企画展 「世界人―D.T.Suzuki」

2019年4月24日(水)~7月21日(日)

鈴木大拙館


2019/7/18

 こういう形の美術館があるのだという、決して悪くはないさわやかな驚嘆があった。ふつうは文学館や博物館や記念館という定番があるのだろうが、これは美術館以外のなにものでもない。建築家がセンスのよさをひけらかせているわけでもなく、鈴木大拙というひととなりを、まるごと空間に置き換えているのだ。思想は残された著作によって追体験されるものだが、ここでは館内を歩いて空間を体感することで、その宇宙観を読み取ろうとする。 

 狭いのに広大な風景が広がる。禅的コスモロジーの理解は、いくら名言を連ねても果たせるものではない。水に囲まれた瞑想の部屋は、その日は申し合わせたように大雨であり、見事な雨足が荒れ狂う大自然の見立てとなっていた。開け放たれた戸は、窓ではない。行き来できる順路を形成して、止まらせることはない。好奇心に満たされた始まりの予感を誘う、長いアプローチから始まって、一回りして順路の最後を過ぎて振り返ると、はじめの長い廊下に戻っている。極めて暗示的な回廊は、輪廻転生の教訓を含んでいる。禅的神秘に満ちた東洋的世界観に、日本の茶室空間ともちがう深淵を体感する。

 展示スペースは確かにある。展示品を替えれば、企画展の継続は可能だ。しかし最大の展示品は、建築外部の取り込まれた自然と内部インテリアをスルーして回遊するゆっくりとした歩行にある。これにはいくつかの条件が必要となる。干渉し合わない適度な数の訪問者と、喧騒を避けて感じ取れる四季の変化だろう。梅雨明け間近の雨も悪くはないが、雪の日の張り詰めた空気も魅力的だろう。

 禅宗といえばついつい永平寺の厳しい寒中の修行を思い浮かべてしまうが、座禅の瞑想は何よりも鈴木大拙理解の第一歩かもしれない。読書コーナーも用意されていて、日柄一日著作を読みふけることもできるが、読んでみたいという気にさせるだけで、この装置の役割は充分だろう。アプローチの役目を果たすのが、控えめを必要とする美術館の機能と言える。玄関を入り入場料を払うと二つ折りの空の紙ケースを渡される。中には何も入ってはいない。展示スペースに置かれたリーフレットを必要に応じて収められるサイズであることが、やがてわかってくる。もちろん空のままであっても構わない。最後に日付けの空欄があるスタンプが置いてあって、ケースの余白に捺印して、今日の日付けを書きとめる。すべてが禅的思考に裏打ちされているようで、うれしくなってくる。

 一巡を終えてトイレを探すが、館内にはない。探すと入ってきたとき、玄関をくぐり受付に達する手前に用意されていたことがわかった。つまり入り口を入るといきなりトイレがくる禅寺の構造と似ていて、面白く思った。東洋と西洋を結ぶ思想家の空間を設計するには、アメリカに在住する日本人建築家のアイデンティティを必要とした。一方でこの驚異的な空間把握の妙は、アメリカ人好みの東洋的神秘の演出のようにも見えなくもない。日本人のとらえた禅宗とは少し違うのではないかという気がしている。いずれにしても鈴木大拙をしっかり読んでから、今度は雪の日に訪れようと思った。


by Masaaki KAMBARA