第323回 2023年11月7 

青春群像1953

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はI Vitelloni。「乳離れをしない子牛」を意味する。仕事もしないで遊び呆けている不良グループを戒める物語。なかなか就職にありつけない時代背景を下敷きにしているのだろう。根っからの遊び人なら、ほんとうに回心したのかどうかあやしいが、親の怒りは何とかおさまった。主人公(ファウスト)はいい女を見ればすぐに手を出すプレイボーイだが、妊娠をさせてしまった相手(サンドラ)から、逃げきれずに結婚をさせられ、勤めをはじめる。子どもとはいえ30歳にもなっている。

 荷物をまとめて逃げ出し、町を出ようとするが、父親に見つかり、いさめられる。妻となる娘は美人で、町の美人コンクールで優勝していた。その後のパーティ会場で急に倒れるが、それも妊娠のせいである。娘の家は財産があり、知人も多く、勤め先も見つけてやっていた。結婚式も親がかりで立派なものだった。浮かれて踊る喧騒のシーンは、現実離れをしたフェリーニ独特の世界を生み出している。

 娘には兄(モラルド)がいて、5人いる仲のいい遊び仲間のひとりだった。ぶらぶらしているが劇作家をめざすものもいれば、家族思いなのもいる。姉が家庭持ちと良い仲になり、駆け落ちするのをいさめ、嘆く母をなぐさめている。わいわい騒ぐが、女にはあまりモテない。積極的な主人公だけが、リーダー格になっていた。

 骨董品を扱う店で店員をすることになるが、女にちょっかいを出す癖はおさまらない。妻と映画館に行っても、隣りの席の女にモーションをかけ、女が席を立つと追いかけてまでいった。住まいの前まで行って、嫌がられてやっとあきらめをつけた。戻ると映画は終わり、妻が入口で待っていた。

 言い訳はなかなかうまい。友人を駅まで送るのを、すっかり忘れていたのだと言っている。勤務先の主人の妻にも手を出して、拒否されて主人に知らされ、クビになる。この時も妻が言い寄ってきたのだと、義理の兄には話していた。兄はそんな理由でクビにされるのは理不尽だと憤りをあらわすが、本人は退職金がわりに、金目になる骨董品を持ちだそうと誘う。兄は躊躇しながらも、天使の木彫の盗みに加担する。愛らしい天使だが、どこの教会に持ち込んでも売れなかった。犯罪は足がつき、妻の父親にも知られるところとなり、怒りを買って折檻される。警察沙汰にはならずにすんだ。妻は生まれたばかりの子を連れて、姿を消してしまった。妻は悲しむが、考えてみれば自分も同じように、この男の手に引っかかったひとりなのだ。

 男はやっと自分の罪深さに気づいたようで、仲間を総動員して探すが見つからない。映画館で声をかけた女に出会い、今度は誘われるが、今はそれどころではない。海に向かったとも聞いて、もしものことがと心配したはてに、実家に戻っていたことがわかる。安堵して妻と父に詫びを入れた。新たな生活をはじめようとする姿をみて、妻は夫の回心を喜んでいるが、たぶん悪癖はそう簡単にはなおらないだろう。

 こんなことを繰り返しながらも、夫婦関係は続いていくのだと思わせる。妻の兄は仲間のたび重なる悪徳を見限って、この町を離れて旅立った。引っ込み思案だが、仲間のなかで唯一まじめな素地をもった青年で、賢明な選択だったといえる。夜明けから駅で働く少年と友だちになっていたが、無職なのを恥じていたように思う。列車に乗り込むのを見届け、少年がただ一人見送っていた。決して孤独ではない。少年の輝くまなざしは、これまで抜けきれなかった悪徳の世界からの決別を見守る、天使の目のようにみえた。

第324回 2023年11月8 

道1954

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はLa Strada。アカデミー外国語映画賞受賞。旅芸人の男(ザンパノ)と助手(ジェルソミーナ)の恋愛ともいえない悲しい絆の物語。子沢山で下には妹たちが大勢いる。家族をやしなうために道化師となって雇われていった娘の、はかなくも悲しい生涯をつづる。旅芸人は粗暴でデリカシーなど微塵もない。

 娘は不美人で相手にされていない。それまでは姉が雇われていたようだったが亡くなったので、母が説得してその代わりとなった。人前でおどけてみせる仕事は嫌いではないが、雇主が好きにはなれない。小太鼓の打ち方を厳しく教え込まれている。食事に出ても、酒場で女に声をかけては、娘は置いたままにされている。道化師のもつ悲哀が笑いのなかに解消されて、愛くるしい表情が、何とも言えない魅力を放っている。ときに男は娘を妻だと紹介することもあった。

 路上での大道芸で、鉄の鎖を胸の力で破るという一芸しかないので、すぐに飽きられて、収入を減らし、ふたりしてサーカス一座に身を置く。そこで娘は綱渡りの男から声をかけられる。純真無垢な姿を気に入ったようで、雇主は当然、気に食わない。男のほうも挑発的だったので、腹を立ててナイフを振りかざして追い回している。刃傷沙汰で結局はサーカスから追い出されてしまう。

 娘にはサーカスに残らないかと声がかけられるが、娘は踏ん切りがつかない。家族に金が渡っているせいもあるが、この粗暴な男には自分が必要なのだという、愛情に近い感情も芽生えていたのだと思う。誘った男は寂しそうな笑顔をみせて離れていった。娘もまた愛情を感じ取りながら、ほほ笑みを返していた。

 バイクに幌をつけた旅芸人の旅が続く。運の悪いことに、道ばたで故障した車と出くわし、見ると綱渡りの男だった。顔を合わせた男同士のいさかいがはじまり、殴りあいとなって、はずみで打ちどころが悪く、旅芸人は殺人者になってしまった。死体と車体を始末して、娘との逃亡の旅を続けるが、娘は罪悪感から精神に破綻をきたし、路上で横たわってしまう。眠るすきに男は毛布をかけて、娘を置き去りにしたまま、静かにバイクを走らせ、逃げ去ってしまった。

 何年かのち、男は逃げおおせたようで、旅芸人を続けている。道すがら聞き慣れたメロディを口ずさむ女がいた。娘がトランペットで吹き続けていた旋律で、悲しい響きをもってこの映画の主題曲となっているものだ。尋ねると死んでしまった悲しい女道化師の話をした。夜の浜辺で旅芸人がひとり、砂に顔を埋めて泣いている姿がラストシーンとなっていた。今頃泣いてももう遅い。気づくのが遅すぎた愚かな男と、純真な女のすれ違いの悲劇だった。

第325回 2023年11月9 

崖1955

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題は「詐欺師」を意味する Il Bidone。中年の詐欺師(アウグスト)がこれまでの罪を悔いて、回心しようとする話。3人がグルになって金をだましとる。キリスト教の司祭に化けるのだが、それがいかにもほんものそっくりで、見ているほうも感心する。農家をターゲットにして、死体と宝石が埋まっているという設定なので、あらかじめ埋めていたのだろうから、大掛かりなものだ。宝石と引き換えに教会への500回のミサの費用を要求している。農民は宝石に目がくらみ、なんとかして費用を調達しようとする。

 やりくちはその後失敗をすることになる、シンプルな時計の詐欺の応用編である。紳士に高価な時計を買わないかともちかける。そこに顔見知りの男があらわれて、自分ならもっと高値で買うと言う手口である。このときは偶然にも相手が時計を扱う仕事だったので、相手のほうが一枚上で、安物の時計を見破り、みごとに失敗した。同じメンバーで次には、低所得者層をねらった公営住宅入居の詐欺もおこなっている。

 司祭役はキャリアがあり、現在48歳だが、いつまでもこんな仕事はしたくはない。離婚をしているが、大学進学を前にした娘がいる。何とか援助をしてやりたいが、父親が詐欺師だとは思っていない。歩いていて声をかけられ、娘は久しぶりの出会いを喜んでいる。休日に顔を合わすようになり、映画館に行ったとき、以前の詐欺の被害者と出会ってしまい、娘の前で警察に連行されてしまった。娘はなにごとかと不安げにみているのを、父は帰れと命じている。

 仲間のひとりは画家志望で、ピカソと呼ばれている。妻子がいて、切り詰めた生活から悪に手を染めている。子どもはまだ幼児だ。夫の勤めを妻は知らないが、ときおり大金を手にしているので、怪しんでいる。パーティに誘われたとき仲間の品行のよくないのを見て不安を募らせる。だまされやすそうな頼りなげな青年なのだが、役柄として必要なので、スカウトされて、仲間に加わった。もうひとり(ロベルト)は歌手志望の抜け目のなさそうな遊び人で、ドライな性格から悪びれることなく悪事を続けている。パーティでもこっそりと盗みを働き見破られてしまっていた。

 同じ司祭の手口を、ちがう仲間とで、別の村に行っておこなった。ここでも住人は何とか金を工面しようとしている。ふたりの娘がいて、姉は働きもの、妹は8歳で小児まひとなり、今は18歳になっているが、歩くことができない。なけなしの金をだまし取ったあと、司祭は呼び止められ、娘に祝福を与えてくれと懇願される。娘を前にして自分をとがめながらも、司祭を演じて立ち去った。

 引き返して着替えながら、司祭は不自由な体の娘を前にして、金を受け取ることができなかったと仲間に告げた。ひとりは受け取るところを見たと主張している。身体検査をされようとして逃げ出し、崖を駆け降りたが、石を投げつけられ額にあたり、倒れて背中を痛打する。靴の中から金が出てきたので、さらにふくろだたきにされて、車は去っていった。あえぎながら崖をはいあがって、通り過ぎる人に助けを求めるが、気づかないまま去っていった。

 ひとけのない場所で瀕死の姿を残して映画は終わる。小児まひの娘をみて、わが娘のことを思い浮かべていたはずだ。悪事に気づき、回心しようとしたことは確かだが、奪った金を独り占めしようとしたのも確かだった。娘を進学させてやりたいという思いからだとしても、娘はそんな金での進学は望まなかっただろう。だまし取り、だまし与えようとした二重の罪の報いを受けたとみることができる。

第326回 2023年11月11 

カビリアの夜 1957

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はLe Notti di Cabiria。アカデミー賞外国語映画賞。小金をためていて、一軒家まで手に入れて、支払いもほぼ終えている娼婦(カビリア)がいる。孤独な一人暮らしで、男運が悪く、だまされて一文無しになってしまうまでの話である。3人の男から裏切られることになる。

 最初は遠くからのカメラで、恋人同士のようにみえるが、抱き合っていて、川べりまで来て、急に男が女を突き飛ばすので、何事かと見ていて驚く。カバンをひったくって、川に突き落として、男は逃げていった。女は溺れかけて、通りかかった人たちに助けられるが、礼を言うこともなく腹立たしげにして立ち去った。石造りのかわいい家に住んでいるが、鍵をなくしていたので窓から入っている。そのようすを、頼もしそうな親友が心配げにながめている。女はローマの郊外夜道に立ち、客を引く娼婦であって、若い男にだまされて殺されかかったということがわかりだしてくる。死にかけたが生命力のある女だった。女はお人好しで男を信頼していて、親友は男にだまされているのだといっても、認めようとしない。

 2番目は映画スター愛人とけんかになったところに出くわし、女が去ったあと、代わりに誘われて相手をすることになる。自宅の大邸宅に連れられて豪華な食事にありつき、男ともいい感じになったところに愛人が戻ってくる。男はすぐに追い返すからと言ったので、浴室に隠れるがそのまま仲直りをしてしまう。情事に聞き耳を立てているが、やっと愛人が眠ってしまったあと、男が顔を見せ、いくらかのお金を握らされて追い返される。受け取りを拒否する姿がシルエットで映し出されていたが、結局はもらってしまうのは、割り切った職業意識からだったのだろう。ひとときの夢をみたが、所詮は商売女だったということだ。

 3番目は催眠術にかけられて、舞台上で人目にさらされたあとで、姿をあらわした優しそうな男性(オスカー)だった。催眠術で出会わされた恋人と同じ名をもっていて、運命の出会いのように感じた。女は眠らされていたときに、卑しい仕事のことを、何か口走ったのではないかと不安げでいる。男は女の過去や職業については、何も問おうとはしない。デートを重ねていき、やがてプロポーズを受けると女は驚く。自分でも結婚ができるのだと有頂天になり、家を売り、貯金をおろして札束をもって、男との旅立ちとなる。親友にも別れを告げてバスの乗り込んだ。夕日の美しい海辺の高台で食事をしているときに、その札束を男に見せる。イタリアの大きな紙幣の札束は特徴的だ。全財産だったがカバンに入れたとき、男の目は鈍い輝きを放っていた。

 このとき冒頭でカバンを持ち逃げされた光景を、私たちは思い出し、ああまたかと予感することになる。ひとけのない海を見下ろす高台に誘ったとき、男の表情が変わった。女は海に突き落とされて、殺されると思ってカバンを投げ出した。男は殺すつもりはないといって、カバンを持ち去ろうとした。このとき女は逆に殺してくれと叫んでいる。

 泣きはらしたあと、立ち上がり放心状態で歩きはじめると、若者たちのグループが浮かれながら踊り歩く姿に出くわし、あきらめをつけたように、涙で化粧を流しながら、かすかな笑いを浮かべていた。やはり幸せになどなれないのだというあきらめが、開き直ったような笑いの表情に開花している。それが生命力と呼ばれるものなのだろう。際立った演技力に支えられたものだが、マンボを踊る躍動感やガラスの扉に頭をぶつけるシーンに笑いながら、ほとばしる命の輝きを体感することができた。

第327回 2023年11月12 

甘い生活 1960

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はLa Dolce Vita。カンヌ映画祭パルムドール受賞。これまでは90分程度で、比較的コンパクトだったが、ここでは3時間の大作になった。延々と繰り返されていく歓楽の絵巻。主人公(マルチェロ)は文才のある記者だが、パパラッツォという名のパパラッチと活動をともにする世俗的人間で、快楽主義者である。

 はじめにヘリコプターでキリスト像がつるされて法王庁に運ばれていく場面が続き、驚異的なカメラワークに驚嘆する。信仰のないものは、ヘリコプターに目が向くが、信仰がある場合は、空飛ぶ神に驚嘆することになる。主人公はもう一台のヘリコプターに乗って取材をしているようで、地上の女たちに、神の声ならぬ世俗の声で話しかけている。これが驚異的にみえるのは、人間が神をあやつる存在になったということを、一目で見せる背徳的イメージであるからだろう。

 アメリカの女優(シルヴィア)がやってきて、取材をかねて案内役をすることになり、役得からふたりきりのラブロマンスを楽しむことができた。トレビの泉ではしゃぐ姿は、幽玄ともいえる映像美をとどめるものだ。恋人の俳優が顔を見せることからトラブルとなるが、スキャンダラスな刺激を求めて、芸能レポーターと行動をともにしている。スターに群がるようにしてカメラを向け、スクーターで追いかける姿はイタリア社会の卑属さの縮図のようだ。

 神の奇跡をレポートすると、神がかりとしか思えない、芝居がかった集団的狂騒を、活写してみせる。それは主人公の視線でもあり、監督の信仰に向けてのペシミズムでもある。まさかそんなという疑いのまなざしが、映画全体の底流に流れ続けている。それは聖なる作家活動を断念して、ルポライターに身をやつした男の、世俗的快楽にのみ反応する姿である。

 ローマの退廃した現代社会を背景として、脈絡もなく一貫性のない場当たり的な生きざまが続いていく。途中では映画としてのドラマツルギーを放棄したようにもみえるが、父親の登場とともに、親子の関係や人間としての自覚を、見るほうも思い直すことになる。いなかから出てきた父親も女たちを前にして浮かれさわぐが、酔っ払ったあげく体調を悪化させて、息子との絆を築き上げることなく去ってしまった。

 父が去るとさらに放蕩生活をエスカレートさせることになった。貴族の館でのパーティでは、乱行気味の不道徳を共有して、酔いの勢いを借りて、無軌道ぶりを加速させている。生活を共にする女(エンマ)もいたが、所帯じみるのも縛られるのもいやで、さまざまな女に目移りを繰り返し、救われることのない不毛な都会生活がえぐり出されていく。女は悲観して自殺未遂もしていた。罵倒したあげく、道ばたに置き去りにして車で去ってしまったこともあった。夜が明けたころに引き返して、女を乗せる姿が続いたが、そこでは根っからの悪人にはなりきれない側面を描き出していた。結婚を本気で声にして知らせる富豪の婦人も出てくるが、言った尻から別の男と寄り添っている。そうとも知らずに主人公は、広い邸宅でこの女を探し回っている。

 友人(スタイナー)自殺にも出くわした。高邁な思想の持ち主だったが、わが子をみちづれに無理心中をはかった。主人公は警察に同行して、不在だった妻への報告にも立ち会った。何も知らないで帰宅する妻を、パパラッチが取り巻いている。妻は家族の不幸など思いもつかず、芸能人になったような気分だと言っている。

 ローマという町の爛熟と退廃を、一個の人格を借りて活写したようだった。止むことのないバックグラウンドでの音楽を響かせながら、畳み込むように動きをつなげていくのが、フェリーニ独特の手法である。流れるような映像が、めまいを引き起こし、多弁なイメージ世界をつくりあげていた。人間のどうしようもない背徳の世界から、はいあがろうともしない刹那の快楽は、誰の目にも否定的なものとして映るものだろう。

 ヨーロッパから発信する、アメリカのハリウッド映画への対抗意識は、イタリアでのネオリアリスモやフランスでのヌーヴェルバーグに対応するように、知的前衛を標榜するものだった。頭でっかちの不毛の遊戯に向かって、最後に救いがあるかのように、純粋無垢な少女(パオラ)を登場させている。レストランで働いていて、以前から気になっていた娘だった。浜辺の向こうから語りかけるが、主人公には聞き取れない。海水に浸かることを嫌がりさえしなければ、近づこうとすることは可能なはずだが、そんな意志の力はなかった。誘われるままに仲間が向かう方向へと、少女に背を向けて去っていった。はじまりのキリスト像と対比をなしているようだが、この謎めいた少女のしぐさ口の動きが、いつまでも記憶に刻まれるものとなった。それは一瞬出てくるモランディの静物画の静寂的宇宙と共鳴しあっている。

第328回 2023年11月13 

8 1/2 1963

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はOtto e mezzo。8.5本目の監督作品だということでつけられたタイトルであることから、自伝的色彩を強く感じさせるものだ。映画監督(グイド)が制作を続けられない苦悩をかかえながら、プライベートとの板ばさみで、ギリギリの状態で命を終える話。イタリア人だとすぐにわかる無駄なおしゃべりが延々と続き、ストーリーを追いかけていれば、破綻をきたすが、論理を超えた即物的な見方をしていくと、見えてくるものがある。

 映画制作にとって監督は、絶対的な存在だが、すべてに目くばせをしていないと実現しない。資金提供者には一目置いているが、俳優との関係では絶対に近いものがあった。鞭をふるって王者のように君臨し、優位にはありながらも、ときには機嫌を取ることも起こってくる。監督には妻(ルイザ)もいるので、愛人女優との関係を良好に保つのはなかなか骨が折れる。女優のほうでいい役をもらおうとして近づいてくることもあれば、監督がいい役をちらつかせて、言い寄っていく場合もある。とにかく若い娘には目がない

 主人公は43歳、俗的な悩みが多く、もう一歩高みに登りたいのだが、ミューズには見放されてしまったようだ。あせりが悪夢を呼ぶ。冒頭はドライブインシネマなのだろうか、密集する車のなかでの、視線を集めての窒息死を思わせるシーンは、何が起こるのかと見るものの目をひきつける。その後の空中を浮遊して落下していくことから、悪夢をみていたのだとわかる。たこあげのように足にはロープがゆわえられ、地上から引っ張られて、逆さまになって落下するという驚くようなイメージには、病的なまでの強迫観念が浮き彫りにされている。治療に温泉療養も試みている。

 夢の中では親も登場して、父は息子の成功と映画の制作費のことまで心配している。プロデューサーとのやりとりを不安げに聞いている。見送っていくと、父は地面に吸い込まれるように消えてしまった。戻って母と抱き合うが、顔を上げてみると、妻にかわっていた。親にまで心配をかける切迫感のある夢が生々しく感じられる。

 制作発表をしなければならないのに、まだ何も決まっていないというプレッシャーは、わかる気がする。誰の人生にも何度か訪れる局面だろう。脚本もできていない。制作費も決まり、まわりも体制は整っているのに、監督のイマジネーションは停滞したままで、あせりだけがふくらんでいく。大がかりなセットを組んだセレモニーに引っ張り出されても、みんなの前で話せる内容はなく、テーブルの下に隠れ込んで、銃で自殺をする姿までみえた。

 リアリズムの映画だと考えれば、解釈は限定される。最後には生き返ったように、パレードを先導する姿がみえたので、映画制作は本来は楽しいものだったはずである。楽器を奏で、輪になって踊る歓喜は、人生を謳歌するもので、個人のちっぽけな苦悩を凌駕している。監督は土壇場で持ちこたえて復活できたのか、あるいは監督が死後に目にした、楽園の情景であるのかは定かではない。

 そもそもが映画というメディアそのものが、妄想なのであって、そこに映されているのが、現実であるはずはない。約束事として現実だとみるのか、こうあってほしいという願望であるのか、あるいはこうあってはならぬという悪夢であるなかは、いつも不明のままである。映画をつくるというメーキング映像の虚構を、生身の役者と演じる役者と、彼らが思い描く虚実とが錯綜して、世界に重層的なふくらみを加えていく。フェリーニの場合は、それらは何の説明もなく映し出されるので、みる方は混乱する。

 それは不可解ということでもあるのだが、解釈の自由度を意味するものとみることで、映画は鏡写しになった自身と向かいあって、その魅惑的な存在を証明するものとなるのだろう。映画は50年遅れているとも、前衛映画の悪い点だけを受け継いでいるとも、自嘲的に語られていたが、この映画によって、映画というメディアは、一歩高みにのぼりつめたのではないだろうか。謎めいた映画名、ことに二分の一という部分に、共同制作によって実現できる、孤独を超えた連帯の輪が、希求されているように思う。

第329回 2023年11月14 

魂のジュリエッタ 1965

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はGiulietta degli spiriti。夫(ジォルジオ)に浮気をされた妻(ジュリエッタ)の顛末。話としては単純で、夫が寝言で知らない女の名を口走った。隠れて電話をしているのも目撃した。興信所を訪れて真相を確かめたが、間違いはなかった。妻は相手の女の家まで乗り込むと、メイドを置くような裕福な家だった。通された部屋には夫の写真も飾られていた。本人は不在だったので電話でのやりとりとなるが、女は会うことを拒否する。

 夫から話を切り出すようすはなかった。仕事で2、3日家を開けることが続いていたが、今度は長期になると言っている。何事もなく送り出したあと、妻は自殺を考えるが、思いとどまった。興信所は離婚の処理をもちかけていたが、それも話を進めることはなかった。

 さまざまな妄想が映像化されて、ファンタジーがここでの見どころになっている。フェリーニはじめてのカラー映画である。黒澤明のファンタジー「夢」や初のカラー映画「どですかでん」と比較したくなってくる。ここではこれまでの重厚な幻想的神秘空間ではない。現実感のある非現実がフェリーニの想像力を開花させている。水墨画の幽玄世界から、シュルレアリスムの原色写真へと変貌をとげたようにみえる。これまでは光にたよっていたが、色にたよりだしたということだ。赤ん坊を置き去りにした長い廊下、黒ずくめの亡霊のような弔い人たち、海辺を行く隣人たちの一行、人力飛行機などはそれだけで、完璧な絵画世界を築いている。

 頭のない魚というセリフによる想像を投げかけておいて、大きな魚が口を開けたような映像をぶつける。口の中にはグロテスクな顔立ちをもった人間がひしめいている。夫の浮気に対抗して男娼と遊ぼうとするが、このときの艶めかしい美男子と、夫の友人として紹介されるスペイン人の中年男性が、主人公に誘惑をしかけてくる。聖女は誘惑には屈しなかった。尻込みして逃げ出したというほうが適切か。ハーレムのような装飾過多な部屋と対応して、見かけだけの実のない絵画空間が広がっていく。

 主人公と並ぶと違和感があるファッションモデルような美女たちもまた、映画を浮き上がらせて、虚構性を高めている。彼女たちと並ぶと、主人公はいつも肩までもない。主人公がママと呼ぶ女性は、どう見ても母子とは思えない。自殺したとも離婚したとも不明なままなのとあわせて、演出家の意図なのだろうか。

 「魂のジュリエッタ」とは、どういう意味なのかが気にかかる。監督の極めてプライベートな深層が隠し込まれているように思える。それはジュリエッタ・マシーナという女優の実名である。フェリーニとながらく連れ添った妻であり、フェリーニ映画を支えてきた看板女優だった。映画と現実との混同はここだけではない。前作ではマルチェロ・マストロヤンニとクラウディア・カルディナーレを実名のまま登場させていた。妻へのオマージュを下敷きにしながら、現実世界をオブラートで包むように、空想と幻想と妄想を加えて、自身の精神分析を視覚化していったといえるものだ。妻がスピリットとなって浮遊している。フェリーニの描いた絵画作品だったようで、映画として見ないほうがよいだろう。

第330回 2023年11月15 

サテリコン 1968

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はFellini-Satyricon。原作はネロ帝時代のペトロニウスの風刺小説「サテリコン」による。古代ローマ時代のふたりの美青年が、欲望と歓楽の世界を遍歴する物語。主人公の青年(エンコルピオ)は、愛する美少年(ジトーネ)を奪った相手(アシルト)から取り返す。ふたりは兄弟のような友人同士だったが、美青年をめぐって争いあっていた。どちらに従うかを、本人に選択させようということになり、友人のほうを選んで去ってしまった。そのあと大地震が起こる。ポンペイの壊滅を思い浮かばせるものだった。

 主人公は住み慣れた地を離れ、諸国の遍歴をはじめる。イギリスの繁栄時にヨーロッパ中を歩き回った学生のグランドツアーに似ている。美貌を生かして、大食と肉欲の世界をむさぼる旅が続く。ギリシャにも足を伸ばし、アリアドネの迷宮をめぐり、神話世界にも接している。奴隷になってガレー船の漕ぎ手にもなったが、敵の軍隊に敗れて、ローマ人世界から離れてゆく。友人と美少年にも出くわすことになるが、主人公は敵の勇将から見染められ、同性愛の相手ともなる。自由を奪われることで、美少年への想いは中断するが、友との友情は復活する。ことばの通じない異国の娘を共有して、これまでとは異なった愛のかたちも体験した。

 故国を遠く離れた地で友は倒れ、主人公はアフリカに向けての船出をする。古代ローマの栄光を下敷きにしながら、それがやがて破滅へと向かう、欲望の日々を鏡写しにしている。起承転結はなく、悦楽がいつの間にか破滅に向かう恐怖を知ることになるが、官能を揺さぶる肉体的満足感が思考を停止している。論理の逸脱は、倫理の逸脱でもあった。食と性の限りない欲望は、目に見える一瞬の刺激として画像に定着している。これだけは万国共通で不動の文化を築いている。異国感を示すのか、どうみても般若心経に聞こえる音楽が流れていた。ローマが自負するコスモポリタニズムを示すものなのだろう。

 豪華絢爛たる王朝絵巻ではない。気品や優雅さは微塵もなく、むき出しの欲望だけが、果てしなく繰り返されている。無意味なことばが飛び交っている。絶えず口を動かしているのは、食べることとしゃべることだ。考え抜かれたセリフではなく、感覚的な日常語なのだ。ローマの市井で今も続いている無駄話である。はじまりがギリシャ悲劇を思わせる荘重な舞台劇からスタートするのが対照的だが、やがてローマの猥雑さへと変貌をとげていく。主人公のゆくえすら見えてはこない。ローマの衰退と歩みをともにするロードムービーは、はかなくも美しいものだった。旅路のはて巨石文化をとどめるメンヒルのそばにたたずむ姿があった。詩人は権力者の前で排斥され、盲目となって死へと向かうしかないようである。

第331回 2023年11月16 

フェリーニのローマ 1972

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はRoma。監督自身が案内役になってローマを紹介するドキュメンタリー映画。観光案内ではなく劇映画で、主役はローマということになる。イタリア北部に生まれたフェリーニ少年が、「賽は投げられた」という教師に導かれて、虚栄の都ローマへと向かうのがはじまりである。下宿をして街になじむ純朴な青年が変貌していく。最後には暴走族のバイク数十台が、夜中の名所旧跡を走り回ることから、観光地めぐりのサービスも加味されるが、多くはフェリーニ自身の興味に沿って、ローマの悪徳がえぐり出されている。スペイン広場にはヒッピーたちがたむろしていて、ローマの休日を楽しむことはできない。

 ローマの恥部は古代より引き継がれてきたものだった。現代の娼婦の館も映し出されて、古代ではローマ兵だっただろうが、ここでは大戦下のイタリア兵の相手をする、多くの娼婦たちが息づいている。味も素っ気もない野菜でも売るようなメカニズムが、おそろしくも生々しい。そのあとで高級娼婦の館も対比して出てくるが、システム自体は大差ないものだった。路上ではのぞき見をしながら順番を待つ男たちの姿も見られる。美醜は中間層がなく、どちらかしかないのは、前作の「サテリコン」と同様だ。劇場でのヤジの連発は、喜劇役者を鍛えるものでもあるが、お目当てを待つ間のつなぎの悲哀が、ピエロの顔ににじみでている。3人の道化はみんなチャップリンの化粧をしている。

 戦時下なので、空襲警報がなると中断して、全員が防空壕に逃げ込む。イタリア軍が勝利をしたという臨時ニュースが入ると、コメディアンのマイクが奪われてしまう。フェリーニがローマで体験した現実だったのだろう。空襲で被害を受けたことを知らせに、地下道をかけてきた女と入れ違いに、男が駆け出すシーンは、影を生かしたみごとな映像美を造り上げていた。法王庁のお膝元でもあるので、目に鮮やかな赤い法衣と帽子が特徴的な、枢機卿が登場する。宗教的儀式ではなくて、世俗の宴席での光景に目が注がれる。飲み食いはローマという都市を支えるものだ。グルメとセックスがフェリーニにとっても、最大の関心事だった。市電の走るわきまではみ出したレストランが、街の歓楽を伝えている。

 僧侶を集めたファッションショーが延々と映し出されている。工夫を凝らした僧衣が考案されて、デザインの拠点でもあることを主張する。翼のついた帽子を、天使のように揺らして歩く尼僧の衣装がいい。地下鉄工事も一章を設けられて、話題を提供した。掘れば遺跡にぶつかるのは、日本では京都の地下鉄工事にも対応するものだ。フレスコ壁画が出てきたのは圧巻だったが、外気に触れた途端に、あっという間に剥落して消えてしまったのが衝撃的だった。文明の風化は、ローマ帝国の滅亡の謎を暗示して、盛者必衰の定めを感じさせるものとなっていた。

第332回 2023年11月17 

フェリーニのアマルコルド1973

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はAmarcord。海岸沿いの港町での一年間の風物詩。綿毛が飛び交う春の訪れからはじまって、一年後の綿毛が飛びはじめるまでを、淡々としたエピソードでつづっている。春の雪のようにうららかで美しい自然の営みである。それぞれの話題の間には関連はなく、あらすじを記述したとしても、それほどおもしろいものではない。こんなことがあった、あんなこともあったという突発的な事件を羅列するだけのことだ。

 学校がはじまって、学童たちの授業風景が映し出されている。出来の悪い生徒を前にして教師も大変だ。数学の女教師にあてられて、黒板の前で答えられない仲間の足もとに、パイプを伝わらせて水をたらし、おもらしに見せかけて、女教師の驚く姿を楽しんでいる。何度繰り返してもギリシャ語の発音ができない少女を前にした老教師は、しまいに怒り出している。ムッソリーニ登場してファシズムに右傾化するイタリア社会を背景にしているが、子どもたちはおおらかだ。

 メインになる少年(ティッタ)は、いたずらがすぎて、父親から嫌われ、母親がかばうので、夫婦げんかのもととなっている。ドラ息子が帽子に小便をかけたといって怒っている。祖父や兄弟も同居して同じ食卓についているが、無関心を決め込んでいる。木に登って降りてこない叔父の奇行も描かれている。冬が来て母親は入院して死んでしまうのだが、悲しみの訪れた町には、雪景色が広がっている。雪のなかで羽を広げるクジャクの出現は、不吉ではあるが美しいものだった。それに続いて結婚式が始まると、季節はめぐり雪は消え、新しい門出が祝われている。

 新婦は少年があこがれをいだいていた娘(グラディスカ)だった。あとをつけて映画館に入り、二人きりになったことがあった。はじめ離れた席に座っていたが、そわそわしながら移動し続け、最後に隣りの席まできて恋心を伝えていた。30歳になる娘に、少年は軽くあしらわれている。膝に手を伸ばすと、怒るでもなく、何か探し物かと、とぼけられた。女性への興味は、少年たちの巨大な胸と尻への執着となって続いていく。

 港には毎年、豪華客船が寄港し、雄大な姿を見せている。アメリカに向かう外国航路で、ゲーリークーパーをあこがれるこの娘も、夢見心地でながめている。死と結婚によって、少年にとっては二人の愛する女性を、相次いで失ってしまったことになる。そこでは春のきざしがうかがわれ、遠くには綿毛が舞いはじめている。一年の周期はまた同じように繰り返されていくが、それぞれのエピソードは、当然異なるものだ。

 死や結婚があるとしても、個人としては今年とは別の人たちのこととなる。町の歴史としては変わることのない営みがリピートされていく。前作で主役を演じたローマとは対極にある、いなか町の思い出豊かな詩情が伝えられている。アマルコルドとは地方の方言で「私は思い出す」、英語でのアイリメンバーを意味するようだ。都市名は出てこないが、ここではフェリーニの故郷リミニが主役であり、そのオマージュとなっている。

第333回 2023年11月18 

女の都1980

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はLa Citta delle donne。列車に乗っている間に、中年男(スナポラツ)のいだいた妄想を、夢と現実の境界を取っ払って自由に羽ばたかせた作品である。主人公の乗り合わせた6人がけのコンパートメントには、窓際に向かいあって魅力的な女性が座っている。指定席なのだろう、通路には大勢が立っている。窓ごしに何人もの幼児たちが、この中年男の挙動を好奇心の目で見ている。

 女がトイレに立ったのち、しばらくして男もトイレに向かう。戸が開いていて女が誘い入れたようにみえた。男も入り込んでドアを閉め、情事の予感に胸をときめかせた。駅に着き女は降りてしまうが、改札とは逆の方向に歩いていく。男の期待はさらに高まり、仕事をそっちのけにして、降りてあとを追う。

 ひとけのない林に入り込み、木陰でとどまって、目をつむるよう指示されるが、開けると女はいなくなっていた。肩透かしをされたと悔やんだが、しかたなく歩き続けると、ホテルの看板が見えた。こんなところにホテルがあるのを、不審がりながら入ってみると、そこは女の都だった。男はホテルの給仕がいるだけで、客はすべて女性だった。

 女たちだけの集会がはじまっていて、同性愛者も多く、男性批判が飛び交っている。主人公は取材に来た記者のようにみられたのか、排除もされないで、姿を消した女を探しはじめる。目を瞑って唇を突き出したみっともない写真が撮られていたようで、男の愚かさを証明する格好の材料にされていた。

 駅に急ごうとそこを離れる。ヒッピーの女たちの車に乗せてもらうが、いつまで立っても駅にはたどり着かない。今度は男がひとり住んでいる邸宅に入り込むことになるが、そこは女の都とは対極にあり、男性上位を主張していた。美女を満載した美術館のような、みごとな展示室もある。この地域では女性が権力を掌握しているようで、強制退去を言い渡されている。銃をかまえて権力に対抗している。客の出入りも多く、なぜか主人公の妻とおぼしき女性が来ていた。

 つじつまが合わないことも、これが夢での出来事なのだろうということを、予測させる。舌を出す能面が男の耳をくすぐっている。ゴージャスな寝室が用意されている。魅力的な女性が多く出入りするのに、妻とベッドをともにすることになり、うんざりしている。さらに壁を抜けるように、滑り台に乗って過去の世界へとタイムスリップしていく。主人公は50歳だと言っていたが、過去に出会ったさまざまな女性遍歴が回顧されている。

 どこまで空想が羽ばたくのかと思うほど、自由自在にイメージが構築されていく。妄想ならわけはないが、セットをつくりあげないと映画にはならないことを考えると、驚異的な手間がみえてくる。結局は目が覚めると、列車に乗ったままで、眠っていたのだった。前の席には違った女性が座っていて、2時間も寝ていたと言っている。妻に似たタイプの女性だったようだ。

 どこからが夢だったのかがわからなかったが、これを信じれば2時間19分の映画なので、2時間前からだったことになる。空いた席には2組の女性が入ってきたが、ふたりは若い友達同士、ひとりは前にいた女性に似ていたようだ。女性に囲まれて主人公は浮かれている。列車がトンネルに入るところで映画は終わる。またちがった夢を見れるようで、わくわくする瞬間を予感させる実写風景だった。

第334回 2023年11月24 

そして船は行く 1983

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はE la nave va。オペラ仕立てのノスタルジーに誘う音楽映画。サイレント映画からはじまるが、途中からセリフが聞こえはじめて驚くことになる。いつのまにかモノクロ画面に色彩もついていた。オペラ歌手(エドゥメア)が亡くなり、船での散骨をおこなおうとして、仲間たちが乗り込んで船出をする。遺骨の生まれ故郷の島へと船は行く。指揮者や舞踊家や詩人がいる。新聞記者も乗り込んで、私たちに向って語りかけるナレーターの役割をはたしている。この歌姫の姿はここでは思い出を忍ぶサイレント映画となってわずかに映し出されるだけだが、エーゲ海に散骨されたことで知られるマリアカラスを想定しているのだろう。

 第一次世界大戦の勃発を時代背景にしており、セビリア人の青年がオーストリア大公夫妻を暗殺したことから、戦争へと発展したという、教科書的知識を思い出す。この船がセルビア人難民を受け入れ、はじめ船の中ではイタリア人との交友がすすむ。難民の青年とイタリア娘は、恋愛関係にも発展している。父親の年齢にもなる新聞記者が、気に入って言い寄ってもいたが、その直後に父親登場していた。

 敵艦からセビリア人の引き渡しを命じられるが、それを拒否すると、交戦状態になる。乗船していた大公陛下がおもてに出ることで、葬儀のための通過は許され、船上での厳かな葬儀もおこなったが、終了後に難民の引き渡しを余儀なくされる。イタリア娘はセビリア青年について、ボートで捕虜になる道を選んだ。

 艦船に手榴弾が投げ込まれたことから、大砲が撃ち込まれるまでに発展し、乗客全員が船をあとにして避難することになってしまった。ストーリーは明快だが、主人公はいないので戸惑う。群像劇というのが適切だろう。オペラ歌手たちが一群をなし、突然歌いはじめるのは、ミュージカルふうになっている。セビリアの難民も一群を形成し、みごとな民族舞踊を披露している。オペラを愛したイタリアの貴族世界と対比をなすものだ。オペラ歌手たちがそれをみて感銘を受けて、輪に加わろうとしている。

 大公陛下には盲目の姉がいて、ともに乗船していたが、評判はよくない。年齢はいくつなのかという会話では、政治の能力は8歳だという悪口も聞かれた。盲目の姉を演じたのは、ピナバウシュで、研ぎ澄まされた舞踊家としての身体が、顔にやどり、凡庸な肥満の大公と対比をなして、すごみのある無表情が際立ったものとなっていた。踊りはもちろんなかったが、盲目で廊下を歩く後ろ姿をカメラは追っていて、少し揺れをともなって歩く姿は、それだけでみごとな表現力をもった舞踊だと思った。

 ボイラー室に見学に行ったオペラ歌手たちは、その反響する広い空間で、高らかな歌声を響かせて、労働者たちを喜ばせた。貴族たちの豪華な食事を難民が、うらやましげにながめている。気づいて料理をトレイに載せてもっていこうとする婦人がいる。関わるなと止める仲間もいる。

 新聞記者が難民と乗組員の間をとりもち、船長に情報を求めているが、板ばさみになったままだった。船長は難民を助けようとして、軍艦との手旗信号によるやり取りを続けるが、功を奏することはなかった。淡々として話は進展していくが、時代の大流に呑み込まれるままだった。映画の舞台裏を写し、虚構の種あかしをして映画は終わる。記者はボートをこぎながら、耳打ちをするようにして、感慨深げに最後に語ったのは、船に積み込まれていたサイの肉はうまいということだった。船は沈没して漂流するあいだに食ったということなのだろう。ぐったりとした巨大なサイの臭いが、充満しているシーンがあった。

第335回 2023年11月25 

ジンジャーとフレッド 1985

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はGinger e Fred。フェリーニ的狂騒が影をひそめたハートウォーミングな映画だった。ときおり顔を見せるフェリーニの奇想天外な香りも、セーブぎみではあるが、手の込んだセットとカメラワークは健在で、派手やかさがないだけに、じっくりとしたストーリー展開の味わいを感じることができた。

 かつてコンビを組んでいたダンサーが、テレビ局の招待を受けて、再会して、舞台にあがる話。元夫婦だったのかもしれない。番組は興味本位のテレビ番組ならではの企画で、ダンスそのものよりも、かつては人気があったが、今は忘れ去られた芸能人を引っ張り出してきて、楽しもうというものだった。あのひとは今、というおせっかいなテレビ番組は、今でも健在だ。

 フェリーニ的狂騒は映画にはなく、テレビ局の側にあったということになる。何十人ものこびとの劇団や元陸軍大将まで呼ばれていた。アメリカ型のバラエティ番組への批判がこめられているが、表面上はフェリーニ的世界と共鳴しあっている。ちがいはフェリーニは俗を超えて、聖なる世界にたどり着いたという点にあるのだと思う。

 フェリーニ映画で常連のジュリエッタ・マシーナとマルチェロ・マストロヤンニが共演をしている。ハリウッドのミュージカル映画からフレッド・アステアのコピーなのだが、さすがに老いていて、ダンスとしては見る影もない。途中で、停電のシーンをはさんで、逃亡まで企てるという展開を考えついている。ダンスの腕前は及ばずとも、演技力は積み重ねられてきた年輪が、枯れたなかに味を秘めていて、過去の栄光を振り返るフェリーニ自身と重ね合わされて、感慨深いものとなった。終了後にサインも求められているので、気分は悪くはないようだ。

 これまでのフェリーニ映画でいえば、「ジュリエッタとマルチェロ」というタイトルでもよいのだが、役目は別にあり「アメリアとピッポ」と呼びあっていて、芸名が「ジンジャーとフレッド」ということだ。俳優名も本名ではないのなら、虚実の錯綜したトリッキーな鏡像関係か築かれる。

 老いたふたりの別れの予感は、女が男に金を貸すことで、再会の希望につなげた。出演料はのちの振り込みで、男には手持ちの金もないようだった。男のほうも2年前に離婚したというセリフで、後ろ髪を引こうとしていた。テレビへの出演は、男は出演料を期待してのことだった。女は孫に見せたかったからで、昔は有名人だったのだということを、自分でも思い出したかったのだ。

 積極的な女と、消極的な男が対比をなす。引っ込み思案の男を前に、連絡をしてくれと、繰り返し伝える姿があった。男の人格からすれば、黙っていれば連絡してくることはない。今回の再会も、遅れてきた男に対して、ホテルのフロントに着いたら連絡するよう頼んであった。男は着いても連絡してこなかった。廊下で出くわしたとき、男は女に気づかなかったほどである。異なった相手と結婚をして孫のいる家庭にかえるおばあちゃんの、青春懐古編としてみることができるだろう。

第336回 2023年11月26日 

インテルビスタ 1987

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はIntervista。英語ではインタビューという意味である。撮影風景を撮影する映画で、フェリーニ本人も監督として登場し、若き日のフェリーニ役も青年の俳優が選ばれている。オーディション風景もはさまれて、映画にとって人選が重要なのだと強調されている。役の決まらないまま待ち続けている女優もいる。もちろんそれもシナリオにあるのだろうから、映画としては構造が多重化して、複雑な仕組みになっている。インタビューを試みるのは日本の若者たちで、フェリーニファンの映画青年といったところか。まとのはずれた質問も多く、西洋人からみた日本人の典型的なイメージ像を思い知ることになる。

 主役は人ではなく、チネチッタという地名にある。英語ではシネマシティーにあたり、ローマにある映画撮影所のことだ。この場所にスタッフが集まってくることから、映画はスタートする。お決まりのゾウも出てくる。撮影しようとする映画は、カフカが行きもしないで書いた「アメリカ」を原作とするようで、日本人からはアメリカへ行って撮影するのかという、陳腐な質問も飛び出している。

 途中でマルチェロ・マストロヤンニが、化粧の濃い芝居っけたっぷりの、マジシャンのようないでたちで登場する。監督は撮影を助監督にまかせて、何人かを連れてアニタ・エクバークの邸宅に向かう場面がはさまれる。日本人インタビュアーも同行している。再会を喜びもてなされ、「甘い生活」で共演をしたときの古い映画が、上映されている。30年の隔たりを感じてか、見る影もなくなった女優は、素顔をみせたように涙ぐんでいる。マルチェロが魔法の杖を振るうと映画は終わり、拍手と歓声が聞こえてくる。映写室でみんなで鑑賞していたようだった。三人の同窓会となっていた。

 この名優はヘビースモーカーなので、禁煙させようとして、日本のインタビュアーは三船敏郎が禁煙をした話を持ちだしている。フェリーニと黒澤を対比してみせようという意図だが、思わずフェリーニの書いたシナリオなのだということを忘れてしまっていることに気づく。思いつきのように偶然をねらったような、それでいて仕組まれた虚構を、私たちは楽しんでいる。

 突然の雨で撮影が中断されるが、それもシナリオ通りなのかが、わからないままである。トラックの荷台に入り込んだバンド演奏と、急ごしらえのビニールハウスに入り込んだ集団のざわめきが、フェリーニ的狂騒を再現している。最後にインディアンの襲撃があるが、なにごとが起こったのかと混乱してしまうのも、フェリーニならではの演出であり、アメリカの撮影風景なので当然なのだと、無理矢理に納得しようとした。監督は撮影終了を宣言し、これでいいのかとスタッフは首をひねりながらも、クリスマスを前にした、浮かれた気分をただよわせて、それぞれの自宅へと帰っていった。

 お祭りは終わった。映画がテレビに主権を奪われてゆく光景は、クリスマスを祝う家庭の平和を思わせる茶の間のテレビにつなげられている。インディアンの襲撃は、映画全盛時代の西部劇のオマージュだったのだろう。おそらくテレビ局から依頼を受けた日本人のインタビューは、テレビ番組として放送されるはずだ。そしてフェリーニの新作「カフカのアメリカ」も完成されることはなかった。にもかかわらす大がかりなメーキング映画は完成したのである。ベルイマンが晩年、テレビ映画をずいぶんと制作して、正統派をつらぬいたのと対比をなしている。フェリーニは黒澤明とともに映画の終焉に立ち会おうとしたようだった。

第337回 2023年11月27 

ボイス・オブ・ムーン 1990

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア・フランス映画、原題はLa Voce della luna。サルビーニと呼んでいる声がする。広い野原の真ん中にある井戸の底からのようで、のぞきこんでいる。月の夜だった。一群の男たちがやってきた、サルビーニは身をひそめて見ていると、10人近くの男が、明かりのついた家の窓からのぞき見をしている。豊満な女がひとり、視線に気づいていて、踊りながら誘っている。主人公も身を乗り出してみようとすると、タダ見だと言って、金を要求される。叔母の裸を見せて、仲間たちから金を取っている甥が中心にいるようだった。

 通りがかりの老紳士が助けてくれた。道すがら主人公は、井戸から声がして大事な話があると言うのだと打ち明けている。ついて行くとアパートになったお墓の管理人のようで、小窓から身を乗り出している音楽家の教授がいた。生きているが居心地がよさそうなので借りているようだ。オーボエを吹くと家具が移動するとか、台所で大食漢が冷蔵庫を荒らしているとか、不思議なことを話している。他は墓石のままで、花が飾られて、コインロッカーのように並んでいる。サルビーニと書かれたブースもある。

 妄想が加速化されていってついていけない。天井の穴が開いてのぞきこむと、祖母のいた頃にタイムスリップして、ピノキオと呼ばれている。主人公のあこがれの彼女(アルディーナ)がいるが、妹(スージー)を介して寝室にまでたどり着くが、大声で叫ばれている。知人(ネストレ)が離婚をして、妻(マリーサ)が家財道具をもって引っ越しをする場面にも遭遇する。妻はグラマーで、知人は小男だった。美容師をしていて、結婚にまでこぎつけるが、激しい性欲についてはいけなかった。家具を運び出す騒動をながめている、写真機を手にした日本人のツアー客が、茶化されて登場していた。ここは妄想ではなく、日本経済が絶好調の時代の海外旅行のリアリズムだった。

 主人公は彼女を追いかけるが、相手にされない。落ち込んでいると、元知事という謎の男と知り合いになる。今の権力者に不満を持っている人物で、連れられてニョッキ祭りに行く。ミスコンテストの会場で、彼女が選ばれるのを、床下に閉じ込められて見ている。やっと助け出されると、彼女の淫らな姿を目撃して、打ちのめされる。逃れた先は倉庫のなかで、若者たちが踊り明かすディスコだった。美女たちに囲まれて、全員が彼女(アルディーナ)だと言っている。

 家族の家にたどり着いて、ピノキオのぬいぐるみのある部屋に入る。空っぽのはずの部屋に、妻に逃げられた友が来ていた。そのあとも筋をたどることは可能だが、支離滅裂この上もない。月と井戸の底という異界への通路を巡りながら、死にとりつかれていることはわかる。論理を逸脱しているが、通底しているものはあり、それの理解は芸術学よりも病理学のテリトリーかもしれない。

 孤独な寂寥感のただよう暗闇と、発光するまばゆいばかりの照明に照らされた狂乱の対比は、天国と地獄をめぐるダンテの旅にも似ている。これほど謎めかせておかないと、フェリーニの評価は成り立たないと思える、最後の豊穣な文化的結実だった。マストロヤンニからバトンタッチをされて、ピエロのような表情を浮かべる主役ロベルト・ベニーニの、井戸をのぞきこむ姿が、いつまでも余韻を残していた。