イタリア映画コレクション にがい米

第128回 2023年3月14日

にがい米1949

 ジュゼッペ・デ・サンティス監督作品、イタリア映画。田植えから米の収穫まで出稼ぎにきた女たちの物語。宝石泥棒から宝石をあずかった女が混じり、それを嗅ぎつけた第二の女が、それをかすめとるところから、話は展開する。二人の女が対比をなす。女たちを監視する軍曹が、あいだに入っていざこざを冷静に処理するようにみえるが、じつは思惑があって、宝石を盗んだ女に気があることが、やがてわかってくる。事件に関わらないように忠告するが、宝石に目がくらむのは、女の本性なのかもしれない。

 捜査網をかいくぐって追われる男が女を探し出して会いにやってくる。チンピラだが色男踊りがうまく、宝石を盗んだ女が気にいってしまうのだ。強奪した宝石はニセモノだったが黙ったままで、それをえさにして女を自分のものにしてしまう。第一の女は、仲間の色男をみかぎり、軍曹を男らしく思って、近づくが相手にされない。

 片思いのトライアングルができあがる。愛欲と金欲がからまり、かみ合わない人間関係はやがて、ピストルとナイフが飛び交う悲劇を呼ぶ。収穫した米をそっくり盗み出す計画が破綻して、色男はだました女から撃ち殺され、女は絶望し自殺をしてしまう。残された二人が、互いにいたわるようにして寄り添いながら映画は幕を閉じる。欲望のむなしさを描いた末に、生き残ったのは愛することの喜びと、愛されることの幸せだったようだ。ともに一方的ではあるが、やがては時間が解決することだ。愛とはそんなものだろう。

第129回 2023年3月16日

ストロンボリ/神の土地1950

 ロベルト・ロッセリーニ監督作品、イングリッドバーグマン主演。イタリア映画。ストロンボリは火山のある島の名である。男から優しいことばをかけられて結婚をしていなかの島で生活をするようになった妻の不満と葛藤。イタリアにまで流れてきた異国人にとって選択肢はそんなに多くはなかった。便利な都会生活をあこがれていたのに、文化とはほど遠い何もない島の生活がはじまる。戻りたいと訴えるが夫は聞き入れない。神への祈りは欠かすことはなく、神父を訪ねるが、耐えることだとしか答えてはくれない。島の日常がその土地の顔をもった人々の目線で映し出されている。大漁のマグロが釣り上げられるのを、カメラは延々と写し出している。迫力にあふれる光景を前にして、都会にはない生命力を感じるときだ。

 このとき妊娠していることがわかるが、その直後、火山の爆発が起き、命からがら逃げまどったすえに、島を離れて出産することを決意。島を出たいと再度夫に訴えるが、玄関を板でふさがれて閉じ込められてしまった。島の青年に助けを求めると、簡単にその色香の誘惑に負けて、逃亡を手助けしようと約束して、一緒に逃げようとまで言った。船着場まで火山を越えて歩きはじめるが、ガスにふさがれた過酷な自然から逃れることはできず、力尽きてしまった。朝になり目覚めると、生きていたことを神に感謝して、また歩きはじめる。目の前にあったのは出てきた村の光景だった。ここで生き続けるしかないという結論を、暗示しながら映画は終わる。アメリカからこの監督をあこがれてイタリアに渡ってきた主演女優の行動を下敷きにしたような内容はプライベートなまでに生々しい。はたしてイタリアは新天地であったのだろうか。怒りを爆発させて自由を叫ぶ姿は演技をこえた表情を浮かべていたようにみえた。

第130回 2023年3月18日

白い酋長1952

 フェデリコ・フェリーニ監督作品。白い酋長と名乗る映画俳優にあこがれてファンレターを書くと、ローマに来たときに訪ねて来いという返事をもらった。新婚旅行でローマにきたときに、抜け出して会いに行くという、とんでもない花嫁が引き起こす大騒動である。花婿にとっては突然失踪したという印象だが、わけがわからないまま探しまわる。夫は名の知れた名家の出でもあるので、おおっぴらにすることもできずにいる。

 白い酋長は娘を見て、火遊びをしたくなって誘い出す。娘はそこまで深入りするつもりはない。酋長の妻も登場してくると、とたんに逃げ腰になって、何も言えない。娘は自分の愚かさに気づき、いまさら夫のもとにも帰れず、自殺を決意する。行方不明のままやっと再会ができたのは死にそこなったみじめな姿だった。そのとき語ったのは、白い酋長はあなただったという一言だった。遠くで見るとどんなに素晴らしく輝いてみえるスターであっても、身近でみると幻滅してしまうという教訓を伝える、他愛もない内容だが、テンポのよい音楽にのせて進行する。フェリーニ映画のテーマ曲ともいってよい狂騒にイタリア式喜劇の定番を味わうことができた。

第131回 2023年3月19日

子供たちは見ている1944

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。愛のエゴイズムが家庭を崩壊させるさまざまな諸相を、子どもの視点から描いた秀作である。その後の「終着駅」に結晶する、揺れ動く女心のどうしようもない弱さを、みごとに描き出している。それによって犠牲になる家族の側にスポットをあてることで、愛に溺れてゆく姿が、いかに愚かしく哀れでもあるかを納得させようとしているようだ。

 麻薬にも似て、手を出してしまうと泥沼であることはわかっているのに、快楽のために奈落へと向かう破滅願望が、人間にはあるようだ。子どもは見ている。年端のゆかない子どもであってもすべてを知っているのだ。しかも黙っていて、何も語らない。かばっているのではない。告発しているのだ。あきれてものが言えないという大人のことばを、子どもは知らないうちに体得している。ラストシーンでの子どもの反応がいい。父をなくした悲しみを、母に背を向けることで伝えようとする。夫だけでなく子どもまでも失ってしまった。情事の代償は大きい。

 妻の不倫を一概に否定できないようにする演出はあっただろう。不倫相手をとびきり善良な美男にし、夫の性格の悪さを強調してもいい。自死と思える夫の死は妻への復讐にしか見えないし、子どもへの愛情を優先するならば、寄宿生として手放す選択もなかったはずだ。妻が子どもを戻して去ってしまったとき、家事と育児で雇われている住み込みの老婦が、私が育てますといったセリフが印象的だった。はじめは肉親だと思ったが、そうではなかった。父が死んで母が寄宿舎を訪れたとき、子が泣きながら抱きついたのはこの老婦だった。老婦は優しく子を離して、おかあさんですよとうながした。心にくい演出である。

第132回 2023年3月20日

街の恋1953

 マリリンモンローのようなハリウッドスターが出てくる映画ではないという、ことわりがまずあってスタートする。イタリア式のネオリアリズモに根ざすドキュメンタリータッチで、街の恋のさまざまが伝えられる。アントニオーニやフェリーニといったイタリア映画の巨匠の名も含まれるオムニバス作品である。多くは不幸な女の生きざまをインタビューを基本に展開させている。夜の街に立ち身を売る女が、商売にならず帰宅する。自殺しようとして死に損ねた女が話している。男に逃げられ、貧困からよちよち歩きの幼児を、公園に置き去りにする女性がいる。母親を追いかけたカメラは、かつて歩いた場所を再度歩いて、追体験するなかで、そのときの思いを語らせるという手法を取っている。

 フェリーニのものが映画という文法に踏み込んでいて、考えさせられた。結婚相談所を舞台に、そこに取材をした記録があげられる。ノンフィクションにフィクションが加わり、空々しいドキュメントに引き込まれていく。狼男のように異常な性格をもつ友人の結婚相手を探しているという設定で、インタビュアーが結婚相談所を訪れる。まさかと思っていたが、結婚を希望する女性があらわれて、根掘り葉掘り聞いた末にことわるという、とんでもないヤラセ取材にみえる。もちろん女性は納得してカメラの前に立っているのだがら、フィクションとの境目があいまいであり、見ているほうも地なのか演技なのかがわからないまま、地のままだと思いながら感情移入している。

 最後は街中を歩くセクシーな女性たちに注がれる男の視線をつなぎ合わせているだけのカメラワークで、セリフは一言二言、男が話すくらいである。女たちが足早に歩くだけだが、リズミカルな音楽にあわせてカメラが追う。男も追う。テンポよくシーンをつなげて展開しているので、ドラマはないが街並みやファッションを見ているだけでも、時代を反映していて、イタリアの50年代の都会の情景に出会うことができる。映画は編集にあるということだ。

第133回 2023年3月21日

雲の中の散歩1942

 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督作品イタリアならではの時間通りに走らないバスの情景が効果的だった。運転手に男の子が生まれたというので遅れるところから話はスタートする。じつによくできた話である。男にだまされて妊娠してしまった娘を助けようとする男の話。バスで出会って、乗りかかった船というひとことで片づけてしまってもいいが、この男の言動が見ていて爽やかで気持ちがいい。

 がみがみどなる女房を前にして、風采の上がらないセールスマンだと思っていたが、事件に巻き込まれていく中で、娘に同情しながら、夫の役を演じていく。菓子を売り歩く行商の旅先で出会った娘から、しばらく夫になってくれないかと持ちかけられる。当然断るが、娘が自殺でもしそうな雰囲気なので、引き受けざるを得なくなってしまう。二年ぶりに娘が戻ろうとする実家は地方の名士であり、娘が結婚して戻ってきたと大騒ぎになる。はては祝いの宴席が設けられ、大ごとになってしまい、後には引けなくなる。

 若く美しい娘であれば、はためにみればアバンチュールを楽しむのも悪くはないと思ったりもする。このまま娘と暮らすのもひとつの解決策なのにと思ったが、口数の多い妻のもとへ帰るという選択肢となった。携帯していた家族写真が娘の父親に見つけられてしまったのだ。どんな落とし所になるだろうかと思っていたが、妻子のある男であることが露見するという展開は思いつかず、なるほどよいところに目をつけた話の展開だと感心した。

 妻子ある身で若い娘を妊娠させたということになると、とんでもない悪人にされるので、真実を語るしかない。道理をふまえた弁明に、はじめ怒りをあらわにしていた娘の父が理解を示す。シングルマザーであっても、孫はかわいいはずだという訴えが娘を擁護する。男は帰宅してまた日常に戻ると、口やかましい妻の声が聞こえた。玄関に届いた瓶を取り込んで子どもの飲むミルクを用意してやっている。いなかで飲んだ搾りたてのミルクの味を思い出しながら、あのひとときの体験は災難ではあったが、雲の中の散歩のように淡く美しいものに思えただろう。

第134回 2023年3月22日

パンと恋と夢1953

 ルイジ・コメンチーニ監督作品、ヴィットリオデシーカ主演。いなかの村に赴任した憲兵隊の署長をめぐるドタバタ劇。村一番の美女は、村一番の貧困家庭でもあり、じゃじゃ馬のように激しい性格をもっている。独身の署長は、この娘に引かれるが、娘は部下の若き隊員のひとりを愛している。娘の母親は社会的地位にひかれて、娘を署長に嫁がせたいと考えている。恥ずかしがり屋の隊員がこの娘に思いを寄せていることを知って、署長は身を引き、二人の仲を取り持って、結婚へと導いてやる。自分のほうは若い娘をあきらめて、年齢的にふさわしい助産師に矛先を向ける。頼もしい仕事ぶりにひかれアタックして、順調に誘いを受け入れるかに見えたが、次の日にことわりの手紙を受けてしまう。問い詰めると結婚できない身の上を話し始め、子どももいるのだと告白する。署長はあきらめずチャレンジを続け、真心が通じてハッピーエンドとなる。

 署長がこれまでなぜ独身なのか、不思議に思うのは、デシーカという俳優の温厚な人柄によるものだろう。控えめで中年の魅力にあふれている。もっとギラギラした醜男であるほうが、リアリティがあり、納得がいったかもしれない。でもそれだと見ている方が感情移入できなくなり、署長にエールを送ることもなくなってしまうので、難しいところだ。若い美女に引かれるのは誰ものことだが、年齢にふさわしい相手がよいというのが、この映画の落とし所だろうか。美女役のジナ・ロロブリジーダの美貌が際立っていた。以前見た二人の共演したオムニバス映画「懐かしの日々」1952を思い出した。

第135回 2023年3月23日

殺人カメラ1952

 ロベルト・ロッセリーニ監督作品。イタリアの田舎町に起こる奇跡の話。聖アンドレアの再来ともみえる老人が登場し、写真屋が紙焼き写真を壁に貼り付けて撮影すると、そこに写っている人物が死ぬという奇跡を起こす。市長を巻き込みながら私欲をふくらませてゆこうとする連中を前にして、写真屋は世の不正をただすために立ち上がり、6人もの悪人を殺してしまう。恐ろしげな話だが、映画は喜劇仕立てで、イタリア映画らしくやかましいまでに会話をはずませて、あわただしくテンポよく推移する。

 アメリカ人がさかんに登場するが戦勝国であり、敗戦国として統治された日本の場合と同じで、子どもたちはチョコレートをねだっている。ローマの休日(1953)などとも共通する、戦後すぐのイタリアでのアメリカナイズされていく文化的侵蝕を背景に思い浮かべると、興味深くみえてくる。いなかの旧家は美術品が何気なく置かれる宝庫であり、アメリカにはない文化の層の厚みをみせるものだ。アメリカ人旅行者を案内しながら、いなか家の売り込みをしている。中世から続く教会のたたずまいや、階段がめぐらされた村の家並みは、絵になる光景をかたちづくっている。リアリティあるドキュメンタリータッチの手法は、ロッセリーニの得意芸で、たわいもないストーリーではあるが、土と海の香りのするローカリティ豊かな映画の醍醐味を体感できた。

第136回 2023年3月24日

金曜日のテレーザ1941

 ヴィットリオ・デ・シーカ監督作品。孤児院にいる寄宿生があこがれの小児科医と結ばれるまでのシンデレラストーリー。名はテレーザというが年長で、新しくくる小児科医の助手の役目をすることになった。これまでの担当医は結婚で辞めたとのこと、結婚でやめるというのも不思議だなと思って聞いていると、年齢は78歳とのひとことが入って思わず笑ってしまった。ユーモアの感覚が散りばめられるのもこの監督のセンスのよさを感じさせるものだ。

 テレーザが小児科医の家族のアルバムをみてこれはだれだかわからないという会話が聞こえたあとで、カメラに写し出されたのは、この医師が生まれたばかりの裸の写真だった。クスッと笑ってしまう演出は、ラブコメというジャンルに必須のものだが、よくわきまえたハッピーエンドとなっていて、見ているものを温かい気分にしてくれる。どうしようもない男女の愛のすれちがいを写し出しても一流の監督だが、その出発点が、ここにある。

 小児科医は必ずしも理想的男性とはいいがたい。借金まみれで毎日のように追立をくっている。開業医だったが、廃業して孤児院での非常勤を余儀なくされる。関係をもった女性は多いようで、名の知られた歌手と付き合い、資産家の令嬢とも婚約を取り交わしている。孤児院の看護士には目もくれなかったが、じょじょに娘の熱い視線を感じはじめていく。娘は彼の負債を返すのに一肌脱ぐことになり、存在感を高めていく。ラストシーンでこの娘に結婚をほのめかすやり取りがいい。そのときのなんとも言えない娘の、涙をためた表情が印象に残る。

第137回 2023年3月25日

揺れる大地1948

 ルキノ・ヴィスコンティ監督作品。シチリアの漁村を舞台にして、漁師と仲買人との対立を軸に展開する家族の興亡の物語。イタリア映画はなぜこんなにもうるさいのかと思う。たぶん土地のことばなのだろうが、じつによくしゃべる。中間搾取をおこなう仲買人への憤りから、仲間に呼びかけ、独立して直接の儲けを得ようとするが、突然の暴風雨で船をなくしてしまい、仕事を失って、仲間からの仕打ちにも苦しむことになる。荒れた海岸にたたずんで不安げに見つめる家族の姿が印象的だった。

 家族は父親を漁で亡くしている。兄弟姉妹は多く、祖父と母を含めて10人もの大所帯である。長男がまっすぐな正義感から奮闘するが、仲間が同調せず、孤立を余儀なくされている。家族の群像劇としては、その後の「若者のすべて」1960を思わせるものだ。次男はアメリカ人の甘い誘惑に負けて、故郷を去る。戦後のイタリア映画では決まったようにアメリカ人が出てくる。占領国としてあまりよいイメージはないが、その富にどこかであこがれを抱いている。

 長男と次男の対比と同じように、長女と次女も対比をなしている。控えめと活発といってもいい。長女には心を寄せる男がいるが、身分の違いから結婚はできないと思っている。相手は収入の安定しない職人で、以前は男のほうが引け目を感じていたが、今は一家が没落して家もなくした女にとって、立場は逆転してしまっている。次女は警察署長から言い寄られて、いろんな贈り物をもらっていて、間違いをしないかと姉が心配をしている。

 長男は仕事を失って仲間から遠ざかるが、生き延びるためには、頭を下げて下の幼い弟二人を連れて、船に乗り漁師の仕事を続けるしかなかった。安い給与で弟はひとりは半分、もうひとりは4分の1しかもらえない。決意の末、沖に向かう船の櫓を漕ぎ続ける姿で映画は終わる。厳しい現実を写し出したドキュメントではあるが、解決策はなく、文句を言わずに労働を続けるしかないとしか見えない。仕事を得ていきいきとした表情には見えたが、搾取されている実情に変わりはないようだ。映画でできるのは現実を映し出すことしかないということだろうか。