もうひとつの顔 ロバート・キャパ セレクト展

2022年09月10日~11月06日

神戸ファッション美術館


2022/10/15

 ロバートキャパ(1913-54)は本名ではない。ハンガリー人のフリードマン・エンドレが、ゲルダ・タロー(1910-37)というユダヤ人の女性パートナーとともに活動したユニット名だと考えるとよいかもしれない。そうすればくずおれる兵士を撮ったのはどちらだという問題は解消される。彼らはアメリカ人を装って世界から隠れようとしていた。

 ちょうどクリストの名で知られる作家名が、ジャンヌ・クロードというパートナーを内包したユニット名だと解せるのに似ている。クリストの男性名を問題にしないように、キャパの男性名も私たちは知らないままいる。クリストの場合とちがったのはゲルダが28歳で死んでしまったことだ。キャパもまたこの年上のパートナーのあとを追うように40歳で爆死する。ともに戦場写真家の宿命だった。親子を写した印象深い作品からは、パートナーを失って親子のきずなも体験できなかった孤独と悲哀に共鳴できる。戦争孤児を養子に迎える軽やかな兵士の姿もいい。

 展覧会は戦場からスタートするが、もうひとつのねらいは戦場から離れた日常に向けられている。通底しているのはやはり戦争だが、そこで写し出すものは悲惨ではなく、希望だと思う。戦後を写し出したものは破壊であるとすれば、そこから見え出してくるのは、未来に向けての建設でしかない。前向きな姿勢がつかの間の希望を写し出す。マチスのアトリエもまた希望として読みとめる。実際は手が自由に動かない悲惨だったとしても、創作という希望が、必要以上に長い絵筆によってユーモラスに写し出されている。女性にかしずくようにパラソルをもつピカソのフェミニズムも、囚人を思わせる横縞のTシャツを愛用する厳しいまなざしを忘れようとする、つかのまの平和を写し出したものだ。キャパのつかのまもまた長続きすることはなかった。悲しいことに戦争はどこかで絶えず起こってもいて、駆り立てられるようにして報道カメラマンは死に急ぐことになる。

 1954年の日本滞在で写し出された大阪の庶民は、私の記憶とも響き合い、戦後の希望に満ちたものだった。よく見ると心斎橋筋、西川ふとん店などの文字が読み取れる。東京、大阪、京都、奈良などに焼津という都市名が混じると、この日本旅行が単なる観光ではなかったことがわかる。つかの間の平和を裏切るように戦争取材が入り、数日後には再度日本に戻るはずが、取材中に地雷を踏みつけて、キャパは死んでしまう。そうでなければ私たちはキャパの写した日本の写真をもっと見られたはずだった。

 ノルマンディーへの従軍も奇跡の体当たりだった。100枚以上撮った戦火のさなかが、今は10枚ほどしか残っていない。多くは砲弾の飛び交うなか上陸する兵士たちの後ろ姿がピンぼけ状態で写し出されている。そのなかに一点、伏せながら前進する兵士を前からとらえたものがある。写真家がどれだけ兵士の表情をとらえたかったかがわかる。そのとき写真家は無防備に敵に背を向けて標的となっていたはずだ。

 一瞬の表情をとらえる写真家の眼は、戦争にとどまらず、普遍化できる写真の美学と言えるものだろう。空襲警報を聞きながら足速に過ぎ去る街角を写した写真がある。そこでも目をつけたのは表情だ。急いでもいないのは、オオカミが来たに慣れっこになって常態化した戦争を写し出しているものもある。もちろんキャプションによる説明がなければ、空を見上げるのはゆっくりと動く気球であっても、スーパーマンの出現であってもよい。

 通り過ぎるのを待つのと見送るのを写し出した二枚の組写真がある。何が通りすぎるのかは不明のままである。使用前使用後という、その後の写真の定番になるものだろう。もちろん前後を見極める決定打はない場合が多い。左から右に通り過ぎるのか、その逆であるのかは不明のままだ。通例、西洋では時間は左から右に推移するが、仏教的世界観では時間は右から左に移動する。広告写真とは反し、使用後が使用前よりも醜悪になっているのが報道写真の現実だろう。大勢が同じ方向を向いて、それぞれの表情がくっきりと写し出されている。おもしろいのは抱かれた赤ちゃんまでが、顔の動きに同調していることだろう。赤ちゃんを抱いた丸刈りの女性が通りを足速に歩いてゆく。まわりにはそれを罵倒するような表情が集まっている。キリストをあざける宗教画「この人を見よ」に似ている。これを見るには丸刈りはナチスに加担した母子に向けての仕打ちだという知識が必要だ。納得する一方で勝負の逆転に歓喜してもおれない人の愚かさに気づくことになる。

 一瞬を逃さないこと。それらは報道カメラマンのウォーミングアップとして機能する。私たちはあらかじめマラソンを待つ沿道の光景を知っている。それはパレードであってもいいが、パレードそのものを写し出さないことによって、期待という心情が可視化される。写真は評価を下さない。すべての人がキリストをあざけったわけではないが、私たちはあざけりをあらかじめ知っていて、その光景を見ているのかもしれない。もう一度ゆっくりと写真を見直そうと思った。


by Masaaki Kambara