第476回 2024年5月31

メリー・ポピンズ1964

 ロバート・スチーブンソン監督作品、ウォルト・ディズニー製作、シャーマン兄弟作詞作曲、原題はMary Poppins、ジュリー・アンドリュース主演、アカデミー賞主演女優賞、編集賞、作曲賞、視覚効果賞、歌曲賞受賞。ロンドンの銀行家(ジョージ・バンクス)の家庭に教育係としてやってきた家庭教師メリーポピンズの奮闘記。

 天空からやってくるので人間ではない。両足が外に開いているので魔法使いなのだろう。子どもに喜びと希望を与えて去ってゆくまでの話である。前任者姉(ジェーン)と弟(マイケル)のふたりの子どもに手を焼いて退職した。これまでも長続きはせず何人も代わっていた。父親が新聞広告で募集すると大勢が押しかけた。銀行家は厳格で几帳面だったので、みずから面接にあたっている。母親(ウィニフレッド)は婦人運動に忙しく、女性の参政権をめざして、子どもの世話はメイドと家庭教師に任せっぱなしでいる。

 面接を前にして不思議にも急に突風が吹いて、玄関に押し寄せていた応募者が吹き飛ばされて、それと入れ替わりに天空から雲に乗ってメリー・ポピンズが降りてくる。父親が募集の文面を考えたが、子どもたちも自分たちの希望を書いて用意していた。父親は相手にすることなく、破って暖炉に捨てていた。それが風に乗って煙突から飛び去り、メリーの手に届いていたのだった。彼女はそれを確認しながら、読み上げている。破れた紙が継ぎ合わされているのをみると、父親は首をかしげて暖炉をのぞきこんでいる。面接が終わり、次の応募者を呼んで戸口を開くと誰もいなかった。

 子どもたちの書いた内容は、「若くて美しい、楽しく遊んでくれる」という希望だった。前半は父親も賛成したかもしれない。前任者も応募者もこれには該当しなかった。後半は厳格な父親には気に食わないものだった。若くて美しいメリーの住み込みでの家庭教師が、はじまっていく。荷物は小さなバックをひとつだけ持っていたが、超能力を発揮して、そこからいろんなものが出てくる。兄と妹は驚き、目を丸くしている。

 家でだけでなく、ふたりを誘い出して戸外での喜びを体験させていく。公園ではひとりでいくつもの楽器演奏をする、大道芸人のおにいさん(バート)に、観衆が集まっている。終わって帽子を脱いで集金をし出すと、蜘蛛の子を散らすように誰もいなくなった。メリーとは親しげに話している。子どもたちもこの青年と仲良くなって、アニメーションをともなってディズニー映画独特の世界に誘われていく。

 遊園地の回転木馬に乗っていると、馬は円周から抜け出して、ほんものの競馬レースに紛れ込んで、アニメーションの世界に入り込んでしまう。そこではメリーが優勝していた。青年が煙突掃除夫の仕事をしていたときには、吸い込まれるように煙突を通って屋根に登り、今まで見たことのないようなロンドンの街並みの美しさを、子どもたちは見ることができた。青年もメリーも子どもたちも、煤だらけの真っ黒な顔をしてはしゃいでいる。

 厳格な父親も無邪気な世界に、子ども心を取り戻したようだった。2ペンスを手にした子どもたちが、パン屑を買おうとすると、父は銀行に預金をすることを教えた。勤務する銀行の頭取まで登場して預金の重要さを説いている。子どもたちにとっては、2ペンスは教会の前で老婦が売る鳩のエサ一袋の値段だった。

 父親も夢を買うことの重要さに気づいたとき、銀行勤めをやめてしまった。子どもの2ペンスを取り上げて、預金させようとしたことで、それをみた預金者たちがパニックを起こし、銀行は信用をなくしていた。退職をした父がはじめて子どもたちに目が向いたのだった。子どもたちは喜んだが、それによってメリーも役割を終えたことを実感した。子どもたちはパパが好きだったのである。銀行の頭取が亡くなると、父がもとの地位に復職し、家族に囲まれた2人の子どもの姿を惜しみながら、雨傘を手に天空に戻っていった。

 メリーの歌う楽しいチムチムチェリーやしっとりとした一袋2ペンスの歌が、いつまでも耳に響いていた。小学生の頃、母に連れられてはじめて見たミュージカル映画だった。そのとき呪文のような長い魔法のことばを必死になって覚えたが、半世紀以上たった今も言うことができる。スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。字幕の日本語だったが、どんなに早く発音しても、英語を聞いていて、そのようには聞こえない。

第477回 2024年6月1日

シェルブールの雨傘1964

 ジャック・ドゥミ監督作品、フランス・西ドイツ合作ミュージカル映画、原題はLes Parapluies de Cherbourg、ミシェル・ルグラン音楽、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。悲しい男女の別れとしては、じつによくできた話である。悪人を見つけるとすれば、二人の仲を引き裂いた2年間の兵役ということになるだろう。女のほうが待ちきれなかったのである。お腹に子どもを宿しているのに、という但し書きがつけば、悪いのは女のほうだということになってしまう。

 はじまりは色とりどりの雨傘が行き交う通りを真上からとらえた、ファッショナブルな撮影術である。上下左右、斜めとさまざまに交差するが、傘はぶつかることなくすれちがっていく。ときには傘を差さない水兵も歩いている。5本ほど連なっている黒い傘は小学生の集団登校だろうか。傘が象徴性をおびてテーマとなっている。雨の似合うしっとりとしたフランスの地方都市、シェルブールでの話である。

 傘屋を営んでいる母(エムリ夫人)のもとに、17歳の娘(ジュヌヴィエーヴ)がいて20歳の青年(ギイ・フーシェ)と恋に陥った。男は貧しく車の修理工場に勤務していて、おば(エリーズ)とふたりで暮らしている。両親はいないようだ。おばは病弱で若い娘(マドレーヌ)が身の回りの世話をしている。彼女は男に惹かれているようだが、恋人ができたことを感づいている。おばも甥のことが心配の種だ。

 娘のほうは父親を亡くして、ながらく母と二人で暮らしてきた。まだ子どもなのに20歳の青年と恋愛をしていると知ると反対するが、ふたりは親の目に隠れて交際を深めていく。はじまりでは「カルメン」を見に出かけている。母親は20歳と聞いたとき、兵役を心配したが、その通りになってしまった。愛する者にとって2年間は長すぎた。招集され別れる前の日に、ふたりの感情は高まって、男は部屋に連れていって、おばの目を盗んで結ばれる。このとき娘は妊娠してしまう。手紙でそのことを知らせると男は喜んで、子どもの名前まで、すでに決めていた。

 そんなときもうひとりの男(ローラン・カサール)が娘の前に現れた。傘屋の経営が難しくなって、母親が自身のネックレスを売りに行くのに付き添ったときだった。店主が買い渋ったとき、ちょうど店に来ていた若い宝石商がやり取りを聞いていて、私が買おうと声をかけてきた。母親はその場で宝石を預けてしまい、半信半疑でいた。娘も詐欺師ではと心配したが、約束通り現金をもってやってきた。手広くアメリカでの営業も拡大している青年実業家だった。

 娘を見そめたようで、結婚を申し込んできた。母親は乗り気で喜ぶが、娘の妊娠に気づくと躊躇する。娘の幸せを考えれば、貧乏な若者よりも裕福な大人のほうがいいに決まっている。娘のお腹はだんだんと大きくなっていく。実業家は3ヶ月の海外での仕事を告げて離れたが、次に来たとき膨らんだお腹を見ればあきらめるはずだと、娘は鷹を括っていたが、あてははずれた。男は生まれる子をふたりの子として育てたいと言い出すのである。アフリカの前線に送られた恋人からの連絡も途絶えていた頃だった。

 娘は結婚をして、すぐにシェルブールを去ってしまう。母親も3ヶ月後には店をたたんで、引っ越してしまった。そして恋人が兵役を終えて帰ってくる。爆撃にあって足を引きずっており、恩給ももらえるようになっていた。傘屋を訪ねるが、別の店舗に変わろうとしていた。おばほこれらのいきさつを知っていたが、慰めようもなかった。自暴自棄になり商売女と遊んで家をあけて、帰ってきたとき、付き添っていた娘から、おばが亡くなったことを聞く。この娘も用がなくなったといって去ろうとするが、男は引き止める。娘は男はひとりになるのが寂しいだけだとわかっていたが、男への思いから立ち去れず、とどまることになる。

 おばの財産を相続して、男はガソリンスタンドを立ち上げ、家に残った娘を妻にした。ふたりの間に子どもも生まれた。名付けたのは以前の彼女が妊娠したときに決めていた名(フランソワ)であったし、ガソリンスタンドを経営するというのも、彼女と語り合っていた夢だった。別の女と実現したことになるが、過去を引きずった情けない未練ということでもある。クリスマスの雪の日、妻と子が買い物に出たときに、一台の車が給油に止まった。見ると別れた彼女だった。それは運命のいたずらであるが、過去との決裂をためす試練でもあった。

 シェルブールを離れて以来、はじめての訪れだと言っている。助手席には大きくなった子ども(フランソワーズ)が座っていた。事務所に誘ったが、暖を取っただけだった。子どもに会っていくかと女は問うたが、男は答えず遠くから眺めるだけだった。女は去り入れ違いに妻子が帰ってきた。子どもを抱きあげて、邪念を断ち切ろうとしている。ふたりの子は男女のちがいはあれ、同じ名を持っていた。悲しい過去を引きずりながら、心の傷はたがいに癒えることなく、降り続く雪のようにしんしんと染み入っていた。

 ミシェル・ルグランのテーマ曲の物悲しい旋律が鳴り響いている。ふたりは情念を高まらせて、修羅場を演じることもなかった。押し殺した悲しみが、どうしようもない運命のいたずらを告発している。ふたりがあまりにも若すぎたせいなのか、現代の日本にはない、兵役という制度が引き裂いた悲劇なのか。もう少しがまんすればとも思うし、娘の前に現れた男を悪人にすることもできる。

 男と女に起こる、普遍性のあるテーマであることは確かで、見苦しい刑事事件に発展することが、少なくないことを思えば、抒情性あふれるフランス風ミュージカルとなった。初恋が身を結ぶことは難しい。悲恋なのに不思議と心が温まっているのは、甘酸っぱい痛みを過去に経験した者なら、誰もが感じ取る感情からなのだろう。

第478回 2024年6月5

誘惑されて棄てられて1964

 ピエトロ・ジェルミ監督作品、イタリア映画、原題はSedotta e abbandonata、カンヌ国際映画祭男優賞受賞。イタリアのいなかの一家に起こる男女の愛をめぐるドタバタ喜劇。採石場を経営する事業主であり、厳格な父親(ビンチェンツォ・アスカローネ)のもとに息子(アントニオ)とその下に4人の娘がいる。

 娘のひとり(マチルデ)と婚約をしている男(ペピーノ)がいて、この家に出入りをしている。就職を前にした学生だったが、娘はおおらかで、居眠りばかりしている。その隙に美人の妹(アネーゼ)に手を出して、無理矢理に関係を結んでしまう。それ以降妹はその男が来ると、ようすがおかしくなり、男のほうも父親に明かされたのではないかと、びくびくして、この家に近づかなくなってしまう。姉はそれを不審な目で見ているが、理由はわからない。

 娘は悩んで教会に行って懺悔をして、事情を司祭に打ち明けていた。犯した罪を書き記したメモの切り端を、母親に見付けられると、父親にも知れ、妊娠していることがわかると、怒りが爆発する。相手は誰だろうかと思案している。父親の同輩の仲間や医者や司祭までもが疑われたが、姉のフィアンセだと特定すると、父親は相手の家に乗り込んでいった。両親が何とか怒りをなだめようとするのだが、おびえる息子を追い回して殴りつけている。

 一家の名誉と対面を保つために、父親は奔走し、さまざまな画策をする。娘は未成年で16歳、男には犯罪が降りかかり、警察も動きはじめる。丸くおさめようと、男に別れの手紙を書かせている。男を妹と結婚させようとするのだが、姉は突然のことで、理由がわからず呆然としている。

 一方で姉の結婚相手に、没落した男爵に目をつける。何の魅力もないが、爵位だけは受け継いでいた。大きな家に住んでいるが、今では自分の所有は一部屋だけで、前途に悲観をして首をくくろうとしていたところに、訪ねてきたのだった。前歯がない醜男だったが、無理矢理に姉と結びつけようとする。前歯の治療費も出してやって、男っぷりをあげようとしている。家に招いて娘の料理でもてなし、好感をもつように仕向けている。

 妹は部屋に閉じ込められて、誰とも会うことができなかった。男に迫られて、拒絶して嫌っていたようにみえていたが、男の写真を隠し持っていて、恋い焦がれているのがわかる。一方、姉は婚約者の学生時代の写真が一枚なくなったと不思議がっているが、父の言いつけ通り、男爵と付き合いはじめた。男と妹との結婚をお膳立てするのだが、父親の思い通りにはいかない。

 結婚前に関係をするような、ふしだらな女は嫌だと、男は言いはじめたのである。自分が手をつけておきながら、何という理屈だと唖然とするが、そのことを聞くと妹も怒り、持っていた写真をずたずたに引き裂いていた。父親の耳には男の母親から司祭を通じてことわりが入れられたが、これにより父親の怒りは、殺意までも抱きはじめる。

 父親は遠方に住む、弁護士をしているいとこに相談にいく。未成年誘拐罪の扱いを考えて、刑法の条文を出して複雑な話をしている。父親の怒りはおさまらず、殺してやるというと、それでは刑が20年になるといい、数年ですむ方法を考えて、長男が殺すことに決める。長男に話すととんでもない話なのでおびえるが、父親の言うことには逆らえない。弁護士が用意したピストルを手にして、隠れている場所を突き止めて、男のもとに向かう。がっしりとした体つきで美男子なのだが、臆病でたよりない。結局は撃てなくて、男に向けて銃を投げつけ、額に命中した。父親は息子を役立たずとののしった。

 妹は兄が男を殺しにいくのを知ると、監禁されていた部屋を抜け出して、警察に向かった。愛しているから助けようとするのかという質問に、ノーと答えて憎んでいると言った。担当官は書記に向かってノーとはイエスのことだと訂正を指示した。憎んでいるのに助けようとする複雑な女心を読み解いていたようだ。

 そんな法律があるのかと驚くが、未成年誘拐罪が無罪になるためには、結婚することだった。男は釈放されるために弁護士のアドバイスを受けて、女のほうが誘いをかけてきたのだと言うと、女は男の虚言に敵意をあらわにした。父親が警察に駆けつけてきて、筋書きがつぶされたことで娘を叱りつけている。殺人未遂については、兄と男が申し合わせて、たがいに抱き合って芝居をして、友達同士だと否定してみせた。ピストルは落ちていたのを拾ったのだと言っている。

 つじつまをあわせようとして、父は姉が男を振ったので、男は妹に手を出したのだと、逆の説明をしている。息子を説得して男の両親が、ふたりの結婚を許すよう求めにきたとき、父親は認めようとせず、みんなに聞こえるように大声で否定することで、世間体を取り繕っていた。姉も恥をかかずにすむと思ったのである。

 男は有罪を避けるために、娘を誘拐して無理矢理に結婚しようと計画するが、これは両家で打ち合わせができていた。尾行してそのことを察した警部は、若い書記を誘って、身をくらました。関わらないほうがいいという、無難な判断だった。仲間を誘って車でさらうのだが、母親と3人の娘が、並んで歩いている。車が来て散り散りに逃げ、仲間がまちがうのを男が違う違うと指示している。

 車に連れ込んで、男は娘を説得できるものと思ったが、拒み続けたので途中で車から放り出した。娘は町に歩いて帰っていく。男は見ないで仲間に女の歩みを聞いている。戻ってくれと祈っているのだとわかる。女は立ち止まり、座り込むと車は引き返し、ドアを開くと女は乗り込んでいた。遠望でとらえていたが、娘の気持ちは揺れ動いている。

 お祭りの行列の日に、人目につくように男が娘を連れてやってきた。父親が出てきて男の顔を殴りつけて、結婚を許すと言った。大勢の人がそれをみてくれることが重要だった。お膳立てができて、法廷に持ち込み、判事の前でふたりが結ばれるというストーリーに、男のほうはすんなりと承諾したが、娘のほうはためらいを示した。一貫して喜びの表情はなく、花嫁衣装を着ていても、諦めにも似た無表情がうかがえる。

 父親の言いなりになってきた家族の顛末なのだが、結婚式にまでたどり着いた。最後にはまた一波乱あったが、心労がたたって父親は倒れ、二人の手を取って息を引き取った。男爵は貧乏人とののしられ、スタートに戻って天井からのロープで首を吊る。老朽化した邸宅では自殺はできず、天井が落ちていた。姉は隠されてきた真実を知って、世俗を断ち切り、手を合わせて髪を切られている。死んだ父親の胸像を写して、FINEの文字が入った。名誉と家族という銘文が読める。

 社会主義の指導者を思わせる威厳のある像だったが、パロディとして戯画的にまで誇張された父親の演技が、評価されてカンヌ映画祭男優賞に輝いた。人格は強烈で言動は無茶苦茶だが、子どもたちの幸せだけを願っていた、父親の人情味あふれる生きざまは、一言でいえば親バカということになる。ギャグ漫画に登場する頑固オヤジにそっくりだ。今では影をひそめた一昔前の、郷愁を帯びた愛すべきキャラクターだった。

第479回 2024年6月6

赤い砂漠1964

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督作品、モニカ・ヴィッティ、リチャード・ハリス主演、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、原題は Il deserto rosso。無機質な工場が写され、ストライキ中で労働者が、工場のみえる道路に群がっている。彼らとは場違いにみえる母子が通り過ぎる。母親(ジュリアナ)がパンを食べている労働者に近づいてきて、それを売ってくれないかと小銭を出している。食べさしだと言って拒むと、構わないと答えて、幼い息子(バレリオ)にゆずろうとするが、いらないと言っている。子どもが腹をすかせているわけではなかった。歩き出して人目のつかないところで、むさぼり食っている。裕福そうな身なりだったが、異常な行動をとる不思議な人格に何者だろうと思う。

 新任の技師(コラド)に工場を案内する職員(ウーゴ)がいた。ストには参加していないので、管理職のポストなのだろう。技師も親の会社を相続する富裕な身分だった。妻を紹介していて、先の女性なのだとわかる。技師が聞かされたのは、妻は交通事故にあって、体は回復したが、心の傷が治っていないということだった。技師はまだ住まいも見つけていなかった。街に出たとき、彼女を見かけたので声をかけた。女は改装中の部屋にいた。何もない空間に、青い壁が塗られようとしている。男は世界を駆け巡る放浪癖があることや、女の事故についても聞きつけた。たがいに興味を持ちあったようで、会話ははずんでいた。

 技師は誘われて会社仲間の集まりに参加する。すでに知り合っていた夫婦を含んで、3組の男女に混じって、川岸に建てられた小屋に遊んでいる。会社の経営陣も加わっていた。乱行気味の刺激的な集まりであり、彼女も憂さを晴らすように夫と寄り添っていた。技師はそれを思わせぶりなもののように見つめている。寒いので、室内に張り巡らされていた板塀を、引き剥がして暖炉にくべている。不満を爆発させるようにおもしろがって男女が加わっていた。カーテンを開いたとき、窓一杯に大型客船が見え出した。静かに入港してきたようで、静まり返って不気味でもあった。ひとけがなく伝染病を持ちこんでいる疑いがあることがわかると、恐れをなしてみんながあわてて逃げ出していた。

 女は夫が出張中に、技師のホテルの部屋を訪ねている。淡々とした会話が続き、やがて肉体関係にも発展していくが、悪びれているふうでもない。罪意識もなく、精神的な高揚感もないようだ。女は息子を愛しているが、息子は冷めていて、脚が痛くて立ち上がれないといって、学校を休んでいる。その後何気なく部屋をのぞいたとき、息子はふつうに立っていた。ウソをつかれたことに、母親は衝撃を受けている。

 煙突から立ち込める白い煙が気になる。事故のように工場から急に噴き出すのに驚かされるが、霧の立ち込めた自然現象とあわせて、情感を殺した映像美をかたちづくっている。現代の無味乾燥な風景と人間がつくりだすクールでスタイリッシュな抒情詩であり、視線の定まらないモニカ・ヴィッティ鈍い眼差しは、病的だが魅惑的だった。赤のイメージが頻繁に登場する。映画タイトルから察するに、部屋も情熱的であるはずの赤色におおわれるが、砂漠のように生命感のない不毛が、はてしなく続いているということだろう。

第480回 2024年6月7

砂の女1964

 勅使河原宏監督作品、安部公房原作、岡田英次、岸田今日子主演、武満徹音楽、英語名はWoman in the Dunes、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報ベストワン、ブルーリボン賞、毎日映画コンクール作品賞・監督賞受賞。砂の上をはう昆虫が大写しになって、「にっぽん昆虫記」さながら、その生態が観察されている。昆虫採集に東京からやってきた学校教師(仁木順平)は、砂地の続く不毛の世界を分け入ってゆく。日が暮れてきて、住民から声をかけられる。旅館までは遠いので、近辺で泊まれるところを紹介されると喜んだ。ついてゆくと砂地から落ち込んだところに立つ民家で、縄ばしごで昇り降りをしている。

 そこには女性がひとり暮らしをしていて、歓迎をしてくれた。案内人はばあさんと呼んでいたが、それにしては若かった。どうしてこんなところにひとりで住んでいるのかという、当然の質問をする。夫と娘がいたが、砂に埋もれて死んでしまったのだと答えた。男の夕食の世話をしたあと、夜になると屋外にでて、スコップで砂をかき集めている。何人かの男が上にいて手を貸し、引き上げてもらっている。地上まではかなり遠い。

 毎日掻き出さないと、埋もれてしまうのだ。北風が吹けばとんでもないことになるのだと言う。夕食のときも傘をさしていた。不条理の代名詞であるシジフォスの神話を思わせるものだ。一夜にして相当積もるという点では、雪国の雪かきに似ている。私の最初の勤務は雪国の美術館だったが、冬場の午前中の仕事は駐車場の雪かきで終わった。雪に埋もれて客はほとんどないことを思うと、次の日には同じくらい積もるのを、いつも徒労と感じていて、砂の女の心境だった。もちろん屋根の雪かきも同様で、毎日しないと家がつぶされてしまう。その土地で住む者にしかわからない宿命で、そう考えるとこのシュールな風景が、リアリティを帯びて見えてくる。

 女は男手を必要としていた。男は一夜の宿のつもりだったが、女はそうではなかった。三日間の休暇しかもらってはいなかった。翌朝、女が寝ている間に、宿賃代を置いて、荷物をまとめて出たが、梯子がない。来たときに縄ばしごだったのを思い出して、しまったと思った。これまで何人もの男が狙われていたことも知ることになる。自力で登ろうとするが、砂が滑り落ちてきて、それを阻止する。村人と女の策略だと気づいたが、手遅れでその後10年近く住み続けているが、家族からは行方不明のまま、戸籍から抜かれてしまった。

 逃げようとしていたとき、女に隠れて布を撚り合わせて、縄をつくっていた。ハサミを先に結びつけて放り投げ、登ることはできたが、砂漠の広がるなか方向を見失い、村人に見つかって戻される。女の悲しそうな姿に接すると、あきらめをつけたようだった。湿った砂が体に張りつく不快感は、女がタオルを濡らして拭き取ることでやがて快感へと高まる。同じように男も女にしてやると、男女2人だけの日常のなかで、必然的に肉体は結ばれることになる。男はカラッとしているから砂なのだと言ったが、女の日常はそれが湿っているのを知っていた。

 女が急に腹痛を起こすと、男はあわてて村人に連絡をつける。何人かがはじめて降りてきて、もと獣医だという住人が女をみて、子宮外妊娠だといっている。女を引き上げて治療に向かうと、縄ばしごがそのままにされていて、男は簡単に逃げることができるはずだった。にもかかわらずそこにとどまった。女をひとりにしておくことができなかったこともあるが、もうひとつ理由があった。

 男の探究心は昆虫に向けられていたが、都会での味気ない生活を嫌い、地道な研究が評価されて、昆虫図鑑に自分の業績がひとことでも残るのを願っていた。砂に埋もれた生活のなかで、カラスをいけどる仕掛けを考案した。カラスの足に手紙を結わえて、SOSを知らせようと考えたが、砂地に埋め込んだ木の樽に水がたまるのを発見し、この吸水原理の研究を完成したいと考えたのだった。

 それはこの過酷な自然に身を置く村人にとって、必要なものであって、東京に戻って完成させても意味のない研究だった。あれだけ逃れたかったのが、物理的バリアが除かれたとたんに、身をひるがえすという、人間存在の不思議を感じることにもなった。都会から急に蒸発してしまい、行方不明のままという事例が跡をたたないとすれば、死体になっている場合もあるが、ここにその謎を解くひとつの鍵があるのだと思う。東京砂漠ということばが、ふと脳裏をかすめた。