ラファエル前派の軌跡展
2019年10月05日~12月15日
あべのハルカス美術館
2019/10/26
ラスキンの素描をまとまって見ることができたのは収穫だった。ランカスター大学図書館にすべてが収蔵されているようだが、絵心のある美術評論家の目の付けどころを興味深く見た。出発点は風景画だが、やがてゴシック建築へと興味を移す。ことに細部を面白がって描き起こしている。風景においても同様で、近視眼的に自然の造形の神秘に目が向いている。ターナーの水彩画を数点見てからだったので、 プロとの差をはじめは感じたのだが、見進めるなかで、ターナーとは異なる分析的な学者の目を確認できた。ターナーもディテールの描写にはこだわるが、世界を全体でパノラマ的にとらえている。それは詩人の目と言ってよいものだ。自然を宇宙にまで引き伸ばす雄大な世界観が、水彩画の小品にも息づいている。
それに対して、ラスキンはアルプスの峰や教会の一角に潜む石造りの形の秘密を、望遠鏡と顕微鏡を備えたような視覚で切り取っている。その観察眼は自然を前にした感動のありかを伝えるものだ。ラスキンが旅した道筋をたどって、その感動を追体験してみたい気がしてきた。アルプスの峰の形も教会の細部も見つけ出すのは大変だが、パズルゲームのように楽しいはずだ。同じ視点で描き続けた雲の形は探すことはできないが、山岳や石の彫像は数百年くらいでは変化することはない。雲の素描だって、観察眼を下敷きにしている限りは、時は隔たったとしても、同じ季節の同じ気象条件ならば、同じ場所では、同じ形を目にすることは可能だろう。
風景への視覚にはじまったイギリスの近代絵画史が、次に来るラファエル前派の甘美な文学性につながった理由が、私には理解しがたく謎めいている。ラスキンが介在しているのは確かなようだが、論理的には結びつきにくい。絵画から文学性をなくすというのが、フランス絵画史の合言葉だったが、その視点で見るとラファエル前派の評価は極めて低い。同時代のフランス絵画を高く評価する者にとっては、ラファエル前派は問題外となる。それは単にフランス対イギリスの覇権争いだけではないような気がする。
この図式はルネサンスにおけるラファエロとボッティチェリの立ち位置の差に似ている。後者はながらく評価されなかった。それは装飾的で甘美でルネサンスの王道には反していたからである。重厚なクラシックの目にはそれはあまりにも繊細でセンチメンタルで、ポピュラーすぎたのだ。印象派からセザンヌに至る正統派にとっては、ルネサンスの王道を行くジョットからはじまりマサッチオ、レオナルドを経てプッサンに至る系譜を前提として、美のヒエラルキーは組み立てられてきた。
しかしボッティチェリがルネサンスと言えないかといえばそうではなく、遠近法と解剖学に支えられたものではなかったとしても、彼の描く神話世界がなければルネサンスは味気ないものになっていたはずだ。ルネサンスを古典復興という文脈で読み取れば、ボッティチェリのほうが、よほどルネサンス的だということになる。シェイクスピアの国において、絵画は文学に支えられて展開してきた。ロセッティからバーンジョーンズに至る、憂鬱げな女性像の典型は、ボッティチェリの再発見に起因するものだっただろう。ロンドンには確かに魅力的なボッティチェリがある。それは日本からの留学生であった矢代幸雄を魅了したものでもあったし、すでに夏目漱石から続く文学的系譜の内に位置づけられていた。