第2節 外なる西洋

第534回 2023年3月18

1 小山正太郎-外なる敵

 天心を中心に考えると、小山正太郎はいつも敵役として登場してくるように見える。しかし実際は、全く逆の考え方をしているように見えて、明治を生きた同時代人としての共通性を多く見い出せる。言いかえれば、全く逆の解答を出してしまったが、両者は互いに同じことを思い悩んでいたのではないかと思われる。ここでは天心との同質性と異質性という面から、小山の思考を見ることで、洋画と日本画の対立及びその同化というテーマヘと結びつけてゆきたい。

 まず最初に少し詳しく、生涯についての事実関係をまとめておく。小山正太郎は新潟県長岡市に生まれた。父小山良運は長岡藩の医師で、長崎で蘭学なども学んだ人である。藩医ながら天下の動勢に明るかったが、家政のことは無頓着であったようだ。長男であった正太郎が11歳の頃、明治維新とともに長岡藩は没落し、方々を逃げ歩くうちに父は死に、小山は5人の兄弟とともに母に連れられ会津や仙台などを渡り歩いたという。その後、長岡に戻り漢学と英字を学んでのち、明治4年15歳の時に政治家を目ざして上京するが、すぐに川上冬崖の「聴香読画塾」に入門して洋画をはじめている。

 小山は漢学の造詣も深かったが、洋画を選択するにあたっては、奥原晴湖の薦めがあったようである[i]。既述したように晴湖は天心が習ったこともある女流南画家だが、「これからの人は洋画をやるがよい」と教えたといわれる[ii]。明治7年には川上の推薦もあって陸軍省兵学寮の図画教師に任命されるが、その時同じく陸軍省にいたアルベール・ゲリノオから図学と水彩画を学んでいる。明治9年には開校された工部美術学校に入学し、さらにフォンタネージの教えを受ける。ここでの小山の成績は優秀であり、明治11年7月の「改級表」では、小山・印藤真楯・松岡寿・守住勇魚・浅井忠という成績順位であった[iii]

 フォンタネージが政府の美術政策への不満から辞職した2カ月後、後任のフェレッチの質の低さもあって、明治11年11月11日工部美術学校を連袂退学した生徒のうち、小山・浅井・松岡が中心となって、「十一会 (十一字会)」という研究団体を組織した。同志の数も11人だったというが、神田今川小路の借家を事務所にして研究活動をはじめた。最初は小山が住みついて事務に当っていたが、のちに飯田町へ移転して浅井忠が母親と住まうようになった。その後同志が四散してゆき、小山が残ってこれを基礎に画塾「不同舎」を設立するということになる。

 フォンタネージが去り、国粋化する美術行政の流れの中にあって、小山はもっぱら作家活動よりも教育者としての仕事に追われはじめる。明治12年12月には、月俸30円をもって東京師範学校の職についた。フェノロサが「お雇い外国人」として日本に来た明治11年の月俸が300円、天心が明治13年にもらった初任給が45円であったことと比べると、それは決して高い給与ではない。以後、小山は図画教育界を舞台に根強い活動を展開してゆくが、結果的にみればそれが岡倉天心との間でなされた一連の論争に一つの解答を与えることになった。一時期には全国中等学校図画教員の三分の二は、小山の薫陶を受けた者であったといわれる[iv]

 しかし、明治25年から30年頃までは、教育界において毛筆画を採用する傾向が強まるが、小山の在職する東京高等師範学校でも、すでに明治19年に図画科に岡吉壽を教授として毛筆画が加えられた。女子高等師範の博物の補助学科としての図画にまで、日本画が入りこんだ頃であり、当時その相談を受けた岡倉天心は「いや日本画で十分だ、応挙の写生画を見給へ、立派なものだ」と言ったと言われる[v]。こうした状況下の明治23年10月、小山は毛筆画を支持する校長高嶺秀夫と対立して職を追われた。

 高嶺は西洋式の芸術教育をすすめる伊沢修二とともに、福沢諭吉の推薦を受けて、文部省留学生としてアメリカで教育学を学んだが、帰国後はじめは鉛筆画教育を推したが、「美術主義的な日本画法=毛筆画教育の中に、開発教授の考える、子どもの直観と個性の尊重が生かされる[vi]」と考えたこともあって、明治17年頃より時流に乗って、フエノロサの主張する毛筆画教育に同調してゆく。こうした中、小山の「これまでの施設は悉く破壊せらるるの非運[vii]」に陥るが、明治31年には再び同校に復職しており、その後は没年の大正5年まで図画科の主任を勤めた。しかし、この辞職以後は私塾である不同舎に全力を注ぐことになる。

 不同舎は明治20年に本郷の団子坂に移して拡張され、森鴎外の邸に隣りあわせた。不同舎の最も盛んだったのは、明治25・6年の頃であり、明治24年の夏に入塾した石川寅治の回想によれば、この頃の通学生は7-80人にもなり、研究室からあふれ廊下でまで描いているという状態であったようだ[viii]。塾では毎年春と秋に二度、一過間ぐらいかけて写生旅行を行ない、小山に引率されて30人ぐらいの塾生が参加していた。その頃の小山筆の鉛筆画が多数残されており、のちの小山筆の図画の教科書「中等画学臨本」(明治29年)に用いられたものも見られる。写生旅行は小山の教育者としての手腕をおおいに発揮するものであった。河合新蔵の文章が当時の写生旅行の様子をよく伝えており、この時の小山自身のスケッチも保存されている。

 「明治二五年二月上旬、吾等三〇余名が先生に引率せられ中央線八王子駅に下車、五日市町より日向和田を経て青梅町に出で、この沿道より散開して各自にスケッチをしながら往くと、前に通過した者が路傍の壁や坂塀に、全村皆画とか紅葉有村犬行など落書をしたものだ。それから多摩川を沿うて沢井に行き、小丹波に一泊、夜は其日のスケッチ(鉛筆画)を各自燈下のもとに修正し之を一室に陳列して先生の講評を受け、これで一日の仕事が終り、後は自由に高歌放吟するのである[ix]」。

 こうした写生画の中に、小山はしばしば小さく牧童や牛などを添ぇている。透視法を用いた小山の風景画は、当時「道路山水」などと呼ばれ、歴史的人物などを点景として添えることで、単なる写生そのままよりも絵に趣きを出そうとしたようである。この点では同輩の浅井忠があまりこしらえものをするのを好まず、門下に対して邪魔物を省くのはよいが、実際に無いものを添加するのはよくないと教えたのとは対象的である。小山は自分の作品だけでなく、門下の作品にも歴史的点景人物を加えたようであり、明治22年に洋画勢力を結集して開かれた第一回明治美術会展に出品された岡精一の「捜索」や小泉成一の「平軍南都二乱入ス」などは、小山の指図によったものと言われる[x]

 明治31年は岡倉天心が美術学校を退陣した年であるが、この年の春明治美術会も創立十周年を迎え、それを記念して上野の精養軒で祝賀会が開かれ、その席で小山の洋画東漸史についての演説が行なわれている。そこで小山は九鬼隆一を中心とする国粋保存派による洋画の迫害について、「赤子のうちにひねり殺す[xi]」というような激しい比喩を用いながら熱弁したと言う。


[i] 中村不折「小山先生の為人と其功蹟」中央美術 大正五年二月 九頁。

[ii] 石井柏亭『日本絵画三代志』創元社 昭和一七年 七頁。

[iii] 青木茂 『フォンタネージと工部美術学校』近代の美術46 (至文堂)昭和五三年 四二頁。尚、小山の履歴については、前掲の『小山正太郎先生』によるが、東京教育大学蔵のものとは食い違う部分もあるようだ。青木茂『油絵初学』筑摩書房一九八七年 二五七頁。

[iv] 『小山正太郎先生』前掲書 板倉賛治の回想一一二頁。

[v] 岩川先生「小山先生に就て」同書一一五頁。

[vi] 橋本泰幸「毛筆画教育移行への要因i開発教授と毛筆画教育」美術教育学第6号一九八四年 八五頁。

[vii] 板倉賛治「教育家としての小山先生」中央美術 大正五年二月号 八頁。

[viii] 石川寅治「不同舎時代の小山先生」中央美術 大正五年二月号 三頁。

[ix] 河合新蔵「駒込団子坂上時代の不同舎」 (『小山正太郎先生』所収)一六九頁。

[x] 石井柏亭 前掲書 四六頁。

[xi] 石井柏亭「小山正太郎」(『画人東西』所収)大雅堂 昭和一八年 九八頁。

第535回 2023年3月19

2 小山の欧州視察

 明治33年7月28日、小山はこの年開かれたパリ万国博出品の美術工芸品比較調査及び師範学校のための図画に開する事項の調査を嘱託され、マルセイユ、リヨンを経てパリに向かう。8月9日には香港にいて碇泊中の船上から鉛筆淡彩画を残している。翌34年3月頃に帰国した小山は、欧州視察にもとづく講話を随所で行なっており、それによると明治26年の黒田清輝の帰国以降、日本に導入された西洋の新美術の動向も、小山にとっては十分になじめなかったようである。これを聴講した石井柏亭は小山が次のように語ったことを伝えている。

 「(小山は)ダヴィツドとアングルとを以て19世紀仏国画家中最も偉大なるものとし、此二人を頼山陽に比するならば、ミレー、コローの如きは其角のようなものであるといい、マネー、ピユヴイス・ド・シャヴァンヌ、及クロード・モネー等の芸術を認めることをしなかった。マネーの『草上の昼餐』なども変なもので、女の肉体の明暗は『暈し足らない』と評された[i]」。

 晩年の小山は、青木繁、坂本繁二郎、荻原守衛、小杉未醍、鹿子木孟郎、吉田博など、不同舎に学んだ洋画家たちの大成の中で、悠々自適の生活を送っていたようである。大正2年に入塾した島添鶴雄の記憶によれば、先生は「余技として枯淡な味の文人画を描かれ、又御趣味として陶器の蒐集をなされ多数の逸品を所蔵して居られたが、油画の方は最早筆を持たれる事は無かった[ii]」という。小山は洋画を専攻しながらも漢籍の造詣が深く、晩年は殊に日本画の将来について心を傷めていたようである。小山の門下の一人であった満谷国四郎は、なぜ漢学をおやりですかという薄田泣董の質問に対して、

「自分の師匠の小山正太郎氏が、画を描く技術は自分が教へるが、それだけでは優れた画家になれない、画家には思想が要る、それを養ふには是非本を読めと云はれる[iii]」と答えている。

 また、明治37年に小山は天心不在の日本美術院に招かれて「日本画の発達に就て」と題した講演を行なっており、その冒頭で極めて興味深い次のような発言をしている。

 「日本画という言葉が、是は甚だ間違い易い言葉でありますが、日本画と云うのは日本人が作りさえすれば皆日本画である。其法式を印度に取ろうが支那に取ろうが、朝鮮に取ろうが若くは西洋に取ろうが、苛も日本人の手に依って日本の思想を発表したものは皆日本画である。是は正論で動かすべからざるものである[iv]」。

 これはのちに菱田春草が明治42年に「落葉」を発表した後に語った有名な考え方に酷似している。もちろん、小山の講演時に春草は天心、大観とともにアメリカにいたので、これを聞いてはいない。帰国後にこれを掲載した『日本美術』を見たことは、これが日本美術院の機関誌であるので、確実だと思えるが、この一致は直接小山からの影響というよりも、東西の長所を引き出して「第三の道」を模索していた春草の、そしてその背後にいた天心の考えでもあったと言うべきだろう。

 「現今洋画といはれている油絵も水彩画も又現に吾々が措いている日本画なるものも、共に将来に於ては-勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で製作したものとして、凡て一様に日本画として見られる時代が確に来ることを信じている[v]」。

 明治36年頃より小山の目も、徐々に洋画から日本画に移っていたようであり、やがて興味は同じく東西美術の比較の問題へと向いてゆく。当時の主要雑誌から、晩年に至るまでの小山の著述を拾ってみても、この推移は読みとれる。以下年代順にこれらの記事をあげておく。


明治35年5月・「ウィリヤム・ブグルヲ氏」美術新報 

明治35年5月・「小山正太郎氏の院画評」日本美術 

明治35年6月・「後素協会展覧会批評」美術新報 

明治35年6、8月・「洋画東漸の来歴」美術新報 

明治35年8月・「モロー氏小伝」美術新報 

明治35年8月・「ベンジャマン・コンスタン小伝」美術新報 

明治35年9月・「ジュールジョセフ・ルフエーブル氏小伝」美術新報 

明治36年1月・「日本画の将来」美術新報 

明治36年5ー8月・「先師川上冬崖翁」美術新報 

明治37年10月-12月・「日本画の発達に就て」日本美術 

明治38年6月・「小山正太郎君講演日本画ノ発達二就テ」日本美術協会報告 

明治38年12月・「美術協会展覧会雑感」美術新報 

明治39年1月・「芸術界に御用派を生ずる幣害」美術新報 

明治40年5月・「美術館評」日本美術 

明治40年10月・「小山正太郎氏演説所感」美術新報 

明治42年10月・「日本画の前途」美術之日本 

明治42年11月・「文部省展覧会雑感」美術之日本 

明治44年11月・「出品者の人格修養が肝腎-第五回文展評」美術新報 

大正2年6月・「古蹟を破壊しつつある保存会」絵画清談 

大正2年7月・「東西の花の趣味」美術之日本 

大正2年10月・「審査は寛を要す」絵画清談 

大正2年10月・「栖鳳に就て感じたる二点」絵画清談 

大正3年11月・「初期の展覧会」美術新報 

大正3年11月・「日本画に及ぼせる洋画の影響」審美 

大正4年3月・「芸術の寿命は斯の如く永久無限也」絵画清談 

大正4年10月・「世界的の法を取るのが一番近道-図画教育方針問題是非」美術新報 


[i] 石井柏亭「小山氏の追憶」中央美術 大正五年二月号 二三頁。同「小山先生の事」(『小山正太郎先生』前掲書所収) 七八頁。

[ii] 『小山正太郎先生』前掲書 二一三頁。

[iii] 薄田泣董「白羊宮」 (日本近代文学大系 角川書店 第18巷 三三〇頁)。

[iv] 小山正太郎君講演「日本画の発達に就て」日本美術 明治三七年一〇月 三頁。

[v] 菱田春草「画界漫言」時事新報(菱田春夫編著『菱田春草』大日本絵画所収 小高根太郎「菱田春草l生涯と作品」 三七頁)。この論でいけば外国人は日本画を描けないということになる。このことも日本画を論じる場合、重要な視点となるだろう。

第536回 2023年3月20

3 書と図画教育ー手段としての西洋

 小山正太郎の洋画家としての生涯をながめてみて、いくつかの興味深い事実に気づく。まず第一に彼が政治家志望であったということ、次に生涯を通じて漢学に親しんでいたこと、さらに晩年は油絵を捨て文人的生活を送ったことである。そして、最終的には芸術家としてよりも、教育者としての姿が濃厚に見えてくるという点がある。このことを天心との対比で見てゆくと、天心にとっての「英語」が小山にとっての「洋画」ではなかったかと思えてくる。つまり、それらは日本の精神を伝えるために、西洋を手段あるいは武器にしたという点で、二人はともに似かよった思考をしていたのではなかっただろうか。ただ違うとすれば、それは小山の洋画の活動の場が日本であったのに対し、天心の英語は日本では意味をなさないという点にある。

 小山が「書は美術ならず[i]」という時、それを文字通り受けとめられないのは、彼の父が優れた能書家でもあり、小山自身も書をよくしたことを考えあわせねばならないからである。小山は不同舎時代、父良運の書を愛し、彼の師である川上冬崖の山水幅、及び同じく師のフォンタネージが手を加えた自筆の油絵「男の顔」とともに、これを応接間に飾っていたようだ。

 一方天心は、「『書は美術ならず』の論を読む[ii]」を書いてこれを論破したものの、その冒頭では「美術の真理を考究する者、古来欧州に於ても甚だ稀なりとす」と前置きして、「今小山氏独り慣習を破り、臆測を離れ、書は美術ならずと断言し、大に世上の妾想を打破せり」というように、まず美術論の必要性という点で、小山を評価している。確かに本質論においては、書は美術に違いなく、建築を「実用技術の中にて美術の域に入るもの」として評価し、広い視野において書の芸術性を論じた点で、天心の論理に矛盾はない。

 しかし、天心は最後にこうした誤謬の結末を、結局は西洋の実利主義と合理主義に起因するものとして一本化し、「鳴呼西洋開花は利慾の開化なり。利慾の開化は道徳の心を損じ、風雅の情を破り、人身をして唯一箇の射利器械たらしむ」と言い「美術を論ずるに金銭の得失を以てせば、大いに其方向を誤り、品位を卑くし、美術の美術たる所以を実はしむるものあり」として、それまでの論旨を幾分屈折させたように見える。ここには本質論というよりもむしろ、洋画排斥のための打算が入り混じっていることは、言うまでもない。打算という点では、むしろ小山があえて「書は美術ならず」と言った理由の方が重要であったかもしれない。小山がこれを論じた明治15年には、前提として書が美術でありすぎたという事実があったに違いない。むしろ、その意味では、彼は「昨今の書は美術ならず」と言う必要があった。確かにこの前年の明治14年に開かれた内国勧業博覧会では、書は優遇され、洋画の審査にまで漢学者や書家があたったと言われる[iii]

 もし天心が真剣に書を美術として考えていたならば、この論文の末尾で約束したように、その後にさらに書論を展開していただろうし、東京美術学校に書道科を設けることもできたはずである。一方、建築は絵画・彫刻をぬきに考えられないものであり、美術学校開校以来、建築科の設置は天心の夢であったようだ[iv]。西洋画科は美術学校が設立されてのち、明治27年に講座が設けられ、黒田清輝にその指導が委ねられることになるが、書道科はその後も美術学校に入ることなく、師範学校を中心に活動を続け、今日に至っている。天心自身の、見様によれば悪筆ともいえる、型破りの右肩の下がった独特の筆法から見る限り、天心の芸術分類の中に書は含まれていなかったようにさえ思える。少なくとも書は師について学ぶに足るものとは考えなかったのかもしれない。その点では書をあくまで実用と見る点で、天心は福井藩の士族の子というよりも、実利に長けた横浜生まれの商人の子という意識の方が勝っていたと考えられなくもない。恐らくこの点に天心の書の面白さがある。それに天心にとっても「ツクイモ山水」の名を取る文人画排斥のためには、書は美術でない方が都合がよかったともいえる。


[i]  小山正太郎「書ハ美術ナラス」東洋学蛮雑誌 明治一五年五-七月。青木茂編『明治洋画史料 記録篇』中央公論美術出版 昭和六一年 八六-一〇六頁 に再録。ここで編者は洋画史の立場から「小山の置かれていた孤立した非勢な状況から発する切迫感を読まないと、岡倉の反論のように芸術論一般として超歴史的に書画を論じ、余裕をもった揚げ足とり、小股すくいになってしまうことになる(一〇〇頁)」としている。

[ii] 岡倉覚三「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」東洋学藝雑誌 明治一五年 八、九、一二月 (岡倉天心全集3 平凡社 昭和五四年 五-一二頁)。

[iii] 藤井信男「書と美術論-フエノロサ・小山正太郎・岡倉天心」書学 昭和四〇年一一月 三七頁。

[iv] 磯崎康彦、吉田千鶴子『東京美術学校の歴史』 日本文教出版 昭和五二年 七八頁。

第537回 2023年3月21

4 文人画批判

 小山もまた天心と同じく、明治に入ってからの怪しげな文人画の隆盛については批判的であり、フェノロサが明治15年に『美術真説』で用いた有名な比喩、「油絵は磨機の頂石にして文人画は其底石に等しく真誠の画術其間に介りて連りに鎧砕せらるか如し」についても、「日本画にも好刺激を與へつつあった」洋画を、フェノロサが「低級な似而非なる文人画」と同一視したことに、憤りを表明している[i]。しかし小山が晩年文人画に傾いたというのも、実は彼が本質的に大雅、蕪村らの築きあげた南画の本流をめざしていたものと考えられ、こうした趣味が小山の最初の師である川上冬崖からの感化とすれば、早くから小山の中に根づいていたと見ることもできる。その意味から冬崖と親交の深かった奥原晴湖が、小山に洋画を勧めたという事実は興味深いものとなる。

 小山は洋画家でありながら、洋学よりも漢学の方に興味を抱いていたことについては、いろいろな証言がある。詩も文章も普通の漢学者なみにこなし、外国語も用が足せる位には出来たという中村不折の発言もあるが、冬崖の「聴香読画塾」そして工部美術学校を通じて行動をともにし、国粋勢力の台頭した明治13年から21年までをイタリアにすごした洋画家松岡寿によれば、「小山君は漢学には仲々長じてゐたが、洋学には疎く、新知識と対抗して仕事をするには多少の不安があったやうである[ii]」ともいう。さらに小杉放庵の次の言葉も興味深い。

 「小山先生には、たとえ西洋渡来の画法と学んでも、学問は日本画の連中以上のものにしたいという腹もあったと考えられる。その学問が西洋学でなく多く漢学に傾いたのは、先生自身漢学の造詣深かった為もあろうが、やはり日本人は日本的の頭で西洋の技術をこなして行くといった見識であったろう[iii]」。

 ここで注目すべきことは、中村不折や小杉放庵という洋画と日本画を区別なく、違和感をもたずに追究した二人の画家が、ともに不同舎で小山の薫陶を得たという点である。不折ははじめ日本画を学んだが、郷里の長野で図画と数学の教師をしながら、洋画の初歩を学んだ。飯田の小学高等科に在職中は、偶然にも若き日の菱田春草を教えている。彼は春草について「もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり云ってゐた[iv]」と語っている。その後不折は明治20年に上京して小山の不同舎に入門するが、根岸に住みついて藤村の『若葉集』の口絵などを描き、文人との交流も多く、ことに頑固な日本画崇拝者であった正岡子規に洋画の目を開かせたことで知られる[v]。また天心が明治16年の一時期、根岸に住んで「根岸派」の文人たちと交わっていたことも、これに関連して興味深く、両者の精神的背景の共通性がうかがえる。一方、小杉未醍(放庵)も明治32年19歳で日光から上京し、不同舎に入門、小山のもつ東洋の古典に対する素養に影響され、油絵に日本的なものを求めた。水墨の筆をとる後年の放庵としての活動も、小山の和魂洋才の教えによるところである。さらに天心の一番弟子であった横山大観と意気投合して「絵画自由研究所」の設立を企て、その後再興院展の洋画部の中心人物として活躍するというのも、天心の教えと小山の教えが、二人の弟子を通じて融和しあったのだと見ることもできる。その意味では確かに天心と小山のめざす目的地は、互いに近いところにあったといえそうである。

 小山が洋画をあくまでも技法として割り切ったという点は、川上冬崖が家塾「聴香読画館」を設け、鉛筆画の臨写、着色石版画などによる水彩画、写生という順で洋風画の技法を指導しつつ、自分の趣味としては専ら文人画に親しんでいたということに由来すると考えられる。そしてそれが小山に鉛筆画による図画教育という道を切り開かせてゆくことになる。もっとも、冬崖の死が陸軍の地図紛失の責任を感じての自殺であったことに象徴されるように、鉛筆画は元々は軍事的な測量、地図製作、あるいは戦争の記録といった実践的な目的に使用されるためのものであった。

 小山の洋画に対する態度が、芸術家のものというよりも、実務家のそれに近かったという点で、作家活動としては同じ道を歩んだ浅井忠に一歩譲るようである。しかし、小山がいわゆる「西洋かぶれ」にならず、洋画にのめりこまずにすんだのは、彼が天心と同じく留学することなく、西洋を手段とし得たことに由来するようだ。それは「教育という無償の世界」に生きる潔癖さが、留学を妨げたということでもあるし、早い時期にフォンタネージという優れた師を得たからでもあっただろう。妨げられた留学の結晶が、この場合「不同舎」ということになるが、実際にはその後留学ではなかったが、先述の明治33年の8カ月にわたるパリ視察や、それに先立つ明治27年の日清戦争の従軍によってさえ、不同舎の熱気は、一時下降している。

 天心も日本美術院を創設後、明治37年に大観、春草を伴ってボストンに向かっている。同じ時期、下村観山もイギリスに留学しており、木村武山も日露戦役に従軍した。いわば主脳部の国外脱出ということだが、この場合天心の決断の前提は、その教育観が「一人でも天才が生まれる教育」であったという点にある。そのことから彼らの「国外脱出」は、日本美術院そのものの「国外進出」を意味することになる。こうした天心の教育観については、新納忠之介が次のように証言している。

 「岡倉先生の教育方針は特質ある傑物を作ろうといふので、強いて干渉して同じ型にはめようとしない、伸びるものは十分伸ばす、随って伸びないものは伸びないかも知れないが、百人の生徒中から、一人のエラ物が出るならよいといふ精神だった[vi]」。

 主力メンバーが去ったあとに残された日本美術院で、塩田力蔵は天心の無責任を糾弾して、機関誌『日本美術』に「鳴呼日本醜術院」と書き、小山が招かれて日本画の将来について講演を行なったのも、この頃である[vii]。確かに天心のこうした脱出劇は、明治35年のインド逃避行と、それに続く大観、春草のインド滞在にもあったわけで、小山の不同舎へのこだわりとは対照的な推移を示したようだ。書の論争においての勝利が、毛筆画の論争では最終的に敗北に終わるのは、つまるところは芸術と教育という今日的課題のモデルケースでもあったのだと考えればよい。

 天心が教えるということに、いわば無関心であったことは、大観・春草が弟子を取ろうとしなかったことにもつながる。しかし、それは教育者としての天心を否定していることにはならない。教えるというよりも、むしろ暗示するという方が近く、しばしば天心の批評は禅問答のようにも聞こえる。もっと正確に言えば、キリスト教思想の「啓示」という語に近いものがある。それは天心自身が技法を教える画家ではなかったという点にも由来するが、美術学校に高村光雲を招く時の問答から見て、技法さえもこの「啓示」を出発点と考えていたことが予想される。天心は光雲に対して、教える必要はなくて、ただ「あなたがお宅の仕事場でやっていられることを学校に来てやって下さい。…あなたの仕事を生徒が見学すればいいのです[viii]」と言って説得した。この精神はその後日本美術院の同人組織に受け継がれていく。


[i] 加賀幸三「小山正太郎画伯と其の座談」 (『小山正太郎先生』所収)六七頁。

[ii] 中村不折 前掲書一〇頁。松岡寿「小山正太郎君の事ども」(『小山正太郎先生』所収)四〇頁。

[iii] 小杉放庵『放庵画談』中央公論美術出版 昭和五五年 二一三頁。

[iv] 中村不折「私の学生時代」美術新論23。

[v] 正岡子規「墨汁一滴」(子規全集11 講談社 昭和五〇年 所収)二一九頁。

[vi] 新納忠之介「奈良の美術院」昭和一七年(橋川文三編 前掲書 六一頁)。また正木直彦『回顧七十年』にも「岡倉君に云わせれば、美術などというものは多数の凡庸は犠牲にしても、少数の天才が生かされればよい-というのであった」とある。

[vii] 塩田力蔵「鳴呼日本醜術院(日本美術院滅亡史)」日本美衝 明治三七年五月一-一六頁、六月 二四-三八頁。また「日本美術(六月号 五二頁)」には、読売新聞からの抜き書きとして「岡倉捨て、観山行き、大観・春草亦帰らず。武山軍に従ひ、塩田文筆に弄罵す。可憐ならずや美術院絵画科生」とある。

[viii] 『高村光雲懐古談』(大正一一年)新人物往来社 昭和四五年 二六三頁。

第538回 2023年3月22

5 芸術か教育か

 ところで、小山の図画選択の理由は、伝えられるところでは、容易に報酬が得られて学問もできるという点にあったようで、浅井忠や天心とは対照的に幾何学など数学への興味も強かったようだ。浅井は「幾何をやるよりは尿を舐める方が好い[i]」と言っていたし、天心も「卒業の際、文学の方の先生は、百点やっても足らぬ程の好成績だと云ふと、一方数学の先生は零よりももっと悪い成績だ[ii]」と言ったという。こうした小山の数学的な割り切れる論理は、普通教育という分野に活路を見い出してゆく。小山の初期の鉛筆画の主張については、よく紹介されているので、ここでは明治26年頃から10年間ほど続く毛筆画教育の最盛期をすぎて、ある程度の論議が出尽したのちの小山の考え方について見ておきたい。

 明治42年に小山は、郷里の新潟県教育会で図画教授法について講義をしている。その時の講述が冊子となって出ており、それを見るといくつかの質問に対して答えるという形で話が進められている[iii]。その中で「毛筆画と鉛筆画とに就いて、何れを課してよろしきか、御説明を」という問いに対して、最終的には「土地の事情の許す限りは、鉛筆画を課するがよろしい」と結論を出すのだが、それにゆきつくまでに繰り返して毛筆画の利点もあげており、晩年の小山の文人趣味の反映とも思えなくもない。

 しかし、基本的には普通教育と専門家の養成とは違うという立場を通しているようで、「小学校としての画の目的は、形態を正確に写し取らせるという事にある」ので、「毛筆は、とてもこの点になると鉛筆画には及ばない」と言う。ただどちらを採用するかは、土地の事情もあるので各府県の選択に委ねられており、小山も愛知県の瀬戸の例をあげて、「毛筆は、彩色を施すには、大いに適して居るので瀬戸などでは欠くべからざる事であらうと思はれます。この意で、毛筆と鉛筆との二法を、選定するがよろしいと思ひます」とも付け加えている。

 東洋画の評価については、この時期の小山にとってはかなり高いようで、普通教育を犠牲にしてまでも専門家を育てる必要はないとしても、「東洋の画を西洋人が歎質して居る」ことを強調し、「毛筆画は一種軽妙の筆意を現はした特殊の画趣があるので、欧米人が感心する」ことを認めている。問題は毛筆画が小学生のうまくこなせるほど容易なものではないという点で、小山は「その維持や、発達は全く専門家の任務とした方がよろしい」と述べた。普通教育の自律性という反論については、明治一七年当時の論争で、天心も十分に説明し難かったようで、思想を表現するのに物を書く能力が必要なように、「学童に描く能力を植えつけることは、一つの教育の目的ではないのか」と自問しながら、フエノロサに知恵を求めた書簡も残されている[iv]

 小山はその後も没年に至るまで、鉛筆画教育のことについては頭から離れず、大正4年の『美術新報』でも「世界的の法を取るのが一番近道」としてそれを「物を描く正確なる方法、即ち世界的の画法」という[v]。これは師範教育での日本画への圧迫に対して、荒木十畝が文部省に意見書を提出したのを受けての論述であるが、ここでは小山は毛筆画・鉛筆画という名称と区別そのものが、30年前の誤った議論に由来し、少なくとも教育界においてなすべき区別ではないと言っている。普通教育の図画は、普通教育としての本来の目的があるとして、専門教育と区別する考え方は、従来から引き継がれたものであり、本論執筆の頃では国定教科書の鉛筆画帖の中に、毛筆画が多くあげられたり、毛筆画帖の方でも従来の狩野派の粉本主義のものでなく、忠実な写生のものに変わりつつある現状も伝えられた。

 一方、「日本固有の画」については、小山は自分自身も試みるものだとして、「国民的趣味」を問題にしながら、それは「僅かな材料や、画法などの為めに消滅したり、増減したりする様な薄弱なものではない」と述べる。つまり、油絵は各国の者が学ぶが、イタリア、イギリス、フランスそれぞれで一目でわかる違いがあるし、書についても中国の筆墨を用い、中国を手本にしても日本固有の趣味が現れるというわけである。


[i] 松岡寿 前掲書 三五頁。

[ii] 栗原信一 前掲書 三九〇貢 参照。

[iii] 新潟県教育会編『小山正太郎先生講述 図画教授法講義』明治四二年 八八-九頁。

[iv] 岡倉天心全集6 平凡社 昭和五五年一一-一八頁。これについてのフエノロサの考えは、隈元謙次郎編・村形明子訳「ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵 アーネスト・フエノロサ資料」三彩 一九七五年三月 六三-七〇頁 参照。

[v] 小山正太郎「世界的の法を取るのが一番近道」美術新報 大正四年 一〇月 二三-二四貢。

第539回 2023年3月23

6 鉛筆画と英語―矛盾としての西洋

 小山正太郎が、洋画界の先覚者でありながら「それでゐて極めて日本主義の人で、従て皇室中心主義の熱烈な人」でもあったことは、確かに矛盾して見える。こうした愛国の精神は、具体的には彼の絵画上ではその背景に点景として歴史的人物を挿入するという方法に現れた。それははじめはフォンタネージゆずりの情趣に満ちたロマンチックな風景画の模索であったが、匠秀夫氏によれば、やがて豊臣秀吉の肖像を描いたりすることで 「逆行的に日本化への道を歩んで[i]」さらに「古風な愛国主義」へと至る。こうした意識は、明治27年日清戦争が始まると、画塾不同舎を一時放り出してまでも、志願して従軍画家となって平壌にゆくという実際的行動に現れた。洋画家の戦争記録という役割は、小山に限られたものではなかったが、小山はことに戦争というものに興味が深かったようで、近親には軍人も多く彼自らもその履歴の出発は、陸軍士官学校図画教授としてであった。

 そして、その延長上に師範学校という教育界への進出があることを思えば、先述の写生旅行も軍事教練のような趣きを持って見えてくる。高等師範時代の小山を語った平木政次の文章には、次のような一節がある。

 「写生旅行の時はその日程を最初に先づ定め、それを規則正しく実行し服装などでも、網袋に弁当を入れて腰に附け三脚はサーベルの様に下げて、恰も戦地へ出かける兵隊のやうな物々しい仕度で出かけたものだ[ii]」。

 さらに、不同舎の塾風についても 「質実剛健で規定や舎則がある、頗る厳格で丁度漢学塾のやうであった[iii]」と言われ、寄宿舎では小山の朗々たる吟声がしばしば聞かれたようだ。そこには西洋への憧憬を示す、いわゆるハイカラ趣味は見られない。漢学は国家平定の学問であり、もともと政治家志願の小山にとってはふさわしいバックグラウンドと考えてよく、黒田清輝ら次代の洋画家たちの「背広に大黒帽、小風呂敷の如きネクタイを房々とかける」ボヘミアン的な風貌と比べれば、むしろ画家らしくなく、「五分刈りの頭に丸顔で頬髯、身長高くは無いが泰然たる構え」をもった古武将のような風格をもち、話題もまた政治、社会、文化行政などに関するものが多かったようだ。

 こうした小山を取り巻く背景について、東京高等師範学校の『創立六十年』の記述には「明治11年に至り、校長伊沢修二師範教育の刷新を計るに及んで、陸軍師範学校の図画科の教授小山正太郎を本校に招いて、図画教育の根本的改革を行はしめた[iv]」とある。伊沢は師範研究のためアメリカに留学し、その合理主義的な精神をもって改革にあたった。その後、東京音楽学校の初代校長ともなるが、天心との関係でいえば、明治13年天心が19歳で文部省に就職し、最初に勤務した音楽取調掛の上司であり、やがて天心は伊沢と意見があわず美術の世界へと飛び出すことになる。そして、この対立は日本の芸術教育の出発点において、伝統保存の美術教育と西洋式の音楽教育という対比を生むことになる。こうした音楽教育の実情については、天心が東京美術学校長時代に音楽学校長兼任の意向を問われた時、市川団十郎を教授にするのなら引受けてもよいといった逸話に読みとることもできよう。

 ところで、こうした洋画家としての小山の内面の矛盾と同じく、天心にとっては「英語」が、彼の人格的矛盾の出発点になった。桶谷秀昭氏の指摘するように「自分の信条を英語で表現するという行為には万一孔孟の国とたたかう破目になったら孔孟の思想をわが武器としてたたかうという狙彿のあの有名なエピソードにみられる精神が流れていた[v]」と考えられるが、それはまたインドの人達と手を取りあって西洋に対抗するために、他ならぬインド支配者の言語である英語によって、意思の疎通をはからねばならないという、割り切れない逆説にもなってしまった。

 天心幼年期の横浜の光景は、五姓田義松の油彩画「港(横浜風景)」(1873年頃、神奈川県立近代美術館蔵)などに見られるように、服装、家並みともに和洋折衷的であり、自転車と人力車のゆきかうちぐはぐな矛盾を内包したものに見える。この光景が天心の人格を形成してゆくものであるが、それはまた太平洋に向かって開かれた港町だという点で、のちに天心が第一の挫折ののちに再起をはかる「五浦(いづら)」の地に通じるものでもある。

 明治38年(1905年)三月、アメリカより帰国した天心は、谷中の日本美術院の荒廃を見て、財政難に脳む美術院の将来を苦慮している。天心はすでに茨城県大津町近郊にある景勝の地五浦に土地を求めており、この年そこに住居及び六角堂を新築し、日本美術院の再出発をはかった。当時、五浦は辺境の地であり、彼は太平洋に面した荒磯のある高台に居を構え、海に突き出した岩場の突端に二坪にも満たない六角堂を建てた。この六角堂は、ある意味では太平洋をはさんでアメリカを見渡し、象徴的な意味で小さな横浜でもあった。そして、それは大久保喬樹氏のいう「最も天心的な表現のひとつ」であり「自然の営みを容れ、そこに人間を導き、出会わせるための類を見ない装置[vi]」であるとともに、極めて危ない足もとに立ちながら大海を見晴らしているという意味では、矛盾に満ちた天心そのものの象徴でもあった。

 私自身が1980年に五浦を訪れた時の印象でいえば、六角堂に入った時不思議に思えたのは、ガラス窓を通して三方に広がる海を見ながら、海の音が聞こえないということと、大きな身体を折りながら畳の上に座り込んだであろう天心の幻影だった。それは躙口から茶室に入り込む茶人の姿をも思わせ、限りなく小さな空間の中に大宇宙を包みこもうとする、いわば「カップ一杯のヒューマニティ[vii]」に他ならない。また聞こえざる波の音は、天心が木村武山の「阿房劫火」や観山の琵琶を奏でる弁財天の絵に下した「まだ音が聞こえてこない」という暗示的な批評と対応するものでもあった。

 


[i] 匠秀夫『近代日本洋画の展開』昭森社一九六四年 六四頁。

[ii] 平木政次「高等師範に於ける小山先生」 (『小山正太郎先生』所収)一〇二頁。

[iii] 河合新蔵 前掲書一七〇貢。

[iv] 横山健堂「小山正太郎氏の風格及びその文化史上の地位」中央美術 昭和九年一一月号 二四頁、参照。

[v] 桶谷秀昭「岡倉天心と英語!美とアジア認識」昭和四六年(橋川文三編 前掲書 二一七頁)。

[vi] 大久保喬樹 前掲書一二貢。

[vii] 『茶の本』の第一章は、The cup of humanityとあり、平凡社版桶谷秀昭訳では「人情の碗」、浅野晃訳では「人間性の茶碗」とされる。大岡信氏の指摘によれば、これは「a cup of tea 一杯のお茶という日用語」をもじったものと考えられる。大岡信『岡倉天心』一九七五年(大岡信著作集9 青土社  一九七八年  一六三頁)。