序 アウトサイダーの美学

エリートの錯乱/怨念への封印/翻弄された運命

第509回 2023年2月20日

1 エリートの錯乱

 芸術の分野にもエリートコースを突っ走る者がいる。アカデミズムの引かれた路線で苦もなく才能を開かせる芸術家がいる。人生や世間に悲観的な目だけが芸術を生み出すわけではないのだ。にもかかわらず私たちはゴッホを愛するように、エリートコースを外れたアウトサイダーに拍手を送る。ボクシングはそうした芸術の縮図かもしれない。ボクシングにある種の郷愁を求めるロマンチストは、生まれながらの天才ボクサーに簡単にノックアウトされてしまうのである。ボクシングはハングリーなものにだけ開かれたスポーツではなかった。浪花節だけでは生きてはいけない。ことに勝負の世界はそうである。ロバはいくらがんばってもサラブレットにはかなわないのだ。

 しかし時折サラブレットが、道をはずれることがある。そのときはロバにだって簡単に負けてしまうが、ここでサラブレットははじめて、世の無情を感じ取り、屈辱を味わうことで、遅まきながらも人間らしさを取り戻す。芸術家はいつもある種の才能を持っている。しかし、それは必ずしも世間に受け入れられるとは限らない。

 ここで登場する岡倉天心は、野に下るまでは鼻持ちならないエリート官僚であったに違いない。アウトサイダーはエリートの錯乱から生まれる。才能はいつも埋れようとして、荒野をめざすといってもよい。美術学校の校長を辞し野に下ったときから、彼のアウトサイダーとしての自覚は固まった。権力にすがりつく人生が、いかに愚かでむなしいものかを一編の詩につづった。それが『茶の本』だった。茶の精神を伝える啓蒙書とも読めるが、ここには人生に対する恨みつらみが行間に隠し込まれている。そこからにじみ出てくる精神の屈折は、まるでいつの日か外人相手の啓蒙書ではなく、日本人が翻訳でこれを読むことを願ってであるかのように、英文で書かれた。

 アウトサイダーとは何だろう。それは深く傷ついた魂が、自分を見つめる心のあり方をいう。無一文になったとき、受け入れてくれるものがあれば、それは無償の愛以外にはない。世界がクリアに見えるのは、実はそうした何もかもをなくしたときである。

第510回 2023年2月21

2 怨念への封印

 レジスタンスは明治の初めにはじまったわけではない。アウトサイダーの視角は江戸の初めにも個性ある人格を生み出した。ともに大きく時代が変わろうとする日、ある意図された方向を持った時代の潮流に乗りこめなかった者が見せる戸惑いの表情、それがアウトサイダーのまなざしだった。

 画家の名は岩佐又兵衛。彼は中央から距離を置いて、雪深い越前にすんだ。江戸幕府がはじまったころである。関西人又兵衛が都を去ったのは、自から求めたからか他から追われたからかはわからない。とにかくそこに20年を暮らした。そして絵による復讐劇がスタートする。アウトサイダーは屈折した心のあり方を示すが、重要なのはその屈折を強いたものである。

 順調な歩みが突如破綻を来たして軌道を外れたとき、人は中心から隔たった場所にいて、権力から距離を置いて眺めるようになる。それがアウトサイダーのスタンスであり、この中央からの距離がアウトサイダーを際立たせる。岡倉天心にとってそれは茨城県五浦であったし、又兵衛にとっては越前福井であった。それらはともにセンターと全く無関係でいるには、余りに近すぎたという点で共通している。戦国時代の越前も天下を取るのをあきらめるほど、遠くはなかったし、又兵衛が訪れた時そこには中世朝倉氏の無念が息づいていた。

 又兵衛は中世の末期にあって、京から越前へという戦国大名の歩みを逆にたどる。そして絵巻という古いスタイルにこだわり、そこに中世を封じ込めようとする。絵巻物文化の終焉の時代、それは彼の運命を呪う怨念への封印でもあった。

 これまで私は意図したわけではなかったが、いつもアウトサイドに身を置いてきたように思う。大阪に生まれたが、その後、岡山、福井、佐賀、明石と居を移した。地方都市のやさしさに心ひかれていた。大阪は東京に対してはいつもアウトサイドであったが、生まれた者にとってはセンターだった。20歳の頃、都会の喧騒を嫌って大阪を去った。しかし、捨てたはずの故郷が呼び戻してもいた。長い間大阪を基点に私はものを考えてきた。そんなとき福井や佐賀はローカル列車の通過駅に過ぎなかった。

 本稿は私が30歳前後をすごした福井での思索の跡である。そこで出会った何人もの作家は単なる偶然に過ぎなかったが、不思議と共通するものがあった。それを柳宗悦が朝鮮の美術を「悲しみの白」と称したように言うつもりはない。しかし私はいつも作家の影の部分に惹かれてきたし、どんなにさわやかな「白」を見ても、そこに苦悩の象徴を追い求めてもいた。それが風土のもたらしたものなのか、作家の個性に由来する隠された真実なのか、あるいは恣意的にそのように見ようとする私自身の本性なのかはよくわからない。しかし、それらを支えていたものがともに「アウトサイダーの美学」であったことは確信をもって言える。福井を出てから研究を継続しているわけではないので、学説としては今では古いものになっているだろうが、芸術は学説をこえているものにちがいない。

 ここで取り上げるのは上記の又兵衛と天心を中心に、高田博厚、いわさきちひろ、斎藤義重である。一見すると脈絡を欠いたこの人選には、ある含みをもった意図的な戦略がある。彼らはともにアウトサイダーの視角を備えるが、ジャンルを異にしている。高田博厚の具象彫刻を好むものは、斎藤義重の現代美術は嫌うだろうし、いわさきちひろの絵本を愛する者にとって斎藤義重は無縁の人に映るだろう。伝統的な美術に根を置くものは絵本を美術とは認めないだろうし、現代美術についての嫌悪感も並々ならぬものがある。反対に現代美術に親しむ目には高田博厚の彫刻など全く問題外なのかもしれない。現代ではそれぞれは自己の殻に閉じこもって、内ゲバを繰り返し、自分たちの領域を守るだけで精一杯である。

 しかし、作品を作りそれが目の前にあり、見る者に呼びかけてくるという限りでは、鑑賞者の目は制作者の目よりももっと開かれている。私はむしろジャンルを超えて共鳴しあい、内面から搾り出されてくる魂の響きのほうに、耳を傾けたいと思っている。

第511回 2023年2月22

3 翻弄された運命

 高田博厚は引き裂かれた自己を見つめながら、身の置き所を求め続けたという意味では第二の天心だった。いわさきちひろは常に弱者の側に立って、愛を訴えかけ続けた戦士であった。斎藤義重は伝統的な美術の思考法を問い直すことで、絵画にレジスタンスを仕掛け続けた。いたずらな運命に翻弄された人生には「魔」が棲みついている。その魔に魅入られるようにして人は形を探り当てる。又兵衛には残酷なまでの幼児期の悲劇があった。天心はスキャンダルで失脚した。だれもが平坦な人生ではなかった。高田博厚には30年近い空白のときがあった。ちひろも若い日の結婚の失敗という重い過去を引きずっていた。斎藤義重も極貧の中で家族を捨てた。みんな暗い運命を背負って生きてきた。苦い過去は彼らをアウトサイドへと駆り立てた。

 そして彼らはともに己の罪滅ぼしのために重い十字架を背負ったように見える。それが行動となり、造形となって、私たちの胸の奥に響き渡ってくる。出生の秘密や暗い過去を売り物になど誰もしない。しかし、親の失敗は子の運命となって宿る。親の因果は子が報わなければならない。それらはすべて魂の救いと血のあがないを求めている。ときに人生の闇は芸術の光によって救われることになる。むろん世の中には芸術に無縁な人も少なくない。挫折を知らないものにとっては、芸術など無用の長物に違いない。

 しかし、人生とは悲しみのことだとするならば、生きることは辛いことだと暗黙に了解できるならば、挫折を知らないことほど悲劇はない。それは永遠に生き続けさせられる苦痛と同じだ。人間は永遠に生きたいと望みながら死んでゆく存在のことをいう。死が最大級の挫折だとすると、人類は誕生以来、死の恐怖から逃れるために、あらゆるものを生み出してきた。宗教と芸術はその大きな柱である。科学が必ずしも人を救うものではなく、宗教がしばしば人を滅ぼすものでもあると知った者にとって、芸術は光の王国にさえ映った。もちろんそれが一瞬の快楽を至福と取り違える危険を秘めていることも承知の上ではある。

 私がこれらの作家と出会ったのは、美術館学芸員として福井という町に暮らした偶然からであった。岡山であったなら、郷土ゆかりの又兵衛は雪舟に、童画への傾斜ではいわさきちひろは竹久夢二に、現代美術は斎藤義重から工藤哲巳に、長すぎた不在という点では高田博厚は高橋秀に代わっていたかもしれない。又兵衛は福井に20年居住した。天心の父は越前藩士だった。高田博厚は福井で成長した。いわさきちひろは福井県武生に生まれ2歳までいた。斎藤義重は福井の前衛美術運動の仲間を通じて福井と多くの関わりをもった。この五人に共通するものは何かという問いに対して「福井」というキーワードを見つけるのは、かなりの難問である。正直なところ、実は何の関係もないのである。「ゆかり」という少女の名前のような響きの中にしか共通点は見出せない。

 しかし、彼らが偶然とはいえ、土地と人との関わりのなかで「ゆかり」をいとおしく思う気持ちは共通していたはずだ。そしてそれはまた私自身の愛着でもあった。美術館の役割が、郷土に生まれ、郷土に育ち、郷土に根を下ろし、そこで制作を続けた作家の発掘と育成にのみ向かうなら、彼らはすべて「ゆかり」の名のもとに郷土を見限った人たちでもある。「郷土ゆかり」という芸名を探し回っているうちは、声高に地元に埋れた作家の発掘と育成を叫ぶのも必要だろう。しかし、純潔主義の名のもと「ゆかり」を欠いた郷土には、アウトサイダーの視角も生まれることはないし、お山の大将として地方の美術界が君臨するだけのことだ。つまるところ風土を強調する必要も、売り物にする必要もない。そんなものは自然と後からついてくるものであるに違いないのだから。


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