インポッシブル・アーキテクチャー —建築家たちの夢

2020年01月07日~03月15日

国立国際美術館


2020/1/15

 広島で見た時とは異なった印象だった。ことに天井の高い壁面に大型プロジェクターで映し出された映像は、インポッシブル・アーキテクチャーを夢想するに十分なイメージ操作だったと思う。入り口にあったタトリンの高さ400メートルのタワーがそびえる街並みの、古ぼけた感のある実写は、幻の第三インターナショナル記念塔を1998年にCGにおこした長倉威彦の映像作品である。展示の最後にあるザハ・ハディド設計の幻の国立競技場の映像や、グッゲンハイム美術館のヘルシンキでの幻影は、実現されなかったがゆえの美の結晶の実在感を備えている。

 数多くの建築家が登場するが、興味深いセレクションだと思う。模型がいかにアートとなるか。あるいは図面がいかに絵となるかという点に、興味は集中する。図面と模型が代用品として事務的に並ぶ旧来の建築展から脱皮しようとする意志が読み取れる。建築として実現しないことは、絵画や彫刻として自立できる条件でもある。あらゆる建築は、彫刻をあこがれるが、建築は彫刻となることによって、用途をなくして、純粋な美のモニュメントとなってゆく。

 中でもビルバオと並ぶグッゲンハイム構想に、すさまじい都市文明の未来が、崩壊感覚をともなって映し出されているのに驚いた。その映像表現の恐怖は、この建築物の形のもつ輪郭に由来している。それはどことなく地上に落下した原子爆弾のキノコ雲に似ている。同じくタトリンの塔は、斜めに向けて撃ち出される高射砲か、ミサイルが飛び去ったあとの発射台に似ている。それは垂直に打ち上げられる宇宙開発とははっきりと異なったものだ。

 ザハ・ハディドの競技場も「水没を待つ亀」のようだと磯崎新が憎々しげに語ったように、ともに不吉な形に対する本能的な回避が、実現を不可能にしたのかもしれない。こうした負のイメージが暗黙のうちに了解されていたとするならば、インポッシブル・アーキテクチャーは、建築家がすでにアーティストと共有する都市文明に対する警告として、内在していたものだろう。数年前に大林組が自虐的に企画した会田誠の建築展は、ビルの解体現場と廃墟が抱き合わされて、記憶に新しい。


by Masaaki KAMBARA