第2章 ジョットの時代とシエナ派

イタリアと北方/中世のピエタ荘厳の聖母/アッシジ/パドヴァ/ユダの接吻/嘆きの天使シエナ派/シモーネ・マルティーニ国際ゴシック様式

第252回 2022年5月17

イタリアと北方

 ルネサンスの夜明けはジョットとともにはじまるが、その後国際ゴシック様式の台頭により、中世に逆戻りする。しかし一方でそれはドゥッチオ、シモーネ・マルティーニ、ロレンツェッティらシエナ派の画家たちとともに中世の薫り高い華麗な様式を生み出す。ここではジョットが描くキリスト伝の表情のドラマや、シエナ派の甘美な「荘厳の聖母」などに注目する。遠近法と解剖学に根差したルネサンスの絵画原理の探求を基調にする。ルネサンスといっても3世紀近くの流れなので、それを時代ごとに追っていくというのが第一点、そしてイタリアルネサンスと北方ルネサンスという二つの対比を見てゆくのが第二点だ。

ルネサンスはイタリア、ことにフィレンツェを中心に話は進められていく。そこに北方という対概念を当てはめても何が北かはよくわからない。イタリアよりも北だが、イタリアに行くのにアルプス越えをする地域、フランスやスイス、あるいはオランダやドイツやイギリスだ。実際はイタリア以外をひっくるめて北方ルネサンスといっている。北とはついているがアルプスを越えていったらすべて北方だ。そうすると地域的にはイタリア一国に対して、北方というのはイタリア以外の総ヨーロッパ連合ということだ。

 それでやっと両者は対抗できるだけの力関係になる。ということはイタリアというのはルネサンスで、質量ともに美術の宝庫であったということだ。政治力や軍事力はひとまず置いて、文化や芸術という分野でみるとイタリアは際立っている。イタリアに行くとどこを歩いていてもルネサンスという気もするし、その中心がフィレンツェである。そしてローマ。ここは古代ローマが基盤にあって、古代世界の上に中世キリスト教の中心である法王庁が乗って、その上にルネサンスがあり、さらに17世紀から出てくるバロック美術もローマが中心になる。16世紀以降中心がフィレンツェからローマに移っていって、ローマ中心という美術世界の構図が、19世紀まで続く。フィレンツェとローマの関係は地理的関係だが、時代でいえばギリシャとローマの関係に似ている。フランス美術は17世紀になってやっと形を整え、パリが浮上してくる。18-19世紀をかけて世界の美術の中心になるが、20世紀の後半になるとあっさりとニューヨークにその席を譲るという流れだ。

 パリが中心であったのはたかだか200年くらいのものだが、ローマは古代から含めれば1000年を越える文化の中心でありつづけた。ローマをめざして北方の画家たちはアルプスを越えた。イタリアに行くのにアルプスを越えないと行きつかない。この場合微妙な位置にあるのがスペインや南フランスで、アルプスを越えなくても地中海を海沿いに行けばことたりる。この場合アルプス越えにはならないが、フランスは北方に含めて語られる。ネーデルラントの場合でも体力に自信がないと、アルプス越えを回避してフランスを南下して海沿いにイタリアに入るルートもある。

 スペインはまだ15・16世紀段階ではめぼしい作家は出てこないが、文化的にはイタリアとネーデルラント両方の影響の強い土地だ。スペイン絵画の地歩を築くのはエル・グレコ(1541-1614)であり、彼はルネサンスの美術の流れからみると、イタリアでの後期ルネサンスにあたるマニエリスムの作家だ。スペインの美術はその後ベラスケス、ゴヤ、ピカソ、ミロ、あるいは建築ではガウディなど断続的に巨匠を輩出するが、17世紀でやっとヨーロッパの美術史上で位置が確定されていった。グレコにしてもスペイン人ではなく、ギリシャ人ということである。ギリシャ人がイタリアで学んでスペインに流れ着いて、トレドに居を構え一生を終えたということだ。これがスペイン美術の出発点である。それはまるで信仰を伝える宣教師のようでさえある。この美術という名の信仰のメッカがギリシャだったというのもできすぎた話ではあるが。

 北方ルネサンスの中心になるのはファン・アイクからブリューゲルまでのネーデルラント絵画と、デューラーを中心にしたドイツ美術で、それ以外のたとえばイギリスなどはこの時期にはまだ美術の目も開いていない。イギリスの場合、スペインでのエル・グレコの役割を果たすのが、フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)だ。その後イギリスが美術の世界で大手を振って歩き始めるのは18世紀からで遅れを取っている。もちろんこれはルネサンスの波及を言っているだけで、地元では独自の美術のスタイルがある。ケルトブームも今では久しいがキリスト教が入り込む以前の地域の美意識は、無尽蔵に広がっている。

 こういったフォークロアはそれぞれ各地にある。それを再発掘する中で出てくるのは、いわゆるタブローの絵画ではなくて装飾、文様、工芸作品などだ。ルネサンスという大きな流れではなくて、ローカル色豊かに受け継がれ、それぞれの土地に息づいている文化はもちろんある。ここでは美術のメインストリームだけに焦点を当てる。中世からルネサンスへという流れをまずは取り上げる。中世のキリスト教世界は長い。いかにそれを打ち破ってルネサンスが出てくるかという話である。

第253回 2022年5月18

中世のピエタ

 まずは中世絵画との比較をしておこう。ここに13世紀はじめにピサで描かれたピエタ像がある。取り立てて重要なものではない。主題はキリストが死んだのを悲しんでいる聖母である。中世的であるのはバックを金地でおおっている点。背景に山や風景はない。たとえば「モナリザ」の背景には展望のきく山岳風景が見えるが、ここでは金地でうめつくし、遠近感覚はまだなく、画面が平坦に張り付いているように見える。ある一定の日常空間ではなく、どこでもない場所にいるということだ。キリスト教でも仏教でも金地は、聖なるものの表象として共通している。ここではキリストの遺体を抱いてマリアが悲しんでいる。図像学的にはピエタという主題だ。

 ピエタはその後ミケランジェロも彫刻で表現するし、中世からルネサンスにかけて盛んに繰り返されるテーマだ。ここではマリアとキリストのほかにも登場人物がいるが、顔を見ていると同一人物に見える。手の表情はすこし変えて動きを見せているが、飛んでいる三体の天使は、同じものがすこしずつ変わっていくようで、描き分けてはいないようだ。

 図柄を見るだけでピエタという主題はわかる。横たわっているのはキリストで、泣いているのはマリアだとわかるので、表情で描き分けるという意識はない。中世では見分けにくい場合には、これは洗礼者ヨハネで、これはマグダラのマリアでというふうに、下にネームプレートを付ければいい。顔を見るとみんな同じ顔をしている。現代の写真家を例にとれば、澤田知子の集合写真では、全員が写真家本人の顔になっている。この写真がおもしろいのは、中世へと回帰する反ルネサンスの視点にある。個を描きわけるのではなく、種を同一化するという点では軍隊が示す様式美に似ている。イタリアが文化で世界を制圧したのは、個の礼讃にあるが、それによって軍事力ではフランスやドイツに制圧されてしまったようだ。

 そして遠近感覚はまだ芽生えていない。ルネサンスになるには、絵画で奥行きを表現できるということがポイントだ。遠近法はルネサンスと切っても切れない間柄にある。遠近法が発明されるまで絵画は建築にも彫刻にもなれなかった。つまり絵画以外のものではなかったが、遠近法の誕生によって絵画が美術を支配するものになっていく。奥と手前という意識が中世的なものを脱してやってくるのである。

第254回 2022年5月19

荘厳の聖母

 そうした流れを知る三点の同主題の作品がある。まずはチマブーエ(1240c.-1302c.)の描いた「サンタ・トリニタの聖母」(1290-1300)、この主題は「荘厳の聖母」(マエスタ)でマリアが幼児キリストを抱いて玉座につき、まわりを天使たちがうめているという絵だ。チマブーエはジョット・ディ・ボンドーネ(1267c.-1337)の師匠だが、両者を比較するとちがいが明確に見えてくる。ジョットはいかに新しい世界を切り開いていったかがよくわかる。

 二点はともに大作で、フィレンツェのウフィツィ美術館に並んで展示されている。ウフィツィの第一室にはこれに加えて、シエナ派のドゥッチオの同主題の大作「ルチェライの聖母」(1285)も並ぶ。それぞれが様式的に異なるが、比べてみるとジョットの「オニサンティの聖母」(1310)が際立って見えてくる。チマブーエでは奥行き感覚がまだ十分ではない。天使が両脇に八体並んでいるが、積み重なっていて、上に描かれているほうが奥だという理解だ。遠くのものは小さく見えるという遠近法の認識はない。空間把握に反して、顔立ちを見ると首の傾きを変えながら、進歩の成果が見える。下方に並ぶ聖人は表情豊かで、ことに首を傾けて見上げる顔立ちには、中世から大きく一歩前進したという気がする。

 同一画題で、サイズはともに大きいが、両者を比べてみて、奥行き感覚という点で、ジョットのものが一歩抜きんでる。ただし絵のでき映えというのは、一概には言えない。中世を好む目にはチマブーエやドゥッチオをおもしろいと思うだろうし、遠近感覚や新しい絵画技法という点ではジョットに注目が集まる。師匠を前にしたジョットの意欲は、共通のサイズからも察せられる。

 ジョットのディテールを見ると、聖母子の周りを天使と諸聖人が取り囲み、後ろにまでまわりこんでしまっている。チマブーエでは上方に向かって天使の顔を並べたが、ジョットはそれをかなり下げて、人物が奥まっていくという意識が芽生え始めている。確かにこれだと人物は見にくい。柱が聖人の顔の重要な部分を切り取ってしまっているし、前にいる天使の円光によって、後ろの天使の顔は半分以上切れてしまっている。

 絵画での人物の重なりは古くからあるが、顔の重要な部分まで消してしまうような例は珍しい。これが肖像画なら顔が半分以上も切られていては、クレームの対象になるだろう。現代の集合写真で前の人物に顔がすっぽり隠れてしまっていることを思い浮かべればいい。撮り直しになるはずで、顔を全部見せるというのは暗黙の了解事項だった。欠席者があった場合は、空中に貼り付けたりもした。しかし絵画空間のなかで遠近感覚を優先すれば、顔を前と後ろで重ねるという意識的な操作が必要となってくる。何でもないことのように思えるが、チマブーエ以前のものを見なれていた目には、これは衝撃的なものに見えたはずだ。

ジョットがやったことはこういうことだ。集合写真を撮るのに、写真屋は全員の顔が見えるように少しずつ移動させ、定式に則って全体図を考える。その定式は遠近感をなくし、古い絵画を否定し平面化する近代絵画に同調するものだともいえる。それをあえて人物を重ねて見えなくしたり、時には後ろを向かせたりしたらどうだろう。写真屋は突然に頭がおかしくなったのかと思うだろう。ジョットののちレンブラントもこれに似たことをして名作「夜警(1642) を生み出したが、同時に職業を失った。

 遠近法はなじんでしまうとどういうこともないが、最初のインパクトは驚くべきものだっただろう。リアルで手に取るように、江戸の遠近法でいえば浮き上がって見えたということだ。現代でも3Dで目の錯覚を利用して奥行きを見せるトリックがあるが、ただの抽象的な模様が、突然驚きの空間に変容する。

 一体これはどんなふうに描いたのかと謎めいたものに見えたはずだ。そこから絵画はすごいことができるということになっていく。ジョットはその端緒を開いた。しかしまだ背景は金地のまま置かれており、奥行きはそこで断ち切られている。本格的なルネサンスの幕開けは15世紀に入ってからで、ジョットはその一世紀も前の話だ。「早すぎたルネサンス人」であり、その後14世紀を通じて中世への逆戻り現象が起きる。それを経て15世紀になったとたんに、一斉にフィレンツェで花が開く。

 聖母子像の背後にいる天使や聖人だけではない。手前にいる天使は、玉座の前に位置することが、意識的に表現されている。画面の淵のぎりぎりにひざまずかせて、こちらに向かって迫ってみえるようにという演出だ。影をつけているわけではないが、ふたりは手に触れるほど近くにいる。現代人が見る以上に当時の人たちには驚きの一瞬だっただろう。

 ジョットの描く顔立ちはくっきりとしていて、男性か女性かは区別しにくい。これはルネサンスを通じていえることで、ギリシャ・ローマの美術の復興を思わせる。ギリシャ彫刻の人物像は、理想美を追求するあまり、時に男性でも女性でもあるという顔立ちをもつ。目鼻立ちのくっきりした、堂々とした、絵画なのに彫刻のような重厚感をもつ。ジョットの人物は絵ではあるが、しっかりそこに存在している。いわば彫刻的な絵画だ。

 存在感はルネサンスが追求したものだ。中世の絵では人物は弱々しく足はしっかりと地に付いていない。空中に浮かんでいるわけではないのにそうなってしまう。重量感があり、踏ん張って立つ人物像という点で、ジョットは描画技法の上でも、新しい世界に踏み込んでいった。特徴的な鼻の輪郭もギリシャ彫刻の流れを踏んでいる。

第255回 2022年5月20

アッシジ

 ジョットを見るためには、まずアッシジに行かなくてはならない。フィレンツェからもローマからも日帰りで行ける距離だが、そこのサン・フランチェスコ聖堂にジョットの壁画がある。この聖人が死んだあとそれを記念して壁画が制作される。倹約と質素な生活を重視した修道士で、財産はすべて貧しい人に分け与えてしまって、自分は質素に修行に励むという人物だ。

 聖フランチェスコ(1182-1226)がめざしたのは、教会のなかを何も飾らないということをモットーにしたものだったが、この聖人が死んだとたん、それを記念して聖人の生涯を描いた壁画で飾るという、聖人の考えとは反する企てがはじまる。ジョットもそれに参画するが、ジョットの描いた聖人の生涯の壁画を通じて、この聖人が有名になってしまった。日本でいえば「一遍上人絵伝」(1299)になぞらえてもよい。イタリアの片田舎の聖人がジョットの壁画のおかげで、インターナショナルな知名度を得たといってもよい。さらにはアメリカのサンフランシスコという都市名にまでなってしまった。絵画の力は捨てたものではないということだ。

 ここでジョットとされている壁画はダイナミックな、イタリアがその後フレスコ画の世界で美術のメッカになっていく原点だ。上堂の入口を入って振り返ると、両側に聖人の生涯を描いた壁画が続く。13世紀末の制作なので傷みが激しく当時の色彩は剥落している。画面は見上げるような高さにある。天井のブルーの装飾も見事だ。

 よく知られるのは「小鳥に説法をする聖フランチェスコ」(1305c.)を描いたものだ。入口の扉をはさんで反対側には奇跡を起こす聖人が描かれる。聖人が手を合わせると泉がわいて、のどの乾いた修道士が水を飲んでいる。後ろには何事かつぶやくふたりの姿も見える。これを見ると人物描写はしっかりしているが、風景は金地でうめてしまうということはもうなくなってはいるが、岩山の描写などは非現実的である。

 ルネサンスというのは人物が先行していて、それ以外の自然をリアルに描くというところまではいきつかない。自然描写は遅れてやってくる。ルネサンスといえどもまだ風景が雰囲気を持った実在として、言いかえれば固有名詞を持った風景が出てくるには、まだまだ時間がかかるということだ。岩でもごつごつしていて、山は個性をもった山ではあるが、他の絵を見ても同じような山が出てくる。まだ自然というものは無視されているともいえる。聖人(St.)の描き分けにくらべれば聖山(Mt.)の区別は遅れてやってくる。

 小鳥の説法はルーヴル美術館にも別ヴァージョンがある。聖フランチェスコが小鳥にまで説法したという話だが、それを見た弟子が驚いて手を上げる描写が特徴的だ。驚きの表情ということだが、その後レオナルドの「最後の晩餐」でも同じポーズが繰り返されている。小鳥も一羽ずつ表情をもっているようだ。よく見るとそれぞれが聖人に対して聞き耳を立てていることがわかる。これをディズニーが見たならば、小鳥が耳を傾けるだけではなくて、何とかして小鳥を動かしてみたいと思ったはずだ。説法により小鳥は神を賛美して十字架の形をなして飛び去ったという話が伝わる。アニメーションになった光景が目に浮かんでくる。イタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニは、ネオリアリスモを掲げ、現役の修道士たちを登用して「神の道化師 フランチェスコ」(1950)を映画化した。そこでも小鳥が登場するが、人物群像のリアリティに比べると、残念ながら小鳥たちは説法する聖人に耳を傾けているようにはみえない。小鳥が説教を聞くことなどないからだ。私たちは「小鳥の説法」というエピソードを知っているので、鳥に演技をつける必要はない。

第256回 2022年5月21

パドヴァ

 ジョットの三番目の作品として、「スクロヴェーニ礼拝堂」(1305)がある。パドヴァという北イタリアのヴェネツィア近郊にある町だ。フィレンツェやローマに比べるとずいぶん北に位置するが、経済力を誇った都市である。壁画は現地にいないと制作はできないし、見ることもできない。ジョットの仕事は中心になるのはフィレンツェだが、パドヴァに招かれてそこに礼拝堂をつくる。スクロヴェーニ礼拝堂ともアレーナ・チャペルとも言うが、建物としては小さなものだ。アッシジと異なりここには全壁面にジョットの筆跡が残る。主題はキリストとマリアの生涯である。今パドヴァに行くと真っ先に訪れる名所となっているが、古代競技場アレーナに隣接して、公園内に位置する。この礼拝堂と併設して市立美術館が置かれ、見ごたえのある作品群を所蔵している。

 堂内に入ると正面が祭壇で、振り返ると「最後の審判」の大画面が見える。日本にいて空間体験をしたいなら大塚国際美術館(徳島)に行けばいい。側面にはキリストの生涯の連作が続く。キリストとマリアの生涯は、中世でもルネサンスでも基本中の基本の主題である。聖書を頭から読んでいくというのも大変なので、絵解きをしてくれていると考えるとわかりやすい。というよりも当時、聖書はまだ読むものではなく、絵を見ながら聞くものだった。

 キリストがこの世で最後に現れるのが「最後の審判」で、そこで死者の魂を天国と地獄にふるいわける。向かって右が地獄だが、そこに出てくる怪物のすさまじさは、迫力に満ちている。寄進者のスクロヴェーニは金融で富を成したが、天国の側にこの礼拝堂の模型を手にして登場する。天井部分はアッシジの場合と同様に、明るいブルーが目を打つ。フレスコ画のブルーはあざやかなもので、日本人のイメージできルーヴルとは異なっている。エーゲ海や地中海の海の色を見ていると、こういう色はなかなか日本では出ないものだという気がする。西洋文化の色だという感じがする。このブルーだけで聖母マリアの悲しみが伝わってくる。透明感のある深い悲しみの青だ。その後20世紀にイヴ・クライン(1928-62)などがこだわりをしめすことにもつながっていく伝統的な色だ。

 キリストの生涯のなかでいくつかの奇跡が語られる。そのうち「ラザロの復活」は死んでしまった人間を奇跡的に生き返らせるという話だ。キリストは生涯のうちで何度か奇跡を起こしていて、これはただものではないぞ。聖人や教祖は奇跡的に病気を治したり、死んでいる者を生き返らせるということでもなければ、人は信用しないということだ。キリスト教といえどもローマ社会のなかで、イスラエルのかたいなかに起こった小さな新興宗教にすぎなかった。それが世界宗教にまで発展して中世からルネサンスへと脈々と引き継がれていく。

 キリストはラザロに対し祝福のポーズを示し、目を開かせている。からだ中ぐるぐる巻いた布は死者の姿で、日本の死装束とはずいぶん違う。立ったままの状態で棺桶に入れられたことがこの画面からわかる。立ち姿のラザロはカタコンベの壁画からすでに描かれているが、やがて生活風習は横たえられた棺から立ち上がるラザロを描くようになっていく。

 一見すると見落とすが気をつけてみると、右の方に後ろ姿の人物が出てくる。人物の後ろ姿は、遠近感覚がインプットされてないと描けないものだ。例外を探せばあるかもしれないが、中世を通じて後ろ姿はほとんど出てこなかった。意識的に後ろ姿を描くことによって、前と後ろの奥行き感覚をつけていく。それから人物の描写にしても「かたまり」で描くということが出てくる。ひとりの人物の後ろにかたまりで五、六人がいる。ある者は頭だけしか見えていない。非常にたくさんの人物がいるが、後ろに層をなして向こうにもいるのだということがわかる。中世ではそんなことをしないで上に並べていったはずだ。ここでは人物の頭の線をそろえる。確かにこれは描きにくいし、見分けにくい。

第257回 2022年5月22

ユダの接吻

 「ユダの接吻」も同様な処理をしている。頭の線をそろえているし、真後ろを向いている人物も出てくる。このように指摘するとやっとこれが新しいものだとわかるだろう。ここでのドラマティックな扱いは、ユダとキリストが正面を向いて口と口とをあわせるという表現だ。ユダの接吻というのはキリスト教では何度となく繰り返して描かれていくテーマだ。キスをするのだが、ふつうそれは親愛の証しである。ところがそこではユダは裏切り者としてキスを準備する。兵士たちがキリストを捕まえたいのだがキリストの顔がわからない。そこでユダはキリストに口付けをするので、その人物を捕まえるようにあらかじめ示し合わせておく。それがこの場面を見るための前提となる知識だ。

 ユダはキリストを裏切っている。裏切りなのだけれども親しみを込めて口付けに行く。キリストもそれに合わせる。図像はその一瞬をとらえている。ここにドラマが誕生する。キリストとユダは、しっかりと目を見合わせている。目と目がカチッと火花を散らしている。そこではキリストが見つめる目とユダが何となく、その目に対してちょっと目をそらせたいような表情を浮かべる。根っから悪いやつではないのだろうけれど、ついつい欲に目がくらんで裏切ってしまう人間の弱さが、感情描写をともなってここでは読み取れるのである。遠藤周作の小説にはこんな小心なユダがいつも登場する。ユダの側に立って書き続けた小説家だったと思う。

 いかにドラマを人間の表情で表現するかというはじまりがここにある。それを読み取る必要がある。キリストがじっと見開いてユダを見つめている目の輝きに気づくと、すべてを見通している目だということがわかる。ユダが裏切っていることも実はわかっていて、それでも口付けを受ける聖者の気高さが伝わってくる。ジョットの表現力の真価を示した一瞬である。キリストの目をアップでとらえると、ジョットの描写の冴えがひかる。このときキリストはユダを許している。強いまなざしだが優しい目だ。キリストの目に対してユダの目は奥まりくぼんでいて、しっかりと目をあわせられないという後ろめたさが対比される。きりっとした横顔のキリストは傑作である。

 ふつう口付けをする場合、顔と顔は45度に交差するものだが、ここでは真正面どうしで口と口がつけられる。ジョットは別の場面で45度のキスも描いている。鼻と鼻がぶつかってしまうと思うのだが、その意味でもインパクトの強い接吻の図だといえる。視線を合わせるというドラマを優先したということだろう。この接吻図は美術史上その後繰り返し用いられることになる。20世紀にはコンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)が「ザ・キス」(1907)という彫刻をつくるが、それは正面向きにぴったりと顔と顔とがくっついて、一体化した抽象彫刻だ。さらには原形もとどめない列柱にまで達する。ブリューゲルも「農民の踊り」(1568c.)でこのキスを描いている。さらには映画「誰がために鐘は鳴る」(1943)でもイングリッド・バーグマンとゲーリー・クーパーの有名な口付けの場面にこのモチーフが敷かれている。スクリーンで一度きりしか見たことのない映画だったが、大写しになったバーグマンのまぶしいまでの目の輝きが今でも脳裏に焼き付いている。当時としてもそうだし今見ても、両者はインパクトのある目と目との対話が読み取れる作品だ。

ロダンの「接吻」をみると、逃れられないジョットの呪縛から造形の自由を解き放ち、男女の卑俗なメロドラマに戻したといえそうだ。見つめあっていてはキスはできない。それは視覚を捨てて触覚へという歩みであって、絵画に対しての彫刻の優位を語るものだ。そのようにみると、ジョットは見つめあうというドラマを通じて視覚の勝利を宣言したということだ。絵画の誕生と独立を意味するものといえるだろう。美術史の教訓に従えばアルカイックからクラシックへ移行するギリシャ美術の醍醐味は、目の力を否定して、人体の優位を語るものだった。キスが視覚を否定する行為だとすれば、しばしばそれは目をつむってなされる。唇に集中しようとするからだろう。それではロダンのふたりはどうだっただろうか。女は目を閉ざしているが、男は目を開いているようにも見える。そこに男の打算を読み取れば、その時のロダンはこの青年ほどに若くはないが、ロダンとカミーユ・クローデルの道ならぬ情念を深読みしたくもなってくる。比較して興味深いのはブランクーシのふたりがともに小さな目を大きく見開いてキスをしあっていることだ。ロダンとは異なって、パロディふうとはいえジョットへの賛美を読みとめることが可能だ。

第258回 2022年5月23

嘆きの天使

 礼拝堂内では歩きながら一続きになった壁面をたどることになるが、キリストが死んでからあとではマリアがキリストを抱く姿が見える。その一画だけをとればピエタだが、枠全体では「キリストの哀悼」、マリアの悲しみの図である。ここでも手前に二人の人物がいて背中を向けている。これも何でもないように見えるが、それ以前では出てこない描写で、以前なら一列に並べただろう。それをまるで第三者が見るように、つまりそれは舞台の上の絵ではないことを示す。隠しカメラで見ているようなアングルのとらえかたというのがここで出てくるということだ。いわば演劇の舞台から映画のシーンに変貌したとでもいってよいものだ。演劇では客に尻を向けるなどとんでもないという固定観念はいまだに残っている。

 同じことはジョットの四番目の作品でも言える。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあるバルディ礼拝堂に描かれた壁画だ。ここでも「聖フランチェスコの生涯」(1320-8c.)が描かれる。同じように後ろ姿が盛んに登場する。かたまりでいる人物は後ろ姿の方が多い。後ろ姿でどっしりとして、雪だるまのようなかたまりとなって重量感を加えている。大きな背中を見せて座りこんだ姿はまさしくダルマであり、この重々しさがジョットの表現力である。

 真後ろを向いている人物を画面の中心にもって来るというのも、今では大胆には見えないかもしれないが、当時は画期的な発想であったにちがいない。パドヴァに戻ると、これも目から少し上のところにあるので、後ろを向いて背を向けている聖人の図柄がまず目に飛びこんでくる。「キリスト哀悼」の場面ではその向こうにキリストがいるのだという、我々も一緒にキリストを見て、手を合わせて悲しんでいるのだという臨場感を与えている。

 ここでは見所は両手をぐっと後ろにそらせるようにして伸ばして、大げさに悲しんでいる弟子の姿など、手の表現にもあるが、それよりももっと画期的なのは、上空で悲しんでいる天使たちである。それまでは天使が悲しんだりはしなかった。はじめにあげたピエタ図では天使が三体、何の変哲もなく飛んでいた。キリストが死んでいるのだから天使も悲しかっただろう。ここでジョットは天使を泣かせた。この泣かせ方がうまくて、ちょうど蚊が人間の血を吸いすぎてふらふらと飛んでいるという感じなのだ。天使は脇役であり、先の聖フランチェスコが説法をする小鳥に対応する。揺れながら飛んでいて、今にも落ちてきそうだという表現が実にみごとだ。それぞれに表情をもった天使がここで登場してくる。そして最後、出口(入ってきた入口の裏)にあるのは「最後の審判」で、右側には魔王(サタン)がいる。迫力のある怪物の表現だ。天国もあるのだが、私たちの目はついつい地獄に目が向いてしまう。もちろん画題から見て審判を終えてチャペルを出ていくが、魂は浄化されて天国に向かう。ロマネスク期の教会の入り口に「最後の審判」のレリーフ彫刻が置かれるのと対比をなす。ジョットーとは逆になっているのが興味深い。そこでは審判を終えて堂内に入っていった。つまり教会内は神の国、天国だったのである。

 この当時の芸術家は絵画だけではなく、いろんな分野に手を染めている。ルネサンス期の天才は万能で、ことにレオナルドになれば、絵画が中心ではあるが、彫刻もすれば楽器も弾いたり、潜水艦をつくったり、ダムをつくったり、人体解剖をしたり、活動の幅は広い。ジョットはその走りといってよく、建築設計の仕事もこなした。今残っているのはジョット没後に完成した「ジョットの鐘楼」(1359)と呼ばれるもので、フィレンツェ大聖堂の傍らにそびえる。

第259回 2022年5月24

シエナ派

 ジョット以降は順調にルネサンスの流れが築かれていくわけではなく、いったん中世の時代に戻ってしまう。そこにはいくつかの流れがあるが、ひとつはシエナ派。シエナはアッシジなどと並ぶ中世の香りの高い町である。今でもこじんまりとした独特の雰囲気をもつ町だ。そこに残っている一連の絵画をシエナ派という分類をする。中心になるのはドゥッチオ・ディ・ブオニンセーニャ(1255c.-1319c.)とシモーネ・マルティーニ(1284c.-1344)というふたりの画家である。

 シエナに行くと中心にあるのがドゥオーモ(大聖堂)、イタリアでは珍しくゴシック建築である。これに付属する美術館にドゥッチオの代表作がある。「マエスタ」(1308)と呼ばれる「荘厳の聖母」だ。聖母子の周りを聖人と天使が取り囲む。これを見るとやはり遠近感は稀薄だ。ジョットがいったんはじめた遠近感覚が、また古い中世ふうの世界に戻ってしまう。しかしこれはこれでなかなかいいぞというのが、シエナ派の持ち味でもある。

 それぞれの聖人には表情があり、でき映えもいいが、ただ遠近把握という点ではジョットからまた古い時代に戻ってしまったように見える。聖人たちの顔立ちは似通っているが視線は拡散していてあちこちを向いていておもしろい効果を出している。

 さらにドゥッチオはチマブーエやジョットと同じ形式で「ルチェッライの聖母」(1285)と呼ばれる「荘厳の聖母」を残している。玉座につく聖母子のまわりに天使が置かれるが、奥行き感覚は現れていない。マリアのマントが輪郭づける線のおもしろさは、中世に逆戻りするとはいえ、中世が持っている美意識にあらためて気付かせてくれる作品でもある。

 部分をアップでとらえると、マリアの顔立ちも魅惑的で、シエナ派の描く人物の特徴でもある。ほんのりと明るい薔薇色と、静脈がにじみ出ているような緑に近い色を入れて、デリケートな肌の表情を魅力的にとらえている。ドゥッチオの繊細を前にするとジョットの人物はなんと無骨だったかと思う。シエナに行くと時代が下がっても、この手の魅惑的な人物像にしばしば出会うことになる。

第260回 2022年5月25

シモーネ・マルティーニ

 シエナのもうひとつの中心となる一角は市庁舎であるが、そこにはシモーネ・マルティーニの壁画がある。市庁舎の前にはカンポ広場があって、扇形に広がって傾斜していく印象的な景観を生み出している。ここでも「荘厳の聖母」という主題が目を引く。さらにはそこには絵画史においてきわめて早期の騎馬像も見られる。

 マルティーニの代表作はウフィツィ美術館にある「受胎告知」(1333)だろう。マリアと大天使ガブリエルという通例の組み合わせだができ映えはよい。中世ふうのなよやかな感じがするし、金地をバックに遠近感覚はないが、マリアは複雑な表情をしていて、微妙な感情描写に気が配られている。受胎告知はその後も盛んに描かれる流行の画題のひとつだ。ふつうの娘が神の子を授かってギクっとしている感じがうまく出ている。

 天使が舞い降りてきてあなたは神の母になりますよと言われたとたん、どんな反応をするかを画家は考えた。そのときにちょっと身を引いて、複雑な表情をする。はじらっているというよりも、むしろためらっているようだ。その後のボッティチェリに通じる感覚的な描写だ。この心と体の揺れは、先にジョットがパドヴァで編み出したしぐさでもある。「ノリメタンゲレ」で復活のキリストを前に、手を差しのべるマグダラのマリアに対し、キリストは「我に触れるな」という。このときの受け入れつつ拒否をする、あるいは拒否しつつ受け入れる表情が、顔ではなく身体のS字曲線で見事に表現されていた。歌舞伎の腹芸ならぬ名演技といえる。はじめ顔の表情でドラマを語っていたが、やがて顔は無表情のままにして身体全体で感動を伝えようとする。これがギリシャ彫刻のアルカイックからクラシックへの様式史の定式だった。

 ロレンツェッティ兄弟(ピエトロ1280c.-1348アンブロージョ1290c.-1348)もまた、微妙でナイーブな感覚をうまく表現してシエナ派の特徴を受け継いだ。幼児キリストを見つめるマリアの表情は卓越しているし、善政と悪政を描いた壁画では、風俗的な要素が強く、日常生活が絵画になりはじめたことをうかがわせる。

第261回 2022年5月26

国際ゴシック様式

 ジョットとシエナ派はほぼ似通った時代だが、ジョットの没後ジョッテスキと呼ばれるジョット影響を受けた作家も登場するが、大勢は古い時代に逆行していく中で、「国際ゴシック様式」という名で呼ばれるスタイルが定着する。イタリアは大きな壁画を中心に大画面をめざすが、一方北方のゴシックでは教会建築は大規模だが、絵画表現では聖書の挿絵や写本のなかで、小さな世界を綿密に見定めていくような伝統を持っている。北と南の文化がぶつかり合ったときに出てくるのがこの国際様式である。これが14世紀を通じてヨーロッパ中に広がっていく。

 イタリアではジョットが出てきて一度はルネサンスの萌芽を感じさせるが、それが中断し、その後四、五〇年は国際ゴシック様式に染まってしまう。その流れのなかで出てくるのがジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(1370c.-1427)やロレンツォ・モナコ(1370c.-1425)の「三王礼拝」などの作品だ。画面を見ると複雑に雑多なものが組み合わされている。人物の衣装にしてもイタリアの絵画では珍しく、細かな描写だ。こうした宝石細工のような表現のしかたは、ドイツやフランドルなど北方の画家たちの得意とするスタイルである。それがイタリアに入り込んで交じり合ったものとして出てくる。ジョットのものに比べると旧態依然としていて、三王礼拝は東方からきた王の表現でエキゾチックな装飾で身を固めている。

 国際ゴシック様式ではその他、ピサネッロ(1395-1455)の描くルネサンスとは対極にある装飾華美なものがあるし、サセッタ(1392-1450c.)などは一種独特の浮遊感をもった不安定な幻想画面を生み出した。中世のシエナ派の伝統から出てくるジョヴァンニ・ディ・パオロ(1399c.-1482)の幻想味あふれるダンテの挿絵などは、現代の目を通してしか再発見されるものではなかっただろう。20世紀の映像時代は作品のサイズを解消した。これまで埋もれていた挿絵や写本を見つけ出し、拡大して写し出した。映像は現地に行くという王道を捨て、美術にとっての邪道を称賛することになった。今まで埋もれていたパオロやボッティチェリの挿絵が再発見されていった。

 美術史の知識をもつと細密画に根ざした国際ゴシック様式は、退行現象のように見えるが、実際にはジョットの影響が入り込まずにいただけの話だ。時代の流行に無縁なものというのは、いつの時代にもあるし、それは必ずしも悪いことではない。このようにジョットによって築かれたルネサンスの息吹きが、いったん足踏み状態になるというのが、イタリアでの14世紀後半の流れである。


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