森山大道 光の記憶

2023年04月12日~06月26日

島根県立美術館


2023/06/19

 写真のもつ磁力に圧倒される。これまで森山大道展は何度か見た覚えがあるが、断片的でこれほど大規模なものではなかった。島根県立美術館での写真展は、塩谷定好をまとめてみたときの記憶が鮮明だが、今回もそれに劣らず充実した内容だったと思う。常設展示では自前の写真コレクションを並べることで、森山大道の写真史での立ち位置を、確認することができた。

 自作の原点がダゲールタルボットにはなくて、ニエプスだというのが興味深い。写真史のオーソドックスからは逸脱しているが、ニエプスの光に対する感受性は、芸術的ともいえる感性に裏打ちされているようにみえる。写真の迫真が今にも動き出しそうな予感だとすれば、それは永遠にとどまり続ける背信に固執しているように思う。長時間をかけて辛抱強く待ち続けることが、瞬時に反応しようとするその後の写真史の技術的進化を、否定し問い直そうとする。ニエプスと新聞写真が結晶して開花したのだという自己分析は興味深い。後者の時事性ないしは通俗性が、ニエプスの聖性と出会い、本来は反発しあうものが、化学反応を起こしてまったく異なった新生を誕生させたということになる。

 カラー写真では消えてしまいそうなあやうい光の階調によって、ときに暗すぎて目を凝らしても見えないような闇の実相に抵触している。背を向けた横顔が、横目でかろうじて見返すようなまなざしが、正視する目力を上回っている。代表作の野良犬のまなざしだけではない。去り行くバスの後ろ姿や、道ゆく少女の背中にも、その背信は定着している。ときに白黒で写し出された満開の「桜花」が、深く沈み込んで、散花の絶望を予感させている。じつにみごとだ。絶頂はいつも一抹の不安をともなっている。秀吉の醍醐の桜を思い浮かべながら、権力者のこころの闇にも通底するものだった。散華(さんげ)とは仏教用語で死を意味するが、懺悔(ざんげ)と語呂合わせとなる語である。

 杉本博司かと思わせるまっすぐな水平線の海があった。どちらが先に目をつけたのかは知らないが、不気味な底知れない暗黒が広がっているようにみえる。これもまた秀吉だ。そしてこれらの闇がいとおしく美しいから不思議だ。美に隠された醜を考えると、醜いものこそが輝きを放ち、鈍い光で私たちに訴えかけている。野良犬してもそうだ。私たちはそれらを救おうとして、私たちが救われようとしているのだと気づく。森山大道の写真には、そんな啓示が潜んでいるのだと思った。かつて寺山修司がひとめ見て森山に惹かれたのもそれだったし、私たちが寺山に惹かれるのもそれだった。

 野良犬のはなつ眼光は、猫ややゾウやイノシシ盲人少年役者と姿を変えても、同じように繰り返されている。そしてこの写真家もまたそれをもつのだが、いつもカメラを構えて眼のありかを隠している。それがときおり姿をみせる。ガラス面の反射がそれを映し出している。カメラの眼に隠されて野良犬の目には気づかない。その出現はヒッチコックのサスペンス映画のようにミステリアスで、どこかに小型カメラをかまえる写真家の眼があるのだと、目を皿にして表面を探り回していく。そうしないと見過ごしてしまう何でもないスナップであるということも、重要な写真術だと思う。名作はいつも、未知の破棄に支えられている。それが膨大なほどに名作の条件が整えられていく。写真家といえどもそんな作品が10点もあれば十分だろう。


by Masaaki Kambara