最後は大原美術館

2020/3/24

 倉敷での20年の勤務を終える最後の日、思い立ったように朝一番で大原美術館に足を運んだ。私の美学の恩師は、パリに何年もいたのに、一度もルーヴル美術館に行かなかった。わかるような気がする。敷居が高くて遠ざけていたのだと思う。

 神戸で教員をしていた頃は、毎年20人ほどのゼミ生を引き連れて、大原美術館を訪ねた。邑久町にある竹久夢二の出た小学校が研修の宿舎になっていたので、そこでの宴会がメインの年中行事だった。倉敷に来てからは数えるほどしか来ていない。理由の一つはいつ来ても同じだからだと思う。一年ぶりにまた来たよという感覚ではない。いつでも来られるという安堵は、近くにいるのに実家を遠ざける子の心境に似ている。パーマネントコレクションとは実家の親みたいなもので、亡くならないとありがたみがわからない。でもなぜ最後に大原美術館に来ようと思ったのだろうか。

 エルグレコに久しぶりに対面した。今は一点だけ別室に飾られていて、寂しげに見えた。はじめて大原美術館を訪れたのは、今から半世紀前のことだが、その頃は本館の二階の中央に置かれて、名だたる近代絵画を率いていたように記憶する。モネやルノワールやゴーギャンもその中にあった。常設展の醍醐味はいつも同じ場所にあることだと思う。定位置というのがあって、山手線の駅名のように端から順に暗唱することができた。

 今ではフンデルトワッサーが邪魔をして、青春プレイバックを妨げる。大学生活を岡山で過ごしたが、足繁く倉敷に通った。多感な情念が大原コレクションとともによみがえってくる。歳月がそれぞれにホコリをかむっているが、人の変貌に比べれば微々たるものだろう。

 ピカソの前に立つ。「鳥籠」(1925)という絵だ。キュビスムの何たるかも知らない頃だったが、食い入るように見ていた。そして考えたのは、原田マハさんも書いているが、鳥は籠の中にいるのか、外にいるのかという禅問答だった。当時盛んに「自由とは何か」を考えていたのだと思う。学生紛争に明け暮れたすさんだ日々だった。

 敷居の高さは重厚な本館入口に反映しているような気がする。それは古代ギリシャを模倣したアカデミズムの権化にさえ見えるかもしれない。在野の美術運動を称賛するにしては庶民的とはいいがたいエリート臭が、格調の高さを醸し出す。地方行政を相手にしない美の自律は、天領という地の宿命に由来するものだろうか。幕府の直轄という気位の高さは、最高級の趣味人を招いて、ローカリズムを切り捨てることで、中央と直結し知的エリート集団のネットワークを広げていく。決まったように民藝運動とも同調していく。

 本館に続く工芸館は、濱田、リーチ、富本、河井、芹澤、棟方とビッグネームが続いている。矛盾をはらんだ欺瞞を感じつつも、否定しきれない美の魅惑に取り込まれている自分に気づく。加齢とともに段々とよく見えてくるから始末に悪い。どこがいいのかと、かつては首をひねっていたリーチまでも、今は感覚にぴったりと合致している。加えて土から分離した富本の白磁がとてもいいものに見えてくる。無名を誇るにしては有名すぎるアートの作為が炸裂する。黒光りする床面の軋みも、音響効果として演出されて、民藝レトロの虜になってしまう。かつて鴬張りは注意喚起の代名詞だったはずだ。

 こうした負の美学が虚構の楼閣を築き上げていく。錬金術を見破らねばと思うのだが、敵はなかなかに手ごわい。目をつむれば済むことだが、耳にまで拡張するパフォーマンスは、美の権威が長年に渡って築いてきた戦略にちがいない。凡人に太刀打ちできるものではないと言ってしまえば、敗北宣言になる。もちろんそこまでして敵視する必要もないが、倉敷にいて美に関わる限りは、避けて通ることのできない重圧であったことは確かだ。それに育てられてきただけに、裏切ることのできないジレンマもあった。今後は肩の荷を下ろして、再びひとりの旅人に戻れるだろう。時折訪ねてはエルグレコの消息を尋ねてみる。そのときもまだ幽閉されたままだろうか。もちろんそれに比べて、こちらのほうが加速度的に老いていくことは確かだが。

 体力があればエルグレコと近代を結ぶ穴埋めをすればよいが、そんな教科書的な収集が意味あるものとも思えない。コレクターの個性がプライベートコレクションの核をなしている。セザンヌが弱いからと言って画商の売り込みに同調することもないだろう。児島虎次郎が何に目を向けたかではなくて、何に目が向かなかったかを探るほうが、よほど価値があることだろう。児島以降、美術の教科書をなぞるように20世紀絵画史がつづられていく。小さなポロックがある。小さなロスコもある。マリリンモンローも一枚だけ展示されている。アメリカ美術をこんな小さなスペースに凝縮することに無理があったのかもしれない。大きめの画集にしか過ぎないなと、歯ぎしりしながら天井の高い国立美術館を思い浮かべる。民の反骨は、かつては石油王であったり海運王であったりした。紡績がその前の世代に属するとすれば、アートに開眼した未来の経済力に託すしかないだろう。前衛は即座に保守化していくだけに、アートナウを権威に委ねず継続する賢者の知恵が切望される。

 城山三郎著「わしの眼は十年先が見える:大原孫三郎の生涯」の一節を国語の入試問題に使ったことがある。そこでは経済人の決断の度量を学んだが、足掛け20年間倉敷で美術に関われたことに感謝している。倉芸を退職後も「くらしと芸術」という授業の一コマを引き継ぐが、新入生に向けて大原コレクションの近代絵画の宣伝をしている。倉敷では西洋絵画がいかに暮らしに根付いていったかという話である。倉敷と大原が結びつかない世代にとっては、それは権威でも重圧でも何でもない。それは決して悪いことではないが、放っておけば大原美術館を訪れないまま卒業してしまう芸大生も出てくるにちがいない。過去の権威との決裂は、神話化しない程度に温存していく必要があるだろう。


by Masaaki Kambara