第6章 象徴主義

サンボリスム/ルドン:浮遊する眼球/木炭画の意味/発光体/目力と自力/ムンク:前向きな悲鳴/クリムトとウィーン/ファムファタール(宿命の女)/ロダン:あとずさりする情念/ブロンズの象徴性/荻原守衛のデスペア/「女」のサンボリスム


第65回 2021年11月11

サンボリスム

サンボリスム(象徴主義)自体は、ゴッホなどが色のもつ象徴性を語り、色で感情を表そうとしたこととも連動する。文学とも歩みを共にして、フランス語での名称が一般化されており、フランスが中心での展開だった。重厚な壁に塗り込められた退廃の美は日当たりの悪い都市の裏通りに巣くう甘美な幻想に結晶する。眼=気球(1878)では目玉が気球に乗って浮遊する。目のシンボリズムは頻繁に登場する。目玉は絵画のことであり、写真のことであり、モネのことでもあった。目はナダール(1820-1910)が手にしたレンズを意味していたかもしれない。

この写真家が気球に乗り込んでパリの街並みを撮影する写実を、ルドンの空想に先立ってドーミエが「気球に乗ったナダール」 (c. 1862)で版画化している。のちに記念碑的な第一回印象派展が開かれたのは、このナダールの写真館でのことだった。目玉は真上に向けて大きく見開かれている。これでは写真家がパリの街並みを見下ろしたようには下界は見えない。目は開いているのに見えないという点がここでは重要だ。ロマン派の想像力は、ルドンで空想となる。空想は妄想へと進化するものなのなら、象徴主義からやがてシュルレアリスムが登場するのは歴史的必然だっただろう。

第66回 2021年11月12

ルドン(1840-1916):浮遊する眼球

ボルドーからパリにやってきたオディロン・ルドンはひとり特殊な立ち位置だが、その世界は世紀末の象徴主義そのものであり、根強い支持を得ている。華々しいベルエポックに彩られた都市の発展に比べて、ルドンの黒一色は魑魅魍魎の闇の世界を映し出している。幻想絵画として世紀末に出てきて、この系譜はジョヴァンニ・セガンティーニ(1858-99)のアルプスの真昼の幻想とも同調し、その後パウル・クレー(1879-1940)の銅版画の幻想などへとつながっていく。ルドンも後年カラフルな花の絵を描くが、その花を見ていても薄気味悪く、闇の世界の裏返しのような、毒々しい虚飾の世界観を形成する。

この変貌を理解するためには映画が白黒からカラーに変わる時代に、黒澤明(1910-98)が監督をした作品を並べなおすとよいだろう。カラー作品のけばけばしいまでの色彩感覚に驚くと同時に、それ以前の白黒映画に隠れていた色の実在に気づくことになる。スクリーンに映し出された白黒映画の黒は、絵の具で塗られた黒ではなく、色彩を満載した闇だったということがわかる。もちろんだれでもというわけではない。名匠でなければ闇にはならないだろう。

ルドンはモネと同い年であるという点に注目すると、両者は対極的にみえるが、同質でもあるということだ。ルドンは黒を嫌ったモネとは対極にある。モネは目を開いているのに見えない世界を描こうとしている。ルドンはこれと反対に、目を閉じているのに見える世界を描いて見せた。ともに問題にしているのは共通して「目」である。目の人であったモネは晩年に眼病になってまでも自分の目に頼ったが、ルドンは早くから目玉を取り出して空中に浮かせたり、テーブルの上に置いて眺めた。テーブルの上の目玉をリンゴに替えたのがセザンヌだったとすると、ルドンとセザンヌは同じ土壌から育ったことになる。

第67回 2021年11月13

木炭画の意味

漆黒の闇の中に目玉が置かれたルドンの「木炭画」を前にして思うのは、そこに見えているのは現象ではなくて存在だということだ。光がなければ見ることはできないはずで、真っ黒の世界に描き出された目玉がみえるのは、それが手にふれる実在であるからだ。いいかえれば光によって写し出された現象ではなくて光そのもの、つまりそれ自体が発光体だということになる。色鉛筆の黒は色だか、ただの鉛筆の芯は色ではない。多くは黒だが、黒だと意識してはいない。

木炭画は黒色ではない。炭は全ての色を吸収したのちに生み出されたものだ。木炭のもつ柔らかな包み込むような漆黒は、闇に反射する絵の具の黒ではない。闇に溶け込み、それ自身が闇と化して輝きを放つのである。象徴的にいっているのではなく、やがて輝きだすのは掘り出された石炭の実像のことだ。研ぎ澄まされた眼力が見出した「黒いダイヤモンド」という命名はそのことを証明している。地中だけではない。深海に潜むほとんどの生物は、自らの身体を発光させるという。写真家志賀理江子の「ブラインドデート」という展覧会で出くわし、啓発されたことばである[i]

物質は焼けると黒くなり炭となる。炭をさらに焼き続けると灰になり白くなる。この観察に科学的説明は可能だろうが、科学を超えて人間の魂に訴えてくる現象だったように思う。炭はもう一度燃えるが、灰になるとそれ以上は燃えない。樹木は死んで焼かれ、木炭となってもう一度生きる。復活の思想といってもよいが、炭が灰になる時間は決まっていて、キリストの場合は三日間だったということか。ロウソクや線香の長さを決める論拠もあるはずだ。

黒は生命の再生だとすると、最後に白となって終わる現象は暗示的で、白紙上に黒く線描でデッサンをする行為は、死から生を取り戻す無意識の生命の叫びのように機能する。百歳まであと一年を白寿と呼んで祝うのも、仙人のような白髪になぞらえての聖遺骨にむけての信仰のことだったように思う。白くなって終わるのは、息を吹きかけると風となって空中にただよって消えてしまう風化の思想を反響している。


[i] 「志賀理江子 ブラインドデート」2017年6月10日(土)-9月3日(日)丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

第68回 2021年11月14

発光体

目は光を感知する器官でしかないのに、不気味にも輝きを放っている。ときに目玉は土から生え出て花のように咲く。その後一転して描き出したけばけばしい花の絵と対比をなす。そこでは闇を脱してもなお存在を主張する生々しい燐光が紫色に輝いている。死者が生を取り戻し墓場でさまよう彷徨の姿に等しい。それを一般には「ひとだま」と呼ぶが、その後水木しげる(1922-2015)の筆を借りて、繰り返し墓場に登場するものだ。戦争をはじめ人間社会の見なくていい悪徳を見てしまった目玉がさまよっている。

眼=気球」(1878)がかかえる問題はさらに続く。目玉だけを取り出して世界旅行ができればどんなに便利だろうと思ったことがある。身体をともなう煩わしい旅行体験が、映像時代に変貌をとげる。目の世界旅行は、20世紀の幕開けを告げるものでもある。気球に乗った目は、まさに目の世界旅行だった。

ルーヴル美術館にある発光体をルドンは目にしていたかもしれない。ルネサンス以降の宗教画ではしばしば幼児キリストは発光体として描かれる。レオナルドの描いた「岩窟の聖母」では洞窟内は暗闇のはずなのにキリストもマリアもヨハネも天使も目にみえる。キリストの顔がひときわ明るいが、四体の聖者は同等に光を放っている。

バロックの時代になると闇の中で幼児キリストだけが光を放ち、まわりの者はこの神の光を照り返すようになる。モネの光は自然の光だったが、ルドンの場合は神秘の光だった。もちろん近代文明はライトの発明によって闇を制したが同時に神秘も失った。

近代文明の形である白熱電球の輪郭は、よく見るとルドンの描いた気球に乗る目玉に似ている。気球は天上に向かって光を放っている。光線は目を取り巻く無数のまつげである。浮かぶのは気球だが、気球が吊り下げているのは、山高帽のようなものと思い見過ごしていたが、よく見ると皿に載せられた洗礼者ヨハネの首であることに気づく。髪を真ん中から分けたキリストによく似た顔立ちである。山高帽は19世紀中頃に登場した時代のファッションであり、それに見せかけて、ヨハネをカモフラージュしたにちがいない。

斬首のヨハネだとすると当然その目は閉じられているはずだ。このとき気球を結んでいるロープが生首から放射状に発する光線に見え出してくる。洗礼者ヨハネが気球に乗っているとすれば、ヨハネの首が宙に浮くモローの「出現」を思い浮かべることになる。もちろんそこでもヨハネの首は発光体として輝いている。そしてそこではヨハネは目を見開いて世界を見返している。目を閉じていれば気球に乗る意味はない。

目が発光体だというのは、ルドンが別に描いたリトグラフ「起源」でも、まつ毛が目から発した光線になっていることからわかる。「起源Ⅱ」(1883)では、目は地面から生え出て花となり、命を宿している。「起源Ⅲ」(1883)では目は人の顔となり、やがて一つ目の巨人「キュクロプス」(1914)へと変貌を遂げる。まるで抽象絵画誕生をたどる進化論に似た論理的帰結が見えてくる。

花となった目もまた「ひまわり」と対応させると、ゴッホの興味とも連動する。太陽に目を向けるすがたはよく見ると太陽と似ている。中央の円盤をまわりの光線が取り巻いている。それはひまわり自体が発光体だということであり、そのことがゴッホを魅了した。通俗的なイメージだがひまわりがしばしばライオンの顔になっているのも、百獣の王が発するオーラのゆえなのだろう。

第69回 2021年11月15

目力と自力

レオナルドがこれによく似た光を発する眼球の素描を残しているが、それは科学者が頼った妄想だった。目が光を放つという信仰は古い。ギリシャ神話に根づいたメドゥーサ伝説もその延長上にある。髪が蛇になった妖怪で、目を合わせると石にかえられる。目力をもつが、日本語の目力(めぢから)は、よく見ないと自力(じりき)とみまちがう。自身の発する力という意味だ。

ついでにいうと、他力(たりき)は地力(じりょく)に似ている。それは目を閉じて大地の力に身をゆだねる生き方のことだ。地霊とも磁力とも読み直されるものだ。対してクールベの目を向いて迫ってくる目力は、近代の個の力を信じた自力のマニュフェストということだ。

フランス語にカモフラージュされた難破船「メデューズ号のいかだ」は、メドゥーサに魅入られた近代文明の悲劇のことだった。川の場合は、そんな船名がつけられるかは定かではないが、ローレライといってもよい。暗雲立ち込める暗がりのなかで、不思議にもどこからともなく光がやってきて、魑魅魍魎のいかだのうごめきが目に見えている。いかだをこんなふうに見える位置は実際にはあり得ない。

19世紀末は近代文明が照明によって夜を制した時代であるが、再度発光体の神秘を取り戻すのは、21世紀を待たねばならない。モバイル画面が幼児キリストのように聖なる光を放っている図は、繰り返し現代画家の好みのモチーフとして用いられることになる。そこでは携帯画面を眺める青白い現代人の顔が浮かび上がっている。

モネの側からみると、同時代性はモネにルドンと共有する体質を保持させているはずである。個性と自由によって彩られた絵画の実験は、「印象」という内向きで曖昧な虚無をまとった厭世観を下敷きにしている。その人でしか表現できない個性と、何でも表現できるという自由を旗印に、最終的には絵画の解体にまで至るアナーキーな思想を含んでいる。軍配はルドンではなく明るい厭世観に上がった。

市民権を得て印象派は、それを否定するポスト印象派をも巻き込んで広がりを見せていった。絵画は表面上の現象にすぎないという印象派の厭世的世界観は、のちのポップアートで中身は何もなく「表面を見ているだけでいい」というウォーホルの芸術論に引き継がれていく。一方ルドンの想像力は、幻想絵画の文脈でシュルレアリスムで復活するまで眠ることになる。

70回 2021年11月16

ムンク(1863-1944):前向きな悲鳴

エドヴァルド・ムンクは結核を通して死に対する不安や怯えを視覚化する点で、世紀末の名にふさわしい。実際は81歳まで生きているが、絵の性格からすると30歳代ではすでに生涯を終えてしまったのではないかと錯覚してしまう。この肩透かしの背景には、生涯を通じて持続する旺盛な制作意欲があったはずだ。晩年に手掛ける壁画は体力のいる仕事だったにちがいない。

病んだ時代の主題とは裏腹に健全な魂のありかを伝えるものだ。版画でも「接吻」などは多くのヴァリエーションがある。これでもかこれでもかと繰り返される執着度にも目を見張るものがある。作家としての生産性といってよいだろう。

死を見つめて、マイナーなものに目は向かうが、「生命のフリーズ」と名付けられるような死を生へと変換させていく力を内に秘めていればこそ、見過ごされることなく輝き続けてきたのだと思う。フリーズは建築用語であって、うつむいていては見ることはできない。見上げる位置にあって柱の上部に帯状に続いていくスペースのことだ。

叫び」(1893)は確かに恐怖を前にして、委縮することなくまっすぐ前方を見据えている。耳を抑えて聞こえない悲鳴の図に、見るものは知らず知らずのうちに前向きな救いを見出しているのだろう。この絵が何度も美術品犯罪のターゲットにされてきたのは無理もない。何度も狙われるのは不思議な気もするが、前向きな姿勢は犯罪者にも勇気を与えるものだったとしか思えない。暗く陰鬱なものなら盗もうとも思わなかっただろう。

太陽」(1911-6)は放射状に拡散する太陽光線だけを大きく描き出した壁画を思わせるようなキャンバス画の大作である。印象派をこえて、さらにはゴッホをもこえて、熱気を帯びたフォーヴィスムが生命そのものを暗示している。朝日は不思議と背に感じることはない。向かおうとして身構えている。太陽は叫びでもあったのである。

美術の中心であるパリとのパイプは保ちながらも、ノルウェイの風土に生きた画家であり、今ムンクを見るにはオスロの国立美術館とムンク美術館を訪れなければならない。ノルウェイを代表する作家であることは確かだ。世紀末の気分にどっぷりと浸かっている。北欧独特の風土は、白夜のもつ暗いけれども妙に明るいという絵画世界に反映する。

夕陽が海に沈む絵が数多いが、舌が垂れ下がったような記号化は、インフォメーション記号のように謎めいている。見ようによれば十字架にもみえる。精神分析をしたり絵画のイメージを読んでいくとき、解釈が多様な点でも、象徴主義に彩られた興味深い作品群である。

「叫び」は小品だが、人の情念をこんなに適切に捉えたものはない。画家としての力量をこえてまでも、感受性の豊かさだけは研ぎ澄まされている。ナイーヴな若者の精神をみごとにキャッチできる能力は、絵としての完成度のことではない。大げさなまでにデフォルメされた悲しみのしぐさに起因している。水辺にたたずむ後ろ向きの男女、男の首にかじりつく吸血鬼と化した長い髪の女、画面の脇で頬杖をついてもの思う男。これらは繰り返しムンクの絵に登場するモチーフだ。

 短命な生命のフリーズを思い浮かべるが、ムンクは生きながらえる。しかし心の動揺は晩年までおさまることはなかったようで、幼児体験とも取れる人生の悲哀と、血の恨みは、引きずり続けている。まるで十字架を背負った罪人のようにさえみえる。自画像を描くということは、自分を客観的に捉えているということだ。

柱時計とベッドの間の自画像」(1940-2)では上着を着て真正面を向いた骸骨のような風貌は老いのもつ隔絶した時間を示し、居合わせてはいても見つめてはいない。不条理な時間のずれが層をなし、柱時計とパラレルになって立ちすくんでいる[i]。まだ床につくことはなく時を刻むという自覚ではあったとしても、顔立ちはゴルゴタに向かうキリストのようにドクロと化している。


[i] 「ムンク展―共鳴する魂の叫び」2018年10月27日(土)~2019年1月20日(日)東京都美術館

第71回 2021年11月17

クリムト(1862-1918)とウィーン

ムンクが死の予感を秘めて世紀末を一身に担っていたとするなら、それと同調するようにウィーンでもグスタフ・クリムトの描き出すイメージがかぶさってみえてくる。ウィーンという世紀末にふさわしい雰囲気をもつ都市の憂鬱が、パリ以上に爛熟したかびくさい気分と響き合う。鬱屈したイメージだが、作品を前にすると意外とさわやかなのに驚く[i]。死や眠りと抱き合わされているはずなのに、覚醒へと向かう希望の光がみえるということか。

私生活を追えば、生涯結婚することはなかったが、18人の子どもがいたという衝撃的な事実に出くわす。スキャンダラスな書きかたをすると辟易とするが、さわやかな生産性はここに原因があるのかと思いかえす。それはドロドロとした人間関係や訴訟を回避できたということで、ある意味でモラリストの側面を思い浮かべる。

女性を描くことが生涯のテーマであったことはよくわかる。風景描写も細密化から装飾へと展開する必然はみごとだが、男性像には興味は無い。自画像さえ見られない。生涯独身のプレイボーイを気取ってよいが、うかつにも現実の風貌を映し出した写真が残されていて、禿げ上がった頭部の印象は強く、肖像権を奪ってしまっている。これがなければどれほどの貴公子と思われたことだろうか。

ウィーンという古都が生み出したボヘミアンの倒錯は、運命の女を求め続ける果てしない旅をなぞりはじめる。音楽や建築を巻き込みながら総合芸術を希求し、パリで展開した絵画運動を凌駕しようとする。画家の層からすればパリにかなわないという自覚が、ウィーンを音楽と建築の都にのしあげていく。色濃い伝統の沈殿という点では、大都市の風格を備えていた。退廃を自称するに引けを取ることはなかっただろう。

ムンクの場合と同じく壁画がこの時代に興味の対象になってきた。タブローから離れてちがう領域、日常生活に入り込んでいくような感覚が生まれる。「ベートーヴェンフリーズ」(1901)に結晶するが、ムンクの生命のフリーズと共鳴し合うものだ。建築に付随して室内を取り巻き、シリーズをなしている。装飾性の強いのが特徴で、クリムトの場合ヨーロッパ中世の、ことにビザンチンふうにみえるが、一方でジャポニスムも影響しただろう。

浮世絵というよりも琳派の意匠に近い感覚だ。金地の使いかたも光琳の屏風絵を思わせる。凹凸のない衣服は日本の着物の柄のように桃山時代に特徴的な絢爛たる装飾を浮き上がらせている。クリムトの装飾性はウィーンの風土から見ると、その後のフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928-2000)の色彩感覚に引き継がれる。その異形は日本でも大阪のゴミ焼却場「舞洲(まいしま)工場」(2001)でも見ることができる。クリムトからの系譜がウィーンではその後も脈々と残っている。

モチーフとなったのは蛇や水など、人間の底辺に流れている深層心理と連動しているが、草花の描写も見落とせない。30歳代なかばで風景にめざめる。人間にちょっと疲れたという頃か。クリムトの風景は遠近感がなく近視眼的なのが特徴だ。原始人の空間恐怖にも似て、空白を嫌い、奥ゆきには向かわず、這うようにして四方に拡散して広がっていく。蔓草が壁一面に広がるのと似ている。

植物装飾という点では、時代の潮流であるアールヌーヴォーの美意識に従っている。草花は緻密にディテールまで描いている。人物と抱き合わされる場合も、草花だけの風景として描かれるものもある。単独の花ではなく、日本の秋草図を思わせるように地面に群がって広がる。人物の顔立ちは写実的だが衣服は平面的で、全体は壁紙を思わせる。立体感を抑制した「壁紙」のもつ装飾性が狙いとなる。


[i] 「クリムト展 ウィーンと日本 1900」2019年4月23日(火)~7月10日(水)東京都美術館

第72回 2021年11月18

ファムファタール(宿命の女)

「接吻」もまた興味深いテーマとして象徴主義を彩っている。クリムトの「接吻」(1907-8)では顔を真横に傾けた男女は宙に浮かんでみえ、シャガールの夢見る愛の飛行を予見する。ムンクの場合もそうだったが、ロダンの彫刻を通しても様々な深読みを可能にする。男女の愛情の表現であるのだが、力関係が五対五でない場合が多くて、無理矢理に男のほうが抱きしめているものもあれば、ロダンの場合のように男のほうがためらい気味で、女のほうに積極性を認めるものもある。

そこに男女の物語が見えてきて、ことに女性が悪女として上位に位置するファムファタールの同時代的興味とも連動する。接吻の原点は宗教絵画に出てくる「ユダの接吻」にある。ことにジョットの生み出したイメージが強いインパクトをもって継承されてきた。それは愛情の表現であるがゆえに、裏切りに用いられた。この裏腹な身振りが示す奥深さに画家の目は反応し続けてきたということだ。

ファムファタールが世紀末絵画の象徴だとすると、サロメというテーマが共通して、ヨーロッパの風土で一斉を風靡する。20世紀絵画の主要人物を育てたモローもまた、その点で象徴主義を牽引する。ことにサロメへのこだわりは興味深い[i]。仕あげに至る試行錯誤は、その苦悩と痕跡が下書きや習作でたどられる。

さまざまなポーズが試作されるが、何といってもモロー独特の宙に浮かぶ洗礼者ヨハネの首を描いた「出現」(1874-6)がいい。斬首の残像は生々しいが、宙に浮かぶと神々しい。誰もが思いつかなかったイコノグラフィーではあるが、大衆のポピュラリティに支えられた通俗性を脱して、宗教画の神秘を取り戻そうとしている。情念の高まりはフォーヴィストを育てるが、格調高い宗教性はルオーに引き継がれたとみることができる。


[i] 「ギュスターヴ・モロー展― サロメと宿命の女たち ―」2019年4月6日(土)~6月23日(日)パナソニック汐留美術館

第73回 2021年11月19

ロダン(1840-1917):あとずさりする情念

宿命の女としての誘惑はロダンを狂わせるものでもあった。カミーユ・クローデル(1864-1943)をモデルに掘り出した石の塊は、身もだえをして狂おしくロダンに迫ってくる。女の左腕は男の首を力強く引き寄せている。男の右手は軽く女の腰にあてられているがためらい気味だ。男の背の肉づけは女の腕から逃れたがっているようにさえみえる[i]

このように「接吻」(1882-7)では破局に向かう愛の軌跡がみごとにとらえられている。ユダの裏切りの図が脳裏をかすめる。精神を病んだ娘の狂気にあとずさりする巨匠はみじめでもあるが、それを結晶させる手腕には、愛憎をこえた芸術の勝利がうかがえる。象徴主義として暗示的にほのめかすことによって、ロダンもまた世紀末を生きた苦悩の芸術家に位置づけられる。

作品タイトルに込められた思いも考察の余地を残している。カミーユは石に閉じ込められて一点を見つめ「思い(ラ・パンセ)」(1895)というタイトルで再度登場する。その沈黙は狂おしいまでに美しい。もの思う女の目と視線は交わらない。キュービックな石の外形を残すのは古代エジプト彫刻との対比をうながしている。ルーヴルの「書記坐像」と比較すれば、この大理石の意味がよくわかる。

石に閉じ込められているだけではなく、前に立つ私たちと視線が交わらないという点でも両者は共通する。ただちがうのは、エジプト彫刻が見るものの目を射抜いて遥か彼方に永遠を見ようとするのに対して、クローデルの目は見開いてはいるが何ものをも見つめてはいない。あえていえば見えない先に絶望をみようとしている。

この目を見ながら夢二の愛したお葉の写真を思い浮かべてみる。夢二式美人の典型であるが、お葉にしても彦乃にしても正妻の監視下にあったという意味で、ロダンと夢二は痛みを分けもっている。女のまなざしが添い遂げることのない運命に宿っている。

世紀末を彩る宿命の女はいつまでも生き延びはしなかった。ピカソが対象とした女性像は九人からなる霊感を宿したミューズだった。ダリもまたファムファタールの時代は脱しており、ミューズを対象としたがピカソとは異なり唯一のミューズだった。男を破滅させるのではなく、画家に霊感をもたらした。シャガールやモジリアーニの場合もそうだった。

ルソーの描いた「詩人に霊感を与えるミューズ」(1909)がプリミティヴであるとはいえ、女性というにはあまりにもたくましすぎることからも、妖艶な宿命の女からたくましい美の女神へ変貌する時代の推移を読み取ることができる。腕っぷしの太さはドラクロワのように民衆をも導こうとするものだ。


[i] 「ヌード NUDE—英国テート・コレクションより」2018年3月24日(土)~6月24日(日)横浜美術館

第74回 2021年11月20日

ブロンズの象徴性

青銅時代」(1877)という裸体像が武器を手にするかどうかという議論も、象徴性に気づくことで作品理解は深まる。人類史の始まりは黄金時代であり、争いはなかった。黄金は王のマスクにしかならなかった。次に銀の時代を経て銅の時代が訪れる。銀製品は食器でしかなかったが、銅の時代に至って人は武器を手にして殺しあいをはじめる。その後、鉄の時代になると大量殺戮へと加速した。このときはもはや具象彫刻の素材ではなくなっている。

ブロンズの象徴性は彫刻に結晶する芸術であると同時に、殺戮の兵器ともなるという弁明でもあった。「青銅時代」は武器を手にしていない。それは彫刻という名の平和の象徴に替えられたからである。これが私の解釈だ。日本でも戦時のたびに多くのすぐれた銅像が大砲に変身した。

平櫛田中の「活人箭」(1908)を思い浮かべてみよう。力強く弓を引く姿が木彫で彫り出されているが、弓も矢も手にしてはいない。田中(でんちゅう)ならのちに「五浦釣人」(1962)で師である天心像に釣り竿をもたせたように、小道具を持たせたかっただろう。ここではいまだ存命の岡倉天心ごのみの象徴主義に裏打ちされた彫刻論がうかがえる。

彫刻たるもの、小道具を持たなくとも、肉づけ(モドレ)だけで十分に弓も槍も竿も手にしているのである。絵画を批評するのに音が聞こえてこないという受け答えで対した天心ならではの芸術論がみえてくる。

ロダン、ブールデル、マイヨールなど同時代の彫刻家をどこに位置づけるかは難しい。彫刻は写実主義を土台にしている。人体は人体そのものであり象徴主義の彫刻は想定しにくい。しかしロダンをみると人体を写実的には表現するが、それをこえた情念がつねに浮上している。マイヨールでも女性の裸体を対象とするが、「地中海」(1905)とタイトルをつけると、象徴主義でしかないということだ。建築の場合も元来神殿などは象徴そのものだった。

文学も含めて純粋化から総合化へという系譜は、絵画が行き詰まり活路を他領域に見出していったということになる。しかし絵画が出発点だという意識は強い。ロダンも多くのデッサンを残しているが、彫刻家でしかとらえきれない流れるような絵画論を実証している。

それはのちにイサムノグチ(1904-88)が踊り子を描いたみごとなデッサンのシリーズで繰り返されている。「北京ドローイング」(1930)という等身大の墨絵がある[i]。100点ほど残されていて、クロッキーのようにしてラフな線が人体を描いている。ロダンのデッサンにも似て、彫刻家独特の空間のとらえ方がうかがえる。その上を薄墨で太い線が輪郭をなし、これがリズミカルで、書でありながら、人体が奏でるダンスのようにみえる。モダンダンスのマーサ・グラハムと出会い、身体運動に向かう興味の延長に、東洋の書に出くわしたと見れば納得がいく。書は抽象でありながら、それが明確な意味をもつという点では、きわめて象徴的なものだ。


[i] 「20世紀の総合芸術家 イサム・ノグチ —彫刻から身体・庭へ— 」2018年4月7日(土)~6月3日(日)香川県立ミュージアム

第75回 2021年11月21

荻原守衛(1879-1910)のデスペア

ロダンを象徴主義に位置づけることで、その影響下にあった彫刻家の立ち位置が定まってくる。日本から旅立った荻原守衛もまたそのひとりである。その存在は、みごとに日本彫刻史に輝いている。31歳で没した無念が、明治期のまだ初々しい日々の日本の将来を切望する。フランスに渡り、7ー8年の滞在ののち帰国して、二年ほどの制作期間で終えてしまう短命の話である。若い才能の評価は作品数が五点もあれば十分だ。

デスペア(絶望)」(1909)を見ると、ロダンばりの裸婦の背中がみせる表情の豊かさは、悲痛が先行しているとはいえ、日本人離れしてみえる。同じタイトルをもつクールベの自画像が目をむいて顔をさらけ出すのに対して、顔を覆い背中で悲嘆を表現している。このちがいがレアリスムとサンボリスムの差だと見ることはできるだろう。

坑夫」(1907)の石膏像には作家の親指の形跡が生々しく残っている[i]。それはゴッホの絵を前にして、炎と化した筆づかいに情念の息づかいを感じ取るのと似ている。身を引いて視線に力を込めるねじれのポーズは、誤って愛人を手にかけてしまった「文覚」(1908)の苦悶にも連動するが、「」(1910)の身もだえをしてのび上がる姿へと結晶する。ロダンを前にして魂を揺さぶられた東洋の若者の情念が、そこに反映する。芸術的枯渇は守衛自身の実らない個人的恋情の裏返しでもあって、地に根ざした実感を土に植え付けることになる。

後ろ手を縛られた日本女性が、古い因習を脱ぎ捨てて自立し、恐る恐る伸び上がろうとする時代の意志の力が、相馬黒光(1876-1955)という愛する人妻の面影を借りて結晶している。伸び上がった顔立ちは、盲目の目が光を探るときにみせる一瞬の表情に似ている。

[i] 「荻原守衛展 彫刻家への道」2019年9月14日~12月08日 新宿中村屋サロン美術館

第76回 2021年11月22

「女」のサンボリスム

象徴主義は最終的には「」に行き着くが、それは日本独自の彫塑をめざすぎりぎりの選択だったかもしれない。小柄の女性である。平櫛田中の姉が弟をおんぶする「子守」(1907)を見ながら思いついたことがある。それが木彫ではなくブロンズ彫刻だったせいもあるのだろう。私ははじめ女のポーズを後ろ手を縛られた束縛と解したが、この不自然な姿勢での停止は、腰をかがめることに苦のない農耕民の土着を意味するのではないかと疑ってみた[i]

長い脚で飛び跳ねるバレエダンサーとは対極にある土臭い粘りが、粘土の組成と呼応している。土をこね耕すときと、田に苗を植えるときとは、自然は異なったふたつの表情をみせる。人間のがわに立てば、自然に対しての発見と発明の区別となるが、耕作を前にした挑戦と祈りと呼び換えてもよいだろう。日本の西洋彫刻を実現したいという守衛の思いが見つけ出した形ではないだろうか。

地面から生え出て伸び上がろうとするしぐさは、不在の重さを背に感じている。後ろに回した手がその不在の重みを支えているようだ。前に伸ばされた顔が、その重みを確かめようとして振り返っているようにもみえるとすれば、それは他ならない日本人のみせる「子守」の姿と重なってくる。西洋美術で定番の聖母子像には子を背負うかたちはない。松田道雄「育児の百科」によれば西洋には「おんぶ」という習慣はなく、「帯という重宝なもの」もなかった。この日本独特のかたちに託して、日本のロダンを模索した荻原守衛が挑戦をしかけたと解釈できないか。

さらに深読みをすれば、不在の子とは何を意味するのか。母と子でいえば、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」(1559-)は、母が死せる我が子を後ろから抱きかかえているが、見ようによれば、子が老いた母をおぶっているようにもみえる。それは子を背負う子守唄の図像学に根ざした日本人にしか見えない情景だろう。背負うもののないはずの「女」の背に、はっきりとした重みの跡が、肉づけを通して見られるような気がする。

モデルとなったのは守衛最愛の相馬黒光である。この年彼女は幼い息子をひとり亡くしている。夫に代わって守衛はよく子どもたちの面倒を見ていた。母の背に子がいないのは、もはやこの世にいないからだが、それはロダンの「青銅時代」が武器として槍を手にしていないことに対応している。核となるものの不在が観者の目にゆだねられ象徴主義を加速する。

道ならぬ恋に悩む封建と自由の狭間での、進歩的な女性のもつ前進と後退が、守衛の手を借りて、みごとに造形に象徴されて見え出してくる。彫刻家にとってそれはたくましい唯一無二のミューズだった。それはミューズであって、ファムファタールなどでは決してない。女神であるマリアであって誘惑者としてのヴィーナスではないということだ。もちろん女神も封建制度のなかでは誘惑者という役割を担わざるをえないということではある。

子を亡くした母親のむなしくおぶってあやす不在のしぐさを、守衛は目にしていたかもしれない。守衛はそれをデッサンでも残している。そこでは気がふれたように同じゼスチャーがくりかえされる。モデルがポーズをつけてじっと動かないままいる姿勢が目に浮かんでくる。わが子の死を不義の代償と読み取れば、さらに苦悩は深まってくる。


[i] 「没後110年 荻原守衛〈碌山〉—ロダンに学んだ若き天才彫刻家—」2020年10月9日~11月29日 井原市立田中美術館


next