第10章 エコールドパリ

都市の時代大衆化路線/異邦人の悲哀/キスリング:亡命とレジスタンス/モジリアーニ:モンパルナスの灯/フジタ:変装したトリックスター/戦争画の問題/アールデコ/カッサンドル:大陸的野望/サヴィニャック:自虐美の成立


第112回 2021年12月28

都市の時代

近代と現代をどこで線引きするべきだろうか。単純な区切りは19世紀と20世紀に分割するということだろう。20世紀のはじまりをフォーヴとキューブの前衛絵画からはじめ、表現の時代として位置づけることは可能だろう。この場合、19世紀までを再現、20世紀を表現というキーワードでくくることになる。しかしフォーヴとキューブの源流を、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌに置くとすると、ポスト印象派とはひとつづきのものと見るほうがよい。そこで1920年代の都市の時代をターゲットにして、パリからニューヨークに美術の中心地が移動する推移を下敷きにして区切れないかと考えた。エコールドパリは、パリ周辺の無国籍集団であることを考えると、パリの最後の華となる。絵画のコンテンポラリーはエコールドパリの混沌(アマルガム)からはじまる。

1920年代は一般に都市の時代と呼ばれる。パリやミュンヘンやウィーンといった都市に集中的に画家が集まってくる。拠点が出来上がり、あちこちからやってくるので国がさまざまで、パリに来てもフランス語がしゃべれないというところからスタートする。画家なのでしゃべれなくてもよいという無謀な決意でパリにあこがれてやってくる画学生の無名がパワーとして見えてくる。東欧からきた一群では、意思疎通はドイツ語でなされた。下町に住み着いて芸術家横丁が吹き溜まりのように成立する。

エコールドパリのエコールは画派を意味するが、決まったイズムを掲げて、一致団結し、目標をもって活動するというものではなかった。飲み仲間のようなつながりで、モンマルトルやモンパルナス界隈に、あい前後して集まってくる。巨匠は含まれないが明日を夢見る若者の巣窟となった。アトリエ数200も数える長屋につけられた「蜂の巣」(ラ・リューシュ)という名称に都会にうごめく甘美が読み取れる。

日本でも若き漫画家が集まったアトリエ長屋を思わせるトキワ荘(1952-82)が有名だが、同じようにエコールド東京(1936-8)というパリをあこがれる洋画家たちのグループも組織された。そこでは生粋の東京人を跳ね除けてしまって、新しいパワーが誕生する。エコールドパリにしても外国人であることが必須の用件となる。エトランジェというフランス語に、独特の響きを感じ取る。単なる外国人ではなくて、異邦人と和訳するときのニュアンスに対応する。デラシネやボヘミアンという故郷喪失者の悲哀は、旅芸人やジプシーから引き継がれた放浪の民の悲しみの旋律とともに、西洋キリスト教世界では古くから根づいていたものだ。

第113回 2021年12月29

大衆化路線

日本からはフジタが加わり、魂は東西を行き来したすえに、やがては帰るべき故国をもたないで、フランス人となりキリスト教徒となることで完結した。モジリアーニ、キスリング、スーティン、パスキンなど多国籍に混じって、モーリス・ユトリロ(1883-1955)をこのエコールに加えても違和感はない。生粋のパリっ子であり、厳密な意味ではエコールドパリからははずれる。同じような場所で、同じように考えて、行動する同世代という意味では、フランス人が加わって悪いことではない。

父を知らない私生児であることは異邦人が分けもつ心情でもあるだろう。アルコールにおぼれる中毒者であっても同じことはいえる。たとえてみれば「住み込み」と「かよい」を区別しない包容力が、エコールドパリにはあった。イズムをこえたインターナショナルの仲間意識は、ふきだまりに身を寄せる軽いホコリのような存在だった。この軽い存在感が浮遊の自由を愛し、共感しあう連帯となった。

前章のフォーヴィスムとキュビスムは絵画とは何かを問い、絵画を純粋化していく運動としてはメインストリームを築く。それに対してここでは絵画は生きることそのものであり、そこで展開されるのは芸術論ではなくて人生論だった。世界を把握するための道具として絵画を考えるという哲学者の目というよりも、自身のいきざまの分身として分け与えていく吟遊詩人の血と肉であった。

20世紀に入って芸術は表現だという考えが定着していくなかで、表現者のいきざまを丸ごと写し出すものが絵画だという結論に至る。純粋な絵画運動からすると、表現主義が行き渡ったあとの大衆化路線ということになる。イズムの系譜として絵画史をつづると抜け落ちていくものがある。アールヌーヴォーの場合と同じように、大衆の支持を手がかりとして、難解化する絵画論に歯止めをかけた。

日本の場合でいえば、先に引いた竹久夢二の立ち位置とその評価を思い浮かべると理解しやすいものとなる。夢二の絵画はエコールドパリと同じような画家を専門とするよりも、生きる手立てとして、あるときはに訴え、印刷メディアを駆使して、マルチメディア化する都市風景に溶け込んでいった。写真による戦略も心得ていて、ポートレートはそのまま夢多き詩人の神話を語りはじめた。モジリアーニやジュール・パスキン(1885-1930)の悲劇的結末は、短命を生き抜いた画家の伝説を完結するには欠かせないもので、夢二もまた老境を知ることなく没した。

それは自分を演じきった仮面の告白にも似ている。そこには決して未完成ではないが、未完のもつ魅惑に満ちている。デラシネというフランス語の根無し草という意味に、安定と定住を否定した浮遊する魂の哀悼歌を聞き取ることになる。仮面が告白するのか。あるいは仮面を告白するのか。仮面の告白とはそこに描かれているのが、すべて仮面をかぶった虚偽だということなのか、仮面をかぶっていた自分をさらけ出した真実なのかは不明のままだ。

第114回 2021年12月30

異邦人の悲哀

異邦人であるという人たちが、いつまでも共通にもつ悲哀があって、それが絵のなかで叫びをあげだす。フジタの場合なら、油彩画で思い知った疎外感は、柔らかな肌を思わせる乳白色の磁器の色彩と、細く消え入るような黒い線描に救いを求めることになる。それは知らず知らずのうちに出てくるものだ。金地をもちいることで東西両洋を統一し、どこの誰でもないインターナショナルな地平を模索する。故郷を思うのは故郷を追われたときであり、エコールドパリの画家たちはパリで自身の民族の血に出会うことになる。それは日本のフジタだけではない。

フジタの「猫」を見ていると、かわいく愛らしいものではなく、本能をむき出しにした攻撃性が特徴をなす。自画像のような愛着もあったかもしれない。表情や動作はよく観察しているという印象だ。無数の猫が舞い踊り画面を覆いつくす「争闘(猫)」(1940)では、一匹の動作の軌跡のように、無駄のない狡猾なまでのリズムが感じ取れる。それは化け猫のもつ北斎の怪奇をうかがわせるものだ。

フランスには北斎漫画をはじめ多くのイメージが入り込んでいたことを思うと、戦略的意図も感じる。奇怪な感じの小動物は北斎のねらいでもあった。フジタの描く目つきの鋭い少女像も、これに追随するものかもしれない。愛らしくもありいじわる気な子どもの目つきは、ネオポップの時代になると奈良美智(1959-)に引き継がれ、フジタと同じく海外での評価を高めるものとなったようだ。

日本のなかにいれば日本は見えないが、旅行をしたり、あるいはパリなどにしばらく住んでいると、日本が懐かしくなってくる。パリにいながら日本を知らず知らずのうちに求めはじめている。それを加味したときに受け入れられ、自信を得たということも手伝ったかもしれない。異邦人の心情は、国は異なっていても共通するものだ。ポーランドから来たものはポーランドに、ブルガリアから来たものはブルガリアに、魂は回帰している。技法的には油彩画を踏襲することで、同じ土俵で比較することが可能となる。お国自慢も含めてすべて並べると万国博覧会になる。

ピカソにしてもスペインからやってきて、モンマルトルで生活をする。ある意味ではエコールドパリの一員でもあったが、パリに凝り固まって安住することなく、それを乗りこえてもっと広い活動へ飛翔していった。「アヴィニョンの娘たち」にしても、ローマ時代から続く伝統的なフランスの地名に見せかけながら、ローカルなスペインの風土に回帰している。パリに住むだれもバルセロナにあるアヴィニョン街の娼婦のことなど知ったことではない。

マルク・シャガール(1887-1985)もエコールドパリというくくりには無理のある作家だろう。シュルレアリスムの先駆的役割も果たすが、故国ロシアへのこだわりはエコールドパリに共通する心象だ。カンディンスキーも含めて当時のロシア人はパリを基点に名をなしていった。その点ではすべてがエコールドパリだったともいえる。

シャイム・スーティン(1893-1943)を見るともうひとつの側面を知ることになる。ロシア出身の貧しい画学生だったが、リトアニアからパリをめざし、ほとんど認められることはなかった。目をそむけたくなる対象は歪みきった人物像だけではない。なんという絵かと思うが、皮のはがれたウサギが人間のようにベッドに寝そべっている。1923年のある日突然、シンデレラボーイとなる。アメリカの収集家の目にとまり、一夜にして富と名声を得る。

こうしたサクセスストーリーが伝説を生むのは、ハングリーな無名のボクサーが王座を得るアメリカ型の社会構造に似ている。それは黒人や東洋人が肌の色をこえたデモクラシーの国に寄せる憧憬をも意味し、パリの異邦人を物色するアメリカが、自国での経験で身に着けた手続きでもあった。ローマで休日を楽しんだパリのアメリカ人は、数百年をかけて伝統が生み出してきた前衛の誕生原理に、絶大な信頼感を寄せていたということだ。ローマからパリへと続く芸術都市の蓄積を学び取って、ニューヨークはじっと観察し続けてきた。バーンズコレクションは確信をもって、スーティンに息づいた重厚なヨーロッパ的伝統を読み取ったのである。

第115回 2021年12月31

キスリング(1891-1953):亡命とレジスタンス

キスリングの展覧会を東京都庭園美術館でみた[i]。壁面のみを使ったゆったりとした展示は、その壁面がキスリングの絵のために準備されていたように、うまくなじんでいた。アールデコの大正期の美学を称えた洋館の壁面が、エコールドパリの額縁と交感する。その親和関係はシンクロナイズしながら、心地よい美術鑑賞の本来の姿を見せてくれた。

ホワイトキューブに一列に並べる不自然を、当たり前のものと思ってきた美術館学への疑問も噴出する。私室の壁に数点の油絵をかけるという今から見ると贅沢な演出が再現されていく。キスリングの生み出す世界は、そうした空間にふさわしく、一堂に会すると、あまりにも強くて作品どうしが反発しあってしまう。

 毒々しいまでの花の香りと、ボーイッシュな少女の表情とは、相容れないものだが、キスリングには両者が同居している。庶民性を維持しながらも異邦人のもつ悲哀が、全面に漂ってくる。少女のつぶらな瞳がいい。丸く見開かれた目は、多くの悲しみを見つめてきたそれだ。モジリアーニのような空洞ではない。モジリアーニの人物像はときおり目が白いままで残されている。目のない彫刻を思わせ、深遠なまでの不安感を呼び込んでいる。

キスリングの少女はしっかりと何かを見すえている。意志の力は自身のユダヤ民族という血の定めをレジスタンスの名で実現しようとするのだ。アメリカに亡命して得た二重の悲哀は、異邦人として生きる身の宿命を、諦めて受け容れるなかで、生き残るという生命感を生み出している。


[i] 「キスリング展 エコール・ド・パリの夢」2019年4月20日(土)– 7月7日(日)東京都庭園美術館

第116回 2022年1月1日

モジリアーニ(1884-1920):モンパルナスの灯

アメデオ・モジリアーニはスーティンとは異なり、生前は貧困にあえいだが、画商はひそかに目をつけていた。肺結核に冒された身体の消滅を待ち望むように、名優リノ・ヴァンチュラ演じる画商は動きはじめる。映画「モンパルナスの灯」(1958)が描き出した光景である。エコールドパリの画家の純心を支えたのは、コレクターとともに絵を商いとする画商たちだった。彼らは才能をみいだし、支援する救世主としての使命と、錬金術師としての商魂が同居している。

純心は黄金を生むが、流通しない限りはただ輝いているだけだ。黄金に換えるのは商才であって、マネーとして数値化することによって、目にみえるものとなる。つまりそこでやっと「美術」になるのだ。世俗にまみれて、商品が作品になる瞬間である。無数の無名の画家たちとそれを掌握する画商との関係は、現代では芸能プロダクションと芸人たちとの関係を思い浮かべるとわかりやすい。そこでは格差社会が這いあがる装置としてみごとに構築されている。

没後にしかシンデレラになれなかったのは悲劇にはちがいないが、現在ではモジリアーニの作品はスーティン以上に輝きを放っている。悲劇の主人公ではあるが、貧困のなかでもいつか日の目を見ることを夢見る。夢と希望だけを肥やしにして、空回りする情念と熱気があふれかえっていた。それが画家たちの住んだ歓楽街の一角での情景だった。

30代なかばで亡くなるというのは、ルネサンスではラファエロもそうだが、20代でなくなる短命に比べると、一仕事は終えているということになる。今のモジリアーニの評価からすると絵画と少しの彫刻で、誰とも異なるモジリアーニスタイルは確立している。妻となるジャンヌとの出会いやモジリアーニの没後、次の日に後追い自殺するという悲劇的な結末は、すべて描き出された目のない肖像のなかに結晶している。

絵画上のルーツをたどると、イタリアの美術学校でアカデミックな経験を経て、彫刻で身を立てようとするが、病弱から体力勝負の仕事をあきらめ絵画に転向する。彫刻で作っていた人体像がそのまま絵画に置きなおされたような、彫刻家ならではの存在感を画面に浮かび上がらせた。黒目を入れない顔は、ギリシャ彫刻にみるクラシックの伝統と対応するものでもある。

イタリア出身というのはエコールドパリのパターンとは異なる。当時のフランスではイタリアはまだ学ぶべき芸術的伝統を有した国だった。画家自身にもその自負心はあったにちがいない。東欧や東洋というエキゾティックを売り物にして身を立てていくようなものとは異なった造形性を、使命として感じていたように思う。

ローカル色としてのイタリア的要素はモジリアーニにはあまり見つからない。彫刻を見る限りではコンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)からの影響は大きく、ギリシャ彫刻との関連でいえばエーゲ海文明で出てくるキクラデス諸島から出土した少女像を思わせるナイーヴで華奢な石偶にも似ている。

第117回 2022年1月2

日本人画家

ここでの作家たちに共通するのは、自身の生きざまが表に出てきて、作品はその次にという、破滅型のボヘミアンへの道筋をたどる。日本からも画学生が行って、パリの街にどっぷりと浸かる。もちろん芸術をめざしてはいるが、やがて日常生活に埋没して、制作もおろそかになって終わってしまうケースも多い。共同でアトリエを借りて、コミュニティを形成する。キャンバスに向かう孤独と、傷口をなめあう連帯がエコールを特徴付ける絆だった。

こうした環境はその後も続き、そこに入り込めば生活はしやすいものでもあっただろう。日本でもフジタが先鞭を切り、オギスであったりタカタであったり、画壇をこえて日本人組織を形成していく。やがて日本に帰国することをあきらめ、パリに骨をうずめることにもなっていく。フジタと同年齢の田中保(1886-1941)をはじめ、平賀亀祐(1889-1971)、板東敏雄(1895-1973)、荻須高徳(1901-86)、板倉鼎(1901-29)、高崎剛(1902-32)、木村忠太(1917-87)と名は続くが、多くはまるでうずもれようとするかのように「巴里に死す」を共通の美学とした。

佐伯祐三(1898-1928)の絵を見ていると、いかにパリの裏町を愛したかが伺われ、エコールドパリの美学を共有するが、結核にむしばまれた病弱な身体はパリを回避して、帰国を余儀なくされる。その無念な思いはモジリアーニと共有するものにちがいない。三〇歳の没年は確かに早い。余命いくばくもないのに無理をしながら制作を続ける。死を覚悟するなかで出てくる造形への執着は悲壮美ともいえるもので、見るものの心を打つ。

薄汚れた土壁にはうらぶれた歴史が染み付いており、壁をそのままはがして貼り付けたようなリアリティが際立っている。療養は故国で、死はパリでという、聖地に向かうような信仰が見えてくる。死ぬために病を押して再度パリに向かう。芸術の殉教者に見えてくるのは、没年がキリストと同年齢だったからだろうか。

佐伯の一点一点は明治以来あこがれ続けた日本人の、芸術の都に寄せる思いを凝縮して見せたものだった。住み着いて生涯を全うすれば、エコールドパリの一員にはなれただろうが、日本での現在の評価を得ることはなかっただろう。遺族や友人やコレクターや信奉者がしっかりと管理していたにちがいない。佐伯のコレクションは大阪市が収蔵し、準備室に三〇年もかけた美術館はめずらしいが、日の目を見る幸運と安泰を得たことになる。

パリと日本を結ぶ役割として佐伯の名は残るだろう。同時にパリに野たれ死んだ無名の画家に思いをはせる必要もある。高田博厚(1900-87)は長期にわたるパリ滞在の後、帰国したことで、アーティストとしてだけではなく、芸術的知性として、岡本太郎(1911-96)とともに日本での役割をはたすことになる。

第118回 2022年1月3

フジタ(1886-1968):変装したトリックスター

 レオナールフジタの描く子どもの意地悪げな顔立ちに、子どもが本来もっている残酷な本性がみえる。目のつり上がった少女の冷ややかな眼差しに、ファムファタールから続く、危険な女の魔力がみえる。可愛いはずの猫が、一瞬みせる執念深さに、身が凍る思いがする。それなのにフジタは、これらを愛し、描き続けた。

それは時代の感性を嗅ぎ分ける嗅覚に由来し、世紀末の退廃を払拭し、新しい美の誕生を歌いあげるのに、必要な手続きだった。おかっぱ頭に、ロイド眼鏡とチョビ髭という、狂言回しの道化風の三点セットは、ヴィジュアルの世紀を予感する。それに加えて、ピアスが身体を傷つける快感も自覚していて、破滅という甘美な誘惑に身を委ねる。

 それらは変装道具だが、確かに藤田嗣治は変装している。トリックスターを演じるためには、隠そうとする何者かがあるはずで、おどけてみせることで、真実を隠蔽しようとする。一般には照れ隠しということだが、では何を隠して変装しているのか。藤田は二つの顔をもっている。藤田嗣治とレオナールフジタである。日本人とフランス人といいかえてもよい。

二重国籍を生きながら、最終的にはフランス国籍を取得して、フランスに葬られた。フランス人になろうとして選び出したのが、レオナールというイタリア人画家の名であったというのが興味深い。それはフランスが振り向いてくれる唯一無二の外国人名だった。

隠しているものを知るには、変装前の顔と比較するのが手っ取り早い。二枚の写真を見比べればいい。日本で撮った国民服姿の写真が残っているが、こわばった表情は肩の荷を下ろした普通の人にみえる。変装を取った素顔にはちがいないが、仮装が生き生きとしていたのとは対照的だ。化粧を取った道化役者の悲哀は仮面こそが真顔であったのだと教えてくれる。

時代に翻弄されたということも確かだ。それはエコールドパリの画家たちが共有する資質でもある。パリの異邦人、あるいはデラシネという語もある。根無し草のもつ自由主義には、根を張りたいという自己拘束がいつも同居している。エコールドパリにユダヤ系が多いのは、その底流をなすものだろう。本心を悟られることを回避して、変装してみせる。仮面は身を隠そうとして、いつの間にか目を引くツールと化している。

 自虐というには無垢な気遣いが、残された絵はがきや絵手紙から見えてくる。そんなプライベートな側面を通して、フジタの真実に出会うことができる。結婚直後、妻を残してパリに向かい、そのまま帰ってこないのも無謀だが、60歳を過ぎて単身でアメリカに渡り、置いてきた妻を恋しがる姿も異様である。まめに綴られた絵手紙のなかで見えてくるのは、無謀というよりも無垢な、楽園を求める魂であったようだ。

 本の挿絵では小生意気な児童やいたずら好きの猫が、主役になる。大上段のタブローにはない魅力が潜むが、もともとが線の画家であったことを思うと、こちらのほうにフジタの本領はある[i]。ごくはじめの絵はがきは、アールヌーヴォー調のグラフィックに満ちていて、藤島武二や竹久夢二の素地と共通する。古色を帯びたフジタの挿絵や装丁は、壁画制作などとは異なる知的好奇心と向き合う瞬間でもあり、パリに息づいた重厚な出版文化に、どっぷりと身を委ねる高雅な味わいを見いだすことができる。

同じフランス語だという限りにおいて、文字のレイアウトやフォントや、プレスの刻印にまでも時代は染み付いているようだ。詩文を覆うようにフジタの絵が重なると、そこには本阿弥光悦(1558-1637)と俵屋宗達(-c.1640)がかなでる典雅な二重奏まで聞こえてくる。フジタはきっとこの桃山の知的伝統を下敷きにしていたはずだ。さかのぼれば「平家納経」(1164)だって想定していいはずだ。千年の都ということなら、京はパリを上回ってもいただろう。


[i] 「藤田嗣治 本のしごと—文字を装う絵の世界—」 2018年1月13日(土)〜2月25日(日) 西宮市大谷記念美術館

第119回 2022年1月4

戦争画の問題

フジタの場合、日本にしばらくいたときに戦争画に手を染めたが、戦後長らくそれを封印することになった。西洋でのエキゾティズムだけではなくて、日本でも異邦人という立ち位置に、重婚のような二重国籍の居心地の悪さを漂わせる。なおかつそのなかで生き抜かねばならない空威張りが焦りとあきらめをともなって、二重人格を装わせる。戦意高揚に一役を担うことは、自らに貸した至上命令にさえみえる。敗戦はそれが報われることなく終わる。

画家が大作に挑むのはそれなりの条件が必要だ。エコールドパリにはふさわしくない国家的事業は、自己矛盾をはらみながら空中分解してしまった。戦争画に匹敵する大作は、日本を離れフランス人となったのち宗教画家の使命としてフジタ礼拝堂(1965-6)に結実することになる。ミュシャがチェコに帰って挑んだスラブ叙事詩を、つい思い出してしまう。

戦争画の問題はフジタに限るものではなく、多くの画家がそれに参加したが、その戦争責任はすべてフジタが担ったようにみえる。今日、戦争画の再評価を経て、偏見なく作品として見直す機運が高まった。当時の軍部の誘導による一元的価値観が描かせた「アッツ島の玉砕」(1943)にしても大作であり、力作である。戦後民主主義のなかで、フジタの戦争画は長らく展覧会や画集では意識的に排除されてきた。西洋絵画において戦争は重要な主題であり、古代より描き継がれてきた。この時期の日本では戦意高揚を掲げたものに限られたが、ゴヤに見るように、生々しい悲惨をえぐり出すレジスタンスである場合も多かった。ただ偏見のない戦争画の再評価は、得てしてあやまちを繰り返す歴史の循環原理を肯定することにもなりかねない。

この時代に戦争がなく、注文は平和を象徴するものであれば、またちがう作風が出てきていたはずだ。日本を見限ったのが良かったのかどうかはわからない。フランスに戻ったから今のフジタの評価となったのか、エコールドパリとして完結したことは確かだ。日本に戻ったままだったら長い留学だったといわれて終わっていただろう。

第120回 2022年1月5

アールデコ

パリにあってフランス人以外は海外組であったが、ロシアであっても名をなす画家のたいていはパリを経由している。共通するのはエトランジェのもっている疎外感であり、中心からはずれた周辺部に属する、悪くするとひがみにも通じる劣等感がバネとなっていた。国吉康雄(1889-1953)はパリではなくアメリカに向かったが、似たような思いが渡来していたはずだ。クニヨシにはフジタやナラと共通する鋭い目をした少年少女が登場する。

イサムノグチの生い立ちはもっと屈折した逆説を有する。日本とアメリカに引き裂かれているはずだが、不思議なほどにいじけた体臭は感じない。時代がくだるとパリからニューヨークに美術の中心が移動する。摩天楼を見あげて都市デザインの時代を築き、新たにニューヨーク派が誕生することになる。今ではそこに住み着く日本人アーティストは数多いし、現代アートだけではなく日本画家も含めて、エコールドパリのもたらした課題を引き継いでいる。

エコールドパリはあくまでも絵画運動だったが、それと同調するようにデザイン運動としてアールデコが展開している。時代の気分を共有して、都市の時代を謳歌する。20年代のパリやニューヨークという大都市がもたらす光と影を背負いながら、悪の華の魅惑に目を向ける。デザインでは都市の気分は丸ごとポスターに反映する。ファッションと建築が加わって、時代様式が都市空間を満たしていく。

ニューヨークの摩天楼は、この時代の象徴的空間を、建築規制を残すパリから奪い取っていった。タマラ・ド・レンピッカ(1898-1980)やカッサンドルのグラフィックのレトロな感覚は、パリで活動してファッショナブルなヨーロピアンスタイルを残し、古きよき大陸文化の伝統を伝えている。

第121回 2022年1月6

カッサンドル(1901-68):大陸的野望

アドルフ・カッサンドルの旅客船特急列車のポスターが描きだした雄大なイメージはヨーロッパをひとつにしようとする大陸的野望を底流とするものだった。それはアメリカの時代になろうとする文化的背景が危機感となった美の結晶だった。人間が自然に立ち向かう雄大な意志の力がある。

大陸を横断するエクスプレスのスピード感や大陸を結ぶ巨船「ノルマンディー」(1935)の壮大さは、世界征服をめざす野望の時代を象徴するもので、同じ名をもつアドルフ・ヒトラー(1889-1945)の台頭と時代を共にして、やがては崩壊へと至る。戦闘的イメージを加速するものであるだけに、潔く颯爽としている。

かつての日本の軍部が向けた中国大陸へのイメージ戦略と共通するものがある。このデザイナーがフランスではなくドイツにいたなら、日本の軍部は満州鉄道のポスターを依頼したに違いない。そんな弾丸列車を写し出した写真が残っている[i]特急あじあ号の勇姿はまさに象徴的だ。黒い鉄の塊が煙を吐きながら暴走している。この疾走はある者には頼もしい勇者に映るだろうが、怯える者には不気味な鎧をつけた弾丸に見える。満州のイメージを代表するものに違いない。重工業は鉄道だけではなく、すぐに戦車や戦闘機や軍艦に姿を変えていく。

一国の夢と野望は、他国の悪夢と犠牲によって成り立っている。無謀と愚かさにしか見えないものに、大いなるロマンを夢に見て、資金を投入し、大事業を仕掛けていく。満鉄と関東軍という封印された二語の切り離されない関係は、進出から侵略へと変貌する中で完結していった。写真による膨大な証言がある。「満州グラフ」(1933-44)というPR誌の表紙には、一目瞭然で正当化された悪夢が見える。


[i] 「異郷のモダニズム—満洲写真全史—」2017年4月29日(土)~6月25日(日)名古屋市美術館

第122回 2022年1月7

サヴィニャック(1907-2002):自虐美の成立

レイモン・サヴィニャックはカッサンドルに付いて学ぶが、優れた師に着くということが、いかに大切かがわかる[i]。師匠のスタイルを引き継いだものも多いが、それを乗り越えるなかで、時代の息吹を感じ取ることになる。師のような勇ましさはない。むしろそれを否定するように、権威を風刺し、笑いの中に持ち込むことで、突出を解消しようとする。自虐美の成立は、サディスティックな攻撃性に対する緩和として生まれたものだったかもしれない。

サヴィニャックの自虐ネタは、一躍有名になった出世作から見られたものだ。「モンサヴォン牛乳石鹸」(1949)のポスターだが、牛の乳房がそのまま固形の石鹸につながっている。牛の表情がいい。「あれっ」という表情を浮かべて首をかしげている。さらに連作として泡だらけになって自身のシャボンが立ち込める浴槽につかる牛がいる。角にタオルをかけて、ここでも首をかしげている。

マギーブイヨンのポスターは、思わず笑ってしまう。今日では動物虐待ともとられかねないブラックユーモアだが、これを支えているのは適切な描写力で、動物の表情を擬人化する天性の能力がある。ポトフの鍋から漂う香りを美味しそうに匂っている子牛か豚がいる。鍋の中には自分自身の輪切りにされた胴体が放り込まれている。自分で自分を食うという自虐的なユーモアなのに、それほどまでうまいという表明も伝わってくる。別のマギーのポスターでは、ニワトリがトリガラスープをストローで吸っている。

自身を食う姿は、尾から食いはじめた蛇の場合は、ありえないシュールな光景が思い浮かぶ。しかし蛇のように尾が長くない場合は、猫や犬が自分の尾をくわえようとしてとどかず、くるくると回り続けるユーモアに結晶する。サヴィニャックの世界は、完結しない円環の、この光景に似ている。

パリのポスターはとにかくでかい。街中だけでなく、地下鉄を飾る文化そのものといっていい。場所がなければポスターは成立しない。それが芸術になるためには、さらに都市がそれを育てる余裕が必要だ。映像メディアの台頭する時代にあっては、前世紀の遺物とみえなくもないが、文句のない芳香を放っている。それはアールデコというフランス語が伝えるパリそのものといってもいいだろうし、社会の変化そのものを写し出す鏡ともいえる。


[i] 「サヴィニャック パリにかけたポスターの魔法」2018年2月22日(木)〜2018年4月15日(日)練馬区立美術館

next