海を渡った版画家たち ~平塚運一と神原浩~

2022年01月15日~03月27日

神戸ゆかりの美術館


2022/03/04

 以前千葉市美術館で平塚運一(1895-1997)の大掛かりな展覧会を訪れた記憶があり、もう一度見てみたいと思っていた。神原浩についてははじめてまとまって見る機会なので楽しみにしていた。二人展にする限り、何らかの接点を提供する必要がある。版画という表現手段と豊かな海外体験に共通点を見ているが、両者の関係にはたいしてこだわる必要はないだろう。企画者が平塚の魅力を紹介したいと思うだけで十分だ。平塚のほうが知名度が高いからだろう、会場の四分の三を占めてゆったりと展示されていた。

 神戸ゆかりという点では主役は神原のほうにある。平塚の木版に対して、神原はエッチングであり、同じ版画技法ではあるが、大きな隔たりがある。日本では木版画が浮世絵に支えられてインターナショナルな知名度を高めている。ことに平塚はアメリカに33年間滞在しており、国際作家としての地歩を築いている。しかもアメリカに渡ったのが67歳だというのだから驚きだ。それからの33年間がアメリカ生活であり、最後の3年は日本に戻り、日本人としての生涯をしっかりと完結している。加えて晩年ともいえるアメリカ時代の作品がなかなかいいのだ。制作を終えてもよさそうな時期からアメリカ時代ははじまっている。

 アメリカ滞在の第一作「ロサンゼルスの町はずれ」(1962)は何でもない道端なのに惹かれる一点だ。道の向こうに、そして階段を登ったところに何かありそうな予感を秘めている。しかしそれは明かされないまま、未知の期待として隠されている。その後33年もとどまることになるとは思っていなかっただろうし、そんなに長く生きるとも思っていなかっただろう。それにもかかわらず未知を予感する好奇心が技巧を超えて感じ取れる一作だ。

 風景が圧倒的に多いが、人物もいい。裸婦もあり弟子のひとり棟方志功に引き継がれるものだ。西洋ふうの裸婦のとらえかただが、観音像のような仏教的ヴェールがかぶされていて魅惑的だ。「文楽人形八百屋お七」(1952)も裸婦に共通する肉感性がいい。無表情な人形なのに思いつめた官能を秘めている。しぼりの柄の着物なのだろうが、小さな円粒の連なりが身体を拘束し、縛り付けられた鎖にみえて、浄瑠璃が語る狂おしい悲恋を暗示している。

 神戸では木版画は川西英(1894-1965)の名が思い浮かぶが、ここで港町神戸の異国情緒を写し出した川西との二人展にしてしまうと、神原浩(1893-1970)の名はかすんでしまう。神原のエッチングは、以前から気になっていた。神戸に落ちつき、機会のあるごとに接してはいたが、まとまって見ることはなかった。神戸という都会が生み出したハイカラという語に支えられた気分に満たされて、センスのよさが際立っている。

 神戸の建物を写し出した銅版画なのに、自然なかたちで西洋との親和関係を保っている。木立の間にたたずむ山の手の学舎というハイソサエティは、今日でも関西学院大学の学風にとどまっている。今では神戸から西宮に移転してしまったが、かつてキャンパスのあった「原田の森」の名は今も健在で、美術館名になって受け継がれている。関学の看板は経済学部だが、それとは別にサークル活動として美術部の伝統があった。専門として学ぶ芸術学部ではない。美術などというものは教わるものではないという表明のようにさえみえる。良家の子女の良き趣味(ボングー)に支えられて、画家の系譜がたどられる。前衛美術を突き進み具体美術家協会を立ち上げた吉原治良(1905-72)も関学の出身である。もちろん実業家としては吉原製油の社長でもあった。

 神原はそれに先立ち母校に美術の伝統を築いた先駆者といってよい。関学の商科に学んでのち長期にわたる西欧体験は、本場仕込みのエッチングの技法となって定着している。神戸の教会や街並みを写したエッチングがパリの街並みとならんでも違和感はない。肩を張って西洋に近づこうとしているのではない。自然と香り立つ街の魅力を、何気なく立ち上げている。それが今でも神戸の街の魅力だと思う。関西の経済人の理想は、大阪に生まれ、京都に学び、神戸に住むことだという。神戸の街を魅力的に写し出した絵画は多いが、神原浩のエッチングは、それらが生まれる背景となる自然をみごとに下支えしている。若い日の西洋風景も、戦時中の海南島を写した海岸線も、港町神戸と同じ水蒸気を宿して、心地よい息づかいという点で一貫している。明治人なのだが柔らかな人柄の良さが目に浮かぶ。


by Masaaki Kambara