第2章 ロマン主義

個性美の台頭/ターナー:躍動する自然/コンスタブル:微動する自然/フリードリヒ:沈黙する自然/ラスキン:観察する自然/ラファエル前派の位置づけ/ドラクロワ:情念のダイナミズム/見てきたような嘘/自然に帰れ


第17回 2021年9月23

個性美の台頭

 ロマン主義は、前章の新古典主義と対比してみる必要がある。ゴヤとダヴィッドを生没年で比較すると、ゴヤは1746年生まれ、ダヴィッドは48年だからほぼ同世代になる。ものの考えかたはずいぶんと異なる。ゴヤははじめロココのスタイルをとりながら、やがて自身のイメージ世界に沈潜していく。きっかけになったのは聴力をなくすアクシデントだったが、同じ頃ルートヴィヒ・ベートーヴェン(1770-1827) も聴覚障害に苦しみはじめている。このことによってふたりはともにロマン派へのきっかけを得ることになる。

ロマン主義が優先するのは個性美である。美は形式ではなくて、性格(キャラクター)のうちにあるとする。古典主義は逆に美は形式にあるとする。リズムやハーモニーという音楽的要素に従ったものだ。美とは何なのかというと、リズミカルに運動が続いたり、バランスよく均整がとれて、黄金分割に対応するなど、数字で割り切れていく世界のことだ。ここでは作家が自分独自のものを見つけていくというよりも、コンパスと定規を使って計測可能な、誰がおこなってもそうなるのだという普遍性をめざす。

美は割り切れて数字によって置き換えられるとする考えに対して、形式だけではなく性格が大きく作用しているといい返しがなされる。「形式」に対して、ふつうは「内容」が対立語だが、ものの形ではなく、その内にある個性に根ざしているものに目を向けるということだ。美人を考えるとわかりやすい。均整の取れた美しさに対して、個性派の美人というのがある。全体のバランスは欠いているとしても、一点だけ際立ったチャームポイントがある。

あまりに均整がとれているのは、記憶に残らず見過ごしてしまう。もちろんロマン派に、悪くいえばアクの強さという反駁は可能だ。現代では「キモカワ」という究極の美意識も誕生した。気持ち悪いのにカワイイという意味が、気持ちが悪いほどカワイイという意味に変換されている。さらには気持ちが悪いのがかわいいと進化していく。

近代とはその人でしか表現できない個性をだいじにするという歴史のことだ。近代が崩壊してポストモダンが叫ばれたとき、盛んになされたのは過去の引用だった。引用は借用、さらには盗用へと至る。引用は他人のまねであり、それがよくないことだという限りでは、個性を重視する近代は安泰だった。近代がぐらつきはじめた時点で、コピーが大手を振って歩きはじめる。古典主義は古典をまねることで、古い時代に信頼を置かないと成立しない。新しいものを追い求めていく、今までにないものを創造するという考えかたが、近代主義の底流にある。それはロマン派の理念にそって出てきたものだった。

 ロマン主義の美術運動のなかで代表画家をひとりあげるとするとドラクロワになるだろうと思う。ルーヴル美術館のなかにあっては、代表作とはいえないがインパクトの強い作品「怒れるメディア」(1836)がある。マリア・カラス(1923-77)主演でピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-75)の映画にもなっているし、日本でも蜷川幸雄(1935-2016)の演出で繰り返し上演された。パゾリーニを見る限りではクラシックを逸脱した脱形式が、運命を呪う土俗的な血の賛歌として、大地の樹木に塗り込められていく。

王女メディアがわが子を殺害しようとしているギリシャ悲劇の一瞬だ。残酷な話で自分の生んだ子をなぜ殺すのかという異常心理がみえるが、これは夫に対する復讐ということだ。裏切った夫が憎いために夫の子をふたりとも殺してしまうという話だ。夫の子は自分の生んだ子でもあるわけで、信じられないドラマティックな通奏低音が響いている。

ロマン派好みのテーマであり、何かある事件が起こって決定的瞬間を絵にする。ドラクロワはドラマそのものとしては血なまぐさいものも多いが、ある一場面をクライマックスとして切り取っている。ロマン主義の運動そのものはフランスだけではなくイギリスにもスペインにも起こってくる。ヨーロッパ全域を通して美術思潮は文芸思潮と足並みをそろえて理解されることになる。

第18回 2021年9月24

ターナー(1775-1851):躍動する自然

 ロマン主義のものの考えかたを見ておこう。ダヴィッドの歴史画はどれをとっても形式の整った構図的にもしっかりしたものだ。それに対してウィリアム・ターナーの描く風景画「雨、蒸気、速度」(1844)では靄(もや)がかかっていて、よく見ると疾走する蒸気機関車である。走っているところはぼんやりとしか見えない。描いているものは何かというと、光があたってけむる水蒸気やスピードそのものだ。これらは今までは絵画史では表現されなかった。

のちに印象派が出てくると、ターナーがこの時点でやった試みの後追いをするようにして作品化されていく。その意味ではターナーの描いた靄や嵐は今までにない絵の描きかた、目の付けどころで、新しい絵画の視点を見つけだしていった。自然のもっているダイナミックでドラマティックな部分をターナーはロマン主義者の目で求め続けていった。自然はその表情を刻々と変えていく。なかでも吹雪であったり、難破船であったり、暴風雨であったり、嵐や稲妻という自然現象のダイナミズムにひかれていった。画家は驚異的な自然の姿を求めて、ヨーロッパ中を歩き回った。アルプスの奥深く入り込んでいった。

 イギリスはそれ以前、18世紀からヨーロッパ中を歩き巡るグランドツアーという教養旅行の伝統があって、その流れから風景に対する目覚めが出てくる。イギリスでは風景画が長らく描き続けられてきた系譜がある。それはイギリスがもっている風土に由来する。北方には、例えばドイツの森のようにイタリアなどの風土とは異なったものがある。

イギリスには森というよりも、嵐が丘や神秘的な遺跡、太古の原始林など、大陸とはちがった風土をもち、長らくそれに目を向けて来た。東洋では風景への目覚めは早いが、それに近いような条件が、イギリスには整っていたように思う。ゴシック期のもっている中世的なものが復活して、ネオゴシックというかたちで展開していく。そのなかからターナーやコンスタブルという風景画家が登場してくる。

ターナーの作品群を通してみて、若い頃から風景に向かう目は鋭い。しかも緻密で破綻はなく、一貫したスタンスを保っている。田園風景には、いつも家屋があり、人の営みがみえる。住居は自然と一体化し、そのなかに溶け込んでいる。数は少なくとも、必ず人が挿入されている。見過ごすことも多いが大自然と馴染んでいて、そこには生活がある。カメレオンのように変身する存在に気づき、こんなところに家があり、人がいるという驚きをともないながら、画面に目を凝らす。労働を描いている場合も自然の意志に従っており、過酷ではない。自然の恵みを丸ごと受け止めて、信頼と確信に満ちた宇宙論にどっぷりと浸かっている。これが10歳代のターナーだ。

 安定して宇宙の運行に順行していた世界観が、アルプス旅行をはじめたあたりから、様相を変えていく。果ては自然の猛威を前に、空間は調和を崩して、逆行へと至る。荒れ狂う海やアルプスの山岳の驚異が、前面に押し出される。ここにターナーらしさが開花するのだが、それは自然を敵に回した近代の苦悩のことでもある。荒波をこえて自然を切り開こうとする。もちろん敗北する場合のほうが多い。アルプスの山奥に分け入って、悪魔の橋から垂直に切り立った山峡を見る。イギリスは海に囲まれているが、スイスは山に囲まれている。両者が出会うとネガとポジはぴったりと一体化する。イギリスという海洋的風土が、スイスという大陸の臍(へそ)に落ち込んでいく。

 ターナーの意義は、自然との調和を失った近代の人間社会が、どう再生していくかという課題にある。自身の目で見て確認し、無数のスケッチによって訴え、説得していくプロセスに、地球規模のダイナミズムを看取することになる。ダイナミックでありながら、驚くほど緻密に描いている。

水彩画の名手は大いなる素描家でもある。こんなところに人がいるという驚きは、近年では「ウォーリーを探せ」(1987)というような絵本に結晶するが、それもターナーから引き継がれたイギリス的思考に根ざすものかもしれない。ターナーの思い切った抽象性に新しい絵画の実験を読み取るのが近年の視点だが、初期のターナーは小品の水彩画に限られるとはいえ、17歳頃の少年の把握した世界の輝きは、十分な天性を感じさせるものだった[i]


[i] 「ターナー 風景の詩」2018年2月17日(土)〜4月15日(日)京都府京都文化博物館

第19回 2021年9月25

コンスタブル(1776-1837):微動する自然

 ターナーとほぼ同時期、ターナーとは全く異なった視点で風景を描いたのがジョン・コンスタブルという画家だ。はじめてヨーロッパ旅行をして、それがイギリスである場合、ロンドンの美術館でコンスタブルに接したときの、さわやかな印象は誰にも忘れられないものとなる。確かにそこでは自然は芸術を模倣している。「乾草車」(1821)は乾草を積んだ車が水辺でくつろいでいるところを描いている。何気ない風景ということになる。

コンスタブルは自然をどんなふうに見たか。ターナーはダイナミックな猛威を振るう自然を求めて描いたが、コンスタブルは全く逆で、ほとんど自分が生まれた土地からはなれなかった。そこで毎日同じ時間に同じように散歩をして自然を見つめ続ける。おおかたは田園風景だが田舎の自分の暮らしている村に対する愛着がある。都会の風景ではなくて郊外に位置する田園風景に目が向かう。自然はいつもそこにたたずむというのではなくて、光があたって微妙に変化する姿だ。その意味ではコンスタブルの目もその後印象派が、光がなければ絵が描けないというふうに思いはじめるのにつながるものとしてみえてくる。

 ターナーの場合、自然のダイナミズムのなかでものが消え去ってしまった。そこでは蒸気機関車が疾走はしているのにほとんど靄に煙って見えないような世界が生み出される。これに対して、コンスタブルは何気ない自然だけれども、同じ姿は二度とないということ、つまり一秒二秒あとだったら今見ているものとはちがう世界が見えてくる。その意味ではヨーロッパ中歩き回ってターナーのように猛威を振るう自然を探しながらアルプスの山中深く入り込む必要もなくて、同じ場所であっても光のあたりかたは異なり、雨の日もあれば光がさんさんと差してくるときもあるわけで、同じ風景を見ていても同じものを見ることはないのだという事実を発見する。コンスタブルには雲を描いた習作が数多く残されるが、刻一刻と変化する雲に向かうのは目の必然だっただろう。かつて17世紀のオランダでも自国の地平線を描き続けたのちに、興味を空に浮かぶ雲に移していた。地平線を低く取りすぎたことからくる必然的帰結でもあった。そこから新たな視覚が誕生する。

 今まで風景画は同一の場所を繰り返し描くことがあっても、春や夏という季節を描き分け、朝や夕方など一日の時刻の変化、あるいは時間帯にまで至るということはまれだった。そこに視線を時刻に応じていろいろと変えていく。同じ場所で同じものを見ていても、時一刻と変わるに従ってどんどん自然は動いていくのだという世界観を打ち出していったというのがコンスタブルの目の方向性だ。大自然の猛威も地球規模でみればほんのくしゃみ程度のものにすぎないとわかると、木の間のこもれびや水面のさざなみが、ロマン派の目が見出した増幅するダイナミズムだったと気づくのだ。

ターナーとコンスタブルのちがいを、同じ乗り合わせた汽車に、一方は前を向いて、他方は後ろを向いて座っていると評した論者がいた。うまいことをいうなと思ったが、遠ざかる景色を見ているのはどちらなのかと自問するとわからなくなった。同じ目的地に向かう列車に乗ってはいたが、ターナーは空間の移動に、コンスタブルは時間の推移に、気をとめていたということだろう。

付け加えれば、近代を象徴する蒸気機関車になぞらえる視点は興味深い。列車の中にはさまざまな人生が同居している。車窓を眺めるものもいれば、目を瞑って居眠りをするものもいる。時計ばかり気にしているのもいる。この多様性もすべては目的地を同じくするという点で一致している。写実主義の時代になって、ドーミエや赤松麟作やスティーグリッツが車中や船中の光景を興味深く写し出すのはもっともなことである。これが二つ目である。

20回 2021年9月26

フリードリヒ(1774-1840):沈黙する自然

 三つ目にロマン派の風景画家として重要なのがカスパー・ダーヴィト・フリードリヒである。「ドイツロマン派」に属する作家だ。ドイツも風景画に対する目がヨーロッパでは早いうちに目覚めてきた。ドイツの森のもっている神秘性がベースになっている。フリードリヒの描く風景画はターナーやコンスタブルのものともちがう。

ターナーとコンスタブルは時間が動くに従って自然はどんどん姿をかえていくという世界だったが、フリードリヒの場合はいつもそこにあり続ける、永遠に変わらないものを対象にしているようだ。見ていると夕暮れや朝日など場面設定はいつもあるが、夕日にしても沈み行くのではなくて時が止まったという印象が残る。

氷海」(1823-4)は代表作であるが、ロマン派の基調をなす劇的な躍動感を逸している。「希望号の難破」と誤って解釈されたのがわかる気がする。船が遭難をして氷山にぶつかって、そのまま沈みもせずにとどまっている。現実に起こったカタストロフはロマン派好みの主題である。氷海は氷だからやがては溶けるはずなのに、いつまでもそこにあり続けても不思議ではないような風景を描いている。

溶けるものまで溶けないままでいるのは、溶けない時計が溶けだすダリとは対比をなす。シュールな光景ではあるが、ともに人類の災禍のはてに、現実となったレアリスムの風景画だった。地球環境の悪化によって、今では北極海は水位を上昇させ、文字通り海となって姿をあらわそうとしている。

時間の停止は、この作品だけではなくこれがフリードリヒに一貫して流れる自然観だ。それは自然そのものがうつろいゆく頼りないものではなくて、どっしりとしたもの、観察する対象ではなくて、「帰依」する対象ともいえる宗教性をともなっている。万年雪という語に込められた安定感のある普遍への願いがベースになる。絵を見ているだけでも画家の敬けんさが伝わってくる。

悠久の時の流れも瞬時の躍動感に劣ることのないロマン主義の表明だった。いつも人間がいないわけではない。ことに背中を見せる姿が気にとまる。後ろ姿は背を向けているわけではない。鑑賞者とともに奥行きのある自然に対峙している。

第21回 2021年9月27

ラスキン(1819-1900):観察する自然

イギリスが風景画に向かう起点にジョン・ラスキンがいる。ラスキンの素描はイギリスのランカスター大学図書館が収蔵しているが、絵心のある文筆家の目の付けどころを興味深く見ることができる[i]。出発点は風景画だが、やがてゴシック建築へと興味を移す。ことに細部を丹念に描き起こしている。風景においても同様で、近視眼的に自然の造形の神秘に目が向いている。

ターナーの水彩画と比較すると、プロとの差をはじめは感じるが、やがてターナーとは異なる分析的な学者の目が確認できる。ターナーもディテールの描写にはこだわるが、世界を全体でパノラマ的にとらえている。それはロマン派の詩人の目といってよい。自然を宇宙にまで引き伸ばす雄大な世界観が、水彩画の小品にも息づいている。

 それに対して、ラスキンはアルプスの峰や教会の一角に潜む石造りの形の秘密を、望遠鏡と顕微鏡を備えたような視覚で切り取っている。一見すると対極に見えるが、両者はともに近視眼的という点で共通する。遠近の両極にもかかわらず、それらは手に届くような距離に見える。そこには視線をはばたかせるロマン派をこえて現実に向かう写実主義の目がうかがえる。フランスではラスキンと同い年でクールベが誕生している。その観察眼は自然を前にした感動のありかを伝えるものだ。ラスキンが旅した道筋をたどって、その感動を追体験してみたい気になる。アルプスの峰の形教会の細部も見つけ出すのは大変だが、パズルゲームのように楽しいはずだ。

同じ視点で描き続けた雲の形は探すことはできないが、山岳や石の彫像は数百年くらいでは変化することはない。雲の素描にしても観察眼を下敷きにしている限りは、時はへだたったとしても、同じ季節の同じ気象条件ならば、同じ場所では、同じ形を目にすることは可能だろう。


[i] 「ラファエル前派の軌跡展」2019年10月05日~12月15日 あべのハルカス美術館

第22回 2021年9月28

ラファエル前派の位置づけ

 風景への視覚にはじまったイギリスの近代絵画史が、次に来るラファエル前派の甘美な文学性につながった理由は謎めいている。ラスキンが介在しているのは確かなようだが、論理的には結びつきにくい。たぶんラスキンの思想の深淵を、残された膨大な著作を通して見届ける必要があるのだろう。絵画から文学性をなくすというのが、フランス絵画史の合言葉だったが、その視点で見るとラファエル前派の評価は低い。同時代のフランス絵画を高く評価する者にとっては、ラファエル前派は問題外となる。それは単にフランス対イギリスの覇権争いだけではないような気がする。

 この図式はルネサンスにおけるレオナルドとボッティチェリの立ち位置の差に似ている。ともにイタリア人だがレオナルドがフランスに属するとすれば、ボッティチェリはイギリスのものだ。後者はながらく評価されなかったが、それは装飾的で甘美でルネサンスの王道には反していたからである。重厚なクラシックの目にはそれはあまりにも繊細でセンチメンタルで、ポピュラーすぎた。

印象派からセザンヌに至る正統派にとっては、ルネサンスの王道を行くジョットからはじまりマサッチオ、レオナルドを経てプッサンに至る系譜を前提として、美のヒエラルキーは組み立てられてきた。それがフランスで目論まれたルネサンス絵画史だとみれば、当然レオナルドは必要以上に強調される。フランス美術史は晩年をフランスで過ごしたレオナルドからはじまる。レオナルドは生きている、疑うものはルーヴルを見よということだ。ルーヴルは美術学校(アカデミー)以上に美術教育に貢献することになる。

 しかしボッティチェリがルネサンスといえないかといえばそうではなく、遠近法と解剖学に支えられたものではなかったとしても、彼の描く神話世界がなければルネサンスは味気ないものになっていたはずだ。ルネサンスを古典復興という文脈で読み取れば、ボッティチェリのほうが、よほどルネサンス的だということになる。シェイクスピアの国において、絵画は文学に支えられて展開してきた。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)にみる憂鬱げな女性像の典型は、ボッティチェリの再発見に起因するものだった。ダンテはイタリアの詩人だが、美術よりも文学を志向して名づけられた命名に画家自らが殉じようとしたようにみえる。シェイクスピアの舞台はヴェネツィアやヴェローナなどイタリアを好んだ。ロンドンには確かに魅力的なボッティチェリがある。それは日本からの留学生であった美術史家矢代幸雄(1890-1975)を魅了したものでもあったし、すでに夏目漱石(1867-1916)から続く文学的系譜の内に位置づけられていた。

日本の英文学者たちは、このイギリスの世紀末に魅せられた。ことに夏目漱石がロンドンに留学したころに流行していた。日本にもち帰り、火がついて白樺派を中心に大衆化されていく。洋画家では藤島武二(1867-1943)の一連の作品に結晶する。アールヌーヴォー風の商業デザインや挿絵が残される。武二の名をもじった竹久夢二(1884-1934)に至り頂点に達することになる。

第23回 2021年9月29

ドラクロワ(1798-1863):情念のダイナミズム

 ロマン派は風景画だけではない。テオドール・ジェリコー(1791-1824)からウジェーヌ・ドラクロワにいたるフランスの流れが主流になる。ターナーやコンスタブルといった風景画家の生年は1770年代であり、90年代生まれのジェリコーやドラクロワと比べると、風景画のほうが一歩先行してロマン派の美学を作りあげていったと考えてよい。風景画はフランスではロマン派よりもその次の写実主義への流れのなかで数多くなっていく。

風景画が描かれる時代と描かれない時代があるが、新古典派の作家の中では風景そのものが主題になるということはきわめて稀だ。人物が何よりも重要で、人物が正面にいてその後ろに背景として風景は描かれた。ロマン派の風景画家のように人物がほとんど出てこなくて風景だけというものはあり得なかった。ここで新しい視線とものの見方が打ち出されていったということだ。

ダヴィッドが魅力的な風景画を一点残している。時代がロマン派へなびいていく証拠とも取れるが、じつは投獄中の窓から何気なくみえた「リュクサンブール庭園の眺め」(1794)である。肩を張った古典主義者のみせる真意は、時代の空気を読みちがえたことを悔いる諦念の美だったかもしれない。そう思ってしまうのは投獄がそんなにすがすがしい風景ではありえないからである。肩の張らないほっとした自然は、古典主義からの反逆を表明している。絵は自然に帰れと訴えている。

 対比的にロマン派のもっている考えをあげて見ると、理性に対して感性、理知的にものを見るのか感覚的に見るのかというちがいだ。古典派の画家はものをシステマティックにとらえる。ロマン派はそのシステムを壊そうとして出てくるダイナミックなエネルギーが絵画の呪力となる。両者は根本的に方向性がちがう。デッサンに対して色彩。必ずしも色彩が豊かなものばかりではないが、デッサンをしっかりとして絵を描いていくときには、自然のうつろいゆくものはとらえがたいものがある。

光の変化によって自然は姿を変えるのだというときには、むしろデッサンを外していく方向が生み出されていく。これはドラクロワから印象派への流れのなかでエスカレートしていく。ドラクロワでも部分的にクローズアップしてみると、色の斑点を置いているような筆法が出てくる。その後の印象派の色彩分割がすでにみえる。静けさに対して激しさ、普遍性に対して個性、古代に対して中世がロマン派の主張となる。

古典主義者は古代のもっている古くて遠い世界、地理的にも時間的にも隔たったものをモデルにした。ロマン派は目先を変えて中世や東洋の物語をドラマティックに描いていこうとする。時空間を隔てた歴史画を描くという点ではロマン派も新古典派もともに変わらない。それが古典のギリシャ・ローマの世界であるかないかのちがいであって大差ないのかもしれない。絵画を絵画自身として自立させるという流れは、ドラクロワ以降のマネやドガ、モネなど次の世代に引き継がれ、絵画の自立運動が始まっていく。

第24回 2021年9月30

見てきたような嘘

ロマン派の場合は近代の身近に起こった事件を問題にするが、出発点はジェリコーの描いた「メデューズ号のいかだ」(1818-9)からだった。タイタニック号の悲劇を先取りした現実の事件に反応した。画家はそこでは見てきたような嘘をつく講談師となった。

次に来る写実主義者の目には鼻もちならない虚構性と映っただろうが、これを完成させるためにジェリコーは腐乱死体を探し回るリアリストの目をもち合わせていた。狂気を描くために精神病院にも足しげく通った。ロマン派は歴史画を引きずりおろそうとはしていない。現実に起こった時事的な主題にしても、歴史画として描いている。歴史画を最高のジャンルに位置づけるアカデミーのシステムを否定はしていなかったということだ。

馬好きのジェリコーは落馬がもとで、31歳で不慮の死をとげる。若くして没した天才を忍んで、霊気が乗り移ったように制作を引き受ける兄弟のような関係がある。ルネサンスではジョルジョーネとティツィアーノだったが、ジェリコーとドラクロワの関係もそれに似ている。そのあとだとスーラ(1859-91)とシニャック(1863-1935)も見つかるが、スーラの没年も31歳だった。日本では菱田春草(1874-1911)とその遺志を継いだ横山大観(1868-1958)が思い浮かぶ。早熟の天才の無念が乗り移ったように大器を宿す秀才が時間をかけて熟成させていった美の系譜がそこにはある。

ロマン派を切り開いたジェリコーの遺志を継いでドラクロワが「キオス島の虐殺」(1824)を描いたとき、これは絵画の虐殺だといわれた。そこには荒っぽいタッチへの批判だけではなかったように思える。ギリシャ独立にまつわる殺戮劇に取材した時事的大作だが、ギリシャを擁護するのは古典主義者の役割だったはずだ。それをドラクロワが絵にした事実を前にして、先を越された無念の思いが、必要以上に絵画への否定へと向けられたのではなかったか。

罵倒したのがグロであったことからも古典主義者のロマン派への嫉妬心が噴出している。そこには古代と中世にイズムの対立はなかった。単なる縄張り争いにすぎない。古典古代にはロマン派ごのみのテーマは多い。ドラクロワは「王女メディア」を主題としたときも、縄張りを破っている。「ギリシャ人と非理性」を考えれば、それは旧来の古典的ギリシャ観の問い直しでもあった。

現実世界で起こっている暴力への怒りは、ロマン派を表現主義者にした。筆の乱れが、みごとに心の乱れになっている。そこでは怒りの矛先は異民族でも異教徒でもなく、暴力そのものに向かう。暴力の否定を暴力的に描いてみせた。絵画論として主題がみごとに技法と交感している。それも見てもいない講談師が常套的に使う手段だったとみることができるだろう。

第25回 2021年10月1

自然に帰れ

 ロマン派の理念としてまずは自然に対するあらたな目、これは田園趣味の流れのなかで出てくる。ベートーヴェンの交響曲「田園」は、「英雄」を作曲した4年後の1808年に登場する。英雄賛歌が大きく古典派崩れを起こしていく。古典世界のもっているギリシャ・ローマの限られた遥か遠い世界は、イギリスにしてもフランスにしてもアルプスをこえて向こうにあるもので、ギリシャだとローマよりももっと先にある世界であり、それよりも身近にある自分の立っている場所そのものに目が向かって当然だ。ターナーのようにヨーロッパ中を歩き回るという立場もあるのだろうが、コンスタブル流の自然のうつろいゆく一瞬の光と影をめざとく見つけてそれが絵の対象になるのだという視点が、次の時代には重要なものとしてクローズアップされていく。

 自然に対する目は「自然に帰れ」というキャッチフレーズが出てくるルソーの思想に同調している。ヨーロッパでは自然に振り向くことはなかったが、自然に対するはじめての目覚めである。ルネサンス以降、自然に対する目は育っていくが、あくまでもヨーロッパ的な自然観は、人間世界とはかけ離れたものだった。化け物が住むような未開が自然だった。自然に対して文明という人間世界を対比する見方が強かった。自然そのものは人間が支配をして開拓をしてつくりかえていくもので、荒削りなままの自然は野蛮以外のなにものでもない。

ところが今まで野蛮とされてきた自然がよく見ると奥深く、なかなか楽しいぞというこころの余裕が出はじめてきたということでもある。自分がいるから世界があるという個人主義の立場は、自分の目をまずは信じようというところからスタートする。それならば、その目は自分がいまここにいて見ている世界に導かれていって当然だし、その流れのなかで自然に帰れといいはじめる。思想史の潮流に対応して絵画も今までにない新しいスタイルのものが生み出されていったのである。


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