第167回 2023年4月24日

波止場1954

 エリア・カザン監督作品、アメリカ映画、原題はOn the Waterfront。マーロン・ブランド主演、アカデミー作品賞はじめ8部門で受賞。波止場で勢力を伸ばしている悪徳組織に身を置く兄弟がいた。会社の形を取ってはいるが、波止場で働く労務者を取り仕切り上前をはねる暴力団であり、都合の悪い者は簡単に殺してしまう連中だった。不自然な死にかたで兄を失った娘がいて、主人公が一目ぼれをしたことから、話が展開していく。ビルから落ちた兄の真相を探りはじめると、それに付き添いながら弟は組織の恐ろしさを伝えるが、娘はきかない。二人の行動を不審に思った組織のボスは、やめさせるよう兄に言うが、弟に否定されると兄は護身用だと言ってピストルを手渡した。弟を説得できなかったことから兄は無惨な殺され方をする。主人公は憤然として立ち上がる。腕には自信があった。ボクサーとして、腕をみがいていたが、組織から八百長試合で負けるよう命じられ、選手生命がそこで断ち切られたという過去をもつ。

 マーロンブランドの演技と役づくりがひかっている。兄弟は役柄として対比をなすが、それでいて兄弟愛はくっきりとしてみえる。弟はチンピラふうだが、目つきが鋭く精悍な印象である。兄は悪に身を染めているが、温厚そうで、弟思いの気弱さもうかがえる。主人公の怒りは、単身で乗り込む姿が日本の任侠映画のようで、颯爽としている。半殺しにされても、立ち直り向かっていくと、はじめ遠巻きにみていた労務者たちがそのあとに続いていったのが印象深い。悪に立ち向かう個人的な怒りの爆発であるのだが、労使の対立を指揮するリーダーのように見えてきた。

 主人公をサポートする恋人と牧師の存在も重要だ。聖職者とも思えない言動が、主人公をふるい立たせた。二人がいなければ元ボクサーはただのチンピラで終わっていただろう。バーンスタインの音楽も効果的に挿入され、カメラワークもニューヨークの湾岸を情趣豊かに写し出していた。裏通りのアパートの窓から見える光景は、少しあとに登場する「ウエストサイド物語」を思わせるものだった。


第174回 2023年5月2日

紳士協定1947

 エリアカザン監督作品、アメリカ映画、原題はGentleman's Agreement 。アカデミー作品賞はじめ3部門で受賞。ユダヤ人問題を扱った意欲作。ユダヤ人がなぜそこまで忌み嫌われるかの実感は、残念ながら日本人にはない。だが人種差別の問題は地球上で消えることはないし、共通した問題はどこにでも起こっているので、普遍的テーマであることは確かだ。グレゴリーペックが正義感に満ちた新聞記者を演じている。ユダヤ人問題を斬新な切り口で連載記事にしようとして、思いついたのは自分自身がユダヤ人であると公言して、まわりの人間がどんな反応を示すかを観察してみるというアイデアだった。

 これがヤラセであることを知っているのは、編集長と家族と恋人だったが、ことに恋人との心のすれちがいを追いながら、話は進展していく。誰にでもある偏見をあぶり出していくのだが、黙っていることの共犯性がきびしく叱責されていくのが、特徴をなしている。恋人は編集長の姪だったが、平等と博愛を掲げながらも、心の奥に根づいた無意識の差別は、指摘をされないと気づかないものでもある。ユダヤ人だと偽って記事にすると聞いたとき、娘は半信半疑だった。本当はユダヤ人ではないのかと、疑ったのかもしれない。記者の親友にユダヤ人がいて、レストランやホテルの出入りは制限され、目に見えない迫害を受けているを知っていたからだ。紳士協定とは差別の目に見えない暗黙の了解のことをいう。面と向かって断ることはないので、その分陰険に目に映る。

 自分がユダヤ人であるとほのめかしたとたんに、情報は拡散した。次の日にはだれもが知っていた。子どもまでもがいじめのターゲットにされてしまった。記者は妻を亡くし一人息子を育てていた。今は祖母が同居をしてめんどうをみている。この祖母は息子の仕事のアドヴァイスもする。シャキッとしていてなかなかいい。恋人のほうは離婚をして独り身だが、一度は失敗をしているので、結婚には慎重だった。記者に引かれていたが、両親にはことの真相を隠していたので、うわさを聞きつけた家族の見る目は偏見に満ちている。記者の過激なまでの言動についてゆけずに決裂する。記者の友人が仲介してさとしたのは、差別に対して、しっかりと発言し、行動を起こすということだった。娘は自身の非に気づき、このユダヤ人の窮地を救う行動に出たことから、記者はそれを知ると。娘のもとに駆けつけて、急転直下ハッピーエンドにして映画は幕を閉じた。

 改めて考え直してみると、ユダヤ人だと偽るというのも、その発想の時点で、意識下にある差別の表明であったかもしれない。得るものも多かったが、失うものも多かった。この思いつきが出てきたとき、編集長だけでなく、見ている私たちも、これはいいアイデアだと思ってしまう。しかし無理があるとすれば、目的がよい記事を書きたいという不純にあったからだろう。戦争カメラマンが危険を冒して戦火に飛び込んでゆく姿を連想する。安全地帯に身を置いていてはならないというのも、もちろんよくわかる。主人公が考えたユダヤ人に見せかけることで、他人の反応を見ようという方向性は、つまるところそれによって自分の起こす化学反応を確かめるということだったようだ。記者の名はグリーンといったが、グリーンバーグにするとユダヤ人名になるらしい。それぞれの名をもつ高名な画家と美術評論家を、私は知っている。こんなことを知らなければ、偏見となることはなかったということでもある。

第178回 2023年5月6日

欲望という名の電車1951

 エリア・カザン監督作品、アメリカ映画。ヴィヴィアン・リー、マーロン・ブランド主演、テネシー・ウィリアムズ原作。原題はA Streetcar Named Desire。デザイアという行先表示のある路面電車に乗って、主人公が妹をたよってやってくる。あとに引き返せないような裏町に入り込んでいく。いなかで高校教師をしているようだが、ここは思っていたところとはちがっていて、労働者階級の暮らす場末のアパートなのに驚く。姉妹は裕福な家庭で育ったが、妹が家を出てしまい、姉は親のめんどうもみて、苦労をしてきたのだと主張している。妹の夫にはじめて会うが、その粗暴さに驚く。たくましい肉体を見せつけられ、刺激を受けているふうでもある。自分自身も成熟した女の色香を放っていると思っているようだ。年齢はあかされないが、額に何本かのしわが目立っていて、意図的なメイキャップで演出されているのだろう。

 妹の夫は肉体労働に従事して、気性が荒い。仲間を招いてギャンブルに余念がない。気に入らないとすぐに暴力を振るうが、それでいて妹とはたがいに心を通わせている。姉は妹の家に居ついてしまうが、家を出てきた事情が次第に明らかにされていく。知性的で、ごく普通の女性に見えていたが、過去の暗部がわかりだしてくる。悪い噂は姉が恋人を失ってから、男あさりをはじめたというものだった。恋人は詩人であったらしく、詩で綴られた恋文が、もってきたトランクのなかにどっさりと入っていた。片っ端から相手をかえて、はては教師を務める学校の生徒にまで手を出して、退職させられたのだと、みずから告白している。気品のなかに隠し込んでいた乾きと飢えが、何かのきっかけで、突如として狂気となって爆発を起こすのだが、わかるような気がする。

 妹の家に来てからも心を寄せる男性が現れる。ギャンブル仲間の同僚だが、教師であることに興味をもって、音楽か美術か、それとも数学かと聞いて近づいてくる。理知的に見えたのだろう。英語の教師だと答えていて、文学的素養のあるところもみせていた。これまでとはちがった恋愛の感触をつかんでいたが、彼女の今までの品行が暴露されると、女から遠ざかってしまった。

 受け継いだ土地も処分し、財産も使い果たしたが、高価な衣装や装飾品を所持していた。対して妹の身なりは質素なものだ。子どもが生まれることもあって、妹の夫は財産分与の権利を主張するが、妹は姉の浪費を許そうとしている。妊娠していることは、傷つきやすい姉を気づかって黙っていた。姉はナイーブな感性を持って、最後は精神に変調をきたして、哀れな姿で施設に送られていくところで映画は終わる。つかみどころのない変質的な人格の持ち主であることは確かだ。先に家出をして別世界に足を踏み込んだ妹のほうが、常識的でまともな人間にみえる。育ちのよさが気品としてただようものがある。全体を魂をめぐる精神と肉体のあらそいとというキリスト教の主題と解することもできるかもしれない。

 妹の夫は、姉と比較をなすほどに、非常識なまでの暴力性をもっていて、この二人の衝突はすさまじいまでのインパクトを与える。姉に惹かれた男は、妹と結ばれるほうがふさわしく思われるほどに、この界隈には珍しい、控えめな常識人である。非常識と狂気を含んだ特異性がこの映画を際立ったものに仕上げている。ヴィヴィアン・リーマーロン・ブランドのまれにみる個性の、ハーモニーを欠いた破調が映画美を完成している。ことにふたりの異様なまでの目の輝きがものをいう。それは狂気を含んでいるが、セクシーでもあって、見るものを魅了する。原作は舞台で演じる脚本だけあって、たたみかけるようなセリフの連射が生々しく、道理も論理も倫理もこえて、ことばが肉体をもって迫ってくるものだった。

第179回 2023年5月7日

草原の輝き1961

 エリア・カザン監督作品、アメリカ映画。ナタリー・ウッドウォーレン・ビィーティ主演。原題はSplendor in the Grass。ワーズワースの詩の一節から取られたもので、さわやかな題名なのに内容はシリアスである。高校生どうしの男女が結ばれることなく、悲恋のまま別れるが、自殺騒ぎを経て精神病院に収容されるという感情の動揺は、異常なほどにたかぶって、見るものに緊迫を強いるものだ。日本人の目には高校生とは見えないほどおとなびているが、確かに親が口だすのも仕方のない年齢なのだろう。キス以上は許されないという家庭のおきてを前に苦悩する青春の情念が描かれている。草原の輝きはいつまでも続くものではなく、忘れて明日に生きよう。あしたはあしたの風が吹くという意味の詩歌が、教訓として聞こえてくる。

 狂おしいまでの愛欲が、人格をゆがめ、精神に破綻をきたす。男の家は石油を掘りあてて急成長する経営者家庭で、父親はワンマンでやり手、息子は父の考え方に忠実に従っている。姉がひとりいるが、大学生なのに妊娠騒ぎを起こして不良のレッテルを貼られている。親に逆らうことのない弟の姿をなじる。弟はあぶなかしい姉を守ってやりたいと、近づいてくる不良グループに挑みかかってもいく。女の家は、母親があわよくば金持ちに娘を嫁がせたいと考えて、貞操観念を教え込み、目を光らせている。父親は母親のような野心はなく、目立たず平凡で、娘を優しく見守っているが、行動力は乏しい。

 子どもは今にでも結婚をしたいのだが、男の父親は、大学を出るまで四年間待つように、自慢の息子を説得する。子はそれに従うが、盛りあがる感情は抑えることができない。名門のイェール大学に進学するが、勉学には身が入らない。女のほうは狂おしいまでに情念を高め、嫉妬も加わって、狂気に近づいてゆく。

 自殺未遂のすえ、精神の破綻から収容施設での生活のなかで、安定を取り戻す間に、二人を取り巻く社会環境はずいぶんと変わっていった。男は大学生活のなかで、庶民感覚でスパゲティをご馳走する娘と出会った。わかりやすく言えば、学生相手のイタメシ屋の娘である。気取りもなく肩を張ることのない自然体にほっとする。父親は大恐慌のあおりをくって、自殺に追いやられた。窓からの飛び降りが相次いだ時代である。会社もすでになく、母親の実家のある農家に身を寄せているらしい。女のほうは父が大暴落する前に株を売った金で、整備の行き届いた収容施設に入ることができた。治療を兼ねた絵を描く日々だったが、そこで知り合った男性からプロポーズを受けるまでになっていた。同じように精神疾患をもってはいるが、喜びを分かち合える間柄を築いていける好青年にみえた。外科医だったが恐怖のあまり、震えて手術ができなくなってしまったようだ。

 退院をして昔の恋人と会うかどうかは、人生の岐路に立つ選択だっただろう。会おうという決断は、プロポーズに対する回答の保留とも見えたが、訪れた農家には大学時代に出会ったイタリア娘が妻となっていただけでなく、子どももいた。感慨深げに幼児を抱きあげてみせた。第二子を宿した身重の妻は、不安げなまなざしを浮かべながら、事情のありそうな夫の女友達をもてなそうとしている。静かな別れは、かつての荒れ狂うばかりの情念を押し殺したものだった。どちらかが引き寄せれば暴発しかねない火柱が走っていたようにみえながらも、無事に幕はおろされた。張り詰めた緊迫を楽しむ時代が過ぎ、気取りもなく自然体で生きる喜びを見つけ出したと解するのが一番だろう。「欲望という名の電車」の場合もそうだったが、エリア・カザン好みの人格の破綻した強烈な個性は、身近にいるとかなわないが、輝きを放つ生命そのものという気がする。

第180回 2023年5月8日

エデンの東1955

 エリア・カザン監督作品、スタインベック原作によるアメリカ映画、原題はEast Of Eden。ジェームス・ディーン主演。男兄弟ふたりの、父親との関係をめぐる確執から生まれる、家族の崩壊と再生への希望の物語。兄弟を対立的に描く場合、多くは兄は優等生、弟は不良という定式がある。父に忠実な兄と奔放な弟の対比は、聖書では「放蕩息子のたとえ」でも登場する。ここでもその法則にしたがって、弟のひねくれた心情の成立要因が物語られていく。

 無賃乗車をして海岸の街まで出かけて、酒場の女主人につきまとう青年の、謎めいた行動からスタートする。その理由はやがて明らかにされていく。自分たちを残して家を出ていった実の母親ではないかというのである。父は事業に成功した起業家で、妻が自由を主張して去ったあと、ふたりの子どもを育ててきた。兄に目をかけ、弟には愛情を注いでいるようにはみえない。

 弟は愛に飢え、自身の性格の悪さを、母親に一因があるものと思い、過去の噂を聞きつけて、探し当てたのだった。不審がられて用心棒のような男からつまみ出される。かりにも誇れる母親ではなさそうだ。ここで父の名がアダムであることを思い起こすと、母はイヴであるはずだ。しかしユダヤ伝説によるとアダムはイヴと結ばれる前に、リリスという名の最初の妻をむかえている。アダムと同等の自由を主張して、楽園(エデン)を飛び出したとされる女性である。

 兄には婚約者がいて、弟がいつもそばにいて、のぞき見をしているようで不審がっていた。それはおびえにも近かったが、やがてピュアな感覚をもった感性豊かな姿に気づきはじめる。人格を認めてしまうと、愛情に飢えて、親の気を引こうとするが、いつも裏目にでるのだと同情を寄せていく。兄のフィアンセなのに、ゆっくりと弟に関心を移している。弟も彼女の思いやりを受け止めて、ふたりで乗った観覧車で感極まり、思わず口づけをしてしまった。

 弟は父の誕生日に、事業の失敗で損失したのと同じ額の大金を、自力で稼いだ金でプレゼントしようとした。元手となった資金は大金だったが、酒場を経営する母親から借り出していた。母からの援助はこの息子にやっかいな血の継承を、遺伝的性格のぬぐえない同質性を、親近感として感じ取ってのことだっただろう。プレゼントに兄はフィアンセとの結婚の決意を父に告げると、これほどのプレゼントは他にないと言って、父は喜んだ。金を用意した弟は居たたまれずにその場を去った。

 傷ついた心は、兄に向けられた。兄に母親が生きていることを教えて、対面をさせようとする。兄は母の姿に衝撃を受け、弟とフィアンセへの嫉妬も手伝って、酒を飲んで暴れたすえに、従軍を決意する。アメリカが第二次世界大戦に参戦してドイツに派兵する状況下にあった。父は自暴自棄になって列車の窓ガラスを頭で割る長男の姿を間近にみて、驚きのあまり脳溢血で倒れてしまう。残された弟と兄のフィアンセは、寝ずの看病が続く。ことばを失った父に呼びかけて、最後の声を待った。聞こえた返事は、詫びでも許しでもなく、看護師を変えてほしいという一言だった。意地悪げで鷹揚な付き添いの態度を見ていた息子は自分も同感だと言った。

 そのあと父からのことばがあったのかどうかはわからないが、彼女に伝えたのは看護師を辞めさせて、自分たちにそばにいてほしいという声だった。兄が去り父が倒れたのは弟のせいだと考えれば、牧師がカインとアベルの話を聖書から引用してさとしたように、主人公は「エデンの東」へと追いやられなければならない。にもかかわらず父がとどめたということが、ここでは重要なのだろう。

 神は東のはてに楽園を置いてエデンと名づけたが、エデンの東とはさらに父の国から遠く隔たった辺境の地だった。父親の許しの声は弟がやはり「放蕩息子の帰宅」であったことを伝えている。しかし神の声はほんとうは語られなかったに違いない。放蕩息子が聞いた心の声だったのだと私は思う。聞き耳を立てて愛くるしくすがるようなジェームス・ディーンの目の演技がいい。この俳優でなければ、弟はこんなにも魅力的な人格には見えなかっただろう。三本を主演しただけで亡くなってしまったのだから、確かに伝説の一作である。

第181回 2023年5月13日

アメリカアメリカ1963

 エリア・カザン監督作品。アメリカ映画、原題はAmerica, America。トルコに生まれたギリシャ人が夢を求めて、アメリカにたどり着くまでの話。一族がすべてアメリカに帰化するその第一号としての若者の冒険譚である。エリア・カザンという映画監督自身のプライベートな原風景がたどられていく。アルメニア人に対する迫害が厳しさを増すトルコでの状況下、ギリシャ人にも被害が及びはじめている。

 没収の危機にあった一家の全財産を託されて、長男がコンスタンチノープルに向けて旅立つ。そこからはアメリカ行きの航路が開かれているが、道中で出会った人間を信用したせいですべてを失ってしまう。コンスタンチノープルには、いとこが住んでいて、たどり着いて事情を打ち明ける。両親には黙っていてほしいと頼んだが、いとこは手紙を書いて正直に伝えたようだ。長男はいとこの品行が悪く、所持金をあてにされるので、盗まれたことにしたと、うまい言い逃れを手紙に書いて出している。

 盗まれたぶんを取り戻そうと重労働に身を置くが、いつまでたってもアメリカに渡る船賃には達しない。まともな稼ぎではらちがあかず、方法は二つ、盗みをするか、財産家の娘と結婚するかである。後者を選ぶことになり、首尾よく夢中になってくれる娘が現れて、とんとん拍子に話はすすむ。持参金をあてにして、アメリカまでの旅費にあてようともくろむ。父は持参金の額を提示するが、旅費の額しか受け取ろうとはしない。不思議なやつだと思っている。娘も男の不自然を、接する態度から感じ取っていた。器量が良くなくて男から愛されていないことを嘆くが、男にはアメリカのことしか眼中にはない。娘の父は絨毯屋を営んでおり、客で来ていたアメリカ人夫婦につけ入って、ことに妻に取り入って渡航を進めていく。

 船中で人妻との仲が夫に怪しまれて、明るみに出ると強制送還の危機に遭遇する。渡航目的も身元保証もなくなって、入管できないことを危惧して、海に飛び込んで泳いで密入国しようとまで考えている。アメリカへの夢を共有していた知人が、靴みがきの職を得て仲間とともに、たまたま乗船していた。しかも結核と思える咳が続いていて、入国できないと悲観のすえ、船から飛び込み自殺をしてしまった。主人公はその身代わりとなって仲間に加わり、仲介のアメリカ人に付き添われて、入国することができた。

 危なかしい綱渡りは、偶然の助けを借りて、初心のこころざし通りアメリカ行きを実現した。コンスタンチノープルにとどまってしあわせな家庭生活を選択することもできたはずだ。アメリカはそれほどに魅力的な国だったのだろうか。主人公を英雄視するわけでもなく、時代に翻弄された一般人であって、狡猾な側面が目につくと、魅力ある人物とは思えない。ただアメリカに行くという意志だけは実現させた。

 映像美としてみる限り、アメリカよりもギリシャやトルコの風土のほうが魅力的に写し出されていたように思う。安らぎと懐かしみさえ覚えるものだ。さまざまな疑問が残るが、アメリカにたどり着くことができなかったなら、エリア・カザンという映画監督が誕生していなかったことは確かだ。アメリカへの敬意の表明を、あまりにも個人的なものとみてしまうと、この映画を評価できなくなってしまう。