生誕100年 ユージン・スミス写真展

東京都写真美術館


2017/12/2


 ライフ誌を飾るヒューマニティあふれる作品で知られる写真家である。ドキュメンタリー的性格はアートとは見ない方が健全だが、作品に一貫して流れるポリシーは、世界に真理と普遍性を与えるものだ。報道カメラマンからはじめるが、現地に取材する生々しい戦争を直視する姿勢を見直し、一歩下がって視点を変えるところから、アートとしての展開はあったようだ。


 起点は銃弾に倒れた病床にあった。カメラを握れない苛立ちが、報道では伝えきれない名作を生み出した。それは世界の情勢とは無縁の少年が、よちよち歩きの妹の手を引いて歩む後ろ姿(1)だった。身近な家族に向けるまなざしは、銃弾が飛び交う戦地(2)と同じほどに平和を希求している。タイトルは「楽園へのあゆみ」とある。


 復帰後の活動の中では、とりわけひとりの医師に密着して撮影を続けたカントリードクター(3・4・5)や黒人の助産士(6・7)の活動を写し出したシリーズが感動を呼ぶ。家族の命を救われて目がしらを押さえる老人の感謝の姿は、写真でしか表現できない真実だ。真理と普遍性をめざして大上段に構えるのではない。そこで求められるのは真理ではなく真実だと、写真家は訴える。自らがヒーローになるのではない。第一線に立つ人物に寄り添った同行取材という姿が、写真の真実を際立たせる。


 シュバイツァー(8・9)もこの写真家のカメラを通して登場する。地道な活動を続ける日常の一コマごとの積み重ねが評価されるのであって、それが危険な綱渡りを演じるスタントプレイを越えるのだ。写真は決定的瞬間にのみ映し出されるものではないということがよくわかる。戦場で命を落とすカメラマンの悲劇は、あとを絶たないが、決して犠牲的精神が正義を演出するわけではない。一歩下がって寄り添う中から、滲み出てくる空気を写し取ろうとする。


 水俣のシリーズ(10・11)はそんな精神に貫かれているように思う。社会悪の犠牲となった患者と同じ目線に立って寄り添うこと。向き合って患者を見つめるのではなくて、寄り添って患者の目に映る世界を写し出すことだ。カメラの位置はいつも低い。それは負傷したカメラマンが横たわるベッドで見つけたアングルであったはずで、その時の子ども目線が、その後を方向づけた。そのときカメラマンの目には楽園が見えたはずだ。ローアングルは弱者のまなざしなのだと思う。成育は知らず知らずのうちに視線を高くしていってしまうのだ。


by Masaaki Kambara