二つの円環:岩崎正嗣・近藤千晶

2021年10月5日(火)~10月10日(日)

天神山文化プラザ(第4展示室)

円を描いてきた絵画の歴史で思いついたのは、次のような作例だった。

九州チブサンの装飾古墳

マレーヴィチの黒い円と十字

カンディンスキーの点線面

ジャスパージョーンズの標的

吉原治良の円

利休・織部・遠州による茶碗の三つの円

円相図とりわけ仙厓のマルサンカクシカク

・中西夏之「霞橋を渡る二ツの輪」

展覧会に合わせて「放談○(まる)の芸術」と題したギャラリートークが開かれた。「円」の話題は金儲けの経済学になる場合が多いが、ここでは浮世離れした芸術学、ことに抽象絵画論が語られる。カタカナで書くと世代によればマルクスを連想してしまう。ひらがなでも酒飲みにとっては日本酒名となり、つまりは多様な解釈の可能を楽しむ言語学、簡単にいえば頭の体操となった。展示では二人の円環の解釈が提案されている。

岩崎正嗣は円環を4点並べてシリーズとしている。それぞれは同じ形をしているのに人格は異なっている。元型が何かは不明のままだが、それぞれが肖像画に見え出してきた。ここからは、十字になったすきまが十字架に見えた私の妄想だ。キリストやマリアをデジタル変換して円形にするとどうなるのだろうか。悲しみのマリアはいつも青の衣服を着ているし、キリストの流す血は赤い。悲しみの色はいつまでも残り続けるだろう。あるいはここに並んだ4点は人格化された福音書として、描き分けられているのだろうか。元型が何かわからないほどに解体され再構成されている。アナログ時代ならキュビスム的変換といっただろう。これを再度解体すると16のパーツに分かれるが、その組み合わせを変えると、必ずしも円にはならず、新しい統合体が誕生する。となりには目を閉じたデスマスクが4点並べられ色ちがいにされている。セルフポートレートなのだろうが、ここでは逆に同じ顔が四つの人格をもっている。

 元型が何かを明かさないところが謎めいてみえる。作者のトークには血液や体液という語が飛び出した。生々しい人体が解体され円環に「変換」されている。人間には四つの体液がある。四分割された断片の亀裂は十字をなすが、その交差する中心は不在の穴なのに光を宿して輝いてみえる。宗教的に解釈されないためには十字架に見えないほうがいい。モンドリアンに先例があり新しくもないが、全体を45度回転すると、ダイヤ柄のシェイプドキャンバスが誕生する。その時、亀裂にはエックスの文字が浮かび上がり、手足を伸ばした人体が浮き出してくる。はっきりとみせるには、すきまをもっと広げてみることだ。レオナルドやデューラーが模索した人体比例説が浮上する。

 この時どのように吊るすかという難問が起こってくるが、それはここでの展示という今しかない時間を刻むアイデンティティとなる。別の場所では組み合わせを変えて、今とは異なったすきまをつくることができる。自作を用いたインスタレーションは無限に繰り返すことが可能だ。それが断片を固定せずにいる意味だろう。

 近藤千晶の描く円は、白くくり抜かれた穴である。穴は普通には暗いものだが、それは私たちが穴を上からのぞきこんでいるからだ。逆に私たちが穴に落ち込んでいたら見上げる穴は白い。小さなドットが取り囲み「白い穴」を浮き上がらせる。つまり白い穴は結果的にできたものであって、はじめから意図したものではない。この場合円は輪郭をもたない印象派の絵となる。無数のドットは執拗なまでにくりかえされている。それは白光に至る日々の祈りのように機能する。穴は上か下にしかないはずで、壁面にかかる絵画では、穴がのぞきこむものなのか、見上げるものなのかはあいまいなままだ。開かれた四角い窓ばかり描いてきた絵画論に揺さぶりがかけられる。

 円環が取り囲む空洞になった部分に目がいくと、そこにはじつは何もない。円は円盤と円環からなっている。円環は円盤の輪郭線のことだ。太くなるとドーナツになるが、線は厳密にいえば見えるか見えないかの細い糸のことだ。王冠(クラウン)に由来した語にコロナがある。コロナはミクロとマクロが一致する形だ。望遠鏡で見える太陽の輪が、顕微鏡で見えるウィルスの形に反響する。そこでは見えない糸が両者を結んでいる。二つの点が並んだ記号はコロンと呼ばれる。点は円の元型だが、厳密にいえば点は目には見えない。イサムノグチの石の彫刻に、ただの大きな輪がある。ただの円環なのに表面は磨かれて輝き、まだらになった色調に見入ってしまう。しかしそれ以上に目がとまるのは、なかに入っている空洞の円だ。

 壁に立てかけることで絵画を解体し、そこでも円が語られている。5点のシリーズが並んでいる。壁面展示には大きすぎ重すぎるという物理的理由をこえて、絵画はそこでは立体に変貌する。これは絵画とは何かを考え続けた中西夏之へのオマージュとして描かれたようだ。「霞橋を渡る二ツの輪」というパフォーマンスが、15年前に倉芸の退任記念展としておこなわれた。4メートルの鉄の輪を通して倉敷の自然をすくいとる不在の絵画だったが、絵画とは金魚すくいの輪のようなものだという表明にみえた。ここでの大作は鉄の輪が壁面に立てかけられた光景に呼応している。

 金沢21世紀美術館では、タレルが天井に四角い空をくりぬき、カプーアがまるい穴を黒く彩色することで、遠近法を超越し、凹凸の区別もつかず、鈍くかがやく発光体でありながら、閉ざされた闇でもあるというアンドロギュノスが誕生している。この枠組みとしての絵画を念頭におくと、ここでの白い穴とは光る闇のことだったのだとわかる。

 人間サイズをこえることで見え出してくる驚異がある。近藤のアナログの大作に対し、岩崎のデジタルでは、円環が手足を伸ばした人間サイズに収まっているのが興味深い。ともにマルが円に変わる経済学を希求するが、今のところ在庫は増え続けていて、経済的ではない。二つの円にもうひとつ○の要素が加わるとしたら「円相図」に集約する東洋思想だろうか。子どもの頃、赤インクでマルをつけてもらってうれしかった答案の思い出がある。円相にみる歓喜の一瞬だった。そこでは世俗を超越し、円は完結せず、永遠でもない。円は饅頭に見立てられることはあっても、マネーとは無縁だ。無円は不定形をなし、始まりがあり終わりがあるのだと教える。犬が尾をくわえようとしてとどかず、くるくると回る姿をみて、未完こそが永遠なのだと思ったことがある。究極の円を求めて描き続けることができるのは、経済学も芸術論もこえた、唯一無二の幸福論であるにちがいない。

円は線だろうか面だろうか。円環と円形を区別すると、円はどちらでもあるということだ。美術の話にすれば、絵画でもあり彫刻でもある。絵画の場合、円を描くと始まりがあり終わりがある。版画の場合はそれがない。始まりと終わりは一度にプレスされる。円環を考えた場合、棒の両端をくっつけて溶接する場合と、紙や石をくり抜いた場合とがある。輪がつらなっていると、結び目が気になる。円には始まりがあって終わりがあると思っている。その場合は、蛇が尾をくわえてできた円環のことだ。

台湾の博物館で輪がいくつか繋がっているのに、継ぎ目がない「玉」(ぎょく)を驚異をもって見つめ続けたことがある。中国文明の偉大に驚嘆する一瞬だ。輪は棒を曲げて接着するものと思っていると、これはマジックに見える。石からくり抜かれたものだとわかると納得はいく。輪がふたつなら頭でなんとかついてゆけるが、いくつもつらなっていると、なみの頭ではついてゆけない。遠近法をおもしろがったウッチェロをはじめ、初期ルネサンスの素描に驚いたあと、それを凌駕する東洋の神秘に出会うことになるのだ。

円の誕生をめぐる絵本を考えている。地球が誕生してまもない頃、生命体は地を這っていた。今も残り嫌われている蛇のことを思い起こすとよい。蛇が自分の尾をくわえたとき、あれっと思った。食べはじめるとうまかった。どんどん食べ進め、ぎりぎりまで食って口を離すと、蛇はワニに変わっていた。そこから四つ足の動物が誕生した。尾はくわえにくくなった。その名残りなのだろう、いまでも犬や猫が自分の尾をくわえきれずに、くるくる回っている姿を見つけることができる。これが円環運動のはじまりであり、線が円になる神話だ。

円は究極の直線のことだ。地球上で直線を引いていくと最後は円になって完結する。円は線で引かれると見えない。点線面は概念であって、実在はしない。点も線も目に見えるときは面である。平面も厚みをもつと立体になる。面には厚みはないので、それは存在しない。円は点の輪郭線のことだ。点は必ずしも円ではない。円は線のことだ。円は面であって立体ではない。円が立体になると円環となる。円環は円を連ねて円にしたものだ。

円は点線面と同じく、究極の形だ。多角形の最小は三角だが、四角、五角、六角と増やしていくと、無限大の位置に円が登場する。カンディンスキーはマルサンカクシカクを分類し、三角は鋭角、四角は直角、円は鈍角だという。はじめ鈍角の意味が分からなかったが、円が究極の多角形だと考えると納得がいった。円を考えることは、抽象絵画論を語ることだ。点と線と面が出発で、この三者は厳格に考えると、ともに目に見えないものだ。目に見える点は面であるし、目に見える線も面である。つまり面積をもつということだ。平面もまた立体が厚みをなくしたものだが、そんなものはありえないから、すべては立体ということになる。つまり手で触れられるものということだ。ところが円は点でもあり線でもあり面でもある。

誰が発明したのか、円環という概念はすごいものだと見えてくる。ひものはしを両手でもって始まりと終わりをくっつけると、終始はなくなってしまった。その形から読めてくるのは、1が0になったということで、ゼロの発明と言い換えてもよいだろう。ゼロとは何か。何もないことであるが、始まりも終わりも解消されるという点では永遠を意味する。永遠は無限大のことだとすると、何もないこととは矛盾する。それを無と呼ぶと東洋思想の神秘学につながっていく。ゼロの発明は古代インドでのことだが、深遠な奈落に落ち込むような響きをもっている。穴は押し並べて丸いものとされている。そしてそこは光のささない闇である。天地創造は光あれという掛け声からはじまる。

光は直進するだけで円にはならないものだ。そこに光輪や円光や円相を用いることで、永遠不滅を成し遂げようとする。普通は物事には始まりがあって終わりがあるものだが、円環は目的地に行こうとしないアナーキーな思想のことだ。子どもの頃、大阪にいたが、始発と終着駅があるはずの鉄道に、環状線が登場したとき、新しい時代の誕生を予感した。1961年のことだった。まっすぐ進んでいるのに円環を描いていることがある。環状線の場合は、左右の揺れを傾きを通して感じるだろうが、地球上を前進すると、一回りするといつのまにか円環をなしている。これが人間存在の矛盾に根ざした真理のことだろう。

by Masaaki Kambara