんに早撃ちのガンマンになり、姉は喜ぶが、人殺しのできる人格ではなかった。肉親を置き去りにするような、姉でもあったのだ。嫌悪感を感じて、そこからも離れていく。

 白人社会に地道に落ち着こうと、自分よりもおおがらの女だったが、妻(オルガ)を迎えて幸せな家庭を築こうとする。にもかかわらず先住民の襲撃にあって、妻が連れ去られてしまい、あてもなく取り戻す旅に出かけることになる。

 はじめに助けられた先住民とは友となり、その後も出会うことになった。別れて5年が立ったころ、白人との戦闘の折に出くわし、誰かもわからずに殺されかけたとき、仲間の白人兵の一撃で助かるが、気づいてみると、かつての友を失っていた。

 近くには逃げまどう先住民のなかに、ひとりの娘がいて、子どもを出産しようとしていた。友の妻かと思い声をかけると、友の娘だった。友はわが子と、生まれてくる孫を守ろうとしていたのだ。母子を守りながら、先住民の住む村に向かう。長老とも再会し、娘との愛も芽生え、結婚して子どもも生まれる。

 妻が3人の女を連れてくる。夫に女たちの相手を頼んでいる。気乗りがしないが、3人を相手に夜のお供をしている。探していた妻も見つかった。対抗意識の強かった先住民仲間の妻になっていた。もはや名乗りをあげることができなかった。気づいていなかったので、男から食事に誘われたが、断ってその場をあとにした。男は一人の妻に三人の子どもができたことを誇ってみせたが、それに対して自分は三人の妻と一人の子どもがいると返していた。

 白人兵を指揮する将軍(カスター)には、うまく取り入って目をかけられている。部下に捕えられ殺されかけたときにも、名乗りを上げて将軍の目に留まり、命拾いをしている。先住民の皆殺しを叫んで、先頭に立つ敵将でもあるので、隙を狙って暗殺を企てて短剣を忍ばせて近づいたが、見抜かれるとそれ以上の行動を取ることができる人間ではなかった。

 両軍の死闘が続いたとき、逃げてくる妻子が目の前で命を落としてしまった。将軍も倒れ、先住民の勝利に終わったが、これからも攻撃は続いてくるはずだ。主人公も深傷を負ったが、生きのびていた。長老は目が見えなくなっていたが、弾はあたらないのだと言いながら、山の峰に向かって歩きはじめる。抱えながら同行したが、不思議なことに銃弾は逸れていた。

 話は転変するが、そのことで記憶にたよる回顧談であることがよくわかる。白人による先住民弾圧の史実を知る、唯一の生き証人だった。よく生き抜いたという生涯を聞きながら、インタビュアーは感動をしている。人類史は土地の奪い合いの歴史である。アメリカ人の話ではあるが、現代人ならどこでも起こってきた普遍性のある教訓として、受け止め再考すべきテーマだろうと思った。もちろん地球全体で考えれば、力による暴力の歴史は、人間同士の人種間での問題をも越えている。ともに両者の立場にたつことのできる、小さな巨人が必要だということだろう。命乞いもするが人殺しを嫌う心優しい人だった。

第564回 2024年10月20 

ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間1970

(前編)

 マイケル・ウォドレー監督作品、アメリカ映画、原題はWoodstock、ディレクターズ・カット版225分、マーティン・スコセッシ編集、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞。伝説の野外コンサートを追ったドキュメンタリー映画である。

 最初に準備の舞台づくりからはじまるが、5万人の予定が100万人は集まっていたという、誇張ぎみの証言が出てきて驚かされる。何もないところで、役所で許可を得ることからはじまる。準備をしながら何が困難かという質問に、トイレという答えが返っていた。食料や寝泊まりのことを考えると、招く方も招かれる方も萎縮してしまう。主催者にマイクを向けてのインタビューを通して、企画意図が明確になってくる。バックに流れる音楽の歌詞から、長い暗闇が永遠に続く状況が歌われている。

 クレーンによりまだ照明用の塔や舞台が設置されているのに、ぞくぞくと若者たちが集まってきている。チケットの販売のことも話されているが、インタビュアーは採算が気になるのだろう、やりくりのことを聞きたがっている。膨大なチケット売り上げも期待できるが、かかった費用も膨大で、それよりも集まってくる若者たちのよろこびの表情を見たいのだといっていた。

 男女で参加している若者をつかまえて聞いている。チケットは購入していない。恋人どうしのようだが、たがいの自由は束縛していないという。2年も会っていない、親との折り合いは難しいのだが、見かけによらずしっかりとした考え方をしているのに感心する。突然のイヴェントに戸惑う住民にもマイクを向けている。商店を営む者は売り上げの増加を期待している。多くが彼らをヒッピーとみなして、変人と呼んでいたが、実際に接してみると、礼儀正しい若者たちだと評価は高い。

 いつのまにかコンサートははじまっていて、はじめの何曲かから、それらがブロテストソングであることがわかる。そこに若者の悲痛な訴えを感じ取るが、反戦への強い思いを読み取るには、徴兵制度のない日本人には、難しいかもしれない。徴兵逃れをして捕まり、収監される男の恐怖心が歌われている。歌っていたのは、その男の妻であるジョーン・バエズだった。絶叫系のロックミュージックの多いなか、透き通った歌声が心に染み入った。ザ・フーがその後に続き、夜が更けて一日が終わった。

 仕切りをこえて入り込んでくる若者たちもいるし、柵の外で集まって聞いている者もいる。そこではヨガの瞑想も指導されている。ドラッグに頼らずに恍惚感を味わえる方法を教えている。ただし簡単ではなく、訓練が必要だと指導するインド人は語っている。マリファナをまわしのみしている姿を見ると、いくら礼儀正しいと言われても、反発を感じてしまうものだ。

 柵に電流を流すなどのことばも飛び出すが、無料のコンサートになってしまっても、主催者は同じ若者たちが集まってくれたことだけで、十分満足しているようだった。彼らにとって反戦は、自身にのしかかる死活問題であり、切実な思いであって、そうでなければ全米からこんなにも集まってくるわけがない。自由(フリーダム)を合い言葉にするのは、奴隷解放からめざすアメリカのモットーだが、若者たちの実感のこもった、本音の声でもあったのだ。主催者は音楽は民族を越えた共通言語だと言っていたが、やってきたひとりは、単に音楽のことだけではないと答えていた。

 三日間のコンサートだったが、途中に激しい豪雨がやってきて中断した。音楽番組としては、アクシデントだったが、この成り行きにも多くの時間を割いていた。多くの者がこの自然災害を否定的にとらえていなかったのが、印象的だった。雨のなかで石けんを使って身体を洗うものもいるし、泥水を滑って大騒ぎするものもいる。

 雨はコンサートを中断させようとする、政府の陰謀だと身構えるものもいた。おそらく音楽を超えて教えるものがあった。照明塔が風で今にも落ちそうになってくる。マイクで大声で危機を知らせる司会者の叫び声は、コンサート以上の迫力をもっていた。土砂降りになった、荘厳な光景は神々しくもあって、キリストのもとに集まった、無数の信者の姿を思わせるものだった。

(後編)

 朝がはじまった。2日目なのか3日目なのかはわからないが、ステージに立って音楽がスタートする。最後はジミ・ヘンドリックスのステージと、それにかぶさって、観客が去ったあとの、ごみの散乱と、それを集めるスタッフの姿が映し出されている。あと片付けを考えるとぞっとする。

 音楽を聞かせるのがメインではあるが、あいだにはさまれる、舞台裏の光景に目が向かう。今の時代と異なり、携帯電話はない。限られた数の電話に群がっている。心配をしている親にかけているのが目につく。不良たちの集まりに行っていると思われているのだと、彼らは自覚している。トイレ掃除の年配のスタッフが、丁寧に仮説トイレの整備をしている。大きなトイレットペーパーを交換し、便器を洗い流す。嫌がっている気配はない。マイクを向けられると、息子もコンサートを見にきているのだと答えている。もうひとりの息子は、ベトナムでヘリコプターに乗っていると付け加えていて、はっとさせられる。

 コンサート会場に土地を提供した、農園主が舞台に上がってスピーチをしている。主催者の努力を讃えたあと、長いコンサートを聞き続ける若者たちにも敬意を表し、エールを送っている。20人以上の前でしゃべったことがないといいながら、とんでもない数の聴衆の反応を感じて、まんざらでもなさそうだ。

 こんなに大勢が一ヶ所に集まったのは、史上はじめてだという。ヘリコプターから映し出された、一面に頭が群がって、一山になった光景は圧巻である。ぎっしりと身動きが取れないなか、事故も起こるし、急病でも倒れる。死者も出たが、略奪や暴動はなかった。ボランティアの医師も数多くが駆けつけている。軍隊が出動し、敵視する若者も多いが、救助をするためであって、排除するためではない。同じ世代の若者の、対極にある二つの姿がすれちがっている。

 水のもたらすパワーも、描き尽くされていた。前編では突如やってきた豪雨だったが、後編では池に飛び込む男女の姿だった。着ているものを脱ぎ捨てて、裸になる羞恥心もなく、自由と平和を実感する意志の力があった。淫らさも恥じらいも感じ取れず、水に同化して、自然のパワーに身を委ねている安堵感が、見ていて気持ちよく伝わっていた。

第565回 2024年10月21 

暗殺の森1970

 ベルナルド・ベルトルッチ監督作品、イタリア・フランス・西ドイツ合作映画、原題はIl conformista、ジャン=ルイ・トランティニャン主演、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞作品賞受賞。ドイツとイタリアがファシズムに走る時代の話である。落ち着きのない動きを見せる男(マルチェロ)がいた。何者かがわからないが、いらいら、あるいはそわそわしている。先生と呼ばれているが、この呼び名を嫌って、同志と言い換えている。大学時代の恩師(ルカ・クアドリ教授)の動向を探っていて、付け狙っていることがわかってくる。やがて方針が転換され、恩師を暗殺することになる。

 恩師は反ファシズムを掲げる運動家だった。学んだ学生はイタリアでのファシズムの流れに同調して、秘密警察としてスパイ活動をしていた。少年期の回想がはさまれるが、年上の男(リーノ)との同性愛を強要されている。倒錯的な感情が高まって、手にした銃で殺人を犯してしまう。殺人者となるが、男の死はうやむやにされ、この経験が少年の心の奥に傷となって深く沈潜していった。

 ごく普通の女(ジュリア)と結婚をすることで癒しを求めることになるが、教授の住むパリに行き、暗殺の機会を狙っている。妻は夫の隠された使命については知らない。恩師に電話を入れ、会いたいと面会を求める。承諾されると、新婚旅行中なので、妻を同伴していいかと問うている。許可を得て訪ねると、若い妻(アンナ)が出てきて驚くが、面会に向かうのを、四方から若い男たちが取り巻いて、警戒されていることがわかる。

 恩師の妻とは知り合いだったようで、二人だけになったとき、ともに感情が高まって抱き合っている。以前に娼婦として出会っていて、今は女は教授夫人になっていたのだった。男の妻と比べると、大人の雰囲気をもった魅力的な女性だった。パーティ誘われると、若妻は旅行中でドレスもないと答えている。街に出て購入すればいいと言い、年上の女は娘に付き添って選んでやろうとしている。子どもっぽい娘に対して、あやしげな素振りを見せている。

 男が恩師の妻にのめり込んでいるのを、目付役でもある組織の仲間(マンガニエーロ)が心配げにながめている。所持していた拳銃を返しにきたことから、目的が果たせなくなるのではないかと、男への警戒を強めた。恩師の妻から主人が外出し、森に向かうことを聞きとめると、計画の実行を決断する。妻が同行しないよう仕組むが果たせず、夫婦の乗った車を、仲間と二人で追跡する。車での尾行に気づかれたとき、前方から同志の乗った車がさえぎるように事故に見せかけた。

 恩師が降りてきたときに、数人の男たちが降りていって、それぞれが手にもったナイフで惨殺する。それを目にした妻はおびえて、後方の車に助けを求めてくる。男と顔を合わせるが、男はドアを開こうとはしない。女は森に向かって逃げていくが、男たちが追いかけて行って、夫と同じように殺されてしまう。

 時が経過してイタリアではファシズムが一掃され、ムッソリーニは排斥され、そのもとにあった組織も解体を余儀なくされる。男は妻との生活を続けていたが、電話で仲間から呼び出される。子どもをあやしているので、ふたりの間にできた子で、時間の経過を読み取らせるものだ。妻は不安を感じて、夫をとどめるが、夫は出ていった。

 盲目の昔からの仲間(イタロ)に出会うが、以前自宅にいて母親に取り入っていた若者が道端にいるのを見つけて、ファシストだと大声をあげて告発をしている。聞いたことのあるセリフが聞こえてきたことから、錯乱を起こしたようだった。少年時代のことなので、相手が同じ年齢のままであるわけはない。男は殺害されたはずだった。若者は身に覚えのないことから、男を振り切って逃げていった。男は精神に破綻をきたしていた。

 サスペンスタッチで、はっとするような映像で綴るが、ハードボイルドの英雄像を追っているわけではない。女が助けを求めてきても無視する姿は、およそ好感のもてるものとはいえない。大きな時代の流れに迎合しながら、ファシズムの手先になる、情けない男の話なのである。黙っていれば、影を宿したクールな身のこなしを潜めて、スタイリッシュな殺し屋に見える。

 ファシズムの雰囲気を宿した、冷ややかな広い執務室を歩く姿は、映像としての恐怖と緊張感を高めるものだ。少年の頃の主人公に肉体を迫る、凛々しい若者の兵士が、帽子を取ったときに、束ねていた長い髪が広がって、一瞬にして女の姿に変わったように見える映像効果は、印象的で目に焼き付いている。拳銃を取り出して少年に渡して、引き金を引けという流れも衝撃的である。新婚旅行の列車のなかで、気のない夫に誘いを仕掛ける新妻の演技と、魅惑的な人妻に欲情を募らせる主人公の演技が、対比をなしてともに情念に裏打ちされた刺激的な映像として、インパクトの強いものだった。

第566回 2024年10月22 

いちご白書1970

 スチュアート・ハグマン監督作品、アメリカ映画、原題はThe Strawberry Statement、ブルース・デイヴィソン、キム・ダービー主演、カンヌ国際映画祭審査員賞受賞。大学の学長室を占拠した学生たちの姿を追いながら、反抗しても権力に抑え込まれてしまう、むなしい時代の証言を綴っている。

 主人公(サイモン)はボート部に所属する、ごく普通の20歳になる学生だった。社会変革の波が押し寄せていて、学内にはゲバラや毛沢東の顔写真がはられている。対して自室にはロバート・ケネディの写真を貼っていた。場所はサンフランシスコの大学で、学長室を占拠した学生が、バリケードを築いて寝泊まりをしていた。戦争反対や黒人学生の排斥や大学の不正に対する怒りが爆発した、世界的に広がった学生運動に同調するものだった。いちご白書とは、学長の命名のようで、いちごの赤を左翼思想に染まった若者に見立ててのものだった。

 主人公は女子学生が多数いることから、好奇心で学長室に入っていく。怪しまれることなく、仕事を割り振られ、故障したコピー機の修理をはじめる。そこどひとりの女子学生(リンダ)に出会い、恋心を芽生えさせることになる。彼女は真剣な活動家であり、議論に積極的ではない軟弱な男を、批判的な目で見ながらも、その人柄に好意を寄せている。

 二人がいっしょにいたところから、次には食料係として、町に出て食料を確保することになる。女は町には支援してくれる食料品店があるのだと言っている。店に入り活動学生だと告げると、店主は両手を挙げて、何でも好きなものを持っていくようにいう。男は強盗まがいのことで気乗りがせずに、店主を気づかってみせると、監視カメラを気にしながら、小声で保険でという答えが返ってきた。女はすでに紙袋に大量に食料を詰め込んでいた。男もにっこりと笑って、ことの成り行きを理解した。大荷物を抱えて店を出たとたんに、店主は大声で強盗だと叫び、二人は一目散に逃げることになる。

 二人きりのなかで男は女に尋ねている。好きな男がいるのかというと、女はいると答えた。ただしちがう大学に通う学生だった。男はいつまで続くかわからないが、ストライキ期間中だけの恋だと割り切ろうとあきらめをつけた。別の女からも肉体を迫られていた。非日常の状況下での、異常な心理と行動は理解できるものだ。

 バリケードから抜け出す道筋も覚えて、ボート部の友人(ジョージ)にも占拠に加わったことを伝え、女子学生も多くいて恋愛もできると言って誘っている。友人は保守的な考え方をもっていて、ストライキに加わっているとわかれば、退学だとおそれているが、恋愛には興味があった。

 デモに加わったときに警察とぶつかって護送車に乗せられる。学生全員がデモに参加すれば、全員を逮捕することなどできないと強気でいたが、仲間に誘った友はひどい傷を負わされて入院し、親が迎えにくるのだと言っている。男は学内での警官の暴行に憤り、学部長室に向かうが秘書しかおらず、怒りをぶちまけている。年配の女秘書は、学生の正義感に対して、同情的に接していた。

 二人の恋愛は高まっていく。男は8ミリカメラをもっていて、女を記録に残し続けていた。公園にいて二人して寝そべっていたとき、不良グループが近づいてくる。女は抵抗しないほうがいいと言っている。ひとりが因縁をつけて、カメラを取り上げ、投げ捨てて壊してしまった。暴行しようとしたところで、仲間のひとりが押しとどめ、去っていった。ことなきを得たが、男は暴力では何も解決しないことを痛感した。戻って仲間にも訴えるが、愛用のカメラを壊されたことへの怒りとしか見えず、聞く耳は持っていないようだった。

 いつまでも大学がバリケード封鎖をされるままではすまされなかった。警察が乗り込んでくるといううわさは広がっていたが、ある日突然、大挙して催涙弾を放たれ、警棒で打ちのめされて、学生たちは傷つき検挙されていく。主人公も女と二人、無抵抗うずくまっていたが、引き離されて執拗に殴られ続けた。

 女が頭を打たれたとき、男は助けようと警官の群れに向かって飛びかかっていった。その飛び込みの一瞬が、静止画としてストップしたまま、主題歌の「サークル・ゲーム」が歌われて、映画は終わった。苦々しくも懐かしい時代風景は、学生時代の男女の出会いと別れにかぶさりながら、当時をリアルタイムで過ごした、私たちにとっても、ノスタルジーを喚起するものとなった。

第567回 2024年10月23 

ロバと王女1970

 ジャック・ドゥミ監督作品、フランス映画、シャルル・ペロー原作、童話「ロバの皮」、原題はPeau d'Âne、カトリーヌ・ドヌーブ、ジャン・マレー主演、ミシェル・ルグラン音楽。他愛もないおとぎ話であるが、父親が自分の娘と結婚しようと、言い出すところには驚かされる。

 先立った妻には遺言があった。王夫妻には一人娘しかおらず、跡取りがないのでは、国は滅びてしまう。王妃は王の再婚を認めながらも、自分よりも美しい相手でなければ結婚してはならないと、言い置いて死んでいった。大臣たちは国中から美女を探して、沈みがちな王に肖像画を見せている。身分は高いのだろうが、どれもこれもとんでもない顔立ちである。

 最後に見せた一枚に、王の心は動く。誰かと問うと王女だった。王妃が亡くなって以来、悲嘆に暮れた王は、孤独な生活を送り、わが娘の美貌さえもわからなくなっていた。あらためて娘と接すると、娘もまた最愛の父をこがれていた。王は娘を女として見つめ直し、結婚をしようと決意する。おかかえの科学者にも相談を持ちかけるが、娘というものは父親を愛するものだという、力強い答えが返ってきた。

 娘は求婚されて当惑する。ひとりで森に入り込んで、母親代わりにもなってきた、妖精に相談している。妖精は歳は食っているが、ドレスを着こなす美女だった。近親相姦は避けねばならず、難問を投げかけることで、王にあきらめさせようとする。最初に豪華なドレスをせがんでいる。空の色、月の色、太陽の色と注文を出すが、王は職人に難題を吹きかけて、すべてをクリアした。

 娘は次には妖精の言うとおりに、ロバの皮が欲しいという。ロバは尻から糞の代わりに、財宝を産み落とすことができることから、王にはかけがえのない財源だった。それも皮を剥いで娘のもとに届けた。娘は殺してしまったことに驚愕し、さらに妖精にもちかけると、姿を消すしかないと指示される。生臭さが残るロバの皮を、頭からかぶって国をあとにした。

 王は四方に手を尽くし探すが見つからない。娘は他国の村に入り込み、ロバの皮とさげすまれながら、下働きをすることになる。汚れた小屋に住み、いつの日かあこがれの男性に見いだされるのを待ち侘びている。そんなとき王子一行が通りかかり、小屋の窓越しにロバの皮を脱いで、ドレスを身につけた王女を目にする。

 一目惚れをしてしまい、城に帰っても、その面影を忘れられない。長旅からの帰宅を祝って、王夫妻は舞踏会を開くが、病いにふせって出てこない。医師団の診断によれば、王子は恋わずらいだった。息子に問い詰めると、ロバの皮をかぶった女との出会いを語り出す。家来を小屋につかわして、王子をいやすために、菓子を焼くように命じている。

 娘は菓子を用意したが、そのときに自分の指から黄金の指輪を抜いて、菓子の中に忍ばせた。菓子を持ちかえり、息子が口にすると、ケーキの中から指輪が見つかった。妖精があらわれて、娘の霊を呼び出して、ベッドに横たわる王子に引き合わせ、肉体から抜け出た王子の霊は、娘と手を取り合って森に向かい、恋を成就することになる。

 霊が戻ってきて王子の身体に入り込むと、夢見心地で体験した、この娘との結婚を決意する。指輪は小さく、この華奢な指の持ち主との結婚を、両親に進言する。国中から若い娘が集められ指輪にぴったりの指をもった娘と結婚するのだと、おふれが回ると娘たちは、指が細くなるように、さまざまな試みをしている。指を細くするいかがわしい物品販売もはじまった。

 集められ一列になった娘たちは、百人を越えていた。身分の順番に並んで王子の前に出てきて左手を出している。次々と顔を見比べながら、指輪を入れていくが、途中から王子はうんざりとした表情に変わっている。最後まできて誰も指輪にあう指はなかった。王があきらめをつけるよう息子を促したが、ロバの皮の女のことを王子は伝える。家来が首をひねっていると、王女は現れる。まわりは鼻を押さえているが、王子の指輪はぴったりと指に入った。

 ロバの皮を脱ぐと豪華なドレスが見られ、めでたしめでたしで話は終わった。確かにロバの皮の中身は黄金だったのである。ラストは宮殿を背に二人の結婚が祝われているところに、ヘリコプターがやってきて、降り立ったのは父親の王と妖精だった。妖精は娘に、王と結婚したと耳打ちし、王も娘の結婚を祝った。二組の新婚夫婦が誕生し、両国に平和が続くことを喜びあった。メルヘンなので妖精が空を飛ぶことも不思議ではないが、中世の話なのにヘリコプターが登場すると驚かされる。途中の会話でもいつの時代なのかと、あれっと思わせる箇所が盛り込まれ、おもしろい試みだと思った。

第568回 2024年10月24 

砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード 1970

 サム・ペキンパー監督作品、アメリカ映画、原題はThe Ballad of Cable Hogue、ジェイソン・ロバーズ主演。砂漠を飲まず食わずで歩く男(ケーブル・ホーグ)が、大きなトカゲを見つけた。その肉を食おうとナイフを出して身構えたときに、銃声がしてトカゲに命中した。ライフルを構えた二人組がやってきて脅している。馬だけでなく、なけなしの水まで奪われて、命からがら歩き続けることになる。4日ののち命が尽きようとしたとき、じめっとした砂が手に触れ、やっと水に出くわした。

 砂地を掘ると水源があった。この水によって命をつなぐことができた。最初に通りかかった男がいた。勝手に水を飲もうとしたので、水代を請求する。数十セントのわずかな料金だったが、人と馬とに料金差をつけている。料金表を掲げているので、水は料金表を書いた者の所有物のように見えてくる。払う払わないでトラブルになり、男は相手を殺してしまう。水は強者の所有物となったのである。

 2番目に通りかかったのは、牧師(ジョシュア)だった。水を飲み、水代を請求するが、なかなか支払おうとはしなかった。この土地が誰のものかを聞き、町で登記しないと自分のものにはならないことも知る。牧師は怪しげな人格で、教会はどこだと問うと、そんなものはなく教会は自分だと答えている。

 牧師を脅して馬を奪って、町にこの土地の所有権を確かめに行く。町に入ると若い娘(ヒルディ)に出くわし、登記所の場所を聞いている。男の目は女の開いた胸に注がれている。女の後ろ姿を追っていると、娼婦であるらしく、通りすがりの男に声をかけて誘い、部屋に入っていくのがわかった。

 登記所に行くと場所を聞かれ、町と町の間にある砂漠地帯で、値打ちもなく誰の土地でもないと言われた。値段はべらぼうに安かったが、持ち金は限られていて、水源を含むわずかな面積しか買うことができなかった。それでも証明書を手に入れることができた。

 次には駅馬車の事務所に足を運ぶ。駅と駅の中間地帯に水源が見つかったので、その土地を半分買わないかと持ちかける。証書を半分に切り裂いて交渉するが、そこは砂漠地帯で水など出るはずがないといって受け付けない。

 しかたなく今度は銀行に向かう。頭取(カッシング)がいて対応するが、人物を見てもいかがわしそうで、はじめ相手にされてはいなかった。真剣そうな表情を読み取って、この男に賭けてみようと思ったのか、話を聞いて投資を決断する。

 幸運にも100ドルの大金を手にすることになり、それを元手に給水所を建てて、一儲けしようと考えた。帰りかけると、先に出会った娼婦のことが忘れきれずに、気が大きくなって、彼女が姿を消した部屋を訪ねる。女は先に出会った男であることを確認し、5ドル紙幣が束になっているのをちらつかせると、鼻を押さえながらも部屋に通した。

 入浴させで悪臭を洗い流すといい男だった。気分が高まるが、窓越しに牧師が説教をしている声が耳に入ると気にかかり、欲情が消えてしまう。同時に残してきた牧師が裏切って、勝手に土地を自分のものにしているのではないかという疑念がわいてくる。その気になっている女を残して、金を支払いもせずに、戻ってくると言いおいて逃げ去ってしまう。踏み倒された女は怒鳴り散らして、部屋にあった花瓶を、男に向かって投げつけている。

 戻ると牧師は心配には及ばす、おとなしく男を待ち続けていた。信頼感を取り戻すと、町に遊びにでようと誘った。二人は浮かれて町に乗り込む。娼婦を訪ねて、持参したプレゼントを渡す。女が投げつけて壊したのと同じ花瓶だった。女は機嫌をよくして男を部屋に引き入れた。

 牧師は一人残されて、夜の町を歩いていると、涙ながらに嘆いている女に出会った。牧師として慰めのことばをかけ、家にまで送って部屋に入り込んだ。女は死んだ男の名前を告げている。牧師は目を輝かして、女に迫っていった。女は死んだのは弟で、夫が帰ってくると言うと、ほんとうに夫は帰ってきた。状況をみて怪しんだが、弟が死んだことを伝え、悔やみのことばを告げることで、その場をつくろっていた。

 牧師はその後もこの人妻が忘れきれないでいる。主人公は女に引きずられることなく、給水所の建築に精を出している。併設して食事どころもつくって、駅馬車の中継地として、かたちを整えていった。銀行の頭取もやってきて、成功を祝っている。駅馬車の運営会社は、まわりの土地を買い取って、掘り進むが水は出てこなかった。あのとき対応した所長(クイットナー)も、相手にしなかったことを詫びて、改めて契約を交わしている。

 男がそこにとどまり続けたのは、殺されかけた二人組への復讐のためだった。牧師は人妻をあきらめきれず、町に出て行ってしまった。なじんだ娼婦にも伝言を託していたが、入れ代わりに彼女がやってくる。町に居づらくなって、サンフランシスコに行くのだと言っていた。男に誘いをかけるが、ここにとどまるという。

 女は2、3日で別れを告げるつもりが、3週間もとどまり、まともな食事を提供することがてきるようになっていた。それまでは蛇の肉まで食わせる、とんでもないレストランだった。牧師も戻ってくる。人妻との情事が知られ、夫に追われて逃げてきた。牧師はかくまわれながら、相棒の愛人に手を出している。

 やがて二人は去り、主人公の前に二人組が現れる。男の成功を確認すると、横取りをたくらんでいる。日をあらためて銃を手に押しかけてきた。二人のうち非道なのはひとりのほうで、手下(ボウエン)はボス(タガート)の言いなりでいた。銃撃戦となるが、二人の逃げ込んだ穴にヘビを投げ込むと、おびえて姿を現した。銃を構えて対するが、ボスは発砲できないと、男をみくびって銃に手をかけると、主人公のライフルが火を噴いた。手下は逃げ腰になって助けを乞うている。穴を掘って死体を埋めるよう命じると、おとなしく従っていた。

 サンフランシスコに去った娼婦が、再びやってくる。運転手つきの自動車に乗っていた。馬車しか知らない者には、驚異的な光景だった。女はニューオリンズに向かうのだと言っている。いい男を見つけていたのではなかったかと問われると、確かにいたが腹上死をしたのだと答えた。笑いですませたあと、女がいっしょに行かないかと誘うと、今度は男は承諾する。復讐をはたして、砂漠にとどまる必要もなくなっていた。牧師も戻ってきたが、こちらもバイクに乗って、さっそうとした雄姿を見せていた。

 町の役人はこの給水所がなくなると、困ったことになると心配をしたが、主人公は二人組の生き残りを指名して、あとを継ぐよう指示している。救われた上に大任を命じられ、喜ぶとさっそく自動車の水代はいくらにしようかと、指示を仰いでいる。馬は人の四倍だから、車は五倍にしようかと提案すると、主人公は自分で決めればいいと答えていた。

 女の車がひとりでに坂をくだりはじめたとき、主人公はそれを押しとどめようとして轢かれてしまう。大したけがではないようにみえたが、あっけなく死んでしまった。男は女との新生活を望んでいるようにも見えたが、ここで骨を埋めることを決めていたのかもしれない。仲間に看取られて骨は埋められている。牧師は友を讃えて、死を弔った。娼婦と牧師は友の死に立ち会うために戻ってきたようにさえ見える。

 埋葬後、ふたりは左右に別れて去っていった。ともに乗ってきたのは馬ではなかった。もはや馬車の時代ではなくなっていた。男の救世主となった水源もまた、時代に取り残されていくことになるのだろう。馬にとっての給水所はいらない。これからはガソリンの時代てあり、水では一儲けはできない。石油王の到来を予感させる最後だった。同時にそれは西部劇の終焉でもあっただろう。馬は自動車に、銃はマシンガンに変わるが、ギャング映画となって、ならず者の系譜は絶えることなく続いていく。

第569回 2024年10月25 

トラ・トラ・トラ1970

 リチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二監督作品、ゴードン・W・プランゲ原作、アメリカ映画、原題はTora! Tora! Tora!、アカデミー視覚効果賞受賞。日米開戦までの刻一刻と変化する、状況をたたみ込むような、群像劇として仕上げている。それぞれは実名で登場し、太平洋艦隊の司令長官に山本五十六が、就任するところから話ははじまる。外交努力によって戦争を回避する道を探るが、意見を統一することはできない。

 アメリカと日本とで、どちらかを善悪に決めることもなく、ニュートラルに見つめている。感情移入を廃していて、鑑賞者は身の置き方に迷ってしまう。しかし一方で実録ものを見るときのような、客観性も感じるので、こういう視点は必要なのだと痛感する。ナチスドイツが悪役を演じる戦争映画は、見る者にはわかりやすいが、ドイツ人がすべて悪人というわけではない。ここではカメラが、どちらかの視点でも描いていないというのが重要である。

 もちろん日本の一方的な先制攻撃なので、アメリカの国民感情からすれば、悪事として排除すべきものとなるはずだ。最後に山本五十六は、日本軍の奇襲攻撃が勝利を得て、浮かれるなかでそれを、感慨深げに受け止めている。攻撃がはじまったのが、宣戦布告をする55分前であったことを、報道が伝えている。そのことによってアメリカ人の怒りは、結束を呼ふことになり、困難な戦争に入っていくことを、この勇将は予感していた。

 戦争映画としての迫力は、真珠湾攻撃を再現した、戦闘機による生々しい爆撃にあった。すさまじい音響をとどろかせて、機関砲が湾岸に停泊する、戦艦に撃ち込まれている。アメリカ軍が施設をていきして、撮影協力をしたようだ。模型では得られない迫力が実現した。

 現代ならCG技術を駆使した、特殊撮影ということになるだろう。はじめ訓練機かと思って、呑気に見ていたが、低空飛行をして、爆弾を落としていくと、アメリカ兵はあわてて逃げまどっている。地上戦のような一対一での戦闘ではないので、航空ショーを見るような感覚でいると、反戦の気分も起こってこないのが困ったものだ。

 アメリカ側では政府高官から、将軍や将校や一兵卒まで登場するが、誰が主人公というわけではない。日本側でも総理大臣(近衛文麿)から外務大臣(松岡洋右)や陸軍大臣(東條英機)、中将や中佐など軍部の幹部のほか、戦闘機に乗り込んだ兵士たちの活躍も描かれる。ただし総司令官として、天皇の名は出てくるが、配役としては登場しないところが興味深い。

 何らかの配慮や遠慮があったのだろうと思わせるが、日本映画でも陛下は出てこなかったり、出てきても後ろ姿だったりすることが多く、気になるところだ。暗黙の了解と言ってもよいが、アメリカ人にとっても、理解を超えた神秘的存在に見えたのだろう。

 トラ・トラ・トラは、真珠湾攻撃が成功したときの合言葉だった。突撃のかけ声として聞こえていたが、ニイタカヤマノボレというのが、出発のかけ声であるなら、こちらの方は勝利の雄たけびに聞こえる。ともに暗号だが、開戦までに現地と司令部とのあいだで、やり取りが続いていた。アメリカ軍はそのほとんどを傍受しており、解読されてもいて機密は筒抜けだった。

 それにも関わらず、大きな被害を受けてしまったというのは、大国にとっての不手際が、指摘されることになる。勝利をおさめた日本軍は、第二弾を送り込んで、一挙に攻め落とすことを期待したが、司令官は部下のはやる気持ちを抑えていた。深追いは味方の被害を増やし、自分は部下を無事に帰還させる責任があると言って、艦隊は引き返した。先制パンチを浴びせても、そこでやめてしまうと、強者はじきに回復してしまうのが、ボクシングやレスリングでの教訓だった。日本はそこで自身を強国だと錯覚し、武士の情けと余裕を見せてしまったのである。

 事実を掘り起こしながら、時間系列に並べていくことで、ぎりぎりまで戦争を回避しようとする努力が見えてくる。大統領室に日本大使が呼び出されている。鎮痛な気分のなかで電話が鳴る。真珠湾攻撃の知らせだった。もはや何も話し合うことはできず、大統領はひとこと、帰れと言った。大使は黙って部屋を出ていくしかなかった。大統領と思ったが、国務長官だったかもしれない。とすれば天皇を登場させなかったこととの対応ということになる。

 印象的な光景だったが、大使ではどうすることもできない。彼らもまた何とかとどまってくれと、戦争回避を願う側にいた。瀕死の患者を前にして、何とか救おうとする医師の奮闘を描いた手術室の姿と、それを外で待つ心配げな家族の表情を、交互に移しながらクライマックスへと盛り上げていくのに似ている。努力はむなしく、患者は命を落としてしまったということだ。

 フィクションなら一芝居うって、場を盛り上げることになるが、ノンフィクションなので、歴史をゆがめるわけにはいかない。息詰まる緊張感をほぐそうとして、突撃隊長(淵田美津雄海軍中佐)を演じた田村高廣に関西弁をしゃべらせたり、渥美清を登場させて、笑わせようとするが、取ってつけたような違和感が残る。

 それよりも見せ場は視覚効果にあった。真珠湾への日本機の襲来に、多くの時間を割いて、戦争映画の娯楽性を強調している。西部劇での撃ち合いとともに、人間は暴力が好きなのである。平和を望みながらも戦争を繰り返す、愚かな歴史の原理を知る、ひとつの証言となった。

第570回 2024年10月26 

ライアンの娘1970

 デヴィッド・リーン監督作品、イギリス映画、原題はRyan's Daughter、サラ・マイルズ、ロバート・ミッチャム、クリストファー・ジョーンズ主演、モーリス・ジャール音楽、アカデミー賞助演男優賞・撮影賞受賞。恋狂いになったどうしようもない若い妻(ロージー)を、悲しく見守ることしかできなかった夫(チャールズ)の話である。

 夫は教師だったが、先妻に先立たれて、ひとりでいた。娘は教え子だったが、この教師にあこがれをいだいていた。夏休みが終わり、教師が村に帰ってくる。一夏のあいだ、都会のダブリンに行っていたようだ。浜辺にいるのを娘は迎えに出ていく。二人で並んで歩いた足跡が残っている。ひとりになったとき、娘は男の大きな足跡をなぞって歩いている。すっぽりと小さな足がそこに収まると幸せをかみしめている。やがて、潮が満ちると、ふたりの足跡がかき消されてしまうのが暗示的で、このあとの物語の展開を予感させているようだ。

 酒場を営んでいる父親(トム・ライアン)のひとり娘だった。教師は帰ってきたとき、酒場に立ち寄ると、ダブリンでの町のようすを聞かれている。英国軍がアイルランドを統治し、ドイツ軍と戦っている時代だった。アイルランドの独立をめざす民族運動は、ドイツ寄りの姿勢を示す頃の話である。父親はアイルランド人として、ダブリンでの動向が気にかかっていた。

 教師はあいまいな返事をしていて、政治運動には大した関心はいだいていない。明日から授業だと言って、酒場を早めに退散して、妻の墓参りをしている。墓碑を見ると妻は35歳で亡くなったようである。教室をひとつもつ学校内に住んでいた。ある日帰ってくると、娘が教室に入り込んでいて驚く。懐かしげに昔話をするが、教師を見つめて愛を告白した。

 男は娘の将来を案じて、都会で幸せな結婚ができるはずで、こんないなかで自分のような中年男と、結ばれる人ではないと言い聞かせるが、娘の情熱に負け抱きしめてしまう。内心はうれしそうだった。結婚を祝って大勢が集まって飲み騒いでいる。やっとふたりが解放され、はじめての夜をともにするが、外の騒ぎが気になって、高まることができなかった。

 年齢差もあったのだろう、その後も娘は十分な満足感を得られず、悩みを神父に打ち明けている。ことばには出さなかったが、若いからだの疼きを感じさせるものだ。神父は娘を子どもの頃から目をかけ、その後娘が立場を悪くしたときも、擁護してやっていた。軽はずみな行動を戒めながらも、温かい目で見守っていた。知恵遅れの下僕がいつもそばに付き添っていて、娘に恋心を抱いているが、娘は気持ち悪がって遠ざけていた。

 ある日、父が不在で酒場の店番をしていると、青年将校(ランドルフ)が入ってきた。新しく赴任した英国軍を指揮する少佐だったが、戦闘で負傷し足を引きずって歩いている。心の傷がそれを上回っていて、突然発作を起こしておびえている。影を宿した美男子であり、娘は一目惚れをしてしまう。男のほうも妻はいたが、高まって娘を誘っている。塔でと娘は答えるが、男は分からないという。父親が仲間と戻ってきたので、娘は誰かに聞いてといって、その場をつくろった。父親は敵の英国兵がいて不審げにながめている。

 夫には馬で遠出をすると言って、男と乗馬の旅に出る。肉体の快楽にふけるのを、下僕(マイケル)に見つけられてしまった。そのとき少佐は階級章を落としてしまったようで、見つけると胸に飾って、村人の前で見せびらかせている。偉い兵隊さんになったとおだてられると、得意げだった。これを引き金にして、ふたりの不倫は知られることになる。衣服の乱れから、夫もはやくから気づいていた。子どもたちを引率して、浜辺での学外授業をしたときに、男女ふたりの足跡を見つけて心を乱している。かつては自分と並んで歩いた、見覚えのある足跡だった。もちろん足を引きずって歩く、男の足跡にも感づいていただろう。

 父親を訪ねて抵抗運動をするアイルランド人の仲間がやってきた。父親もかつて加わっていたグループだった。ドイツ軍から調達した武器を手に、立ちあがろうとしていた。英国軍に動きが阻止されると、少佐が先頭に立って、逃げるリーダーを狙撃しはじめた。そのとき発作が起こって倒れると、そのようすを見ていた娘が、近づいて介抱しはじめる。夫を含めてアイルランド人の誰もが、そのただごとではない姿を目撃した。

 公然と娘を排斥する声が起こる。亭主の不甲斐なさも、攻撃対象になっていた。夫は妻とふたりになったとき、熱病のような今の状態がおさまるまで待つと言った。アイルランド人が大挙して、住まいに押しかけてくる。二人を引き裂いて、娘の罪を告発し、暴行をはじめる。夫は必死になって妻を守ろうとするが、はたせなかった。不穏を聞きつけて神父がやってくる。あいだに入って暴力を排除する。神父にはさすがに反抗できず、仲間は手を引いたが、そこには娘の無残な姿があった。

 ふたりになると妻はうなだれて、これまでの不実をわびているようにみえる。落ちつきを取り戻し、ベッドをともにしたが、夜明け前になって妻は起き出して、窓からながめると、足を引きずる男のシルエットが、遠くに浮かび上がっていた。恋のはじめに同じようなことがあった。夢遊病者のように起き出して、薄暗いなかを駆け出して、男と抱き合い、娘の目は輝いている。続いて起きた夫が、その姿をやりきれない思いでながめている。

 夫は決断したようだった。着替えもせず、その場から姿を消した。次の朝、学校に子どもたちは集まっているが、夫は帰ってこない。妻は教室に向かい代講をすると告げると、生徒たちは退席をはじめた。親からこの女とは、口を聞いてはいけないと言われていたのだった。神父がやってきて、パジャマのまま出ていったことを知ると、いきさつを把握した。妻から衣服を預かって夫を探しはじめる。

 海岸の岩に腰を下ろして、ぼんやりしている姿を発見する。服を差し出すと、このままでは帰れないのでどうしようと思っていたと言って指示に従った。戻って妻と顔をあわせると、話があると言って誘った。熱が引けるのを待っていたが、無理だったと結論を出して、別れようと告げる。妻は不倫相手との別れを決意していたが、夫のことばにうなずくしかなかった。

 少佐もまたぼんやりとして沈んでいた。その姿を見つけた下僕が近づくと、タバコをすすめ、しゃれたシガレットケースをプレゼントしてやっている。下僕は喜んで、男を誘い、浜辺の小舟のかげに隠していた兵器を見せた。レジスタンスの戦士たちが運んでいたものである。箱のなかには銃だけでなく手榴弾も満載されている。下僕がおもちゃにして遊んでいるので、威嚇をして追い払った。そのあと深刻な夫婦の部屋にカメラは移ると、その窓から爆発音が聞こえていた。暴発なのか自殺なのかはわからないが、妻のアバンチュールはそこで終わった。

 神父に伴われて、夫婦は荷物をまとめて、ダブリン行きのバス停に向かって歩いている。沿道では住民たちが、冷ややかな目を注いでいる。途中にある酒場に立ち寄って、娘は父に暇乞いをする。父は娘の夫には顔をあわせたくなかったが、出てきて握手をして見送っていた。別れる決意は青年の死によっても、心に深く傷を残したまま、覆らないのだろうが、許しと一縷の望みを期待しながら、物語は幕を閉じた。

 娘は別れ際に下僕に、はじめて優しく接していた。やっと人の心を思いやる気持ちが芽生えたのだろう。自身が傷つくまでは、人の痛みはわからないものだ。娘も父も夫も不完全な人間だった。それに対して、下僕をいつも気にかける、神父の慈愛が伝わってくる。愚鈍のゆえに相手にされないながらも、娘に惹かれる精一杯の表情を、みごとに演じたジョン・ミルズが、アカデミー賞助演男優賞に輝いた。

第571回 2024年10月27 

大空港1970

 ジョージ・シートン監督作品、アメリカ映画、原題はAirport、バート・ランカスター、ディーン・マーティン主演、アカデミー賞助演女優賞受賞。空港で勤務する男女の恋愛模様を描きながら、巻き込まれた航空機事故の回避に至るまでの話。

 舞台は雪に埋もれたリンカーン空港である。航空機が滑走路をはずれて、乗客は避難したが、停止したままになっている。空港長は忙しく働いており、家庭をかえりみないために、妻は不満を高めている。帰っても寝るだけの生活を送っていた。一因は航空会社の女性チーフと恋愛関係になっていることにあったが、子どものことを考えれば、離婚することができないでいる。後ろめたい気分でいたが、妻が娘が戻ってこないといって、空港にやってくる。夫の無関心に悲鳴をあげるが、自分にも愛人がいるのだと告白することで、離婚へと舵を切っていくことになった。

 もうひとり、機長もまた女性乗務員と恋愛関係にあり、妊娠したことを打ち明けられている。このふたりの男のラブロマンスを軸に、航空機の爆破というスリリングな展開に巻き込まれながら、話は展開していく。

 将来に希望をなくして、悲観した男が、アタッシュケースに爆発物をしかけて、監視の目をかい潜って乗り込んでいた。男は軍隊時代に爆破係をしていたプロだった。妻が夫のようすがおかしいと案じて、空港にやってくる。探すがすでに夫の乗り込んだ便は、離陸してしまっていた。悲観して座っているのを、警備員に保護され、航空会社に知らせられる。女性チーフは事情を聞いて、空港長のもとに連れてゆく。

 男は挙動が怪しいと、乗り込むときにチェックされていて、機長に報告されると、座席はすぐに割り出された。偶然となりの席に年配の婦人がいたが、彼女もまた目をつけられていた。チケットをもたないで密航しようとしていたのだった。未然に見つけられたが逃げてしまい、何とか乗り込もうとして、思案を巡らせていた。

 搭乗口にいて、乗り込む乗客の姿を観察している。ひとりの男が搭乗したあとに続いてやってきて、息子が財布を忘れたので、渡しに行くのだと言って、そのまま機内に入ってしまった。機内に入るとトイレに隠れていて、乗務員の隙を見て空席になっていた、三人掛けの中央席に座り込んだ。乗客の数が名簿よりひとり多いと連絡が入り、不思議がられている。問い合わせると不審者の年齢や容姿が伝えられ割り出されるが、出発時間が来ていたのでそのままにした。いずれ到着地で身柄は確保されるはずだ。このとぼけていてふてぶてしくもある、老女の役を演じたヘレン・ヘイズが、アカデミー賞助演女優賞を獲得した。

 隣り合わせて座っている二人を、見回りに来た機長が確認すると、そのあとを恋人でもあった、女性乗務員に監視を引き継いだ。彼女は思い切って、不正乗車の女に搭乗券を見せるよう声をかけ、公然と告発して連れ出した。反対隣りにいた紳士は、強引な乗務員に抗議している。機長室に入ると、隣りのアタッシュケースの男の容疑を知らせ、不正を見逃す代わりに、男の気を引く役を引き受けてもらう。

 話しかけたすきに、機長が飛びかかり、いったんケースを奪うが、もみあいのなかで取り返され、乗客を前に爆破させようと身構える。機長は説得を続けるが、そのときトイレが開いて、出てきたのと入れ替わりに、男はトイレに閉じこもった。女性スタッフが開こうとすると爆発して、穴の空いた裂け目から犯人は、猛烈な勢いで吸い出されてしまった。

 気圧の変化で天井から酸素吸入器が降りてくる。吸い出されないようにしがみつく姿が見られる。突然の展開に乗客たちはパニックを起こしている。航空機は空港に引き返す決断がされ、無事に着陸するまでの、地上とのやりとりが、交互に映し出されていく。乗客のなかに医師が三人いて、治療にあたっている。機長は爆破で目をやられた恋人を心配して、妊娠しているので注意してほしいと伝えている。その声が仲間のパイロットの耳に入ると、情事の秘密が読み取られていた。

 乗客たちは無事帰還するが、機内で起こる密室劇を見ながら、私たちは飛行機に乗ったときの、あのなんとも言えない気分を思い起こしている。狭い三人がけのエコノミー席に縛り付けられて、死と隣り合わせている不快感を追体験するのだが、一方で異様な興奮と高揚感に浸っている。極限状況にある身体感覚を思い起こしてもいるのだ。このあとパニック映画としてシリーズとなって、引き継がれていくことになる。航空機犯罪として、ハイジャックという語も定着していった。

第572回 2024年10月28 

ひまわり1970

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品、カルロ・ポンティ制作、ヘンリー・マンシーニ音楽、イタリア・フランス・ソビエト・アメリカ合作映画、原題は I Girasoli、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演。

 メロドラマの傑作であると同時に、戦争がもたらした男女の悲劇でもある。ロシア戦線に向かったイタリア人兵士(アントニオ)が、毛皮をみやげに買ってくると言いおいて出かけていったまま、戦後になっても戻ってこなかった。役所で行方不明だと言われても、妻(ジョバンナ)は納得がいかず、生きていると信じて、ロシアにまで探しに行く。その頃はソ連の名で、自由に行き来ができなかったが、単身でモスクワに乗り込んだ。

 はじまりと終わりは、広大な大地に咲き誇るひまわり畑であり、そこには故郷を離れて命を落とした、無数のイタリア人兵士が眠っている。人の背丈ほどあるひまわりは死者の魂の復活のように見える。聞き慣れたテーマ曲がかぶさり、抒情性を高める。ソ連の担当者が付き添って、戦没者の集団墓地を案内している。簡単にあきらめられず、その後も夫の写真を手に、あてもなく探し続ける。

 きっかけはロシアから戻った帰還兵の列車に、夫は乗ってはいなかったが、掲げていた写真を見て声をかけてきた男がいたことからだった。雪の中をともに敗走した仲間だったが、途中で力尽きて別れたのだと言っている。妻は置き去りにしたことに憤慨するが、そのあと誰かに助けられているかもしれないと、慰めを語った。

 社会主義の体制下、大工場に働く工員が、一斉に帰宅する列のなかに、イタリア人の容貌をみとめて、声をかけている。ロシア人だと答えて否定するが、食い下がるとイタリア人だと認めた。なぜ帰国しないのだと詰問すると、男は顔を曇らせた。生き残って住みついたイタリア人がいることを確信して、さらに捜索を続ける。

 ほとんどの人は写真を見て、首を振ったが、農村に入って知っているという女性が現れた。粗末な家だったが、案内してくれた。庭にいるロシア女性(マーシャ)が洗濯物を取り込んでいる。かたわらには幼い娘(カチューシャ)がいた。目があったとき、恐れていた予感が的中したような、不安な表情を浮かべている。写真を出して近づくと、予感は確信に変わった。

 もちろんことばは通じない。戸棚を開くと、生活のようすがうかがえる。下の段から汚れた靴を取り出して、さかんに説明しようとしている。凍死しかかっていたのを自分が助けたのだと言っているのだ。状況を察しながらも、悲しみが怒りをともなって加速してくる。ロシア女は時計を見ている。6時15分を過ぎている。夫の帰宅が迫っているようで、イタリア女は誘われるままについて行くと、駅のホームに列車が入ってきた。都会の大工場で働く工員だったのだろう。降りてくるなかに男が乗っていた。いつものように、妻を抱きかかえようとした手が振りほどかれると、ホームの先にはイタリアに残してきた懐かしい顔があった。

 遠くから見つめあいながら、女はこみ上げる涙をこらえている。からだを震わせて、動きはじめた列車に飛び乗ってしまう。男は突然のことで呆然としてながめていたが、あとを引きずることになる。その日から思いつめるのを、ロシア妻は不安げにみつめている。引っ越しをして思いを断とうとするが、妻は夫が去るのではないかと、不安を払拭できない。

 イタリアに向かうことを、男が決意すると、二人して申請を出す。イタリアに残した高齢の母親が病気だというのが申請理由だった。女性の係員から満席で2席を確保できないと言われると、妻は子どももいるので自分は残ると言って引き下がった。キャンセル待ちのすえ、男はひとりイタリアに向かう。売店では懐具合を考えながら、毛皮をみやげとして買っている。母親から居どころを聞いて、電話を入れる。ロシアから訪ねてきたことを驚いているが、会いたいという男に対して、拒否している。自分も結婚をしていて、主人は今は勤務に出ているが工員であることを明らかにした。私たちには、会わないためのつくり話のように聞こえている。

 男はあきらめをつけて帰ろうとするが、ストで列車が動かず、明日の朝まで待つことになる。駅前で女に声をかけられると、ホテルを聞くが、自分の家に来ないかと誘われる。商売女だったようで、部屋に落ち着くと、もう一度電話を入れる。ストで明日まで帰れないので、どうしても会いたいと言うと、女は応じた。急いで化粧を整えている。男はアパートの場所と部屋番号を聞いて、不満げな商売女に支払いをすませて、再会へと急いだ。

 夜もふけ天候の急変で停電になっており、暗いなかで顔を見合わせた。毛皮をみやげだと言って渡している。女に過去の約束がよみがえってくる。ロウソクのもとで、シワや白髪を見つける。会話が過去を思い起こすと、情感は高まって、寄り添い抱きあうまでに至る。

 男は説明をする。自分は死んでいたのだと言う。引きずりながら必死になって、ロシア娘が救ってくれたことを伝える。女は言う、回復したときに、お礼を言って帰国することができたはずだと。すべてはふたりを引き裂いた戦争のせいであり、男はこのまま離れたくないと言うが、女はロシアにいる妻子はどうするのだと問い詰める。そのとき隣りの部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえた。女が結婚をしていると言ったのは、事実だったのである。子どもも生まれていた。男は名前を聞くと自分の名(アントニオ)だった。自分への愛情を確信して問うと、女は未練を断ち切り、否定して聖人の名だと答えた。

 あきらめをつけるしかなかった。ミラノ駅での朝の別れに、画面は切り替わり、男は窓越しに女を見つめている。終着駅の旅情が湧きあがってくる。ホームに立って女も男を見つめている。走馬灯のように二人の出会いから、結婚をへて出征までの映像が思い出される。ここは出征を見送った駅でもあった。映画の冒頭で流れていた光景だが、それらが他愛もないものであればあるほど、心に残るものとなる。

 抱きあうふたりはまだ出会って日が浅い。生い立ちを知らせあっている。耳に口づけをしたときに、男が女のイヤリングを飲み込んでしまう姿を、ユーモラスに写し出している。徴兵されるのが決まっていて、限られた短い期間をひきのばすには、結婚をすることだと女は提案するが、プレイボーイを自称する男はそれを拒否している。

 場面が変わると、ふたりは教会で結婚式をあげて、旅行に出かけている。結婚によって12日間引き伸ばされる。ふたりは指折り数えながら、濃密な日々を送った。新居で24個の卵を使って、男がオムレツを作った。ふたりで食べ終えると、もう卵はこりごりだと言って、窓を開けると、卵を満載した籠が置かれていた。母親が来て顔も合わさずに、置いていったのだった。

 期限が切れると、今度は男が狂気を装って、兵役逃れをしようとしている。捕えられて病院に送られる。妻が面会に来て、二人きりになると、安心して抱き合った。壁の穴からそのようすがのぞかれていて、芝居なのがばれてしまった。裁判にかけられるか、ロシア戦線に従軍するかの選択を迫られることになる。徴兵拒否はどこの国でも重罪である。

 妻は義母に嫌われていたが、夫が帰ってこない間も、気を使いながらいたわり続けていた。ロシアで家庭をもっていたことを知り、妻は自暴自棄になり男遊びをしている。部屋に飾っていた写真も破り割いた。義母がやってきて、その姿を見届けると、非難するように手を挙げる。夫は死亡したと義母には伝えていたが、それまで黙っていたロシアでの真相を伝えた。それによって、息子の不甲斐なさを申し訳なく思いはじめている。

 行き来する微妙な心の揺れが、みごとに演出されている。男は飲み込んでしまった金のイアリングは、そのうち出てくると言ったが、出てこなかったのだろう。結婚をして新しいものをプレゼントしていた。女は再会の時、化粧を整えながら、さりげなく耳につけていた。イタリア人はよくしゃべるが、しゃべらないソフィアローレンの演技が見どころだ。こみ上げる涙をこんなにもうまく演じる女優は、彼女とキャサリン・ヘプバーンだろうと、私は思っている。もちろんそれを引き出した監督とカメラマンの腕前でもあるのだが。

 初期の代表作「自転車泥棒」と同じく、情けない男の生きざまである。英雄でもなく時代のうねりに巻き込まれた、ごく普通の人間の偽らざる真実であるという点が重要だ。徴兵拒否ができずに、いやいやながら戦争に駆り出される姿は、日本では今のところ映画での話でしかない。この平和をかみしめながら、何度となく見続けてきた映画である。

第573回 2024年10月29日

真昼の死闘1970

 ドン・シーゲル監督作品、アメリカ・メキシコ合作映画。原題はTwo Mules for Sister Sara、シャーリー・マクレーン、クリント・イーストウッド主演、エンニオ・モリコーネ音楽。マカロニウエスタンを思わせる、調子の外れた高音を印象的に響かせて、荒野をゆく馬上の男を追っている。

 三人組の男に暴行を受けている女(サラ)がいた。女は衣服をはがれて裸にされている。通りがかりのガンマン(ホーガン)が助けるところからはじまる。場所は荒野でガラガラヘビが這い回り、人骨も散らばる、すさんだ世界である。女は相手を保安官と呼んでいたので、人心もすさんでいたということだ。男は情け容赦なく三人を射殺した。

 女は助けたが、ためらいもなく撃ち殺すのをみると、およそ正義の人とは思えない。善悪を排して人間存在の本質を見定めようとしているようだ。三人目は女を盾にして身構えると、男はダイナマイトを投げつけた。飛び退いて逃げたところを、撃ち殺されてしまった。拾って投げ返せばよいものをと思うが、とっさには思い浮かばない反応だろう。女もおびえているが、男はわざとゆっくりと歩いてきて、導火線を踏み消した。ダイナマイトは未使用のまま、胸ポケットに戻している。

 女は脱がされた衣類を、身につけると尼僧だった。あっと驚く一瞬である。シスターと呼ばれるが、知り合いになった男は、ブラザーと呼ばれるのを嫌がっていた。彼女は殺された三人を埋葬するよう男に要求する。ことわられるとシャベルを借りて、自分で穴を掘り墓標を掲げている。男は無関心に涼しい顔をして、食事をしていた。終わると食べないかとすすめるが、疲れ切っていて水をもらって飲んだ。水筒をもってそのまま墓に向かって歩き、死者を弔って注ぎはじめると、男はあわてて駆けつけて取り戻す。荒野では貴重な水だった。

 これからどこへ行くのかを問うと、北へと言った。男は南に向かっていたので、別れを告げる。ちょうど遠くにフランスの騎兵隊がやってくるのが見えた。あとはそちらで保護してもらうよう指示すると、女はフランス軍は自分を追っているのだと打ち明けた。現地のメキシコ人に味方しての活動から、統治するフランス軍に追われていたのだった。

 尼僧であることで信用して、彼女の逃亡に力を貸すことになる。女ははじめラバに乗っていたが、酷使をしたために、ラバは足を痛めてしまった。通りかかった男に声をかけ、連れていたひとまわり小さいロバと、交換して乗り換えた。おどけて緩慢な動きが、ユーモラスに目に映る。映画の原題は「シスター・サラの2匹のラバ」であり、ラバのもつ、鈍感で太々しくもある独特の表情を読み取ることになる。

 尼僧を演じたシャーリー・マクレーンのとぼけたような、何ごとにも動じないおおらかな性格が、それに輪をかけている。二匹目のラバは、ひょっとすると女優自身のことだったのかもしれない。馬乗りになって指揮棒のような小さな鞭を持って、いつも小刻みにラバの尻にあて、急き立てているのが笑いを誘う。日本語名「真昼の死闘」は、西部劇だということを伝える以上のものではなさそうだ。

 女が苦労して埋めた、墓を掘り起こして、死体をひとつ馬に積んでいる。女が不思議がると、人を乗せていると重みで、馬の足跡が地に食い込むことで、追手を錯乱させることができるのだという。廃屋に逃れて身を隠している。女がガラガラヘビをこわがると、ナイフで裂いてその日の食用にもした。

 ふたりは行動をともにするが、汚いことばをしゃべったり、隠れてたばこを吸ったりしていて、女の正体に疑問を抱きはじめている。尻のことをケツと言ったのが最初だった。魅力的な女であり、男は尼僧になる前に会いたかったと残念がっている。フランス軍が占領している建物には、財宝や金庫があり、それを狙うことで、成功したときに山分けするよう持ちかけている。

 メキシコ人がフランス軍にいどむ銃撃戦は激しいものだった。男がこだわったのは、ダイナマイトの入手であり、これによって互角の戦いとなった。数百人のフランス兵に対し、メキシコ人の戦力は50人ほどのものだった。女の素性は尼僧ではなく娼婦だった。そのことが明らかになると、男が驚くほどの酒豪であることもわかった。勇敢な姿は、男とふたりで橋の爆破をやり遂げたときも、インディアンに襲われて、男が負傷したときも、十字架を掲げて勇敢に、敵にいどんでいた。

 尼僧姿でいたときには、追手が探しにきた廃屋で、首のないガラガラヘビをゆすって音を立て、兵士を気味悪がらせていた。フランス軍から声がかかり、軍を指揮する大佐が瀕死の状態なので、祈りを捧げてくれと要請されたことがあった。しかたなく出向くと、大佐は死のふちにいて意識はおぼろげだった。顔を合わすと、あばずれ女だと見破って、昔からなじみの遊女だったことを伝えようとしていた。祈りを捧げ、うまくはぐらかしてその場を離れた。男の非情な活躍は、フランスの将軍もしとめていた。

 男の行動原理は、自身の欲望と打算にあった。女が尼僧のときは手を出さなかったが、娼婦だとわかると抱きしめて口づけを迫った。女もまたそれに十分応えていた。メキシコ側が勝利を得ると、女は着飾って、半分の分け前を手にした男に、付き従って去っていった。尼僧とは対極をなす、派手な赤い衣裳を身につけている。馬には山ほど戦利品を乗せての旅立ちだった。 

第574回 2024年10月30

狼の挽歌1970

 セルジオ・ソリーマ監督作品、イタリア映画、原題はCittà violenta、チャールズ・ブロンソン主演、エンニオ・モリコーネ音楽。殺し屋(ジェフ・ヘストン)が美女(ヴァネッサ)に翻弄され、愛しながらも殺してしまう話である。

 女とふたりで乗っていた車が、尾行されているのがわかると、振り切って逃げようとするのだが、執拗に追いかけてくる。手に汗握るカーチェイスが展開する。追手を遠ざけたところで、女を車から降ろして逃し、ひとりになって進もうとすると、行く手に別の車が出てきてふさがった。顔を見ると知り合い(クーガン)だったので、安心して笑いかけるといきなり発砲され倒れてしまう。狙撃して車は去ってしまったが、このとき女はこの男の車に乗り込んでいたようだ。

 殺されてしまったのかと思ったが、追手が追いついてみると、男の姿はなかった。車の下に隠れていて、3人いた男たちを片づけるが、先の銃撃によってひどい傷を負わされていた。病院に運ばれて何とか一命は取り留めたが、撃たれた理由が理解できなかった。探りはじめると、愛を交わしていた女の裏切りがみえてくる。狙撃した相手はカーレーサーだが富豪だった。主人公もまたライバルのカーレーサーだったが、こちらは殺し屋だった。

 さらにはその上にいる黒幕ボス(ウェーバー)も登場してくるが、やはりこの女を気に入って、主人公との馴れ初めも知っていたが、自分のものにしていた。贅沢をさせてプールのある大邸宅に住まわせている。主人公もその姿を目撃することになるが、このボスの弁護士(スティーブ)が画策をしてのことだった。女もまたこの男に操られているように見えるが、逆に女のほうが一枚うわてであったかもしれない。美貌を武器に、男を手玉に取るしたたかさがみえる。

 主人公はからくりを見破ると、どちらにもなびいてゆく女に殺意をいだき、銃口を向けるが、土壇場になると殺せずに抱きしめてしまう。女は覚悟を決めて、苦しむのは嫌なので、一発で殺してくれと言っていた。女はボスに愛情はなく、無理矢理に抱かれているのだと言い、男はこの甘言を信じようとする。ボスは殺しの依頼を受ける雇い主だった。手下も多く主人公に身の危険が及ぶと助け、逆に逃亡すると阻止した。高い射撃能力を買っており、身近に置いておきたいと考えていたのである。

 カーレーサーの場合は、遠距離からタイヤをねらって、運転を誤らせ、壁に激突させて殺している。プロの腕は、最後には一撃でボスを狙撃してしまうことになる。陰の黒幕のあっという間のあっけない最後だった。幕切れは愛する女を狙撃することになる。裏切った女と弁護士が乗り込んだエレベーターは、ガラス張りのビルの外壁から、見通せるものだった。

 対面するビルの屋上に潜んで、ライフル銃を構えていた。はじめ弁護士に4発を撃ち込み、おびえる女はあたりを見渡すが、どこから発射しているのかがわからないし、外からは丸見えで、身を隠すことさえできない。男はためらいながらも、引き金を引くと1発で女の額に命中して即死した。1発でしとめる腕はもちろんあったが、4発も発射したのは、卑劣なやり口に対する、恨みの意思表示だったのである。

 クールな身のこなしは、寡黙なイタリア語を話す主人公を演じた、チャールズ・ブロンソンの見せどころだが、女に引きずられていく姿は人間的で、ヒーローとは言い難い。孤独な一匹狼の姿は、現代人に共感を呼ぶものであり、この不完全な人物像に好感をいだくことになる。狙撃犯の姿を窓からみて、5発撃ったと目撃者が言い合っている。若い警官が屋上に上がってくると、主人公はライフルを抱えて、座り込んでいた。銃を構えるが、新米警官だろうと見透かされている。撃たないとこちらが撃つぞと言ったとき、警官は3発を立て続けに発射して、殺し屋は捕まることなく、命を落とした。

第575回 2024年10月31

家族1970

 山田洋次監督作品、英語名はWhere Spring Comes Late、倍賞千恵子、井川比佐志、笠智衆主演、毎日映画コンクール日本映画大賞、男優主演賞女優主演賞、男優助演賞、脚本賞、キネマ旬報ベストテン1位。

 長崎の離島から北海道まで、家族全員で移住する話である。家を引き払い、近隣からの餞別を受け取って、あわただしく引っ越していく。1970年の4月から6月までの、一段落して落ち着くまでのエピソードがつづられる。長崎までの船旅のあと、大阪まで列車で移動し、その後新幹線で東京、上野に移動し在来線に乗り換え、青森から青函連絡船を経て、北海道に渡り、何度か乗り換えて釧路に至る。一人旅なら気楽なものだが、家族での移動となると、気の遠くなるものだ。夫婦には二人の子どもがいるが、一人は乳飲み子で、さらには老人が加わる。

 長崎では父親(風見源蔵)は炭坑夫をしていた。母親は早く亡くなったようで、子どもは男がふたり、長男(精一)は親もとに残り、次男(力)は長崎を離れ、広島県福山に出て、大きな工場に働いていた。長男は長崎での勤務が行き詰まり、人から使われる職業には向いていないと、北海道の開拓村での酪農をあこがれて、知り合いを頼って、転職を決めてしまう。家族には黙ったまま、決めてしまったことから、単身赴任でもよいと考えていた。

 父親の意見は息子が決めたのならそれでよいと言う。妻はひとりで決めたことに不満をいだくが、やがてついて行くと決断する。父親は福山にいる次男のもとに身を寄せると決めていた。九州で乗った列車で車掌が切符を見て、北海道まで行くのかと驚いている。もらった餞別の額を名前とともにノートに記して、所持金の額を確認している。まずは福山で途中下車をして、みんなで次男の家に向かう。自家用車で迎えにきてくれて、自宅も購入していた。

 妻と子どもがいて手狭な家に寝泊まりをすると、窮屈な生活が予想され、次男夫婦も父親を、喜んで引き取るふうには見えなかった。弟は兄の行動は無謀だと思っており、なぜ決める前に相談してくれなかったのかと問う。兄弟の会話を聞いていて、長男の嫁はながらく生活をともにしてきたことから、父親を北海道に連れていくほうがいいのではと思いはじめた。父親も同意すると、弟夫婦はほっとしたようだった。次の日、次男は申し訳なさそうに、餞別を手渡して送り出した。

 大阪で乗り換えとなるが、新大阪からの新幹線の発車までに時間があった。地下街に入るが道を迷っている。ちょうど大阪万博が開かれていたので、見ていくことにした。着いたとき時間は一時間半しかなく、大混雑で中には入らず入口から、太陽の塔をながめただけだった。息子には北海道に行って、友だちに話せるよう、よく見ておけと指示している。高齢の父親は駅に残ったが、夫婦は就学前の息子(剛)とまだ乳飲み子の娘(早苗)を連れて、人混みのなかを右往左往している。70年万博のとんでもない混雑を、否定的に映し出した記録としても価値があるものだ。新幹線に乗り込んだときは、ぐったりとしていた。東京につき上野に移動するが、娘のようすがおかしい。

 万博に連れていったのが悪かったのだと後悔している。医者を探すが夜遅く、手間取って、病院に入ったときには手遅れだった。夫は先を急ぎたいが、死亡手続きに手間取り、カトリックの家族だったことから、教会を探して葬儀をおこなうことになる。お骨を抱いて妻は泣きはらしている。夫は単身でこなかったことを悔いて、妻を責めることにもなってくる。宿代も加わり出費がかさむと、父親が使ってくれと持ち金を提供しようとしている。決して裕福ではなかった。妻もまた不足する旅費を差し出している。夫について行こうと決心したとき、日頃から言い寄っていた好色な男から、三万円を借りていた。

 この男に万博会場でバッタリと出会っている。愛人を連れてのお忍びの旅だったようで、北海道に行くので貸したのに、遊びに来ているのかと、文句をつけた。借りた金をどう使おうと勝手だと言い返している。男を手玉に取る妻は、夫があきれるほどに頼もしい側面をもっていた。しっかりものの倍賞千恵子の姿は、寅さんの妹さくらの雰囲気とかぶってくる。前田吟も次男役で出てくるし、おっとりとした味わいのある父親役は笠智衆だった。渥美清までテレビ画面とちょい役で出てくるので、「男はつらいよ」のイメージを払拭できない。

 北海道にたどり着く前に、一度妻が長崎に帰ろうと言い出す。ハッとさせられる一瞬である。そこはまだ雪が残っていた。もはやあと戻りはできないとわかっていても、選択を誤ったという悔恨を残しての自問だった。さらに輪をかけて、やっと落ち着くと、老いた父親は張り切って土地を耕していたが、新しくできた仲間と浮かれて宴席で楽しんだあと、ぽっくりと死んでしまった。骨になった娘とともに、土に埋めて十字架を掲げた。異郷の地であるが、ここに根を張ろうという、家族の意志を暗示させる。

 長崎にいて夫の帰りを義父とともに待っていたほうがよかったのではと思う。それでもいっしょにいる家族という存在に目を向ける。単身赴任が常態化する現代に向けての問題提起になっているのだと思う。妻は農家の出で、夫が酪農をすると言ったとき、そんなに楽なものではないと答えていた。

 それでも夫についてきた。子牛が誕生するのを感動的に見ている。大喜びをして夫に報告する姿が印象的だ。そして自分もまた身籠る。夫はカトリックなのでつらいところだと、てれながら仲間に話していた。このあと家族がもっと増えていくことを暗示して、未来に希望を託す夢の物語となるのである。

 この家族の歩みは、土地を追われ約束の地を求めて流浪した、ユダヤ民族の歴史を凝縮した、小さな興亡史のように見えてくる。落ち着き先を見つける人生の旅と言ってもいい。楽園を追われたアダムとイヴが、土地を耕して生命を誕生させた物語でもあるだろう。その場合イヴは常にアダムに付き添わねばならない。カトリックが堕胎を禁じる意味はそこにある。生まれてくるものは絶やしてはならないのである。

 この物語が並行してシリーズ化されていく「男はつらいよ」と対比をなしていることに気づく。寅さんは土地に根づいた家族のもとを去り、いつも帰ってくる「放蕩息子の帰宅」の話であったのだ。こちらが信じられないほど長続きするのは、いつまでたっても改心しない放蕩息子の方に、時代のリアリティがあったからだろう。

 女性の自立と比例して「家族」は崩壊していったようだ。放蕩息子をいつも待ち続ける妹は、イヴの存在ではなくてマリアだった。妻ではなくて母だった。カトリックの精神に根ざした映画だとみると、山田洋次の風貌が、深刻なのにユーモアが混じる、遠藤周作のそれと重なって見えてくる。

第576回 2024年11月1日

幕末1970

 伊藤大輔監督作品、司馬遼太郎原案「竜馬がゆく」、中村錦之助主演。坂本龍馬の33年の短い生涯を追う。下級武士が同じ土佐藩の武士のなかで、差別を受けて死に至る姿を目の当たりにみて、新しい日本の建設を夢見て立ち上がる。はじまりは足を痛めていた商人が、下級武士より履き物と傘を借りたところからだった。急な雨に急いでいて、往来で酔っ払いの上級武士にぶつかってしまう。倒されて泥だらけになったことから、武士は憤慨する。おまけに商人が、武士にしか許されていなかった、履き物と傘を手にしていたことから、成敗するといって刀を振りかざした。

 抵抗もしないまま切り殺されたが、駆けつけたのは、履き物と傘を貸した下級武士だった。怒りを収めようとするが男は聞かず、商人と同じように刀を振りかざしてくる。無理矢理に相手にも刀を抜かせて、一騎討ちに持ち込む。こちらも切り殺されてしまうと、兄弟だったようだが、槍をもった若者が駆けつけてくる。男の怒りはまだ収まらず、家臣が止めに入ったときに、もみあいになり若者の槍に突かれて、倒れてしまった。

 若者はその場から逃げたが、武士仲間がやってきて、探しはじめていた。若者が帰った先は、藩の改革をめざす若い武士たちの集まる組織だった。はじめかくまわれるが、操作の手が伸びてくると、組織の実態が明るみに出ることを恐れていた。そのなかに主人公もいた。追手がやってきたとき、逃げてきただろうと問われると、死んでしまったと答えた。切腹したのならその証拠を見せるよう要求するが、お前たちに検死の権限はないと突っぱねて、出直してくるよう言い放つ。

 傷ついた若者は姿をあらわすが、仲間から批判的な目が注がれ、不始末を詫びて切腹へと至った。仲間の武士のなかでも身分の序列がはっきりとしていたのである。坂本龍馬は同胞の醜い争いと、ちっぽけな見苦しい根性に嫌気が差して、脱藩して追われる身となる。京都から江戸へと行き来するなかで、仲間とともに幕府の海事を取り仕切っていた、勝海舟を訪ねて暗殺を企てるが、艦隊の司令官としての勇姿に感銘を受け、仲間からは裏切り者と見られながらも、教えを受けることになる。船に乗り込み、世界の広さを実感する。

 藩同士のいがみ合いや、藩の内部での権力争いに嫌気がさし、広い見地から日本を見直さなければならないことに気づく。長州と薩摩が先頭を切って、覇を競いあっていたのも調停して、桂小五郎と西郷隆盛の会見の場を用意する。交渉が決裂すると、それぞれに語りかけ、ことに西郷が龍馬の意を汲んで、歩み寄ることになる。

 龍馬を追っていたのは、自藩の土佐だけではなく、幕府からも目をつけられていた。京都に宿泊中の寺田屋で、襲われたときは、そこに住み込んでいた龍馬の妻(おりょう)の機転によって救われた。風呂場の窓から敵が忍び寄るのを見届けた、彼女は裸のまま飛び出して、龍馬を逃した。

 龍馬は千葉道場で名の知られた剣の達人だったが、このときピストルを手に応戦している。傷を負って薩摩藩に逃げ込むと、西郷はかくまうことを持ちかけ、妻を連れて京都を離れた。鹿児島でしばらくの落ち着いた日々が続くが、薩長をまとめることは西郷にまかせ、龍馬は幕末と朝廷とのあいだを取り持つために京都に戻る。

 妻が居眠りしているあいだに、起こすことなく、置き手紙を書いて、別れを告げた。そのとき妻が得意としていた西洋楽器の弦が切れていた。わかりやすい不吉な予感だった。大政奉還という一大事業を成し遂げた功績は大きく、そのためにますます龍馬は、幕府にしがみつく勢力から狙われることになった。

 若い頃から意見があわず、論争を重ねてきた中岡慎太郎と、いっしょにいるところを刺客に襲われた。このとき尊皇や勤王を合い言葉にしながらも、天皇もひとりの人間にすぎないのではないかと、根底からくつがえす発言も飛び出し、中岡を驚かせていた。龍馬は風邪を引いており、中岡も刀を遠くに置いていて、反撃もできないままの最後だった。切られてからも、ふたりが歩み寄る一部始終が描き出され、深い友情を読み取ることができるものだった。

 人斬りや暗殺が繰り返され、殺伐とした時代の野蛮さを描き出しているが、幕府が支配権を朝廷に返すという、無血革命を実現した功績は偉大なものだった。この平和主義の見返りとして、本人は惨殺されてしまうという、時代の愚かさが皮肉にも浮き彫りにされていた。列強の各国は、内戦で日本人同士で戦わせることを望んだが、その手に乗らない賢者がいたということだ。にもかかわらずそれを抹殺する愚者もいたのだった。

第577回 2024年11月2

殺人捜査1970

 エリオ・ペトリ監督作品、イタリア映画、原題はIndagine su un cittadino al di sopra di ogni sospetto、ジャン・マリア・ヴォロンテ、フロリンダ・ボルカン主演、エンニオ・モリコーネ音楽、アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。

 警察の幹部が殺人を犯すと、どうなるのかという、ブラックユーモアに裏打ちされたサスペンスである。原題は直訳すると「ある市民の疑惑捜査」となる。刑事は殺人課の課長だが、ひとりの魅力的な人妻(アグスタ)を殺してしまう。女が殺してくれというと、喉を切り裂いてやるという。冗談だと思っていたが、ベッドでのラブシーンの最中に、女は苦しみ出して、喉を切られて死んでしまった。

 男は警察に通報して、女が死んでいると言い、部屋の住所を知らせ、冷蔵庫からワインを手に、悠然と立ち去った。出口の門で若者と鉢合わせになり、顔を見られている。警察に戻ると10分か15分ほど前に殺人の通報があったという知らせを受けた。平気な顔をして、部下とともに現場に出向いている。

 課長は昇進して部署が変わり、公安部長になることが決まっていた。ワインはその祝賀会のためのものだった。部屋にはこの男の指紋があちこちに残されているのだが、まさか犯人だとは思われてはいない。女には亭主がいて、まず疑われる。学生運動に参加している若者も、同じアパートに住んでいて、女との関係を調べられている。ともに警察での厳しい尋問がおこなわれると、無理矢理に自白をさせられることになる。

 青いネクタイが決め手となるが、部長も同じネクタイをしていたことが指摘されている。通りがかりの見知らぬ男に声をかけて、隠蔽工作をしようとするのだが、自分が殺人者だと明かしている。男は冗談だと受け付けないが、サングラスを怪しんている。風貌を記憶していて、その後の捜査でも正直に話した。警察に呼ばれるとそこには、サングラスはかけていないが、そっくりの男がいた。それが警察署の部長だということがわかると、関わりを恐れて、とたんに口籠もってしまう。

 犯行後に門で出くわした若者は、女の情事の相手だった。部長と顔を合わせると、疑惑を主張する。過激派の学生のリーダーを割り出すのに、別の学生を拷問して、この男を首謀者に仕立て上げてしまう。じょじょに部長の疑惑がかたまってくる。警察内部でも部長の不自然な言動を疑っているが、表立っては指摘できないでいる。

 動機も見え出してくる。女はマゾヒスティックな刺激を求めていた。警官に拷問を受ける倒錯的なプレイを楽しみ、刑事のほうもその世界にのめり込んでいったようだ。若者とのつきあいは、刑事が女を抱けない、肉体的不能に対する不満解消のためだったことが、明らかになっていく。殺害されたベッドには、男の体液が検出されなかったことも、報告されていた。警察にとっては不名誉なことであり、部長という要職にある者を、殺人犯として逮捕することはできない。

 部長に呼び出しがかかると、観念して自白しようと決意する。部屋に入ると幹部たちが、一堂に並んでいた。犯行を証明する証拠を、ひとつずつ自白していく。現場に指紋が残っていたはずだと言うが、そんなものは残っていなかったと、署長は答えている。若者に顔を見られたと言うと、彼はその時そこにはいなかったとアリバイをあげている。

 ネクタイの一件も、頼んだのは部長ではなかったと、男は訂正しているのだという。すべてはもみ消されてしまっていた。大きな権力機構の隠蔽工作と、密室での尋問の暴力性が、あたりまえのように行われているのに恐怖することになった。最後にカフカのことばが引用されるが、法の番人は法に守られているという不条理な世界が、炙り出されている。

 そんな腐敗した権力構造を描いてはいるのだが、この映画のみどころは、そうした社会的なメッセージだけではなくて、映像のもつ暗示力なのだと思う。それにかぶせて、単調にリズムを刻むエンニオ・モリコーネの音楽が効果的だ。男がベッドで女を殺害する冒頭の場面に、すべては集約されているようだ。シーツをかぶっていて、ベッドシーンは見えないが、その輪郭から女が馬乗りになっていることがわかる。

 腰を激しくゆするが、一体となった歓喜のシルエットではない。男に迫るが満たされない焦燥が読み取れる。感極まったと思わせるのは、快感の絶頂ではなくて、喉を切り裂かれた一瞬の、声にならない悲鳴だった。血の痕をかすかに写すことで、殺害は暗示されるが、凶器は男の手の中に隠されている。血を拭い去られた女の指先の、長い爪が写され、それが白く輝く美しい凶器なのだと、私は思った。

 小さく暗い画面では、男がカミソリの刃を握っているのが見えなかった。血を拭ったのではなくて、自分のつけていた青いネクタイの糸を爪に付着させていたのだった。不可解な行動だが、なぜそこまで犯行の証拠をあからさまに残そうとするのか。謎めいた言動を通じて、隠された深層が見えてくる。そんななかから、性的不能者の恥辱が浮かび上がってくる。ふつうなら首を絞めるところだろうが、そうではないところに、サディスティックな満たされない、欲情が読み取れるのである。

第578回 2024年11月3

灰色グマの一生1970

 ロン・ケリー監督作品、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ製作、アーネスト・トンプソン・シートン原作、アメリカ映画、原題はKing of the Grizzlies。信じられないような話であるが、さわやかないい映画だった。血生臭い映画を見慣れていると一種の清涼剤で、メルヘンのように目に映る。一匹の灰色クマ(グリズリー)の成長を追ったドキュメンタリー映画のようにみえるが、どう見てもフィクションとしか思えないリアリティに、疑心暗鬼のまま、見終えることになる。

 生まれたときは300グラムだという。次に20キロの姿で登場し、さらには300キロ、500キロというとんでもない巨体となり、森の王者となって生涯を終えたことが語られている。ひとりの原住民の青年(モキ)との出会いを通して、まるで心のふれあいがあるかのような身振りを示している。

 はじまりはナレーションとカメラが追うが、人間は登場しない。母グマが二頭の子グマを連れて移動している。灰色グマは放浪が習性であるようだ。子グマは男女で、母グマに守られて、じゃれ合いながら成長していく。弟グマのほうだけに、名前(ワーブ)がつけられているので、不思議に思っていたが、母グマと姉グマは射殺されてしまったからだった。

 牧場の近くに現れて、牛に被害が出ることを恐れて、牧場主(大佐)がライフルでしとめていた。退役軍人だったが、牧場を経営していた。弟グマだけが崖から川に落ちて生きのびるが、大きくなると危険なので殺すよう指示が出される。牧場で働く原住民の青年は、古くからの部族の伝説から、人間とクマとの共生を信じていた。見回りに出ていると、木の上に登っている子グマを発見する。銃を構えるが彼が選んだのは、銃殺ではなくて、捕獲だった。

 みごとな投げ縄さばきで、首に巻きつけたあと締めつけて、馬に引かせて木から落とした。取っ組みあいの格闘のすえ、口と足もロープで縛り、馬に乗せて移動する。死に物狂いで抵抗したが、このときクマの体重はまだ20キロほどだった。青年はグマの足に4本しか指がないのを記憶している。牧場を荒らすことのないよう、抱きかかえながら遥か山を超えて、戻ってこれない遠方まで連れていく。獰猛なはずだが、観念したのか大人しく、男のひざの上に乗っている姿が印象的だ。

 雪の降り積もる山中で、縄を解くとクマはゆっくりと青年から去っていく。姿が見えなくなる頃に、一度振り返っていたのが感動的で、命を救われたことがわかったのかと思わせるものだった。そのあとは、再び人間と関わることなく、自然の生存競争が続いていく。ヒョウの親子に出会い、子を守る母親の本能から厳しい襲撃にあう。

 縄張り争いは生存のための宿命であり、弱い者は追われ、共存することはないのだと教える。同じ体格のクマ同士の激突もある。大きなクマに襲われて、木の上に逃げると、下で木を揺すって落とそうとする。木のまわりの土を掘り起こして、木を倒そうとまでしている。そこで疲れてしまったようで立ち去り、命拾いをした。激しく威嚇しあう唸り声と、すさまじい形相と、むき出しにされた牙が迫力を生むが、不思議なことに血は写されてはいない。子どもの見る映画としての教育的配慮なのだろうが、実際には血生臭い生死の格闘のはずだ。

 同じ灰色グマのメスが現れると、求愛の行動に出ている。それでもエサを獲得すると、自分が先に食っている。メスグマが愛想をつかして、去ってしまうのをみると、どこの世界でも同じなのだと思ってしまう。クマはまたひとりに戻り、必死になって場所を占有しようとする。先住民を追い出して居座るのは、人間社会と同じである。平和とはほど遠い、土地をめぐる争いなのだ。それを果たすと、安心して冬眠に入ることができた。眠るクマのわきをそうっと、起こさないように小動物が移動している。

 何度も春の訪れを繰り返して、クマは成長して300キロになっていた。牧場には柵を張り巡らせる作業をしていたが、クマが打たれた杭を倒して遊んでいる。昼寝中の作業員(ショーティ)の目の前に姿を現すと、飛び起きて逃げ始めている。のっそりとしているが、いつまでも追い回し、その度に男は死んだふりをしている。馬車で見回りに来た仲間も巻き込んで、一匹のクマに追われて、馬も牛も逃げはじめる。大混乱になり、牧場主は銃殺を決意して、ライフルを手にし、単身でクマを追い始めた。

 原住民の青年は気にかかり、あとを追う。足跡から4本指のクマなのがわかる。牧場主の行動を読み取ったクマはうしろに回っていた。青年が助けに入って、クマの前に出て、呪文のような先祖からのことばを伝えると、クマは背を向けて去っていく。かつて命を救われた記憶がよみがえったわけでもないはずだが、興味深かった。

 牧場主は何度も発砲の機会はあったが、青年の発する呪力にとらわれていたようにも見える。青年はクマが木に印をつける行動を見ながら、それは彼の縄張りであり、そこから先には向かわないことを約束しているのだと言っていた。クマはさらに成長して500キロを超えて、森の王者となって生涯を終えたことを伝えていた。

第579回 2024年11月4

晴れた日に永遠が見える1970

 ヴィンセント・ミネリ監督作品、アメリカ映画、原題はOn a Clear Day You Can See Forever、バーブラ・ストライサンド、イヴ・モンタン主演。ファンタジーに満ちたミュージカル映画である。

 人間は生まれ変わることがあるのかという不可解な話を、下敷きにしながら男女の恋愛が展開していく。主人公(デイジー・ギャンブル)は、鋭い感覚と超能力をもった22歳の女性である。鉢植えの花もこの娘が育てると、時間を早送りしたように、急速な勢いで伸びてくる。

 医学生の授業に紛れ込んで、彼女は聴講をしている。教授(マーク・シャボー)が教壇で学生を使って催眠術にかけ、年齢を下げていくのを見ていて、自分がかかってしまい、突然幼児になって叫び出した。教授も学生も驚くが、部外者であり退席させられる。講義が終わるのを待ち構えていて、教授に相談があると言って、研究室について入っていった。

 そこで教授がメモ書きを探していて、見つからないのを、はさんである本のページ数を言いあてたり、電話が鳴るのを予知したりしたことから、興味を抱きはじめた。催眠術をかけて聞き出そうとするが、聞いていたより何歳も年上の年齢を言っている。何年も先の話を、過去のこととして語っているのかと思うと、不思議な感覚に襲われる。

 氏名も自己紹介で聞いていたのとは異なった名(メリンダ)を名乗った。それが誰なのかはわからないが、現代のアメリカにいるはずなのに、何世紀も前のロンドンにタイムスリップしているようだ。教授はその女性に惹かれて、誰なのかを知りたいと思うようになる。そもそも催眠術というものが、かかった被験者に年齢を言わせたり、あなたは誰だと聞いたりするのは、人間は他人になることができるということを、前提としているものなのかもしれない。

 現実に戻ると、彼女にはフィアンセ(ウォーレン)がいた。成績が優秀で就職先が決まりかけていた。彼女の品行も問われるので、依存症になっていたタバコをやめたいと思っている。催眠術によってやめられないかというのが相談内容だった。娘の超能力の秘密を知りたくて、教授は相談に乗ってやることにした。娘は催眠状態になると、もうひとり別の名前を言っていて、自分は結婚していたとも言った。教授がさらに突っ込むと、指を折り始めて結婚相手は13人いたと答えた。

 過去だけではなく未来へも行き来できる能力は、ギャンブルではルーレットの当たり番号も見えていて、フィアンセがカジノでのめり込んでしまったときも、数字を言いあててやっていた。教授は22歳の娘よりも、生まれ変わる前の女性に興味をもちだした。催眠術をかけることで、彼女と話すことができる。年齢差はあるが、教授に好意を抱きはじめていた娘は、自分の中にいた別の女に、嫉妬をしはじめる。

 フィアンセとは別に、かつての兄だという男(タッド)も登場して、彼女に愛を投げかけている。近親相姦になるのではと案じられたが、親どうしが結婚をしたと言っているので、問題はなさそうだ。その後に両親は離婚したので、かつての兄ということになる。まじめ腐って面白みを欠くフィアンセの、本性が見透かされると娘は別れて、ジャック・ニコルソンの演じる、優柔不断なこの兄に接近していく。教授もこの娘のなかにいる、もう一人の女性を忘れきれずにいた。娘は過去を思い起こして、教授とはかつて夫婦だったとも言っていて、いつのことかと聞くと、2038年のことだったと答えた。

 教授は素性を語り、妻がいるが別居していることを打ち明けていたが、娘とは別れることになる。いずれは結婚するのなら、今あわてて結婚することもないという、断絶した不思議な時間感覚にとらわれたのかもしれない。未来を過去形で語るような、SFのつじつまのあわない非現実が、奇妙に生々しく迫ってきて、リアリティを楽しめる映画だった。もちろんミュージカルなので主人公二人の、声量のある歌唱力と、シャンソンのような落ち着いた語り口の、掛け合いがみどころではある。

第580回 2024年11月5

砂丘1970

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品、アメリカ映画、原題はZabriskie Point、カルロ・ポンティ製作、マーク・フレチェット、ダリア・ハルプリン主演、ピンク・フロイド、ジェリー・ガルシア音楽。原題のザブリスキー・ポイントは、死の谷と呼ばれる、カリフォルニアに広がる砂丘の景観名である。

 ロサンゼルスにある大学で、学生集会が開かれ、革命が熱く語られている。学生のなかにも温度差があり、主人公(マーク)はそれほど議論には熱心ではないが、仲間と連れ立って銃砲店に入って銃を購入している。足首にホルダーをつけて、隠し持っていた。警察が大学に介入して、立てこもった学生を催涙ガスで、いぶりだしはじめた。手をあげて出てきた学生は腹ばいになって、おとなしくしていたが、銃を手にした学生が出てくると、警察隊はその場で発砲していた。

 主人公はかたわらでその光景を見ていて、警官のひとりに向かって銃を構えようとしたとき、別の銃弾を浴びて、その警官は倒れてしまった。その場を逃げることになったが、その姿がニュース映像に写されていて、犯人にされてしまう。学生は飛行場に逃れて、そこに止まっていた小型機に乗り込んで飛びはじめる。飛行機の操縦はできたようで、整備員の制止を振り切って発進した。

 ひとりの娘(ダリア)が車に乗って荒野に向かっていた。目的のあるようには見えない。リゾート開発を進めるエリート社員の秘書だったようだが、無断で職場放棄をしていた。上司は娘の危なかしい生き方を心配している。ハイウェイを走るこの車に目をつけた小型機が、車を狙って低空飛行を繰り返す。運転していた娘は、ぶつかりそうな飛行に腹を立てて、車を止めて出てくる。飛行機も広い空き地をめざして着陸し、ふたりは顔をあわせる。

 女はラジオを聞いていて、この男のことを知っていた。飛行機を奪って逃げている男のことや、警官を殺害して逃げている学生のことである。女は男の言動から、これらに該当するのだと感づいたが、驚くことはなかった。警官殺害が濡れ衣であることを証拠付けるのは、拳銃に込められた弾丸の数だったが、男は全てを抜いてしまって、砂地に捨ててしまった。女は埋もれてしまう弾丸を見ながら、拳銃が発砲されなかったことを証明できなくなると苛立っている。男は意に介さず、飛行機を置いて女の車に乗り込んで旅を続ける。荒野にたどり着くと、車を降りて徒歩で砂丘を進んでいく。

 不毛な砂地の世界が広がっていて、二人はそのなかに埋もれるようにして、戯れあっている。抱きあい恋人どうしのように愛を確かめあう。落ち着きを取り戻した頃、男は借りていた飛行機を返すと言い出す。盗んだのではない。警官も殺害していないし、返すことによって男の罪は問われなくなるはずだった。上から塗装を変えて別の飛行機に見せかけようとした。派手な姿に変貌して飛行場に向かうことになる。

 飛行場では遠くからその異貌に気づいて警戒していた。まちがって離陸路に着陸すると、待ち構えていた警察の車両が近づいてきて、止まったところを銃撃され、主人公は即死してしまった。飛行機を返し終われば、その足で帰ってくると言い残して出て行ったが、娘は男の死をラジオのニュースを聞いて、知ることになった。

 娘はひとりで運転を続け、車を先に進める。職場の上司のいる、荒野に開発された施設にたどり着く。岩の上に築かれた未来都市のような建築物だった。富裕層が集まるパーティに誘われて、上司から着替えるよう指示されるが、違和感をいだいて車に戻り、邸宅から離れていく。遠望する位置まで来たとき、振り返るとその岩山全体が、一瞬のもとに爆発してしまった。

 ゆっくりとスローモーションのように残骸が落下してくる。音のない美しい光景として、何度となく繰り返されていく。一度の爆発を、角度を変えてさまざまに映し出されているのだろう。執拗なまでに生々しい爆破の連続に見えている。岩肌や家屋だけではなく、室内の家具木っ端微塵になって、飛び散っている。

 現実なのか娘の見た妄想なのかの区別がつかないまま、映像としてのイメージの力に驚嘆し、酔いしれることになる。砂丘では二人だけが裸で抱きあうのだが、一瞬何組ものカップルが映し出されたり、飛行機を塗装するのに、別人がひとり映し出されるのも一瞬のことである。最後の爆発場面も、先に前触れのように一瞬はさみこまれていた。その残像は映像美の特徴をなすもので、はかないのに強烈に心に刻まれる刻印となって、いつまでも尾を引くものとなった。