第3節 マニエリズムからナチュラリズムへ

第591回 2023年5月17

1.ホルツィウス様式

 へンドリック・ホルツィウスは、はじめ版画の彫版師としてスタートし、ヘームスケルク、スプランガー、デューラー、ファン・レイデンなど様々な様式を自家薬籠中のものとして版画に写し、やがてその彫版技法を通して身につけた巨匠たちの様式をもって自らも素描を試み、それを自分の手であるいは弟子たちの手を借りて版画化し、ヨーロッパ中に普及させていった。ことにホルツィウスの彫版技法の絶頂期となった1590年前後の頃、彼が下絵として用いたスプランガーは、それが後期マニエリスムの国際様式になり得たのも、ホルツィウスの版画出版によるところが大きい。その意味では1580年から1629年に至る時代をホルツィウス様式[i]と言いかえることもできる。そしてそれはひとつの時代の変わり目をも意味する。つまり、マニエリスムの反古典的様式が、自然観察を土台にした17世紀オランダの風景画・静物画・風俗画などの成立へとつながる地点である。ホルツィウスもまたその歩みの中でこの時代の推移を体現している。私達はここでホルツィウスのグラフィックの中に見られる新旧両面の様相を分析し、その思想的背景となったマニエリスムの美術理論との対応について考察したい。


[i] Der "Goltziusstil'" und die Kunst zwischen ca.1580 und 1615. Graphische Sammlung Albertina, Die Kunst der Graphik IV, Zwischen Renaissance und Barock, Wien, 1967-8, SS.196-203.

第592回 2023年5月18

2.彫版技法

 ホルツィウスは、その生涯の比較的早い時期に独創的な彫版技法を生み出している。それは人物の筋肉や衣裳の盛りあがりを無数の平行な曲線を交差させることによって浮かびあがらせる、いわゆるクロスハッチングである。これはコルネリス・コルトなどホルツィウス以前にも見られなくはないが、彼ほどに効果的かつ大胆に用いた者はいない。この技法が現われたのは1595年頃であり、それは彼がバルトロメウス・スプランガーの素描にもとづいて彫版をはじめた時期に一致している。そしてごく短期間のうちにこの技法はスプランガー様式とともに、全ヨーロッパに広がっていった。

 この技法が、いくぶん官能性をおびた優雅なスプランガーの体躯にふさわしいものであったことはいうまでもない。流れるようなS字型を示す細長いスプランガーの人物像は、彫版された平行曲線が形造る無数のS字によって支えられており、極めて流動感のある構図を生み出している。この技法はやがて人物の肉体表現のみならず、《クピドとプシケの結婚》(S255)[i]や、《イクシオン》(S260)《アポロ》(S263)など、雲や煙の表現にも効果的に用いられた。そこでは雲はまるでつながった腸づめのように、人間の肉塊を思わせるような存在感を持っており、ことに《クピドとプシケの結婚》に見られる画面全体をおおいつくすうごめきは、ジャック・カロの《聖アントニウスの誘惑》を予告するものと言える。

 そして、スプランガー様式とともにはじまった彫版技法が、やがてスプランガーを脱け出て、全く新たな展開を示すことになる。それはホルツィウス自身の意識的な反古典様式からの脱却というよりもむしろ、この彫版技法をより効果的に用いようとする時に導かれてきた当然の帰結と見る方が適切である。それは、一般に「隆起様式」Knollenstilと呼ばれているもので、そこでは極端な筋肉質の男性像が現われる。彼の身体に盛りあがるこぶのような筋肉のそれぞれは、ホルツィウスの開発した彫版技法によるものであるが、その全体としての印象は、技法のさえによる部分部分での美観にもかかわらず、グロテスクにまで至っている。

 このスタイルは、1586年の《ローマ時代の英雄》(S230―9)を描いた10枚のシリーズにはじまり、1589年の《大ヘラクレス》(S283)で最高点に達した。このような誇張された筋肉表現は、確かにレスニチェク[ii]のいうようにホルツィウスの住んだハーレムにあっては、先輩としてマルチン・ファン・ヘームスケルクが示した諸作品の中に見い出すことができ、それらはホルツィウスを直接刺激しうるものであろう。しかし、それだけではなくて、版画という表現方法そのものが持つ固有性の追求ということが、問題となってしかるべきだと思われる。

 交差する刻線が重なりあって生み出すふくれうごめく空間の動揺は、銅版画に遠近法表現の極致を与え、たとえば《イカロス》(S258)では、この技法が極端な短縮法と結びつけられている。そして、ホルツィウスの線の処理が同時代の人々に驚きをもって迎えられたことは事実である。ホルツィウスの弟子たちがさらにこの原理を押し進め、影響力を広めていったことはいうまでもない。こうしたクロスハッチングは、影の部分に置かれ光のグラデーションを生み出すものであるが、ホルツィウスの場合、刻線のきめが荒いものはまるで網タイツを身にまとったような人物像となっている。ここで素描様式と版画様式の差異が問題となってくるが、興味深いことに、ホルツィウスは一時期、版画を素描に写すということ、さらにはこの平行波動刻線を意識的に素描によって試みるということを行っている。

 たとえば《ローマ時代の英雄》のうちの一点《マルクス・クルティウス》(R142)は、現在コペンハーゲンにその素描が残されているが、それは下絵ではなく版画化されたのちに作者自身の手で素描されたものである。また1587年に日付けられる《メルクリウスの頭部》(R119)や1588年の《ホルツィウスの手》(R165)、1590年の《ギリス・ファン・ブルーン像》(R265)などは、彫版様式を模倣したペン素描であるが、これらも版画の下絵として考えられたものではなくて、素描家としてのホルツィウスの巧妙な手わざを主張したものである。そこでは、まるで版画に見まごうトロンプ・ルイユが展開されており、こうした逆説的精神は、マニエリムスがその原理として持っている自然の人工化に通じるものでありながら、一方で見えるがままに自然をとらえようとする観察精神と表裏一体となっているものでもある。

 この段階で、ホルツィウスは彫版から素描へと興味を移しはじめることになる。1580年代の後半には、ホルツィウスの工房にはすでに十分な彫版技術を身につけた弟子たちが育っており、やがてホルツィウス自身が彫版をするケースは少なくなってゆく。1590年から一年間のイタリア旅行は、版画のための下絵さがしの旅であったようで、ことにローマにある古代の彫刻や壁画をつぶさに素描に写し、ハーレムに持ち帰っている。その中には帰国後、彼が弟子たちの研究用にそれを自らの手で彫版してみせたものも見られる。


[i] W.L.Strauss, Handrik Goltzius 1558-1617, The Complete Engravings and Woodcuts, 2 vols, New York, 1977, No.255. 以下略号S.を用いる。

[ii] E.K.J.Reznicek, Die Zeichnungen von Hendrick Goltzius, 2 vols, Utrecht, 1961 ,S.72. (略号R.は同書の作品番号)

第593回 2023年5月21

3.自然観察に向かう目

 ホルツィウスの弟子については、1584年頃に少なくとも二人の弟子がいたことがわかっている。またファン・マンデルは『画家の書』[i]の中で、彼が3590年イタリアに行く時、多くの弟子と刷り師を家に残したと言っており、5、6年の間でのホルツィウス工房の規模の拡大が推測される。弟子のうち、ホルツィウスの下絵を版画化し、ホルツィウス工房にとって大きな働きをするのはヤコブ・マータムとジャック・ド・ヘインである。

 マータムは、ホルツィウスの義理の子にあたるが、子どもの頃からエングレーヴァーとして育てられた。彼はホルツィウスの下絵にもとづいて木版画の彫版も試みているが、1593年にはホルツィウスのもとを去り、イタリアに向かった。ド・ヘインもマータムと並ぶ優秀な弟子であり、その後オランダ風俗画の成立に先駆的な役割を果すが、彼も1591年にハーレムを去った。二人にかわって1589年からホルツィウス工房に入っていたヤン・サーンレダムがまもなく巧みな彫版師として評価されることになる。

 彼らはホルツィウスの開発した彫版技法に従って、師匠の素描だけでなく、ファン・マンデル、コルネリス・ファン・ハーレム、アブラハム・ブルーメルトらの作品を版画化していった。ド・ヘインがハーレムに戻らなかったのに対し、マータムはハーレムに戻り、1600年以降版画制作に興味を示さなくなったホルツィウスの未完成のプレートを完成させている。彼は優秀な彫版家にはちがいなかったが、ホルツィウスの忠実な弟子という域を越えてはいない。サーンレダムも様々な下絵をうまくこなしてはいるが、ホルツィウスの彫版に見られるダイナミックな刻線は認めがたい。

 弟子たちが後期マニエリストの様式を弱々しくエスタンプに写している間に、ホルツィウスはそれを抜け出て、自然観察と古典主義にもとづく新しい方向を模索していたことは事実である。それは1591年のイタリアからの帰国後に顕著に現われる。イタリアでの古代彫刻との出会いとその写生による素描化は、観察の第一歩であったし、帰国後デューラー及びルカス・ファン・レイデン様式でオリジナル版画を生み出すが、それは素描から彫版技法に至るまて、この両者を模倣したものであった。このことは、そこに自然に匹敵する天才の創造を見い出し、それを写生してみせるという精神の現われと思われる。一方で純粋な自然、つまり風景に対する興味が深まってくる。風景をテーマにして様々な素描が描かれ、そのいくつかはキアロスクロ木版画にされている。

 ホルツィウスにとって自然観察に向かう眼は、すでにファン・マンデルとの出会いの中に培われていたものである。1583年ファン・マンデルはハーレムに住みついてすぐに、ホルツィウス、コルネリス・ファン・ハーレムとともにアカデミーを設立したと言われる。それは1618年に出版されたファン・マンデル『画家の書』第二版に付け加えられた著者不詳のファン・マンデル伝が伝えるものであるが、そこには「写生によってスタディするためのアカデミー」[ii]という表現が見られる。

 しかし、このアカデミーがローマのサン・ルカ(1593)やパリのアカデミー・ロワイアル(1648)のような組織だった学校とは考えられない。芸術家たちがある場所に集まって古代彫刻の石膏像などを写生するといったものだったようである。そして1590年より少し前には生きたモデルを用いて素描するに至っている。しかし、こうした時期ホルツィウスはスプランガーの反古典様式に従って制作を続けていた頃であり、ある意味では「自然」から最も遠いところにいた。それでいて他方で自然を写すという試みを開始していることは興味深い。

 確かにファン・マンデルは、ホルツィウスの生涯を語る中で「彼は7、8歳の頃、ほとんど家の壁じゅうを素描で一杯にした。彼は何かほかのものをコピーするよりも、自分自身のイデアを素描することを好んだ」[iii]として、コピーよりもイデアを強調しているが、それはホルツィウスの少年時代、いまだマニエリスムの絵画理念が色濃く残っていたことを予測させる。しかし、その後版画の彫版という仕事を通じて、あるがままの忠実かつ効果的な再現という態度に徐々に移りかわっていったように思われる。それはことに肖像と風景の分野で顕著になっていった。


[i] Carel van Mander, Het Schi lderboeck, 1604. ここでは tr. by Constant van Wall, Dutch and Flemish Painters, Naw York, 1936, p.359.

[ii] Ibid., p. LV11.F.F.Hofrichter, The Academy and the Art, in 'Haarlem : The Seventeenth Century' Exp. cat., Rutgers University, 1983,p.36f, N.Pevsner , Academies of Art, past and present, Cambridge, 1940. にはハーレムアカデミーについての言及はない。

[iii] C.van Mander , op. cit., p. 357.

第594回 2023年5月22

4.マニエリスムの絵画理論

 ホルツィウスが自然観察を基本とした制作態度を持ったことを示す画論の類いは残されていないが、彼が絵画理論というものに興味を持っていたことは確かなようである。ファン・マンデルは「ホルツィウスが絵画について語るのを、芸術家たちは聞きたがった。それは彼らにとって糧となったからだ。彼の言葉は魅惑的であり『もえたつような肌の色』とか『深淵な影』という話をした。彼は他にも珍しいめったに開かれないような語彙を用いて話した」[i]と語っており、彼が確固たる理念を持って制作にあたっていたことがうかがわれる。それはおそらくファン・マンデルらとのハーレム・アカデミーでの作業を通じて培われてきたものであっただろうし、彼の最初の師であるコルンヘルトから受けつがれた、単なるエングレーヴァーを越えた教養ある理論家としての資質でもあったように思われる。

 ホルツィウスの芸術理念を知る手がかりは、ファン・マンデルの著作の中に見い出される。それは「高貴で自由な絵画芸術の規範」と題されたもので、1604年に出された『画家の書』の中に含まれている。これは画家の伝記に入る前に絵画を学ぶ初心者のために、その諸原理について書かれた基準書であり、一般に「ファン・マンデルの教訓詩」として知られているものである。

 この中で彼は、まず素描について語り、素描が絵画の父であること、素描が肉体で絵画が精神にあたること、素描が楽器の音色で絵画が人の声になぞらえられることなどをあげている。そして「写生による」(naet’leven)素描の必要性をくり返して強調する。こうした素描の重要視は、イタリアの絵画理論から学ばれたもので、ことにヴァザーリに由来するものである。ヴァザーリ[ii]によればディセーニョ(素描)は、コンチェット(構想)の目に見える表現であり、精神の「内的な目」として尊重され、建築・彫刻・絵画もこのデイセーニョの現実化にすぎないとされる。

 このヴァザーリの考え方は、その後ローマの後期マニエリストの一人フェデリコ・ツッカロにも現われるが、ホルツィウスが1591年ローマ滞在中ツッカロと交友関係にあったことは興味深い。ツッカロは1607年に『線画・彫刻・建築のイデア』を書いているが、そこではイデアという語のかわりに「内なる素描」disegno internoという語を好んで用いている[iii]。あらゆるものが「内なる素描」に由来し、素描がすべての知的な探究の基礎であるとされる。さらに「素描」disegnoという語ですら、もっともらしく「神の印」Segno di Dioとの語呂合せとして説明される。

 しかし、イタリアのマニエリストにとっては、写生による素描よりも、むしろイデアを生み出す美術家のイマジネーションが重要視される。それはルネサンスが「自然」をあらゆる美の源泉と考えたのに対し、彼らは美は神の心から直接人間の心に吹き込まれたものと考えたことによる。ツッカロはローマのアカデミーでのレクチャーで、絵画が自然をコピーするという考えを排斥している。そのため彼らは自然の研究よりも、他の巨匠たる画家の作品から多くのことを学んだ。

 ツッカロは、真の芸術家はイマジネーションを通して新しい自然の世界を生み出さなければならないと考え、創造的模倣によって目ききでさえもだませるほどに、他の巨匠の精神で新しい表現を生むのが真の芸術家の姿だと考えた。ホルツィウスが、まるでスプランガー、デューラー、ルカスの新作を生んだかのようにそれぞれの様式を縦横無尽に模倣できた姿は、このツッカロの定義に対応しているように思われる。


[i] Ibid.p.368.

[ii] E.Panofsky. Idea, Berlin, 1960. 中森ほか訳八五頁。ヴァザーリ研究会編「ヴァザーリの芸術論」平凡社(1980)参照。

[iii] A.Blunt, Artistic Theory in Italy 1450-1600, Oxford, 1962, p. 141f.

第595回 2023年5月23

5.写生と模倣

 ここで「写生」と「模倣」の厳密な区別もまた生まれてくる。写生が現実を見えるがままに完全にコピーすることをいうのに対して、模倣は現実をこう見えてほしいという形で再現する、いわば不完全な現実の理想化を意味する。この考えはヴィンチェンツォ・ダンティによるritrarreとimitareの区別だが、ファン・マンデルもこれに従って「写生による」naet’levenと「イマジネーションによる」uyt den gheestに区別している。イタリアではイマジネーションが優位をしめていたことはいうまでもない。自然から取られた要素を選び、組み合わせることによってそれは実現される。自然は研究されねばならないとしても鏡写しの盲目的なコピーであってはならず、自己のイデアを伝えることが芸術家の目標となる。これがヴァザーリ、ロマッツオ、アルメニーニ、ツッカロなどイタリアのマニエリスト理論家たちに共通の考えであった。

 ファン・マンデルをはじめ、1600年頃のオランダの芸術家たちは、こうした考えを受け入れたようである。ファン・マンデルは写生による肖像画を芸術の「わき道[i]」だと語り、たいていの芸術家は甘いもうけに迷わされて、この道に入ってゆくという。この場合、芸術の本質はいうまでもなく、クリエイティヴな構図によって組み立てられた人物画のことである。しかし一方でファン・マンデルが1604年の時点で、写生による素描を強調し、画家をめざすものの教訓として語ったことも事実である。

 彼はジャック・ド・ヘインの生涯の項で、「芸術のあらゆる原理を理解するためには、イマジネーションからと同様、写生によって多くの作品をつくる必要がある[ii]」ことを強調した。それはネーデルラントに固有なリアリズムとナチュラリズムの伝統に由来するもので、ファン・アイクが「見えるがままに」描いた肖像画から、写生によって描かれたエラスムス像、あるいは長らくブリューゲルに帰されてきた「写生による」naer het leven[iii]という書きこみを持つ日常生活の素描群に至るまで派々と続いているものである。そしてこの「写生による」nae t’leven というフレーズは、その他オランダで出された版画や芸術論においてもしばしば現われるものである。

 ファン・マンデルは、この語を「目に見えるあらゆるものにもとづく」という意味で用いている。それは山や大地や木々のような風景から、人物、ヌードモデルあるいは石膏模型、さらには他人の素描、版画など他の芸術対象をも含んでいる。ホルツィウスが版画様式をまねてペン素描を描くという精神も、ここに由来するものであろう。ファン・マンデルはさらに「写生による」素描がたやすくできる者は、「イマジネーションによる」ものもできるという。

 確かにファン・マンデルは写生及びイマジネーションによる素描を両方とも強調しているのではあるが、彼がホルツィウスに与えた評価は適切とは言い難い。それはホルツィウスの自然観察という面を見逃している点にある。このことはことに風景という面に顕著に現われてくるが、こうした目に見えるものの把握へと向かう自然観察の目は、単に美術だけでなく、ケプラーやコペルニクスの天文学、ヴェサリウスの解剖学はじめ様々な分野での同時代的現象であった。


[i] C.van Mander , op. cit., p.352. E.K.J.Reznicek, Realism as a Side Road or Byway' in Dutch Art, International Congress of the History of Art: Studies in Western Art. 2, 1963, p.251.

[ii] C.van Mander, op, cit., p.401.

[iii] L.Munz, Bruegel Drawings, a complete edition, London, 1961, p.21f. J.A.Spicer, The "Naer het leven" drawings : by Pieter Bruegel or Roelandt Savery?, Master Drawings, 1970 n.1, p.16f.

第596回 2023年5月24

6.オランダ風景の誕生

 ホルツィウスが独立した風景素描を描きはじめるのは1594年以降である。それはイタリア帰国後のことで、そこにはジュリオ・カンパニョーラはじめティツィアーノ派の木版画の影響が見受けられる。《アルカディア風景》(S407)は、そうした風景素描の一点にもとづいて彫版されたキアロスクロ木版画であるが、その牧歌的な山岳風景には彼がアルプス越えをした時の新鮮な印象が感じられる。しかし、その風景は前景の画面のはしに木の茂みを配し、斜めに道が走って背景のパノラマ的な展望へと通じるという定型に従っている点で、写生による風景というよりも、理想化されたファンタスティックな風景と言った方がよい。この当時のホルツィウスの素描には、ブリューゲルの素描とそれをもとに制作された版画を研究したあとが見られる。

 南ネーデルラントには良く続いた風景画の伝統があったが、北ネーデルラントで風景に対する独立したアプローチがはじまるのは、ホルツィウスのイタリア帰国後といえる。しかし、ホルツィウスは1600年以降これをさらに押し進めてゆく。1590年代からはティツィアーノ、ブリューゲルの方向とは別の第三の風景表現の方向をオランダにもたらしたグループがあった。それはギリス・ファン・コニンクスロー、ダヴィド・ヴィンクボーンスなどフランドルからの移住者であったが、彼らに比べてホルツィウスはさらに革新的な方向を暗示していた[i]

 1600年以降ホルツィウスは、版画を捨てて絵画へ急速に傾斜してゆくが、絵画には革新的な姿は見い出せない。しかし、風景素描はそれ以前に比べて数の上からは極めて少ないが、そこに歴史的に重要な意味を持つものが含まれている。1600年以前が北イタリアの風景を思い起こさせる壮大な山岳風景であったのに対し、これ以後はオランダの具体的なモチーフを持った風景に変わっている。それは現実にはありえないアルカデイア風景でも、はるかかなたにあるイタリア風景でもなく、ごく目の前にあるオランダ風景であった。1603年に素描された《ハーレム近郊の砂丘風景》(R404)は、ハーレム独特のフラットな水平線を持つもので、オランダの平坦な土地の魅力がはじめてここで讃美された婆が認められる。それは16世紀のイマジナリーなマニエリスム風景画の反動とも受けとめられるが、アルプスの山々にイマジネーションを刺激されてきた16世紀の画家には気づくことのできない新しい美の発見と見ることができる。

 こうした動向は1590年代からオランダの詩人たちにも見い出せる。16世紀までのヨーロッパの風景詩のライトモチーフは、ホラティウスやヴェルギリウスの古典的なヴィジョンであったが、その世紀の中頃から自国の魅力が歌われはじめ、それが古典的風景と同様に讃美に値するものとなっていた[ii]。そして、画家でありしかも詩人でもあったファン・マンデルも、教訓詩の中でこうした写生による身近な風景表現を、若い芸術家たちにアドバイスしている。朝早く起きてスケッチブックを持って、町を離れ戸外で写生をすること、そして同時に鳥の声を聞き、草上にしずくが反射する色を見つめること、さらに水平線近くではいかにグレーが支配的な色であるかを観察することなどを、彼はすすめる。

 しかし、ファン・マンデルは身近な風景を描くことを重視しているにもかかわらず、彼のホルツィウス伝の中には、こうした新しい方向性を示す風景素描についての言及はない。1600年以降のことについては、彼はしきりに絵画のことを書きつらねている。こうしたファン・マンデルの二面性は、過渡期に身を置いた者が見せる特徴であろうが、同様にホルツィウスにも見い出せる性格である。イマジネーションによって描くということと目に見えるがままに写生するという二つの性格が、晩年一方で絵画へと進み、他方で自然観察にもとづく素描を残したと見ることができる。しかし、両者が融合することなく終わったということは、時代の限界であったかもしれない。平坦なオランダ風景がロイスダールをはじめ絵画において一般化するのは、まだ半世紀ものちのことである。

 その点、エッチング技法がバロックの訪れとともにやってくるのは象徴的だ。ホルツィウスが自身の基盤としたエングレーヴィングという彫版技法は、あくまでも人体描写をめざすルネサンスの産物であった。線をいくら連ねたところでレンブラントの深深とした闇にまでは到達することができないという点では、エングレーヴィングそのものの限界でもあった。それはあくまでも切れのいい線刻の表現であって、ささくれが柔らかなニュアンスを生み出すバロックのエッチング技法にはたどりつけてはいないのである。グラフィックにおける風景描写はエッチングの技法を待って完成されるようだ。レンブラントに至って風景はやっと呼吸する空気のふるえる空間を獲得できたのではなかったか。


[i] E.K. J .Reznicek, Die Zeichnungen, S. 178.  W.Stechow, Dutch Landscape Painting of the Seventeenth Century, London, 1966, p.17f.

[ii] D.Freedberg, Dutch Landscape Prints of the Seventeenth Century, London, 1980, p.11ff.