8回 2021年9月14

芸術の力

19・20世紀の目まぐるしく変化する社会の様相を捉えることは、今日および将来の人間文化を占う上で、重要な課題だ。画家は社会の動きや自然界に対して、その時代特有の反応を示す。なにげなく描かれた絵であっても、様々なことを教えてくれる。印象派は、私たちに自然の見方を教えてくれた。ロンドンの霧は、彼らが絵にしたとき、はじめて私たちの前にあらわれた。

日常生活で多くの見過ごしていたものを、気づかせてくれるのは芸術の力だが、そのおかげで今日私たちのまわりの世界はずいぶんと広がった。現代絵画を切り開いたある画家は、絵画とは「見えないものを見えるようにすることだ」といったが、これによって新しい世紀は人間の夢や想像力という無限の世界に足を踏み入れることになった。その意味ではまさに近代はロマン主義からはじまる。

 近代とか現代という時代区分は、どこから近代という概念を当てはめるかはなかなか難しく、日本では明治になってすっかり江戸時代と様相が変わり、そこからひとつの区切りとして近代と名付けるが、西洋の場合はずっと続いていて外からの影響もなく、18世紀のロココから19世紀の近代へという流れのなかでくっきりしたはじまりは見いだしがたい。あえていえば1789年にフランス革命がおこって、貴族の時代が終わり大衆の時代あるいは個人の時代が始まるところからだろう。個性を大切にするということ。時代や社会から遊離した個人という概念が出来上がってくる。これが近代の出発ということになる。

出発点で出てくるものの考えかたとしてはロマン主義があり、そこから近代がはじまる。それと対極にあるのが古典主義で、歴史上何度も繰り返して出てくる主張である。19世紀の場合は新古典主義といっている。古典(クラシック)は古代のギリシャとローマのことでそれは古典そのものということだ。主義がつくと古典そのものではなくて古典の考えかたにそってあらたなものをつくっていこうということだ。

それは何度となく繰り返して出てくるが一般に古典主義というのは17世紀フランスで出てくる。この17世紀の思潮が再度よみがえってくるというので新古典主義という語を当てる。これはフランスを中心にしたみかたである。イタリアでは古典そのものが身近にあり、あえて古典主義を標榜することもないだろう。イタリアの15・16世紀も古典主義だが、そこではルネサンスと称される。フランスやイギリスなど、イタリア以外の国だとイタリアに学ぶ、ローマのクラシックを基本にして制作をするというイズムが台頭してくる。

9回 2021年9月15

近代の胎動

 近代の芽生えはロマン主義から出てくるが、時代そのものは古典主義を引きずっていて、それとの対立が見られる。美はどこにあるかという問いに対して、美は形式にあるのか、主題や内容にあるのかという問題だ。古典主義では美は形式にあるとする。リズムやパターンのなかに内在するというわけだ。確かにシンメトリーやバランスがとれたものは文句なく美しいということはできる。リズミカルとかハーモニーとか音楽用語で語ることのできる要素である。

ところが美はそういう形式にあるのではなくて、主題化された内容にある。それは人間の個性の問題だという置き換えをする。かたちは崩れていても美しいものはあるのだという論調だ。「美は乱調にある」という名言もある。これは二つの意味を含んでいる。いまは美の調子が乱れているという意味と、文字通り美は乱れた調子にこそあるのだと意味である。後者ではバロック的美意識の誕生を認めることになる。それを美というのかはわからない。美というよりも心動かされるものということだ。

古典主義の美学とロマン主義の美学では方向性が全くちがうということになってくる。ふつう美はシンメトリーにあり、バランスのとれたプロポーションのよいものに美は感じる。しかし外面的には美しいがそれ以上の何者でもないということも一方でいえる。かたちだけの美しさをこえたところに何かを求めたいということで出てくるのがロマン主義の主張だ。そこに美学の概念でいえば「崇高」といういいかたもできるだろう。気高いもの崇高なものは、バランスやリズムではなくて、それらをこえてしまっているような破格なものであり、それに対しても美を感じる。

風景の美はそのひとつになってくる。風景は確かに均整のとれたフォルムのしっかりしたものもあるのだろうが、ロマン派の風景画家たちが見つけた美は、嵐や吹雪など自然の猛威と驚異だった。自然がもっているダイナミズムといってもよい。そういうものに対して何か畏れおおい感情を抱く。そこに美の根源はあるのだという。それは神に近いようなもの、やさしくおおい包んでくれる神ではなくて、怒り狂うような神だ。その神のもつ怖れや威厳にひれ伏してしまうような感覚がロマン主義の出発点になる。

 そして近代の出発点でまだ一八世紀の段階だがゴヤやブレイク、フュスリなどの作品が登場してくる。ことにゴヤにみる二面性は注目に値する。一方には宮廷的なロココスタイルがある。他方にはそれと相反した内面のどろどろと沸騰するような影の暗い部分が、近代の情念として評価される。ブレイクやフュスリも類似の方位をもつが、個性の芽生えを見ることができる。近代の出発点をゴヤに置くが、人間の夢や想像力の問題がここでやっと出てくる。それまでは絵を描くときに自然を写す、模倣するということに終始していたが、目に見えないものを描いていく。そこにファンタジーやイマジネーションという想念が登場してきて、それが芸術の世界にとって重要なものなのだという考えが定着していく。これがロマン主義への移り変わりということだ。

10回 2021年9月16

ダヴィッド(1748-1825)とゴヤ(1746-1828)

 古典主義の流れは、フランスにナポレオンが頭角をあらわし19世紀のはじめにローマ帝国を憧れ、それになぞった国づくりや芸術制作を求める。そのなかで追随する画家たちが登場してくる。ナポレオン好みの美学が主張される。それが新古典派といわれるものだ。そのなかでことにジャック=ルイ・ダヴィッドが重要で、宮廷画家のような存在だった。今見てもダヴィッドやドミニク・アングル(1780-1867)の絵は確かにテクニックとしては優れたものがあるし、その形式だけで有無をいわさぬところがある。

 19世紀のはじまりの時点では新古典主義が主導権を握っているが、時代がおりてくるとロマン主義が徐々に力をもちはじめていく。フランスを中心に美術の考えかたは推移していく。20世紀に入っても中頃まではフランス絵画史が世界の美術史の流れとなっている。それ以外のものを探すといろんなものが出てくるし、これだけが全てではないが、今まで近代美術史といわれるとそういうイズムの変遷、新古典主義からロマン主義、写実主義をへて印象主義になるのだという考えが定着してしまった。

この流れに影響されて、日本などのことに明治以降の歩みは、これに振り回されているといってよい。しかし本家本元のイズム変遷の論理をきっちりと把握しておく必要はある。ここでは主要なものの考えかたを見ていくが、主義主張はそれだけがひとり歩きするわけではない。論理にしがみつく歴史は論理にそぐわないものを切り捨ててきた歴史でもある。それぞれに個々の作家がいて作品を生み出している。作家研究が基礎となる。

 近代から現代にかけての美術運動を語るのに、その前夜18世紀から見ていきたい。18世紀というのはロココ様式の宮廷文化が花開いた時代だ。その最後の典型的な人物がフランシスコ・デ・ゴヤで、彼は前半生と後半生で全く作風がかわってしまう。前半はロココの華やかな気分に満ちており、貴族社会のおおらかな、あるいは軽はずみともとれる陽気さをもち、先のことはあまり考えていない。貴族社会はどんどんと斜陽に追い込まれているが、それすら忘れ去っているような茫洋さもみえる。人生を謳歌し、世界を楽しみこの世の春という気分を前面に打ち出したものだ。これはある意味ではロココのもつ可憐さ華麗さということだが、一方で弱々しいものに見えてくる。享楽の中に不気味な崩壊への予感がただよっている。

ゴヤの絵では、華やかさのなかにうつろなまるで人形のような命をもたない人物像が、特徴的に登場する。空中にほうりあげられ浮遊する「わら人形」(1791-2)のような不気味さを漂わせる。それはロココの時代18世紀の初めからアントワーヌ・ワトー(1684-1724)の描く「ピエロ(ジル)」(1718c)の肖像に潜んでいたものでもあった。道化師のうつろな目は、不気味な闇を内包するが、衣裳の丈の短さは、チャップリンの軽妙な悲哀に受け継がれるものだ。こうしたロココに対する反動のようなかたちで近代の美術運動は出発する。ロココのもっている弱さをこえるかたちとして二つが出てくる。

 ひとつは古典主義でローマ時代の帝国を再現しようというもの、ナポレオンが出てくる背景になる思想だ。ロココの宮廷文化のもつ、いわば好色な遊び心ともいえる弱々しさに飽き飽きしてきたころに、古典のもっているがっしりした堂々としたものを前面に出していく流れが出てくる。ナポレオン周辺に出てくるのが新古典主義だが、ナポレオンが先導してそういうスタイルの美術が出てきたと考えないほうがよいだろう。ナポレオン自身も社会の要求として英雄を待ち望む人心を背景に、社会のニーズとしてその流れにうまく乗ったということだ。そう考えると、時代の大きなうねりのなかで、ナポレオンも新古典主義も出てきたということだ。

もうひとつ同時にロココを否定してダイナミックで劇的なものをめざす方向としてロマン主義がある。新古典主義もロマン主義もどちらもロココに対する反動として位置づけられる。しかし両者も互いに相反する方向をもって進んでいく。ロマン派は劇的なドラマティックなものをめざす。ロココの時代はあまりドラマを正面にすえて表現はしなかった。むしろ日常のもっている何でもないような遊び心、波風が立たずドラマにもなりそうにないものを、前面に押し出していったのがロココ文化だった。

それに対してより劇的で文学性の強いものをロマン主義では旗印にして展開していく。デモーニッシュなものへの魅惑が、ロマン主義の基調をなし、やがて世紀末のファムファタールへとなだれ込んでいく。悪魔や魔女によって支えられた近代科学が、天使と聖人が支配する宗教的世界観を突破したモダニズム幕開けの姿だった。

第11回 2021年9月17

個のイマジネーション

まだ18世紀の段階で近代にはいたっていないが、ゴヤを中心にフュスリやピラネージなどの画家が取り巻く。これは近代がもつ個性、その人でなければ表現できないものをめざしている。ゴヤにしてもフュスリにしても個のイマジネーションによるもので、今までの形式どおりの伝統を踏襲したものではない。イマジネーションによって自分の目にはこうみえるという世界を描き出している。ゴヤはスペインに出てくる画家だし、フュスリはスイスに生まれイギリスで活動する作家だ。

ロマン主義の先駆けをなすヨハン・ハインリヒ・フュスリ(1741-1825)の「夢魔」(1781)はよく知られるテーマだ。夜眠る女性が重苦しいと思えば、目に見えない鬼が胸に乗っている。インキュバスやサキュバスという分類があるが、血走った赤い目の馬がカーテン越しに顔を出す。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」などに取材をした文学性の強い画家でもある。ことに幻想的なイマジネーションをくすぐる場面に反応する。

ゴヤの描いた「理性の眠りは怪物を生む」(1799)などと対応させながら解釈していく一点だ。そこでは頭を抱えて目をつむり、耳を押さえるのは音をなくしたゴヤ自身だろう。見えないはずの魔が耳もとを取り巻いている。コウモリやフクロウが発するスキュームは、そのままムンク「叫び」の悲鳴につながっていく。

 イタリアではジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720-78)が「牢獄」(1758-60)のシリーズを版画で描く。ローマの廃墟が幻想をいざなう。廃墟ふうの牢獄で、版画のモノクロの世界に、どれだけ豊かなイメージがもり込めるかという話だ。ダイナミックな空間表現によって、煙が立ちこめる小さな画面のなかに壮大な宇宙を誕生させる。ローマ時代の建造物がそのまままるごと牢獄になっている。

そんなイメージの展開は、イタリアならではのものであり、時代のイマジネーションがタイムスリップして時空間がどんどんと膨らんでいった。ゴヤやフュスリに先立つ仕事であり、ロマン派の気分を伝えてはいるが、下敷きにされるのは古典主義のモチーフだった。

 同調する流れは続く。ウィリアム・ブレイク(1747-1827)やジョン・マーティン(1789-1854)はともにイギリスの作家で挿絵や銅版画など小品を残す。ことにイギリスは水彩画が興味をもたれた国だった。そこではぼかしやにじみのなかに幻想性が加速している。この幻想性がターナーに代表されるロマン派の風景画を生み出していく。

第12回 2021年9月18

ナポレオンの野望

フランスでは新しい国づくりがナポレオン・ボナパルト(1769-1821)を中心にしてはじまっていく。とにかくロココの宮廷文化をつぶしてしまえということだ。ふつうならフランス革命が起こって市民社会になるはずなのにそうならなくて、市民が英雄を待ちこがれていたということもあるのだろう。ロココ時代そのものが英雄を生み出さなかった時代だ。宮廷でも市井でも小市民的な家庭の平和をめざしていたので、それに対する反動から英雄を待ちわびていた。そこにナポレオンがうまく登場し、ローマ帝国の復興を夢見、文化の面でも古代を重要視するものをフランスで立ちあげていく。

新古典の動きはフランス独特のものであって、ヨーロッパ全土に渡っての運動ではなかった。しかしその後のフランスの美術史がヨーロッパの中心になっていくという意味ではナポレオンがスタートで、ナポレオンの力があって文化遺産をどんどん、エジプトのものやギリシャのものを集めてきて、それをルーヴル美術館に入れる。ルーヴル美術館を作りあげていったという意味で、パリを世界の美術の中心にしていくという野望がフランスでスタートする。それは世界の美を断片化して壁面に並べるはじまりである。ナポレオンの頃にはまだ原始美術はなかったが、その後の古代エジプトもギリシャも断片化されタブローの名に準じた美術品として分類が加速化していった。

アカデミズムを嫌ったクールベならルーヴルを焼き払えというだろうが、その恩恵は計り知れない。クールベ自身も通い詰めてさかんに模写をしているし、セザンヌもまたルーヴルがなければ「プッサンにかえれ」ということもできなかっただろう。ルーヴルが焼かれては困るからか、クールベ以降のモダニズムはルーヴルに収蔵されず、観光客はオルセー美術館に向かうことになる。古典主義を目のかたきにするイタリアの未来派がサモトラケのニケをもちだすのも、それがルーヴルに所蔵されているからだ。

ナポレオンがローマ皇帝であったなら、ナポレオン美術館と名づけるからには、ダヴィッドは「ナポレオンの戴冠式」(1807)を壁画で描くのがふさわしかっただろう。実際は壁画に見まちがわれるほど巨大ではあるが、取り外し可能なキャンバスである。その時点で壁はもはやフレスコ画のためではなく、白く塗りこめられて絵画を飾るものに変わっていた。残念ながらルーヴル最大のタブローはイタリアルネサンスにゆずるが、それがナポレオンの限界だっただろうか。美術館はその後、古典主義だけでなくイズムをこえて前衛運動も巻き込んで生きた百科事典をめざしていく。

イギリスでは大英博物館がその役割を担う。イギリスで出てくるロマン派の作家たちの背景には、美術あるいは文化に対するイギリスでの政策、つまり産業革命をベースにしながら世界に乗り出し、そこで文化遺産を集め分類するという定式がみえる。イギリスの場合はエジプト・ギリシャに加えて、インド・中国・日本を含む東洋のものが大英博物館に入っている。植民地政策の余剰の上に成り立ち、世界制覇に向かう可視的証言ということになる。イギリスとフランスが18世紀から19世紀にかけて世界に乗り出してくる。それ以前ではイタリアが美術の分野では主導権を握っていたが、経済的政治的な力関係からいって、イギリスやフランスがのし上がっていく流れというのがモダニズムの推移である。

第13回 2021年9月19

新古典主義の美学

 新古典主義の流れはロココに対する反動がひとつ、もうひとつはロマン主義という近代の新しいものの考えかたに対しても反対の立場を取る。時代には則していない。ダヴィッドやアングルは時代の大きな流れからみるとロマン主義に傾いているが、新古典の古い砦を守るのに自分の立場を固執した。もちろん時代の流れから新しいロマン派的なものの見方は入り込んで、自分の個性を注視するということがあり、新古典派といいながらもロマン派的な要素が出てくる作品も見られる。

 新古典派の考えたことは、ひとつは形式主義、これはよい意味ではあまりいわれない。外見だけはきれいだということは、外見がきれいなだけだということでもある。その意味では形が整っていて誰が見てもプロポーションはいいしリズム感はあるが、薄っぺらなものとして評価される。新古典派の作品に対してロマン派の画家たちが悪口をいう。彼らの描いた絵の前を通り過ぎるとき、コートの襟を立てないといけない。つまりは寒々としているというわけだ。顔立ちは整ってきれいなのだが、そこに命が吹き込まれていないといういいかえだ。それに対してロマン派の作家たちは、かたちそのものよりも内面の美しさを求めていく。

 フランス革命が起こってその後、ロマン主義も新古典主義もともに出てくる。ジロデ・トリオゾン(1767-1824)は今まで高くは評価されてこなかった画家だ。近年では再評価の兆しがあって新古典派の作家のフランソワ・ジェラール(1770-1837)やピエール・ナルシス・ゲラン(1774-1833)などとともに取りあげられている。三人のGなどと呼ばれたりするが、新古典派の画家にGではじまる名前が多いのが気になる。この偶然を日本画家に「山」が多いのと対応させると、怪獣にガギグゲゴが多いという深層心理に横たわる秘密を探りたくなってくる[i]

女性の肌の透明感はドラクロワのタッチの荒いものに比べると薄っぺらな印象が強く、モダニズムの目を通したとき過小評価されていた。きれいなだけだという古典主義の美学に対しては、きれいなだけでどこが悪いという切り返しもできる。今日の映像技術はその透明感をさらに高めて写し出せた。ただ「きれいなだけ」がさらにその美を加速させた。映像技術は美しいものはより美しく、醜いものはより醜いものに写し出した。古典派の美学には強力な味方となった。

同時代に多くの作品があった。肖像を描くというのは新古典派の画家のもち分だった。ナポレオンの肖像はダヴィッドもジロデもアングルも手がけた。そのなかでナポレオンを英雄視して描くのが新古典派の大勢だが、なかには冷徹な英雄としては扱わず、人間的な側面を強調する。英雄といえども人間臭い部分を残しているというものだ。


[i] 「日本画山脈 再生と革新~逆襲の最前線」2017年4月13日(木)~5月28日(日)新見美術館

第14回 2021年9月20

グロ(1771-1835)のジレンマ

 もうひとりのGにアントワーヌ・ジャン・グロという作家がいるが、彼もナポレオンの肖像画家だった。400人をこえるといわれたダヴィッドの弟子のひとりだが、師の失脚後あとを継ぎ、多くの弟子を抱える。グロの描いた絵のなかに、「ペスト患者を見舞うナポレオン」(1804)や雪の日のナポレオンを描いた「アイラウの戦い」(1807)がある。ナポレオンがロシア遠征で苦戦を強いられ、雪のなかで身動きが取れなくなった姿が描かれる。これは決して英雄像ではなくて見ようによれば退却に向かう情けなさそうな感じがする。ペスト患者を見舞う場面も戦いに勝利しているわけではない。患者を見舞うという人間的な側面を強調しようというものだ。ふつうだったら新古典派のなかでは出てこない主題だろう。

ギリシャやローマの歴史画に基づくのではなくて、中世を下敷きにしたキリスト像を浮かび上がらせる。ラザロの復活で死者をよみがえらせるキリストの奇跡がそこでは下敷きにされている。ローマ皇帝ではなくてローマ世界が排斥した民衆の王としての「悲しみの人」が、フランスという風土にはふさわしいものだという理解である。古代ローマに対して中世をぶつけるのはロマン派のやり口だ。グロはナポレオンに仕える画家でありながら、手放しのナポレオン賛美には向かわなかった。自分は新古典派に属しリーダー格だが、社会の大きな流れとしてはロマン派にどんどん移り変わっていく。

そのなかで葛藤があって悩む。自身の心情としてはロマン派的情趣をよしとしたが、新古典派を率いているので立場上それもできない。そういうジレンマもつのって、最終的には1835年サロンの4カ月後、苦悩のすえにセーヌ川に身を投げて自殺してしまう。新古典派かロマン派かというふたつの大きな流れのなかでつぶされてしまう作家も出てきたということだ。

第15回 2021年9月21

中世か古代か

フランスの土壌に根づいたものは、確かにギリシャ・ローマの古典古代ではなく、キリスト教中世だった。古典主義をかかげたルーヴル美術館の収蔵品を見渡すと、中世の軽視が見えてくる。それはミロのヴィーナスとモナリザを看板とする美術館の弱点でもある。教会建築に支えられたフランスのローカリズムは、断片化して美術館に中央集権化するには、地方に根づきすぎていたということだろう。

ルーヴルはオールマイティをめざすが、基本的には古典主義の美学を背景にしている。中世ファンのものたりなさは、ルーヴルでもメトロポリタンでも感じられるからだろう。パリではクリュニーを、ニューヨークではクロイスターを近隣に用意して、修道院建築ごと中世を体感させることにしたようだ。近隣とはいえ観光客にとっては不便を強いるが、中世の鑑賞にとっては、徒歩での巡礼が基本形だと考えると納得はいく。

中世はフランスの各地にカテドラルとなって現在する。しかし南仏の地中海沿いをゆくと古代ローマの遺跡も点在している。それは心のふるさとになるに十分な風景だった。キリスト教に劣らずローマ帝国の遺産と平和への憧憬がフランスの底流にあったからこそ、ナポレオンが今でも英雄伝として語られることになる。フランスの著名な歴史家が「地中海」にこだわるのもまた、暗黙のうちに古代ローマとの親和関係を表明している。

歴史家のこだわる地中海をひとつのものとして見ようとすると、古代ローマが興味の対象になってくる。池が海になるためには、沿岸の勢力が拮抗している必要がある。今では滋賀県の琵琶湖も戦国時代までは海だった。瀬戸内海を古代ローマのように帝国の池にしようとしたのは平清盛だった。瀬戸内海に向かって開かれた厳島神社にゆくと、つわものになりそこなった平安貴族の野望が読み取れる。

瀬戸内海に点在する平家滅亡の怨念の足跡は、地中海沿岸に現存する古代ローマのあとおいをしているようだ。明治以降は日本海を内海にしようとした帝国の無謀ということになる。地球規模でとらえればかつては巨大な湖であったはずで、日本海などという命名もなく、大陸と陸続きである限りは、島国根性がもたらす野望も無謀もなかった。

フランスはローマふうの廃墟を求め続けていたが、フランス革命でバスチーユ牢獄を破壊したとき現実のものとなった。破壊された牢獄の破片は、廃墟の美として、ローマ遺跡を讃美するように、今も展示されており、ノスタルジーを誘うものになっている。ユベール・ロベール(1733-1808)はロマン派的な想像力で「廃墟となったルーヴル美術館」(1796)を夢想して絵画に残している。

18世紀にイギリスとフランスでは異なった革命が起こった。ロンドンでジェームズ・ワット(1736-1819)の蒸気機関の発明に発する産業革命が煤煙を残して、のちの印象派を呼び込むことになったが、パリではフランス革命が廃墟を残して古代ローマを夢みた。ともに「ディストピア」と称される逆楽園であり、失楽園の延長上にあった。過去にさかのぼると楽園(エデン)にたどりつくが、未来に向かうとディストピアに達する。失楽園は17世紀の話だが、現代では没楽園か没落園の名をあてるのがよいだろう。

イギリスは16世紀にユートピアを夢見たが、17世紀には早くも楽園の喪失を嘆いた。同じ島国であった東の果ての黄金の国(ジパング)は、その後もしばらくは見果てぬ楽園としてとどまった。確かにそこでは西洋が侵食するまでは、江戸の平和を満喫していた。

第16回 2021年9月22

古典主義の選択

新古典派とロマン派の対立の舞台はフランスである。19世紀に入ったとたんフランスではナポレオンの時代となる。帝政と共和制を繰り返す不安定な時代が続く。画壇では両者の一騎打ちが背景をなす。ナポレオン周辺の画家たちが権威としては主流をなし、それに対してロマン主義が戦いを挑んでいく。保守と革新という二大政党のぶつかり合いを考えるとわかりやすい。

群小の勢力があったとしても、やがては東西の択一を迫られる関ヶ原の戦いを念頭に置いてもよい。東西にイデオロギーの対立はない。強いものに味方をしようとして待ち構えていた。無理矢理イズムのちがいを見つけることもできるだろうが、日本の場合に特徴的な風土論と人情論を超えるものではないようだ。だいたいは美術の歴史は主流派があって反主流派が終結して拮抗し、互いに対立する方向性を打ち出す。

新古典派とロマン派のちがいを見るときは、ギリシャ・ローマ時代の古典(クラシック)をよしとするか否かという選択である。近代の考えかたの潮流からすると、いかに今までのものを壊して、新しいものを作っていくかの歴史だった。時代はロマン主義に味方していった。ただ古典的なものはいつまでも絶えることがないので、現況に破綻が出てきたときには、それを乗りこえようとして立ち返っていく位置にある。見直すときに古典は力をもってくる。両者のちがいにアポロンとディオニソスの対比を持ち出してみたくなると、それもまた古典的な世界観を受け入れていることになる。古典主義再考は単純なものではなく、時代と地域によって、さまざまな様相を呈する。

まずはお手本があって、それを写していく。アカデミズムと呼ぶが、これはどんな世界にもあるものだ。お手本を繰り返していくことに矛盾を感じない人と、こんなことをやっていていいのだろうかと疑問を感じる人とがいる。繰り返すなかで研ぎ澄まされて良くなっていくという考えかたと、何度も繰り返すと悪くなっていくという考えがあり、つまるところ自分がどちらに身を置くかということだ。どちらがよいという問題ではなく、表裏一体をなすものだ。そうすると近代が推し進めてきた個性の尊重も、実は一面であってすべてではないのだと気づく。近代は個性を唯一のものとして掲げたが、ときにその歴史の前提がひっくり返されることにもなる。

「人は見た目が9割」という書名がベストセラーで出てくる時代は、古典主義の美学が復興したということだろう。ロマン主義に支えられていたのがモダニズムだとすると、それを乗りこえるポストモダンの立ち位置は古典主義だったともいえるようだ。ものの表面しか見ようとはしないポップアートの視覚は、ポストモダンに先立つものだった。過去からの引用の多用は模倣を旨とする古典主義の美学に支えられている。オリジナリティや独創性が、もはや通用しないほど乾ききった世界観が非情な人格に宿りはじめている。

機械になりたいといったポップアーティストのあとを継いで、子どもを卵で産みたいといった女優がいた。それでも産もうという意志があったと見れば、まだ救いはあったということか。産みの痛みを知らない者には出てこない発言という好意的な見方もある。機械になりたいという真意ももちろんあって、モダニズムを通過しない限りポストモダンは出てきようがないということだろう。いずれにしても手のひらの上での大差ない論争に見えなくもない。


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