第2節 かぶき者としての岩佐又兵衛

第518回 2023年31

1 過渡期のひずみ

 ある時代が終わろうとし、一方で新しい価値観が急速に頭をもたげはじめる時、二つの時代の狭間であるひずみが生じる。それは徐々に高まってやがて爆発することもあるが、大抵の場合、巨大な権力によって押しつぶされ抹殺されてしまう。慶長・元和・寛永という50年は「陰険なる分子を押さえに押さえて、表面に出さなかった時代」と言われる[i]。岩佐又兵衛が生きた73年の生涯にすっぼりとこの期間はおさまっており、又兵衛もまた時代のひずみの中で自由を失ない身を拘束されていった一人であったようだ。

 又兵衛が生きた時代は、乱世から泰平に向かう時代の過渡期に位置している。それは中世の末とも、近世のはじめともとれる二つの対立する要素が錯綜しあう時代であったといってよい。政治史の上からは、信長・秀吉の時代から、家康の時代へと移る中で、戦国の下剋上は完全に幕を閉じ、政治の舞台も京都から江戸に移ってゆく。そうした中で、又兵衛の生涯の歩みもまた京都から福井を経て、江戸へ向っている。それは彼がまさに、この時代の変動を体現し、二つの時代を橋渡しているということであって、この一人物の生涯の歩みの中に、移りゆく時代の象徴を見い出すことが可能となる。そして、京都と江戸の中間に来る、元和から寛永にかけての、福井での二〇余年の生活が、極めて重要な意味を持ってくることは言うまでもない。又兵衛はその中にあって終わりゆく時代と来たるべき時代を、距離を置いて、乾いた視点をもって見つめることができたと思えるからである。そして、この模索期の中で華麗にして卑俗な、王朝風にして世俗的な、ぎょっとするような美意識を宿した、岸田劉生のいう「生々しい生きものの汚さを持つでろりとした感じ[ii]」が雅びさの中に秘められているのに出会うのである。彼の福井時代に描かれたと考えられている旧金谷屏風中の一点「官女観菊図」は、その典型的な例であって、そこに「官女たちの顔の、古典的な気どりの中に隠された淫蕩な表情[iii]」を見落すわけにはゆかない。

 又兵衛の生きた時代は絵画史の上からは、「近世初期風俗画」と呼ばれる一群の表現が登場した時代であり、それが「初期肉筆浮世絵」という別名の示すように、次にくる浮世絵の先駆的な様相を形づくる。そして又兵衛も「浮世又兵衛」という名て呼ばれ、浮世絵の元祖として、長らく巷に知れ渡ってきたのである。それは又兵衛を近世の画人として見ようとする試みであり、風俗画という新しいジャンルの台頭に寄与した先覚者として位置づけようとするものと思われる。しかし過渡期の肖像は、そこに様々な矛盾点をさらけ出す。悲しいことに又兵衛の描いた当世風俗画は少なく、その画題は、文学的要素の強い源氏物語・伊勢物語・和漢の故事・歌仙図など従来の伝統を踏襲したものが大半であった。

 又兵衛が過渡期を生きたということは、彼が近世初期の画人であっただけでなく、中世末期の画人でもあったことを意味する。上記の画題を通して見られる又兵衛の画風の特徴は、「爛熟」という言葉がふさわしく、絵巻に見られる細部の描写は、ことに「上瑠璃物語絵巻」が示すように彼をミニアチェリストとして位置づけるのである。その意味からは彼は、中世の最後の日々を生き、その絢爛華美な世界を享受したのだといえる。そこには同じく爛熟した江戸文化の果てに現れた南北劇や末期浮世絵のグロテスクな血ぞめの美学に通じるものがあるし、ヨーロッパ中世末期の時祷書を想起させるものでもある。例えば現在福井県立美術館蔵の池田家伝釆の「和漢故事人物図巻」(現在は12幅になっている)においては、その12点の細密描写の中に、春さきの暴風雨や真夏の気分、秋深い落葉の季節、さらには雪の夜の情景などの季節感が盛り込まれ、月暦図ないしは時祷書という趣きを持たせている。

 「中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも咲き終わり、ひらききった木のごとく、たわわに実をみのらせた[iv]」。これはホイジンガ『中世の秋』の冒頭の言葉である。17世紀の又兵衛を中世最後の画人として位置づけるのは西洋史的にはいささか無理があるかもしれない。しかし、文化の担い手が武士から町人へ移り、下剋上という夢と自由に満ちた時代が過ぎて、可能性を閉塞させてゆく武家の子弟にとって、やり場のない情熱が自虐的な殺人行為の中に昇華していったとしても不思議ではない。事実又兵衛は伊丹域主荒木村重の子であり、一族郎党は信長によって虐殺されており、当時二歳だった彼はその例外的な生き残りの一人であった。その意味からは、又兵衛は武士でありながら武士であることを剥奪され、武士を捨てることによって生き続けることのできた人物だったといえる。つまり又兵衛もまた、当時「かぶき者」と呼ばれた無頼漢たちと同じく、乱世に「遅れてきた青年[v]」だった。

 彼の幼児体験は、ながらく彼に「殺されていたはずの子ども」という観念を植えつけることになる。それは存在しなかったはずの子どもであり、つまりは余計者であったわけで、ふとした偶然が彼を生きながらえさせはしたが、そこでは常に何者かから逃れ、迫り来る者の影に震えながら、隠れようとする方向性をとる。彼の描く子どもの姿が極端に小さいのは特徴的であって、これはそうした意識の反映であったかもしれない。福井時代後半期に描かれたとされる樽屋屏風の一点「職人尽図」に見られる、傘張り・虚無僧・子どもの姿は、時節の到来を待つ方便に身をやつした又兵衛自身の姿と見ることもできる。つまり又兵衛の生涯は、生き残りという幸運と、仇討ちという宿命の間を、絶えず行きつ戻りつする一生だった。追跡と逃亡が、又兵衛個人の意識の中で揺れ動き、それが彼の定住への思いを打ちこわす。外的な理由はどうあれ、彼の第一の旅立ちが「不惑」の年に近く、第二の旅立ちが「耳順」の年であったということは興味深い。それらはともに人間が不動をめざすと思える年だからである。

 彼のデラシネとしての行動は、西行以来の中世の遊行憎に見られる無常感に支配されている。大名の子として生まれ、一族壊滅ののち石山本願寺にかくまわれ、姓を隠して絵師として京都に生き、やがて越前福井にのがれ、晩年は妻子を福井に残したまま、一人江戸に没した生涯の軌跡は、常に故郷を喪失したままである。つまり、彼の生涯は逃亡の中にあったのであり、福井での仮住居となった興宗寺は、まさに彼にとってのアジール(避難所)に他ならない[vi]。それは「道行き」(旅)の末にたどりついた聖域であり、彼が「山中常盤絵巻」において求めたテーマでもあった。遊里と芝居と寺は、江戸時代において三大アジールであったわけだが、それらは単に罪人たちの逃れゆく場であっただけでなく、又兵衛にあっては旺盛な制作活動をはじめる拠点ともなったのである。遊里と芝居もまた、又兵衛の描く格好の材料であっただろうし、そこに登場する「かぶき者」の姿は、又兵衛自身の肖像であったかもしれない。

 「世のおとろへのかなしさに、ひなの住ひに年を経て、はたとせ余り越前といふ国へ下り、いやしのしづの交り、みやこの事を忘れはてて、老いくくまれるよはひの程に、みみさへしたがはねは詩歌管絃の遊舞暁の夢にたも見きかす[vii]」(廻国道之記)。これは、福井を出て江戸に向かう折りに、又兵衛が記した旅日記の一節である。途中、彼を育てた思い出の京都に立ち寄ったことが記されるが、そこには過去の感慨にふける老人の無常感が漂っている。「世の衰えの悲しさ」とは、世の乱れを憂うというよりも、むしろ世の泰平をなげく者の姿であり、又兵衛の身の置きどころが徳川幕府による統一を快しとしない旧体制の側にあったことを想像させる。


[i] 中村直勝「近世初頭京洛文化」 著作集12 淡交社 昭和54年 30頁。

[ii] 岸田劉生「初期肉筆浮世絵」 岩波書店 全集4 昭和54年 103頁。

[iii] 辻惟雄「岩佐又兵衛の作画範囲」美術研究230 昭和38103頁。

[iv] ホインンガ「中世の秋」 堀越孝一訳 世界の名著55 中央公論社 昭和42年 71頁。

[v] 守屋毅「『かぶき』の時代」 角川書店 昭和51年 233頁、での熊倉功夫解説による言葉。もちろん大江健三郎の小説名だが、山崎正和の尾形光琳論にも同様の発想が見られる。「山崎正和著作集4」中央公論社 昭和57年 91頁。これは、又兵衛の現代的意義を考える上でも重要な概念だと思われる。

[vi] 網野善彦「無縁・公界・楽ー日本中世の自由と平和」平凡社 昭和53年、諏訪春雄「近世文学と信仰」毎日新聞社 昭和56年、などを参照。

[vii] 斉藤栗堂「又兵衛紀行(廻國道之記)」国華107「岩佐又兵衛(其三)」国華108 昭治31年に全文収録。鈴木廣之「廻国道の記」美術研究327329 昭和59年、に再録。

第519回 2023年3月2

2 果たせなかった復讐

 又兵衛の成長の基盤でもあった京都の町衆は、だいたいにおいて江戸幕府の成立とともに、文化的基盤が江戸に向かうことを、皮肉な目で見過ごしながら、表面上をつくろっていた。慶長年間の豊国祭の熱狂や大坂冬の陣・夏の陣で群衆の異様な高揚は、そうした不満の爆発とも見てとれる。江戸幕府の事業方針に乗っかかりながら心情的には極めて矛盾した態度が、不満分子を結集させ、いつの日かたまりかねて爆発してしまったのである。こうした不満分子にとっては、わずかに残された可能性も、元和元年の豊臣家滅亡を通じて、完全についえ去り、もはや下剋上の自由さえも許されなくなってゆく。つまり、その時点で又兵衛にとっても、現実の「復讐劇」は終止符を打ったのだと言える。又兵衛の福井への旅立ちは、大坂夏の陣の終結と奇妙に符号しており、この歴史的事件の直後、まるで追われるようにして彼は、京都を去ったのではなかったか。

 又兵衛を越前に向かわせたのは、何であったのか。福井の本願寺派興宗寺の僧心願が、京都で又兵衛と親しくなったことが直接の動機であるように、従来は言われてきたし[i]、「つまりは当時の越前藩の京文化人招聘策に応じた」(辻惟雄)ということに結果的にはなろうが、もっと個人的な、又兵衛の存在基盤の根底から発する何か魅惑的な誘惑、あるいは定住への不安といったものが考えられない以上は、不惑に近いすでに一家をなしていいはずの時期に、住みなれた京都を捨て、福井に向かう理由は説明しにくい。つまり、彼の福井への旅立ちは「逃亡」という以外の文脈では理解しがたいものであって、さらに、思い切って言えば、下剋上をあこがれるかぶき者としての彼の具体的な行動の挫折が、彼を京都から去らせた原因ではなかったか。やがて、それに呼応するように「復讐」への情熱は福井の地にあって絵巻物の中で果たされてゆく。それはまるで果たせなかった現実のうらみが、絵筆の上で逆流したとしか思えないほど、執ようなまでの繰り返しで「復讐劇」が成就されてゆく。「山中常盤絵巻」「堀江物語絵巻」「小栗判官絵巻」など、一般に古浄瑠璃絵巻群と呼ばれる諸作品には、消え去りゆく怨念を「忘れるな、忘れるな」と呪文のように繰り返す、身の毛のよだつような響きがある。

 しかし、又兵衛の作品群の中でこうした残虐性が絵巻にしか現れないということは、又兵衛が復讐への思いを、絵巻という古い形式の中に封じ込めようとしたことを思わせる。残虐場面が次々と執ように繰り返されてゆくのが、又兵衛絵巻の特徴であり、それは蛇がとぐろをまくように、その怨念が内に向かって巻き込まれた上で封印をされているという点で、絵巻という形式にふさわしいものと言ってもよい。「さんせう太夫」「しんとく丸」「阿弥陀胸割」といった同時代の説経節・古浄瑠璃と同じく血なまぐさい様相が、絵巻のもつ隠蔽性の中に隠されているのである。

 こうした古浄瑠璃絵巻群のおびただしい量、十数巻、百数十メートルに及ぶそれぞれの物語は、又兵衛一人によって制作されたとは到底考えられないというのが、一致した見解であり、そこには当然「又兵衛工房」というものの存在を仮定しないわけにはゆかない。しかしながら、そこに一貫して流れている一人のディレクターの個性あるいは執念といったもののありかを感じる時、我々は雪深い越前の地で、長い夜半を一人又兵衛が、かつての復讐を祈るような執念ではたそうとしていた姿を想定したい思いにかられる。それほどにこの復讐劇は個人的な色彩の強いものに思えるのである。

 もし、この個人的な復讐に荷担しうるものがあるとすれば、それは歴史の流れの中でとり残されてゆき、内向する怨念をつのらせていった流浪の民であるか、「かぶき者」たちや傀儡子あるいは河原者として舞台に立つ下層民たちであっただろう。そして、さらにそうした内に向かって鬱積した恨みを果せないままでいる者として、我々はもう一人福井藩主松平忠直の存在を忘れるわけにはゆかない。家康の孫として生まれながらも、思いの地位につくことができず、血なま臭い乱行の果てに豊後に流されてゆくこの越前藩主の姿は、己れの運命を恨みつつ奈落に堕ちてゆく宿命の典型であった。家臣を殺しその返り血をあびることによってしか満たされることのない魂の空白が、説経の語りに唱和して増大してゆく姿は、又兵衛の絵巻世界に通じるものがあり、又兵衛が忠直に目をかけられたということも由なきことではなかった[ii]。確かに「山中常盤」「上瑠璃」は忠直の実子松平光長の家系に代々伝えられたものであり、辻惟雄氏は「山中常盤」を又兵衛の福井時代前半期、忠直との出会いを示すものであるとして、「『山中常盤』は、忠直が又兵衛の異才に仮託して試みた〈非行〉の一つだったのかもしれない[iii]」と述べた。

 確かに又兵衛の超豪華な絵巻群は、忠直というパトロンを得ての共同作業であったと言えそうであり、それはともに終わりゆく世代としての武士の無念が散らせた最後の華、「絵巻の終焉」ということになろうか。その意味でも、又兵衛は浮世絵という次にくる時代を先取りしたというよりも、むしろ中世文化全体を後取りし、絵巻の中にその超越的な自然観を封じ込めてしまったのである。


[i] 「越前人物誌」には「福井の真宗本願寺流興宗寺心願師本山の執務たること年余、勝以と交り親しむ、その帰るに臨み勝以を擁し自坊に住せしむ」とある。

[ii] 又兵衛のことを記した最古の文献として知られる「遠碧軒記」(延宝3)には「憂世又兵街は荒木摂津守の子にて有之、越前一白殿(忠直)御目かけられ候而」とある。

[iii] 辻惟雄「奇想の系譜」 美術出版社 昭和4541頁。

第520回 2023年3月3

3 かぶき者

 松平忠直が「かぶき大名」として傾(かぶ)いてみせた奇行は、また又兵衝が分けもった部分でもある。岩佐又兵衛の「かぶき者」ぶりを伝える逸話として、写本越翁雑話が知られているが、そこには「忠昌公御前に於て御夜話の節、ある人申上けるは今日大橋の上にて異風なる男に逢ひ申候、緋縮緬の股引をはき居ると申す、公きかせ玉ひてそれは浮世又兵衛なるべし、又兵衛当国へ来りし筈なりと仰せけるが、果して又兵衛にてありけると也[i]」と書かれている。忠昌は寛永元年より兄忠直の後を受けた三代目の藩主、大橋は木と石との架分けの九十九橋である[ii]。そこに現わる「緋縮緬」の股引をはいた「異風」なる男又兵衛の姿は「かぶき者」の典型と言えるものである。

 「傾(かぶ)く」とは、常軌を逸した自由奔放な行動をとるという意であって、「かぶき者」とは、慶長八年(1603)に出雲のお国が演じた「異風ナル男ノマネヲシテ、刀、脇指、衣裳以下殊異相」(当代記)に代表される者のことである。それはお国が演じることによって象徴化された時代の風俗であって、「傾く」ことによってしか、自己の存在を見い出すことのできなくなった世相の反映と言ってもよい。この時、又兵衛もまた京都に住む、かぶき者としては「生き過ぎた」25歳の若者であり、お国が男装をして茶屋女と戯れる倒錯の世界を好奇心をもってながめたであろうし、その後展開される四条河原での女かぶき見物に熱狂した数万の群衆の一人であったにちがいない。二〇数年後、同じ四条河原を訪れた又兵衛は「廻国道之記」の中でその感慨を述べ「世の中をわたる程かなしき物はあらしとあわれふかくおもはれそめり」と書き記している。そしてこの近郊の六条河原が又兵衛にとっては、母が無残に処刑された因縁の場所でもあったことから、それはまた未知なる母への思いをかきたてる役目も果たしただろう。こうして、又兵衛は自己を「かぶき者」として自覚することによって、女かぶきの演者に重ねあわされた母なる存在に、近づこうとしたのだと言いかえることができるかもしれない。

 又兵衛は、もう一人の生き残りであった父荒木村重のように、第二の人生を茶人となって「市中の山居」を求めるには、余りにも若すぎたし、生まれ落ちたその出発点から「仇討ち」という運命が決定づけられてしまっていたのである。にもかかわらず、父のかたきの大前提であるはずの父が、実際には生きながらえているという矛盾によって、彼の怒りの対象は屈折した形で、母への思慕となって変質していったにちがいない。その時点で彼は再び自己を「かぶき者」として自覚せざるを得なかっただろう。確かに、彼の描く女性像は、「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と呼ばれるように、ふっくらとしたほほをもった母性を感じさせるものであったし、「山中常盤絵巻」において、母を殺された少年牛若の怒りが、またたくまに残虐な男たちへの報復へと展開してゆく構成は、又兵衛が実現できなかった恨みのせめてもの罪減ぼしであったように見える。この時牛若は、長い太刀をふるうあでやかなかぶき者そのものであった。

 長い刀と長煙管で往来を活歩するかぶき者の姿は、現実世界においても、関ケ原以降日毎にその数を増し、慶長九年の秀吉の七回忌をめぐる豊国祭の頃に、ピークをむかえた[iii]。(13)そして慶長14年の京都では、幕府と「かぶき者」の息づまる対決が続き、それは慶長17年のかぶき者300名の一斉検挙という形で結着を見た。その後、元和元年の幕府取締令においては、彼らが反体制的な行動を起こすべく徒党を組むものではなかったとしても、その奇妙な風体だけで、取締の対象となっている。髪は大びたい、大なでつけ、口から下にひげ、長太刀に朱ざやを身につけ、長煙管で煙草を吸う。冬には丈の短かい「緋縮緬」の綿入れを着て、裾に鉛を入れてはねるようにする、というのが取締事項から見た被らの風俗であった。元和元年の令では、「かぶき者」の姿をしているだけで、当人は牢舎、主人は過料銀二枚とされ、煙草は見つけ次第処刑という厳しいものであったようだ。

 すでに商人となって家族を持っているか、出家してしまった浪人を除いて、京都に住まわせないという政策からも判断できるように、当時の京都は「かぶき者」の巣窟であったわけで、やがて幕府の取締の厳しさに傾(かぶ)けなくなった者たちは、各地に四散した。

 彼らが最後の思いをかけて都にとどまろうとしたのが、大坂の陣であったが、十万の浪人たちが大坂に馳せ参じたにもかかわらず、体制は逆転せず、かえってその後の締め付けは厳しさを増し、残党狩りの不安の中で、身を隠して京都にとどまるか、さもなければ別天地を求めて漂泊するかしかなかった。しかし、地方の大名が彼らの訪れをこころよく受け入れる時代もまた、すでにすぎ去っていた。北に逃れる者は越前か加賀ということになるが、加賀では、前田利家がかぶきがかった若者たちに目をかけた時代は過ぎ、その子利長は幕府の方針を受け入れて、慶長15年には、六〇余人のかぶき者を捕え、刑に処している。しかし、幕府による取りつぶしを警戒する加賀藩とは対象的に、隣の福井藩ではかぶき者を捕えるのではなくて藩主自らがかぶき者になってみせたのである。又兵衛が福井を訪れたのはちょうどその頃であった。

 「かぶき者」の姿は、徳川幕府の政策にひきずられながら、やがて現実の地平から姿を消し、舞台の上でガラス張りの演者となって「歌舞伎」という形に結晶してゆく。そして江戸では元禄文化の中で団十郎の荒事芸を生み出すことになるが、我々の知っている石川五右衛門がふかす長煙管や、佐々木小次郎の背負う物干しざおと称する大刀は、こうした舞台あるいは講談に残存した若き日のかぶき者のアトリビュートに他ならない。

 こうした目で、又兵衛の晩年の「自画像」を見る時、そこにまた、かつてのかぶき者の肖像を見い出すことができる。これは最晩年、江戸にあった又兵衛が、もはや生きて再会することができないと悟った時、福井に残した妻子に宛てて描いたものであると伝えられているが[iv]、そこでは長煙管や長い刀は長い杖に置きかえられているとはいえ、それは身を支えられそうもない細い杖であって、その杖をたよりに浮世を渡ってきた老人の悲哀が感じとれる。しかも、傍らには使いもしなかったであろう薙刀が置かれ、武士であることを暗示させる点は興味深い。又兵衛にとって「浮世」とは、浮かれ騒ぐというよりも、むしろ世の中を浮遊する浮き草のように、根のないデラシネとしての意識であった。その意味では又兵衛は「浮世」という近世世界よりも、むしろ「憂世」という中世的世界に深く根ざした人物だったと言う方が適切かもしれない。


[i] この記録は、今までにしばしば引用されている。 森恒救「浮世又兵衛の事蹟」 大南越2 大正117月 3頁、矢田三千男「岩佐又兵衛研究序説」 彩雲1 昭和32年 56頁、守屋毅 前掲書157頁、信多純一「浄瑠璃と『上瑠璃』と」(「絵巻上瑠璃」所収)。 京都書院 昭和52年 396頁 等。

[ii] 又兵衛も「廻国道之記」の中で、この橋について「これをつくも橋といふ事はなかさ九十九間なんあればなり」と説明している。福井の者なら誰れもが知っている橋のことに、こうした説明をつけているのは、この日記が未知なる読者を想定していることを示し、それゆえに記述に脚色も多く加わっていると考えた方がよい。

[iii] 近世初期(織豊期から元禄前後)を、「かぶき者」の時代としてとらえる主張は、松田修「日本近世文学の成立-異端の系譜」法政大学出版局 昭和38年、守屋毅「『かぶき』の時代」角川書店 昭和51年、に詳しい。その他、辻達也「浪人とかぶき者」図説日本の古典6 集英社 昭和54196208頁、北島正元「かぶき者-その行動と論理」(「近世史の群像」所収)吉川弘文館 110164頁参照。

[iv] 岩佐家譜に「又兵衛老而病予知其不可癒而自図其像遠寄与故郷之妻子」とある。ただし越前国名蹟考には「肖像の原図は又兵衛の自筆にて江戸在留中故郷の妻子に贈りしものなるが之は祝融の災に罹りて現存せるは摸写せるなり」と記載され、矢田三千男「岩佐又兵衛と吃又」日本美術工芸136 昭和25年、によればこの肖像は近松の書いた吃又の名声を逆用して岩佐家の子孫が潤色・創作したもので、背後の薙刀から察して医者でもあった三代目の岩佐陽雲以重あたりのものを又兵衛に擬したのではないかとされる。

第521回 2023年3月4

4 近松への投影

 「浮世絵」が「歌舞伎」と同調しながら、江戸の文化史の基調となってゆくのは、まだ先のことであるが、両者が共通してその出発点で、謎にみちた魅惑的な人物像を伝説化していったことは興味深い。前者が浮世又兵衛であり、後者が出雲のお国である。お国もまたかぶき者を演じることによって、この過渡期を象徴したのであり伝説が複数のお国を登場させたことは又兵衛の場合と似ている。やがて又兵衛は近松が「傾城反魂香」で描くところの「土佐の末弟浮世又平重起」と同一視されながら、民衆の中に生きた町絵師という位置を確立してゆく。確かにそこでは生まれついての吃りという脚色や、大津絵の元祖として一般に流布していた又平という人物との混同もあるが、近松にとっと大津絵を描くしがない町絵師が絵筆によって名を挙げてゆく経過に、親近感を感じていたことは事実である。

 近松が生まれたのは、又兵衛が江戸で没して3年後であるが、恐らくこの画家については、父親から直接話を聞いていたにちがいない。近松の父である杉森市左衛門信義は、越前藩士として松平忠昌に旧小姓として仕えた人物であったし、近松自身も又兵衛の拠点であった福井に生まれその地で15・16歳までいたのであるから、又兵衛の実像を極めて近い立場でとらえる地点にあったことは確かである。それに加えて、父が浪人となり武士を剥奪されて一家をあげて京都にゆくという自身の境遇が、又兵衛のそれと共鳴しあったといってもよい。近松が辞世にあたって自己を評価した「世のまがひ者」という姿は、又兵衛の自画像とも通じあうものである。その辞世文から読みとれるように、近松は先祖代々「甲胃の家」に生まれながらも武士の身分を離れ、市中に放浪の生活をし、「隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず」見かけはそれに近いが、何一つとしてそれになりきれなかった「まがい者」というわけである。

 近松の「十二段双紙」が、前半は又兵衛の常盤と同じ材料で、後半は上瑠璃姫の物語から成り、又兵衛にあって二つの絵巻が、近松では一つの戯曲に結合しているということを指摘したのは松岡譲氏であるが、近松と又兵衛を結びつける理由は確かにありそうである[i]。お国から、ちょうど百年、しだいに形骸化しつつある「かぶき」の精神から身をひるがえして、人形浄瑠璃のもつ情念の世界に回帰していった近松門左衛門は、文字通り又兵衛の跡をついだと言ってよい。そんな目で見ると又兵衛の描く人物の手足や首が、人形浄瑠璃のそれを思わせるのも、単なる偶然とは思えないのである。

 加えて言えば、もし又兵衛が実際に吃りであったとするなら、それは母の惨殺を思い描いたときからはじまり、終生拭い去ることのできない身体の傷となって残りつづけたものにちがいない。


[i] 松岡譲「又兵衛発掘」(「岩佐又兵衛の今昔一又兵衛論争と発掘の経緯」所収) 昭和9年 3839頁。