第12章 抽象絵画

ヒトラーの影/バウハウス/カンディンスキー:翻弄された生涯/抽象美の誕生/モンドリアン:縁取られた地図/国境線/水平垂直へのこだわり/地図と風景画/マレーヴィチ:究極の抽象/解釈の多様性/音楽への接近/写真と建築/展示との親和性/退廃芸術

第135回 2022年1月20

ヒトラーの影

1930年代の世界状況を反映して美術のアヴァンギャルドが展開する。ナチスドイツが台頭して、それに振り回される美術史でもある。ヒトラー自身は画家を志すほどの美術好きだったが、感性の豊かさは感情の起伏を示すものだっただろう。ナポレオンのカリスマ性にも似て、秩序に則る古典的美意識にねざした質実剛健をめざした。美術の前衛運動に理解を示すことなく、退廃芸術として退けた。第三帝国の美術の名のもと、クラシックな時代錯誤が浮上する。

弾圧が強まるほどにアヴァンギャルドの結束力は高まっていく。抽象絵画はナチスドイツと抱き合わせにして見ていくことができる。動乱の時代はカンディンスキーがロシアに生まれ、ドイツに育ち、最後はフランス人として死ぬという生涯の軌跡のなかに見つけ出される。追われる者の運命を跡付ける絵画は、通奏低音のように響き続ける何かがある。

芸術に理解のあるトップがいるのは悪いことではないが、偏った趣味はかえって悪影響を及ぼす。規模は小さいが日本でもそんな自治体の長がいる。かつての藩主はおしなべて茶道具だったが、ときおり骨董趣味は突然アヴァンギャルドへと変異を起こす可能性もあった。文化行政では金は出しても口は出さないというのが鉄則だ。

第136回 2022年1月21

バウハウス

1919年に誕生したこの偉大なデザイン運動も、ナチスに追われて転々とした。デザイン史では重要な運動だが、美術史や絵画史の領域では、バウハウスそのものは過小評価されてきた。ただその教員としてカンディンスキーやクレーという絵画でのビッグネームが参加していたので、バウハウスを抜きにして抽象絵画を語れない。現在では抽象絵画は市民権を得たが、ここに至るまで平坦な道ではなかった。

今もなお抽象絵画を前にして、何かよくわからないので、説明をという声は聞かれる。説明をしてやらなければ納得してもらえない状況はある。何が描かれているかをいってやらなければ満足できない人たちが意外に多いということだ。絵画は見ればわかるということではなくて、ことばで伝わる物語を期待している。画家はそれにまともに対応する場合と、無視する場合がある。無視するとそこで断絶するので、抽象が今の地位を得ることはできなかっただろう。抽象絵画論が語れる理論家がいてひとり歩きができた。

このとき理論家として重要なはたらきをするひとりが、美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガー(1881-1965)である。「抽象と感情移入」(1908)という著作によって抽象絵画は市民権を得ることになる。抽象衝動と感情移入衝動という二分法はみごとなアイデアだった。

抽象衝動とは抽象(たとえばピラミッド)を前にしたときの感情移入を拒否するような感覚のことである。二つを比較することによって、両者は対等になる。かつて岡倉天心は東洋というくくりをもち出して西洋と比較することによって、両者を対等なものにしようと企てた。抽象と感情移入をエジプトとギリシャでの対比と考えれば単なる美術史にとどまるが、制作論や世界観にも展開を可能にした。考えをめぐらすと抽象が感情移入をともなう場合も多い。東洋の円相図は、ときに月やまんじゅうに見立てられて、抽象は感情移入をともない、ユーモアを誘うものとなる。

この二つの衝動は、簡単にいえば、現実を前に拒否するか、のめり込むかという対置法のことだろう。立ち向かうと背を向けるの二分法は、もちろん立ち向かうほうが積極的だと考えると両者は優劣になる。前進と後退の間には立ち止まるという一瞬がある。両者を同等だと見ることによって、やがて第三の道としてすり抜けるという方法があることに気づく。それは相手の力を利用する合気道という武道が教えてくれる教訓でもあった。この身の置きどころは、ナチスを前にしたユダヤ人の切実のことでもあっただろう。抽象に負わされた受難といってもよい。絶大な力を前にして逃亡しかない歴史の現実がある。

このときバウハウスというシステムは功を奏した。バウハウスは国立の教育機関であり、それにはカリキュラムが必要で、どういう理念でどういう内容を教授するという計画を立てる。この段階で抽象が理論化される。論理が蓼食う虫を駆逐し、制作の理由と役割が明確化される。カンディンスキーは抽象理論を公刊し、クレーもバウハウスの教員生活のなかで自身の「造形思考」を文章化する。

カンディンスキーは「芸術における精神的なもの」(1912)のあと、バウハウスでの講義をもとに「点と線から面へ」(1926)を書いた。抽象が好き勝手に絵を描く感性の産物だという限りでは、絵はその人一代限りのものである。バウハウスは美術とデザインの教育機関であり、つまりはひとりきりのものではなくて、誰もがやりかたをマスターすれば、同レベルのものがつくれるという訓練の場である。

第137回 2022年1月22

カンディンスキー(1866-1944):翻弄された生涯

抽象絵画はいつからはじまっただろうか。一般にはワシリー・カンディンスキーが1910年に描いたのが最初だろうとされている。フォーヴィスムでは色彩的にはすでに抽象である。形に固有な色からは独立している。マティスでも色彩は現実ではあり得ない色を載せている。どんな色を使おうと自由だが、形はまだ現実を温存する。ピカソではかなりゆがみはするが、形がなくなることはなかった。

現実世界では子どもの殴り書きに抽象絵画はいくらでもある。大の大人が今まで具象絵画を描いていたのに、急に抽象絵画を描き出したということである。人間が絵を描く衝動からいえば、もっとプリミティヴな世界で抽象絵画は登場していたはずだ。1905年にフォーヴィスムが、1907年にキュビスムがスタートして、その三年後に抽象絵画が始まるということになる。

カンディンスキーの作品は多くがシリーズで制作が続けられる。インプロビゼーションなどというジャズの即興演奏を想起させるような音楽用語が頻出する。出発は大学の法学部で助手まで務めるアカデミックな立ち位置にあった。そこからは逆に絵画に対する思いの強さがうかがえる。それはマティスやピカソが学んだ美術学校の絵画ではなかった。知的レベルの高さはバウハウスに招かれて教鞭に立つということにもつながるものだ。抽象絵画制作はモンドリアンも含めて、論理立てて思考する人のもち分だったようだ。論理性は法学と通じるものでもある。

感性のおもむくままに制作するというスタイルとは一線を画している。知性の優先が抽象に向かわせる。法律を学ぶことは、いわばことばの人だったということだ。しかもそれは哲学や詩ではなく、実用に根ざした法律が語る抽象言語だった。イメージよりもことばを優先するのは、プロテスタンティズムの特徴でもある。カンディンスキーはロシア正教を信仰としたが、プロテスタントはかつてカトリックの華美を嫌って聖書に戻ることを訴えた。抽象絵画はイメージを否定し、その内部にことばを聞きつけようとする聖書として機能する。

第138回 2022年1月23

抽象美の誕生

カンディンスキーの逸話が残っている。帰宅したときに美しく輝く絵があった。近づくと自作が上下逆さか横倒しかで置いてあった。そのせいで何が描かれているかがわからないが、美しく目に入った。美の構成は絵の内容ではなくて、色彩の発色にある。色彩のハーモニーは音楽を聴くような美しさだった。音楽のような美しさというのなら、そのハーモニーやリズムが美の本体ということになる。 美を形式のなかにみるという点では、古典主義者の視点と共通する。自作をもとに戻すとその美は消え去ってしまった。

描かれている内容に目が向かうことによって消えてしまう美があるのだという発見は重要だ。この美意識はカンディンスキーがはじめて見つけたわけではない。かつて印象派の画家たちが、光が対象にあたり反射して目に入ってくる現象を美しいものと見た。そのとき対象は何であってもよい。カンディンスキーは印象派の流れを汲んでいる。印象派の場合はものの形は残っている。モネでは輪郭線がなくなり、限りなく抽象絵画に近づくが、純粋抽象にまでは至らない。眼病を患った目にはそれがくっきりとした写実であったかもしれない。

具象を逆さにしてはじまった抽象は、次の世代では具象を経由することなく、いきなり抽象から開始する。創始者は具象から抽象へと移行するが、確かに抽象は、何かを抽象化したものであって、抽象だけでは成立しない。本文を簡略にしたレジュメのことを学術論文では概要(アブストラクト)ともいう。抽象(アブストラクト)の創始者としてあがるのが、カンディンスキーとモンドリアンとマレーヴィチである。

この三者を見比べてみても抽象絵画だけではなくて、具象絵画を極限まで抽象化させたという点で共通している。そこで具象を経由しないという意味で「非具象」という語が、第二世代以降に抽象とは異なったニュアンスをもつものとして成立したとみてもよいだろう。

第139回 2022年1月24

モンドリアン(1872-1944):縁取られた地図

 ヨーロッパではいつも国境線が気になり、その不安と安定への希求が絵画に結晶する。輪郭線をなくすのは平和主義のことだが、印象派のユートピア思想が崩れ、黒い輪郭線が復活して、色面をふちどりだす。ポスト印象派の色面分割からはじまってピエト・モンドリアンの抽象絵画に向かう絵画史の歩みでは、境界線を引き立たせる色ちがいの並列が、安定のかたちを見つけ出そうとしている。

混ぜると濁るので、並べて置くことで、網膜上で混合する。これは共存をめざす政治学でもある。色彩論が国家論に反映したのが国旗だが、三色旗を通して国のアイデンティティを主張する。フランスはトリコロールに平和をたくすが、色ちがいでいえばイタリアも同じだ。オランダはそれを水平軸に取ったが、そこからは平坦なオランダ風景が見え出してくる。下から青・白・赤の配置は、海・空・太陽とみなすことも可能だ。

三原色の水平垂直で構成された「コンポジション」(1921-)のシリーズはいかにもモンドリアンふうだが、初期の作品は自然をモチーフにした風景画だった。地面から延びる樹木を描いたものがあるが、それがじょじょに垂直に伸びる幹と水平に伸びる枝に抽象化されていく。抽象へのプロセスが手に取るようにわかる。最終的にはプラスとマイナスの記号が無数に散らばるような抽象画面に至る。0と1の二進法によって世界は成り立つのだというデジタル時代を先取りした宇宙論にまで達したようにみえる。

戦火を逃れアメリカに渡り、戦後の抽象絵画の全盛に寄与したひとりである。ナチス支配下のオランダの地では隠れるか逃れるかの選択を余儀なくされた。「アンネの日記」(1942-4)は隠れるを選択した当時のアムステルダムでの状況を記述している。モンドリアンは一九四〇年にアメリカに逃れ、ニューヨークで描かれた「ブロードウェイブギウギ」(1943)は、あらたな作風を示すものだった。

それまでの三原色をくっきりと浮き出させるようなスタイルから、点滅型ともいえるアメリカンスタイルが期待できたが、十分に展開できずに没した。しっかりとしたエッジを残した幾何学的抽象であるが、アクションペインティングとは異なったもうひとつの抽象絵画の系譜を、アメリカで築きあげる。一九三七年からはじまるシカゴでのバウハウスの継続とともにモンドリアンの影響を認めることになる。

ブロードウェイブギウギにはそれまでの縁取られた黒い輪郭線がないことに注目すると、ポスト印象派から印象派への回帰現象が読み取れ、現代美術でのモネの再評価を含んだものとみることもできる。そこにうきうきした遊戯感覚があるとすれば、それはヨーロッパから難を逃れた命拾いに由来するが、輪郭線がないからだろう。アメリカという新天地の自由主義を象徴するもので、ブロードウェイを行き来するヘッドライトやシグナルの点滅を空中からながめた印象が加速する。

モンドリアンカラーの赤黄青はまさに交通信号にほかならない。黒い輪郭線で国境線を縁取り、交通整理をすることが重要だったのである。地平線と水平線がくっきりとした低地地方の風土を思わせるオランダ風景画からの展開を認めることができる。大小の区画に区切られたそれまでの抽象は群小の国が割拠するヨーロッパ地図のように機能する。

第140回 2022年1月25

国境線

モンドリアンの抽象が、地図や国旗に似ているということは、その後のネオダダでのジャスパー・ジョーンズの立場に先行していることに気づく。黒い縁取りは国境線のようでその太さは必ずしも一定ではなく変化する。赤い大地や黒い大地という。白い人や黄色い人ともいう。そこに青が加わると違和感がある。地をへだてるものは空と海だとすれば境界は黒でないほうがよかったかもしれない。ブルーの輪郭線は思いつかないが、輪郭は黒だという固定観念をはずすと絵画は自由になる。

西洋では気づかなかった赤い輪郭線が熊谷守一(1880-1977)に出てきたとき、西洋はそれを知っていたなら強いインパクトを与えるものとなっただろう。黒い輪郭線をはさんで土地の争奪戦のように白と黒と黄と赤の領域が増減する。ナチスの侵攻で目まぐるしく国境線が揺れ動いた時代だった。それぞれは民族の肌や髪の色を象徴するとすれば、青の領域だけは不可解に映る。深読みすれば青は悲しみのマリアの衣服の色で、ユダヤ民族のシンボルカラーではある。

もちろんそんな解釈は抽象絵画が内包する可能性のわずかな部分だが、それもモンドリアンの厳格なまでの規則性に由来するものだ。輪郭線にきっちりとおさまっていた色面が、フェルナン・レジェ(1881-1955)の絵画では、晩年に輪郭線を超えて色が流れ出る。色彩が枠を超えて広がる姿は、パリが開放され、フランスに自由が戻ってきた歴史と対応するようだ。それに影響されおもしろがったのは、絵本作家のディック・ブルーナ(1927-2017)だった[i]。それはミッフィーを生み出してきた、六色に限定された厳しい枠取りのこだわりからの開放だった。

アメリカで解放感を味わったモンドリアンから引き継いだもので、オランダの風土が感じ取った共感だっただろう。世界に輪郭線などいらないという印象派のリベラリズムは、閉鎖された西洋の分割からの開放だった。オランダ時代のモンドリアンを、印象派の否定した輪郭線の復活とみると、ゴーギャンの延長上に位置していることになる。


[i] 「美術館に行こう!ディック・ブルーナに学ぶモダン・アートの楽しみ方」2021年7月17日~8月29日 明石市立文化博物館

第141回 2022年1月26

水平垂直へのこだわり

モンドリアンでは水平垂直の線が傾くことはない。これに似た抽象作品が、同じオランダのテオ・ファン・ドゥースブルフ(1883-1931)によって描かれる。「カウンターコンポジション」(1924-)の名で連作をなすが、そこでは45度の角度で対角線が登場する。モンドリアンの潔癖なまでの水平垂直へのこだわりは、神がかりなまでに徹底している。例外的にキャンバスを対角線で区切る絵が出てくるが、そこでは画面上の水平・垂直線は保ったまま、フレームのほうを傾けて展示される。四角のキャンバスがダイヤ柄にシェイプする。

モンドリアンのこだわりを納得するためには、それを風景画だと解釈してみることだ。モンドリアンの造形を17世紀オランダの風景画との共通項で解釈することは可能だ。それはいつの間にか地図にも似たオランダの風土にみえだしてくる。地平線が水平に引かれないと落ち着かないのは、誰にでも共通する感覚だ。床が少しでも傾いているとすぐに気が付く。航空機やジェットコースターでの不安も体験ずみだ。45度も傾けばめまいを起こす。

その後の絵画史ではシェイプドキャンバスという四角ではないフレームが出てくるが、モンドリアンのダイヤ型のタブローは、その先例とも取れる。何らかの制限がなければ抽象絵画は描けないのかもしれない。ルールを科すことによってゲームは成立する。全く自由な表現であれば、何をしていいのかがわからない人間存在の心理に立脚したものだろう。そのルールのひとつが神智学だった。モンドリアンもカンディンスキーもこれをよりどころとしている。

ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の人智学が知られるが、さかのぼれば西洋世界では宇宙を原理化するピタゴラスの数秘術(ヌメロロジー)にたどりつく。宇宙に原理を与える神秘主義を枠組みにして、芸術は足かせを得て、枠内で完結しようとして動きはじめるのだろう。

第142回 2022年1月27

地図と風景画

モンドリアンの抽象を地図になぞらえる視点は、地図が絵画としてはキュビスムとして機能することからも察せられる。立体を平面に変換したものが地図である。それは上空から一点透視図として見たパノラマではなくて、すべての地点を真上からのみとらえた合成風景である。遠近法を否定してキュビスム的視点を導入した絵画史の革新に対応する。地球を地図にすると、立体が平面になる。地球儀を人の頭に見立てると、正面だけでなく後ろも横も平面上に統一したキュビスム絵画が地図ということになる。

遠近法の由来をなす光源は見当たらず、地図には影はない。オランダは17世紀より地図作成の国だった。今でもオランダを小型機で移動すると、平坦な土地のチューリップ畑の広がりがモンドリアンの画面に見えてくる。チューリップはオランダの国花だが、花壇の水平のトリコロールは国旗をなぞっている。

地図作成をオランダから学んだ日本にあっては、伊能忠敬を風景画家として見る目が必要になってくる。そこでは絵画は日本中を歩き回ったアクションペインティングであるのだ。写実主義者の目は、見ないと描けないという科学者の精神に裏打ちされ、そこから見えるものだけを描くのだという信条を誕生させた。地図制作の源流の一つは、16世紀のネーデルラントにあったが、モンドリアンに先立って、風景画家ブリューゲルは地理学者オルテリウスをともなって、農村の地誌学を楽しんだ。

地図制作のほうを中心に見れば、画家が地誌学者に同行したということになる。それは戦時の従軍画家の立ち位置と同調するし、現代では戦場カメラマンということになる。絵を描くために敵地に侵入する。討ち入りのためには吉良邸の図面が必要になるということだ。危険を冒して忍び込むことが、画家の使命となるのだ。そして目にしたものを正確に描き出せる能力が問われる。そこではまだ芸術と科学に齟齬はなかった。

伊能忠敬を画家とは言えないほど、現代では分離してしまっている。写実をめざして日本中を歩き続けた姿は、アクションそのものが作品を凌駕している。伊能忠敬展を博物館ではなく、美術館的視点で同時代の画家と並行してとらえ直す視点が必要だろう[i]伊能図を国外に持ち出そうとしたシーボルト事件を深読みすれば、国家機密という前に美術品として美しかったからである。シーボルトが日本で収集した美意識を考えると納得のいく解釈ではないだろうか。


[i] 「伊能図上呈200年記念特別展 伊能忠敬」2021年7月10日(土) ~ 8月29日(日)神戸市立博物館

第143回 2022年1月28

マレーヴィチ(1879-1935):究極の抽象

水平垂直に帰結したモンドリアンに対して、カジミール・マレーヴィチの場合は、〇△⊡からはじまっていく。単なる記号か、そこに何らかのイメージを読み取るかは、見る側の勝手の領域だ。抽象絵画の場合、明確なイメージがあって、それを記号に置き換えて表現していく方法もあるだろう。しかし作品の内容にまで立ち入らないで、見るほうが自由にそれを解釈できるよう投げ出すタイプがある。

カンディンスキーの研究者は、全く意味がないと思われる記号の並ぶ作品に、具体的な意味を見つけて解釈しだした。もちろんそれはヒエログリフの解読作業にも似て、時間のたつのを忘れるほど夢中になるものだろう。しかし実際にはそれもひとつの説に過ぎない。画家がどこまで具体的なイメージを意識しているかはわからない。

マレーヴィチの究極の抽象絵画はイメージを排斥し、シュプレマティスム(絶対主義)の名で呼ばれる。ロシア革命に先立った前衛精神に裏打ちされて、黒の円黒の正方形だけをキャンバス上に描き、はては「白の上の白」(1918)まで登場した。のちにホワイトペインティング(フランシス、ラウシェンバーグ)やブラックペインティング(ポロック、ステラ)の名で引き継がれる絵画の問い直しの概念は、ここに由来する。そこまで到達したのちに、マレーヴィチでは不思議なことに球・円錐・円筒を組み合わせたキュビスムふうの人体があらわれる。

この退行現象は興味深い。ロシア革命に乗り合わせたロシア人画家の身の置きかたの問題である。前衛の多くは教条化されていく社会主義リアリズムから逃れた。マレーヴィチはとどまったが断固抵抗したわけではない。すり抜けるという第三の道を選択した。人体が労働者にみえるという最大限の妥協も、その後のスターリンの粛清を思うと身震いのする選択だっただろう。

第144回 2022年1月29

解釈の多様性

クレーでは具体的なイメージは残り、大きな三角が画面を覆っても、それがピラミッドだと分かるよう、太陽と熱風の吹くような気分を描き加えている。そこでは三角形はピラミッドだが、山であってもいい。「パルナッソス山へ」(1932)と題名をつければ、ギリシャの神話画となってしまう。エジプトだと思っていたものがギリシャに変容するのだ。タイトルがすべてではないという限りでは、それもまたひとつの解釈にすぎない。

丸は顔で、四角は建物を連想させるが、それだけではなくいろいろなものに置き換えが可能になってくる。抽象絵画では意味の多様性をよしとして中空に突き放す。三角と四角を縦に並べると家ができるが、それは顔でもある。屋根は頭で、壁は顔だ。壁に窓を二つ並べて開けば、目になる。戸を開くと口が生まれる。 家が人の顔に見えることはよくあるが、ミクロとマクロの共鳴ととらえることができる。九州のチブサン古墳を例にあげてみよう。このマルサンカクシカクの装飾古墳では、二つ並んだマルは人の目に見えるが、人によればマグリットの妄想にも等しく乳房にも見えたようだ。

抽象はシュルレアリスムと対立しながら、同時代を先駆けていく。ともに前衛絵画として位置づけられる。どちらに行くかはその人の判断だが、共通した点は解釈の多様性にある。シュルレアリスムのダブルイメージは、ダリの場合はどちらにもみえるよう技巧を弄するが、エルンストの場合はあいまいなものを提示することによって、いかようなイメージも見る側に勝手に引き出させた。解釈をひとつに固定しないで、見る側にいくつかの要素を与えてやる。抽象もまた同じ方向性を取る。1910年前後に始まり20年代から30年代にかけて、ヨーロッパで一世を風靡するまでに成長していく。

これ以外の絵画の動向はもちろんある。印象派もアカデミックな絵も描き継がれていく。それらと肩を並べて額縁はあるのだが、そのなかには〇△⊡しかないような絵画が、堂々と表に出てきた点が重要だ。抽象絵画の見方としては、じっくりと眺めてそこに意味を読み取っていくほうが、鑑賞者としては安心できる。ただ絵画は時間をかけて見て感じ取るものではなく、一瞬見れば察しが付くメディアだ。具象か抽象かを問わず、直感的にすべてを飲み込めるものだ。平面上に色が乘っているという限りでは、ともに大差はなく、すべては一様のものだと考えてもよい。

第145回 2022年1月30

音楽への接近

三者に共通するもうひとつの点は、音楽に対する執着だろうか。抽象化していくというのは絵画を純粋化していく流れにあった。純粋な絵画を求め、純粋な色と形に還元していく。純粋な芸術は音楽だという確信があって、絵画も音楽に近づけば近づくほど純粋になれると考えた。絵画は音楽にならうのが、抽象絵画の原理にみえる。かつて絵画のルネサンスではミケランジェロは、絵画は彫刻に近づけば近づくほどよくなるといって、彫刻を絵画よりも優位に置こうとした。

クレーは優れた楽器演奏者でもあったが、カンディンスキーとともに音楽になぞらえた作品名が目につく。カンディンスキーは青騎士時代の仲間にアルノルト・シェーンベルク(1874-1951)がいた。のちにバウハウスに音楽教授として招こうとしたが実現しなかった。ユダヤ人でありナチスから逃れアメリカに亡命、現代音楽の基礎を築く。弟子のひとりにジョン・ケージ(1912-92)がいる。隠れるか逃れるかの紙一重の綱渡りの選択を生き抜いた音楽家だった。もちろんその選択はまちがってはいなかった。ジョン・ケージのもとからは、音楽だけでなく多くの美術家が誕生した。

即興19」や「コンポジション7」などというタイトルは、具体的なイメージを喚起させるものではない。作曲をするのと同じような身の置きかたで絵画制作をおこなう。そしてナンバリングをして作品を区別する。やがてそれは「無題」といったほうがよさそうなものに移行する。そこにイメージをひとつに固定させない工夫がある。作曲と構図をともに意味する「コンポジション」は音楽を美術に橋渡しする用語だ。「即興」という名が出てくる背景には、シュルレアリスムでのオートマティスム(自動筆記法)があるだろう。あるいはアメリカの時代を予感させるジャズの連想もある。

手を自由に動かすなかで、心の深層に眠っているものを呼び起こしていく。即興演奏はその人の能力以上のものを引き出してくる方法論だった。しかしその一方で純粋を求める絵画がいつの間にか音楽への隷属となる矛盾に気づいた画家も少なくないはずだ。音楽への傾斜はけっして絵画の独立には至らないのである。フランスでの絵画偏重の系譜は、音楽追従の動向とは異なっていたようだ。フォーヴィスムは絵画に終始したが、これに先立つ印象派は絵画運動だが、これにならうようにして印象派音楽や印象派彫刻が登場している。現代音楽は現代絵画ほどに市民権を得ているとはいえないかもしれない。カンディンスキーやモンドリアンを好む鑑賞者が、音楽ではシェーンベルクやケージは敬遠して、バッハやマーラーを聴いていることも多い。

ただジョンとヨーコを引き合いに出すと、つい音楽と美術のみごとなコラボレーションと考えてしまうが、芸術ジャンルの旧態の概念を解消する混沌とした原初からの出発と考えたほうがよいのかもしれない。音楽とも美術ともつかない未分化のカオスから生命が誕生した。アダムとイヴの結婚を思い浮かべれば理解が深まるに違いない。芸術が耳と目に分離される前には、五感を備えたライブの感覚があったはずだ。

楽譜上には何の音符も書かれていない現代音楽がある。キャンバスに何も描かれていない抽象絵画に対応する。これがライブになると、ピアノの前に座って手を鍵盤にふれることなく、戻ってしまうパフォーマンスにあたる。「楽譜」は美術でのタブローにあたるが、初見で弾こうとした演奏者のピアノの前で直面した驚きが観客に伝えられる。ライブ演奏には音楽とも美術ともつかない視覚芸術のカオスを見出すことができる。

第146回 2022年1月31

写真と建築

抽象絵画を写真に撮ることを考えてみる。抽象絵画と写真とは相性が悪い。モンドリアンの画集ももちろんある。シュルレアリスムのダリの画集もある。同じように写真に撮るが、抽象絵画の場合は写真に撮りづらい。マレーヴィチに白地に黒い丸が乗っているだけの絵がある。これを画集にするとき、白地が紙の色と同じになってしまうとその画集には黒い丸だけしか見えない。抽象は写真を写せないようなものへと、作品を追い込んでいったようだ。

マレーヴィチの究極の作品名は「白の上の白」である。白の上に白を乗せた絵である。白の上の白でも実際は目にみえる。色調は同じだとしてもブラッシングの方向を変えると、ストロークのちがいで見えてはくる。写真には何も写っていなくても、現物としては実際にそこにある。シュルレアリスムはイメージを加速化させていく方向にある。イメージはカメラで写し得るものだ。のちに写真を写真に撮り、著作権を問うシミュレーショニズムがあらわれるが、多くはイメージのあるものを写し出される母体としていた。

抽象絵画の目標はイメージをなくしていくことにある。〇△⊡ではまだイメージは残っている。さらに進んで画面に赤や黒を一色で、モノトーンに塗ると、画集にはならない。つまりイメージによる記録を拒み、つねにアクチュアルな現実空間に生きようとする。究極の抽象絵画は写真に撮れないものをめざした。

今日オートフォーカスのカメラが焦点を見つけきれない対象を前に、夏の終わりの蝉のようにジージーと操作音を立て続けるとすれば、そこには遠近法で制御できない絵画空間のオリジナリティが誕生したということだ。モノクローム絵画にオートフォーカスが機能するのは、表面にほこりがあるときだ。闇が黒光りをするカラヴァッジョに代表するバロック絵画も写真を撮りにくいが、そこには抽象絵画と共通するファクターがあったということだ。写真に撮れないということは、それが絵画らしい絵画を追い求めた結果である。抽象絵画は何もかもが写真に奪われる時代に危機を感じた画家のレジスタンスにみえてくる。

シュルレアリスム絵画が写真・映画・演劇・文学と連携を組んで仮想空間を好んだのに対して、抽象絵画は建築・音楽との連携を模索して、デザインというアクチュアルな生活に根ざした実空間にとどまろうとする。抽象絵画という絵画自体として独立していくよりも、バウハウスが建築を中心に総合芸術をめざしたように、建築空間に絵画が入り込んでいく。ロシアのマレーヴィチの場合もロシア構成主義の建築に隣接する位置にいた。今までは建築と絵画の連携は壁画に代表されてきた。古代からキリスト教中世をへて、カトリック文化は壁画の宝庫を築いてきた。

シンプルな壁の無彩色はプロテスタントを起点として、やがてモンドリアンの神智学にたどり着く。抽象絵画は建築に活路を見出していく。バウハウスからオランダのデ・ステイルに受け継がれる。インテリアの領域に広がり家具のデザインに進出する。服飾ではモンドリアンカラーを身に着けたモンドリアンルックが登場する。これは抽象が生き残りをかけた挑戦だったが、暴走に終始するのではなくて、タブローにとどまることで前衛美術を保持できた。画家としての本性がそれを押しとどめた。

額縁はだんだんとシンプルにはなっていくが、画家としての自負は保たれた。それは壁に掛けられて見るための絵という旧来の感覚のことである。白い壁はいつからはじまったのだろうか。フレスコ壁画でおおわれたイタリアの喧騒に対して、17世紀オランダの教会を描いた室内画は、宗派の清浄を伝えるべく、純白が壁を際立させている。そこから今日のホワイトキューブの美術館概念が誕生したのなら、確かにそれはタブローをかける無表情な装置だった。

第147回 2022年2月1日

展示との親和性

写真とは相性が悪い抽象絵画は、展示とは親和性をもつ。マレーヴィチの諸作品が目の高さも無視して、壁面にところせましと広がる展示写真が残されている。ロシアで開催された「最後の未来派展0,10(ゼロテン)」(1915)での光景である。個々のタブローは壁面を補填するパーツとして機能し、全体としてはロシアの民間信仰の儀礼を彷彿とさせる。一方、シュルレアリスムではあえて展覧会をするよりも、画集で十分だということも起こる。

展覧会に明け暮れると残るのは図録しかないという感慨が、美術館学芸員には起こってくる。しかし展覧会図録には多くの場合、もっとも重要なはずの展示風景が掲載されていない。展覧会を図録でたどるあやまちは、気象の歴史を新聞でたどる過失に等しい。新聞に残るのは天気予報の歴史であって、天気の歴史ではない。私たちが新聞で知りたいのは予報であるが、夏休みの宿題でまとめて日記を書くときには、正確な天気の歴史も知りたいものだ。

展示を記録に残すのが図録の本来の目的なのに、それでは「みやげもの」というもうひとつの目的を満たせない。それが思い出という機能しかないとすれば、展示は脳裏に記録されるものだということを教える。美術はつまるところ文学ではなく、パフォーマンスに終始するということか。写真は目に見える文学のことだ。モダニズムが文学の排斥運動からはじまったというならば、その帰結は目に見えない写真に撮れないものに至るのが当然だった。

第148回 2022年2月2

退廃芸術

 タブローであるがゆえに抽象絵画は驚異的だった。それが社会的に排斥される事由でもあった。退廃芸術の烙印を押したのはナチスだけではなく、社会主義もまた抽象を嫌った。イデオロギーのいかんにかかわらず抽象は不可解という狂気のゆえに排斥された。右翼も左翼も文化政策としては平明な表現をよしとした。ロシアでその後展開していく絵画運動は、社会主義リアリズムだった。これはリアリティのある現実そのものを写し出した絵であり、カンディンスキーの絵などは問題にならなかった。

国を捨て亡命せざるを得ない状況が訪れる。ナチスに追われたユダヤ人たちと同じように、ロシア人も受難に耐える。自己の居場所をなくしていく歩みだが、それは抽象絵画がインターナショナルを獲得するための試練でもあった。ロシア未来派が生き延びてちりぢりになって、ある者はシベリア経由で日本にたどり着く。アヴァンギャルドが日本に直輸入されると、これまでのイズムの変遷が逆流する。未来派がフォーヴィスムやキュビスムよりも先にやってくるのである。

 退廃芸術として埋もれたドイツの画家にオットー・ネーベル(1892-1973)がいる。まとめて見渡すと、モチーフや主題で先達の仕事を繰り返すことも多いが、マチエールに対するこだわりは一貫している[i]。そこではハッチングを駆使した細密な描写が、ニュアンスをもった色彩に溶け込んで、他に追随を許さない独創性を確保している。

文字を用いた抽象はクレーとも共通するが、エキゾティックな東洋への誘惑と連動しており、意味を解しない形そのもののメッセージを聞き取ろうとする感受性に、画家としての鋭い造形思考を感じる。それはパントマイムを演じる舞台俳優が、身振りをまねるのではなくて、身振りそのものにことばをこえるメッセージを読み取った瞬間に似ている。それが究極のパントマイムだとすると、文字の場合も、究極の絵画ということになるだろう。

舞台俳優という実歴を有し、才能が多方面にも渡っていたことが、画家としての評価を遅らせたか、細密画のような時間のかかる作業が、量産を妨げたからかもしれない。ピカソとまではいかなくても、絶対的な作品数が巨匠を生み出す条件だっただろう。フェルメールやラトゥールが二〇世紀になって見直されたのも、作品数の少なさに一因がある。もちろんネーベルの知られざる傑作が、ごっそりと埋もれている可能性も含まれてはいる。

ナチスの時代の盛衰は、作品を隠すというスタンスを取ってきた。どこかに大量に隠されたままあるという可能性を引き出す。カンディンスキーも自作をまとめて預けたまま土地を離れた。ザルツブルクの岩塩坑にはナチスが略奪した大量の名画が隠されていた。それらが知られないまま2万年生き延びれば、現代の洞窟絵画として、未来の大発見となっていただろう。


[i] 「色彩の画家 オットー・ネーベル展」2018年4月28日(土)〜6月24日(日)京都府京都文化博物館

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