イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜 

—モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガン

2022年01月28日~04月03日

あべのハルカス美術館


2022/3/12

 いつも見慣れた近代絵画の定番なのだが、イスラエルという所蔵先に、これまでにはなかった好奇心を感じる。それは隠しもたれた絵画であり、作品評価のメカニズムを見つけ出したい気になってくる。作品は手頃なサイズ、簡単に言えば小さい。それは印象派が求めた家庭的サイズであり、国家的レベルとは異なったものだ。イスラエルという小さな大国という特徴と対応してもいる。

 初来日の作品が多く、これまであまり見かけたことのないモネやゴーガンが混じっている。噴水が噴き上がるようなモネの水面が印象的だ。「睡蓮の池」(1907)というモネにとって定番のテーマではあるが、静かな水面を眺めたものではない。水面に映った雲のように見えるが、私の目にはその雲が水面から湧きあがり、白いしぶきとなって噴き出している。雲が水面から出現するというのは妄想だが、水面はしばしば空を丸ごと埋め込んでいるものだ。水面に映し込まれた実物以上にクリアな「逆さ富士」を思い浮かべれば、そのことはよくわかる。モネはクリアな目をもった画家だが、晩年は眼病のせいもあってか、妄想とも思える作例も知られる。今回はさらに、積みわらを描いた一点が展示されていたが、これも連作に共通する通常の描き方ではない。タイトルは「ジヴェルニーの娘たち、陽光を浴びて」(1894)とあり、並んだ積みわらの輪郭が陽光を浴びた娘たちに見えたのだという。モネは写実の人であって幻想の人ではない。そんな見え方をおもしろがる目はもってはいないと思っていた。モネにとって積みわらは積みわらであって、それ以外ではあり得ない。1840年という同じ年に生まれたルドンと比較してそんなふうに思っていたが、同い年であるということは、印象主義は象徴主義と時代を共有するということなのだろう。

 モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーガンというサブタイトルにあげられたビックネームに混じって、なじみのない名があった。レッサー・ユリィ(Lesser Ury 1861-1931)、ポーランドに生まれたユダヤ人画家である。ドイツで活動しており、印象派に分類されると、見過ごされてしまう不利な立場にある。不運は画家を埋もれさせたが、展覧会中で聞きなれない作家名が唯一のものであり、さらに複数の作品が選ばれていると、見直してみたい気になってくる。赤い絨毯(1889)、風景(1900頃)、冬のベルリン夜のポツダム広場(ともに1920年代半ば)の4点を目にすることができた。

 ドイツは表現主義の風土であり、フランスで展開した印象主義と交わることで、どっちつかずのものとして、相手にされてこなかったのだろうか。それがユダヤ人画家としてイスラエル国立美術館に残ることで、埋もれていたものが浮上する。もちろん作品として魅力的であることが前提だ。照り返す舗道が特徴的で、光への興味は印象派に由来する。しかしタッチは印象派にしては思い切りがよく、表現主義に根ざしたものだ。地面の輝きは雨に濡れた舗道をくりかえし描いている。都会の夜が醸し出す新世紀の美意識が、寂しげに孤独に、しかもスタイリッシュに歌い上げられる。現代感覚にアピールするところがあり、クールな都会生活に興味をもつ。

 傘をさす通行人を点景にした都会の街並みは、舗道が濡れて人工の光を照り返している。スタイルブックから抜け出てきたようなエレガントな女性が道をゆく。広がりのある全景は遠近法にそって奥行き感を残し、絵画としては古いスタイルではあるが、安定した大衆性を味方につけている。前衛性の希薄が美術史の網からすり抜けていったのだろう。イスラエルだけではなく、ベルリンのユダヤ博物館にも一連の作品が所蔵されているようだ。引きこもりがちな生涯のなかで、都市風俗や風景画だけではなく、宗教画も描かれたが、画家の没後、ヒトラーの政権下でほとんどが消えてしまったという。アダムとイヴノアの洪水をテーマにしたものが現存するが、写真で見る限り都市風俗とは異なった重々しい人間存在を見つめたものである。楽園追放を見てもアダムとイヴに悲壮感はない。夜明けを見るように目を見開いて遠くを見つめ、前途に開ける新天地を切り開こうとする希望のまなざしが読み取れる。

 著名な宗教哲学者マルティンブーバーがレッサーユリィ論を書いており、シャガールをユダヤ思想と結びつけて解釈するのとあわせて、再考の余地がありそうだ。ブーバーはユリーが「ユダヤ人の過去を描くために出かけ、ユダヤ人の永遠を見つけた」のだという。ドイツではナチの悲劇を経由して埋もれるべくして埋もれてしまった画家は多い。この画家も生涯が10年遅れていればアウシュヴィッツの悲惨を経験したかもしれないと思うと、ぞっとするものがある。

 ポーランドに生まれベルリンで開花するが、パリでは印象派の洗礼を受ける。ブリュッセルでは象徴主義に親しみ、クノップフやトーロップとともに過ごしている。柔らかな色彩のぼかしは、相容れないはずの印象派と象徴主義がみごとに同調したようだし、骨太のエッチング素描にはケーテコルヴィッツの表現主義と共鳴するし、ベルリンの描写はキルヒナーの都市風俗を思わせる。ドイツ全土に加えて、オランダの諸都市、さらにはロンドンやローマ、カプリと、ひとところに落ち着かない不安定は、旅行というよりも逃亡という身の置きどころを通じて、美術史の根ざす定住からはもれてしまったようにみえる。それぞれの局面でとらえ続けた光と色彩は、好奇心に満ち、ことに雨の日のベルリンの舗道は、際立った輝きを放っている。当時ベルリンはまだローマやパリやロンドンやウィーンほどに魅力的な芸術都市にはなっていなかった。ユリィを通して濡れた舗道に独特の哀感をもってベルリンは受け入れられることになる。この機会に再評価されてしかるべき画家だと思った。


by Masaaki Kambara