日比野克彦展 明後日のアート

20210918日~1107

姫路市立美術館


 久しぶりに充実した展覧会に接した。「段ボール」なんてと評価していなかった、これまでの思い込みを恥ずかしく思った。たかが梱包材にすぎないという軽蔑にも似た差別意識をくつがえして、変幻自在な段ボールの魅力を満喫することになった。レディメイドのオブジェにちがいない。自然界で見つけ出された物質の神秘を最高の基準としてきたファインアートの権威が失墜する。美術品概念は小気味良く解体され、段ボールが同等以上の自己主張をなしている。それはむき出しにされているのに、常識的な額縁に収められて、タブローとして完結しているものもある。ザマアミロというバリアが築かれて、近づきがたいオーラも放ちはじめている。消耗品として影も形もなくなっているはずの美学が、フォルマリンに漬けられて生き延びたという印象だ。当時よりもたくましくなっていることも確かだ。美術品としての風格を備えてきたといってもよいか。


 ひとまわり大きいジャンパーやシューズが、従来の彫刻的価値を拡大する。段ボールなどは知らない19世紀以前の目には、驚異的な素材の可能性として見えるだろう。平面にも立体にもなるという可塑性があり、鉄、コンクリート、ガラスにはない温かみのある肌ざわりは、衝撃を柔らかく包みこむという特性を、一目見て感じ取っているはずだ。貼り付けることで適度な厚みが生まれ、大げさにならない平面性を保ちながら、保存への道筋を用意する。展示効果は立体がしっかりと担っている。平面はそのまま収蔵に適した美術品としてもくろまれる。


 わずかな厚みが引き起こすレリーフとしての効果は、遠近法の奥行きをレリーフ彫刻の現実の深みと重ね合わせてトリッキーな空間を実現している。脚立の手前の部分の出っ張りなどはみごとな視覚効果を出している。トロンプルイユ(めだまし絵画)を応用した古典的でルネサンスの風格を備えて見え出してくる。段ボールにしたしみ、試行錯誤するなかから誕生した技法といってよいだろう。低学年の美術教材としても有効で、図画でも工作でも使用できるオールマイティの素材となった。それをワークショップと呼びかえれば、コミュニケーションアートにも広がりをみせていく。段ボールからはじまり、明後日のアートを希求する行動の方向性は、この素材にすでに内包されていたようだ。油彩が孤独で自己を見つめる素材であったことと対比して考えるとよい。段ボールを切って貼って彩色するのは、もちろんひとりでもできるが、クラス全員の文化祭を取り持つ輪となればもっと楽しいはずだ。

by Masaaki Kambara