伊庭靖子展 まなざしのあわい

2019年07月20日~10月09日

東京都美術館


2019/7/21

 柔らかな朝日を浴びて、幸せな気分にしてくれる絵である。絵画が最もオーソドックスに安定した姿を見せている。朝の食卓がもつさわやかな日常がそこにはある。人物の不在はテーブル上に乗せられた食器のシルエットで解消される。中身のない容器、花のない花瓶、飲み物のないコップなど、不在の情景だが、そこにかえって人の体温を受け止めることにもなり、豊かな表現性を獲得しているように見える。

 ものの形を見定めるのに一瞬のためらいをいだくことがある。色彩はためらいを解消するための、重要なアイテムではある。色彩が抜け落ちていることで、感情を排して静かにモノの本質と向き合うことになる。そしてすべてを光に還元することが、絵画の本質ではないかと気づく。光のもとで輪郭がよみがえってくる。色彩に拡散することで輪郭を失った印象派とは逆のやり方で、絵画の復権をめざしているようだ。

 かつてシャルダンは朝の食卓を描くことで、家庭の平和を表現した。ここには現代のシャルダンが、姿を変えて再生したように、私の目には映っている。それは静物画であり、日常の一コマを描いた風俗画なのだと思う。人間がいるとすれば、この光景を見ている目の人であって、肉体は消えて目だけの感覚に還元されている。光にだけビビットに反応する神経細胞のありかを伝えるものだ。だからといって神経質では決してない。視神経が麻痺すれば、世界は闇になるはずだが、ここでは麻痺を喜ぶように絵画の糧にしている。モネ春草が薄れゆく視覚で、おほろげな白亜の空気を描き出したのと同様に、本来は眼病に帰せられるはずの「まなざしのあわい」が、企画者の命名通りここでは読み取れるのである。


by Masaaki KAMBARA