衣笠豪谷展

2019年11月08日~12月15日

岡山県立美術館


2019/11/22

 特別展で誘って、常設展で勝負するという美術館の戦略は、今回も功を奏したようだ。第66回日本伝統工芸展岡山展は、例年通りの質と量を確認しながら、年中行事として推移した。第9回 I氏賞 受賞作家展も回を重ねて、熱意が減少気味なのか、展示が間延びしてしまった感はある。炭田紗季は一点だけしかないが大作だ。かつての映画館の看板を思わせるレトロな画風に、横尾忠則の再来を見た気がした。兼行誠吾の陶芸は岡山的ではなく、経歴を見ても、岡山生まれではあるが、愛知県の伝統を踏襲している。停滞した備前焼への刺激材料としては有効だ。ことに軽やかな光の取り込みが、透明感のある造形へと進展している。

 衣笠豪谷展は、熱のこもった企画で圧倒された。常設展のレベルをはるかに超えている。前回の太田三郎展の場合と同様だ。今回はそれに加えて人形作家である秋山信子が収集した「中国少数民族の衣装」という展示も加わって、和洋中のてんこ盛りとなった。民族学博物館の領分を侵犯できるのは、創作人形の香り豊かな仕草の情趣のおかげだ。人形はミニチュアとなって同じ衣装を着ている。

 衣笠豪谷(きぬがさごうこく)の立ち位置は重要だ。明治初期の日本画復興の気風の中で、南画家は憂き目を見て、今日でも過小評価が続いている。豪谷の名も、狩野芳崖や橋本雅邦の影に隠れて、埋もれてしまっていたようだ。その発掘に向ける美術館の意欲と使命感が、ひしひしと伝わる好企画となった。岡倉天心一派の、いわば関東勢の台頭に、冷飯を食わされたのは、洋画家だけではなかった。

 こんな画家がいたという紹介は、地元の美術館の使命ではあるが、もうひとつの使命は、適切な評価を与えることだ。形骸化した力のない南画だからこそ、つくねいも山水と揶揄されもしたのである。確かに芳崖を前にすると、何を持ってきても弱く目に映るだろう。しかし肩を張って西洋に対抗するのではなく、日々の暮らしの何気ない一瞬が見せる輝きも、江戸から引き継がれた捨てがたい日本美の結晶だ。

 豪谷では形骸化した山水よりも身近な花鳥画に輝きが見いだせる。魚介や野菜などさらに身近な画題がいい。鶏も好んだところを見ると若冲と共有するところがある。若冲ブームは近年のことだから、豪谷は知る由もないだろう。あるいは明治期の万博で若冲は海を渡っているのだから、その存在を意識していたかもしれない。もちろん画風は異なるが、八百屋や魚屋の店先を面白がって、絵になる観察眼を鍛え抜いたということかもしれない。過大評価もできないとは思うが、中国での事跡もあとづけて、官僚としての実務も踏まえながら、まずは基礎的な沿革をたどった点では、大きな業績と言えるだろう。


by Masaaki KAMBARA