MINIATURE LIFE展 田中達也 見立ての世界
大丸ミュージアム梅田
2017/9/29
ベルリンのユダヤ人墓地を見ながら、パソコンのキーボードを思い浮かべたことがある。同じ形をした白い直方体が規則正しく並んでいる。かなり昔のことなので、記憶から消えていたが、この展覧会を見て思い出した。ここではそのイメージ変換が見事な作品になっている。ひとつのキーが、ボードから引き抜かれ死者の棺に見立てられている。+キーが選ばれていることもここでは意味づけがなされている。棺を前に祈りを捧げる人々がいる。
一方で、赤のビニールテープが引き伸ばされその上に結婚式を祝うグループが歩いている。テープがレッドカーペットに見立てられている。ともに人物は1センチに満たない。精巧に作られたミニチュアのフィギュアなのだが、ここでの見どころはフィギュアにはない。それを日常生活で見かける何でもない日曜品と組み合わせているという点にある。台所のスポンジの裏のグリーン地が、テニスコートに見立てられる。何ミリかのテニスプレーヤーをそこに置くだけで、この世界は完結する。一方スポンジのおもて側は、サーフィンをする波に変貌する。
原点は巨人の国のピノキオやお椀の舟に乗った一寸法師を思い起こせば、取り立てて新しいものではない。しかし会場にあふれる観客の多くはスマホを手に、アマチュアカメラマンを演じており、みんながにこやかで楽しげである。こんな微笑ましい展覧会を私たちは求めていたのだと気づく。会場が和気あいあいと盛り上がる。老若男女の区別はなく、キムジョンウンやトランプ大統領までも口元をゆるめるに違いない。
美術史に位置づけると手法はシュルレアリスム、画風はポップアートということになる。異質なものを出会わせて、あっと驚かせる点で、解剖台の上でミシンとコウモリ傘の出会いに匹敵する。サイズの逆転は「さかさまの世界」というボスやブリューゲルの時代から、引き継がれるもので、正統派のパロディと言って良い。日常のありふれたものを題材にするのは、ポップアートの感性で、スーパーマーケットをこよなく愛したアンディ・ウォーホルの視覚を踏襲している。フィギュアもまた村上隆をはじめネオポップの作家が好んだ嗜好で、その場合手のひらサイズのおもちゃのフィギュアを、彫刻サイズの拡大を図ることで、アートへの変換を果たした。しかしここでは逆にミニチュアサイズに変換することで、パロディアートとしての自覚を得ている。
イマジネーションは最大限の広がりを見せるが、その思想はマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)との一致を語るレオナルド・ダ・ヴィンチの方法論とも共有する。大地から生える樹木は頭髪にあたり、大地を流れる川は血液に、自然の風は人の息に対応する。つまり人は自然そのものだというわけだ。そして人が作り出した様々な道具や製作品は、人と自然の姿を反映している。水道の蛇口は勢いよく流れ落ちる滝に見えるだろうし、歯ブラシの毛先も浴室のシャワーに変貌する。フィギュアはイメージを誘導する小道具に過ぎないが、その変換の要の位置にさりげなく置かれることで、あっと驚く世界が誕生する。写真撮影OKの表示は、参加型のアートを歓迎する今日の動向と同調して、広報戦略としても成功したように思う。写真作品だけでなく、大小の模型を置くことで、展覧会としてのポリシーもしっかり保てることとなった。